二.おじさんと朋美さん
本当に優しい人間は、自分が傷つくことを恐れない
※マゾヒストのことではない
―良い子の心構え―
岸朋美は、里芋とイカの煮っ転がしが入ったどんぶりを片手に隣の家のチャイムを鳴らした。朋美の通う大学の夏休みは、かなり遅く始まる。昨日まで試験やレポートに追われていたおかげで、久しぶりなせいか、少しどきどきしていた。やや間が合って、インターフォンから「はい」という声が聞こえた。朋美は、ぎょっとした。女性の声だ。パニックに陥っていると、またインターフォンから声がした。
「あの、どちらさまでしょうか」
朋美は、意を決した。
「隣の岸ですが、おすそわけを持ってきました。晃さん、いらっしゃいますか」
「はい。少々お待ち下さい」
朋美は、深呼吸すると、「敵」になるかもしれない女性の登場を待ち構えた。がちゃりと音がして、ドアが開いた。ドアから出てきた小柄な人物を見た朋美は、驚くと同時に安堵のため息をついた。三十三歳になっても結婚のけの字もない幼馴染だが、さすがに中学生に手を出す趣味はないだろう。
「おじさんに声掛けてみたんですけど、仕事中みたいで、手が離せないそうです。よかったら、中で待っていただけますか」
朋美の弟と同じ位の年頃の少女は、申し訳なさそうに言った。
「おじさん?」
朋美が驚いて聞き返すと、少女は、「はい」と答えた。
「姪の田賀良子といいます。先週からおじさんの家でお世話になることになりました。よろしくお願いします」
良子は、ちょこんと頭を下げると、朋美を家の中に招き入れた。朋美を居間のソファーまで案内した良子は、キッチンへ行き、紅茶と茶菓子をお盆にのせて、戻ってきた。ふたりの少女は、テーブルを挟んで向かい合い、もう一度自己紹介し合った。
「姪ってことは、美紀さんの娘さん?」
「母をご存知ですか」
朋美は、目の前の少女がこの家に来た経緯をなんとなく理解した。新田美紀は、人目を引く華やかな美人で、幼い朋美にとって、お姫様みたいに見えたものだ。性格までお姫様だった美紀は、良子を生んだ後も波乱万丈な人生を送っていると噂で耳にしたことがあった。
「うん。私、小さい頃に生まれたばかりのあなたを見たことあるよ。十三年前の夏に高橋産婦人科で生まれたでしょう。弟と三日違いだったと思うけど」
すっかり親近感が湧いた朋美が笑いかけると、良子は、ほんのり頬を染めた。
「この町のこと何も知らないのにここで生まれたなんて、ちょっと変な感じで。でも、朋美さんみたいに私を知っている方がいるなんて、嬉しいです」
礼儀正しい口調なので、大人っぽい子なのかと思ったが、年相応のはにかんだ笑顔を見せる良子に朋美は、きゅんと胸が疼いた。
「今までは、どこに住んでいたの?たしか美紀さん、結婚して、S県に引っ越したんだよね」
「S県にいたので、七歳までです。この間まではY県に住んでいました」
「じゃあ、海が近い町は、初めてだね」
「はい。町中、磯の香りがします」
「きっと、気に入ると思う。なんでも聞いてね。お隣さんになるんだから」
年頃の女の子の話は、話題の尽きないもので、お腹を空かせた晃が居間に下りてくるまで続いた。和気あいあいとしている少女達をしばらく眺めていた晃は、良子が席を外すと、朋美の隣に腰を下ろした。朋美は、絵具のついた晃の指先を愛おしそうに眺めた。
「すごい仲良くなっているな。でも、安心したよ。この町に慣れるまで、暇があれば相手してやってくれ」
「もちろん。メアドも交換したよ。前の中学よりも授業が進んでいるかもって心配していたから、日曜日にうちに誘ったの。ヒデ君にも参加させれば、学校の進度も分かるしね」
「そうか。秀生も中二だっけ。早いもんだな。この間まで、子猿みたいに小さかったのに」
「私、もう二十歳なんだけど。いつまで知らん顔するつもりなのかね」
軽い口調だったけれど、朋美は、真剣な顔つきで晃を見つめた。
「好きだの何だのって話なら、この前言ったとおりだ。俺がお前を恋愛対象として見ることはない」
「馬鹿じゃないの。私のこと好きなくせに」
むかっ腹が立った朋美は、言い捨てると、ドシンドシンと音を立てて出ていった。
茫然としていると、良子が決まり悪そうに居間に入ってきた。
居心地悪い沈黙に包まれながら、ふたりは、朋美の持ってきてくれた煮っ転がしを食べた。
整った顔立ちをしている晃に女っ気がないのは、おそらく格好つける過ぎるのが原因だろうなと良子は密かに思った。