父の最期の色を、私は染められなかった ~送り染め師の娘が、白いままの形見布を一年隠していた理由~
お読みいただき、ありがとうございました。
この物語と同じ年、同じ世界の別の場所で起きた話を、あと二つ同時に公開しています。灯紗に透かすと灰の沈む一枚の札が、どこから来たのか。よろしければ、そちらもどうぞ。
父の最期の色を、私は染められなかった。
そのことを、一年、誰にも言っていない。
吉蔵さんの体は、まだ潮の匂いがした。
宵ヶ浦の東の端、網小屋の並びにある狭い家で、おとせさんは夫の枕もとに膝をそろえて座っていた。朝の漁で舟が返り、昼過ぎに浜へ上がった人だ。死んでから半日。最期の色を布に移せるのは、死後一日のうちだけと決まっている。
「お願いしますね、汐路さん」
「はい」
私は水を張った白木の鉢を枕の横に置き、晒の布を沈めた。それから、吉蔵さんの瞼に指を添える。
人は死ぬとき、瞳に本色が一瞬だけ強く差して、それから消える。消えた色は、まだしばらく体の奥に残っている。送り染め師はそれを、自分の色で呼んで、布へ引く。
私は息を細くした。目の奥が熱くなる。自分の本色が瞳に差しているのが分かる。碧だ。その碧を、糸のように細くして、冷たい瞼の下へ垂らす。
――いた。
奥のほうで、橙が身じろぎした。家と炉の色。網を繕う夜の灯の色。私はそれを引く。急がない。途中で切れると、布にむらが出る。一滴も残さず、鉢の水へ、布へ。
晒が、ゆっくりと橙に染まっていく。
おとせさんが小さく声を上げた。「ああ、あの人の色だ」
布を引き上げ、絞り、広げる。むらのない橙だった。形見布。一年後の布流しで、これを灯籠に張って海へ流す。
おとせさんは布を胸に抱いて泣いた。私は泣かない。送り染め師は、客の前で泣かない。そう決めてから、もう何年も経つ。
しばらくして、おとせさんが顔を上げた。
「あんた、色が深くなったねえ」
「え」
「染めてるときの目だよ。前は、もうちっと薄かった。惣次さんに似てきたのかね」
私は笑ってみせた。二十四にもなれば、色も深くなるのだろう。
おとせさんは鋏を取り、形見布の端を指二本ぶん切ろうとした。
「これ、お礼に。染めてくれた人にも、少し持っててほしくて」
「いいえ」
私はその手を、そっと押さえた。
「形見布は、遺された方のものです。染め師は、預かるだけですから」
父の口癖だった。返す相手を間違えるな、と、父はよく言った。
代金は色札で受け取った。帰りしな、軒の灯紗に何気なく透かした。札の真ん中で、澪色が揺れる。光の加減で、どの色にも見える織母の色。
灯紗に透かすと、澪色の奥にかすかな灰が沈んでいた。
近ごろ噂の偽札だった。おとせさんの顔を見た。夫を海に取られたばかりの、皺の多い顔。私は札を畳んで、懐にしまった。
「また、布流しで」
「ええ。惣次さんのぶんもね。もう一年だもの」
八日後だ。
汐路屋に戻ると、工房は暗かった。
行灯を一つだけ点けて、父の仕事箱を開ける。道具をどけた底に、畳んだ晒が一枚ある。
白い。
一年前、私はこの布に父の最期の色を引こうとした。瞼に指を添え、碧を垂らし、奥を探した。何もいなかった。いくら探しても、何も。
引き上げた布は、沈めたときと同じ白だった。
町の人は、父が最後の半年で急に痩せたのを見ている。瞳が透けるように薄くなって死んだのを見ている。抜け人だ、と陰で言う人もいた。色を売って抜けたのだ、と。
私はそれを、誰より強く否定してきた。否定しながら、この白い布を、誰にも見せなかった。
明日は灯籠張りだ。遺族が形見布を社へ持ち寄り、巫さまが送り帳と照らして、灯籠に張る。
父の布は家に残すことにした、と言えばいい。形見布の扱いは家ごとに違う。誰も、箱の中までは見ない。
私は箱を閉じた。
隣の部屋の前の廊下が、夜風にきしんだ。父が生きていたころ、夜更けによくそこで足音が止まった。眠れたか、と襖越しに聞かれたこともある。
私は行灯を消した。泣かなかった。
*
社の境内には、白い灯籠の骨が百ほど並んでいた。
遺族が一人ずつ進み出て、巫さまに形見布を渡す。巫さまが送り帳の名を読み上げ、布を骨に張る。橙、翠、朽葉、碧。夏の朝の光の中で、一年前に死んだ人たちの色が、ひとつずつ灯籠になっていく。
そのうちの半分ほどは、私が染めた布だった。
網元の家の翠。去年の秋に赤子を亡くした若い夫婦の、小さな撫子。布を受け取った巫さまが骨に張るたび、遺族の誰かが袖を目に当てる。私はそれを、少し離れたところから見ていた。一年前、この人たちの枕もとで、私は一度も泣かなかった。
仕事はうまくいっている。そう思えば、胸の中は静かでいられた。
前に並んでいた魚屋の後家さんが振り返って、私に頭を下げた。「汐路さんのおかげで、うちの人、いい色で送れます」
「いいえ」
私も頭を下げた。懐の中で、白い布を包んだ風呂敷が、ひどく重かった。持ってくるつもりはなかった。家に置いていく気にも、なれなかった。
私の番が来た。
「汐路惣次。形見布を」
「父の布は、家に残すことにいたしました」
巫さまが顔を上げた。白い衣の袖が、風に揺れた。
「布流しには、出さないのですか」
「はい。形見布の扱いは、家ごとに違いますから」
「家に残す、だと」
後ろから声がした。
叔父の与市だった。藍染めの染師で、手の甲まで藍が沁みている。父の弟だ。父の葬式で、最後まで一度も泣かなかった人。
「叔父さん」
「布、持ってきてねえんだろ」
叔父は懐から紙を一枚出して、巫さまの前に突き出した。
「汐路惣次殿、真名の件、前金三環。灰小路の辰五郎の受け取りだ。昨日、あいつが残りを払えと俺のところへ来やがった」
境内がざわめいた。灰小路の辰五郎。古着屋の看板の裏で、何を扱っているか、宵ヶ浦で知らない者はいない。
色貸し。自分の色を真名ごと売る、天霧では禁じられた商い。
「兄貴は色を売った。売って抜けて、死んだんだ。だから布が出せねえ。違うか、かさね」
「違います」
「なら、ここで見せてみろ」
叔父の目は、少しも揺れていなかった。
断ればいい。家のことだと言えばいい。でも、ここで断れば、叔父の言葉だけが残る。色を売った男の娘が、布を隠している。それが、明日には浜じゅうの噂になる。
人垣のあちこちから、こちらを見る目があった。私が布を染めた家の人たちの目だった。
私は懐から風呂敷を出した。結び目が、指に引っかかってなかなかほどけなかった。
白い布を、取り出した。
誰も、何も言わない。蝉の声だけがする。
巫さまが布を受け取り、日にかざした。裏返し、もう一度かざす。どこにも、何の色もない。
「汐路屋さんが、染め損じたのかね」
誰かが小声で言った。すぐに別の声が答えた。
「あの子が損じるもんかい。色が出なかったんだよ」
「抜けてたんだ、やっぱり」
巫さまが、静かに言った。
「最期の色のない方は、送れません。売って抜けた方でしたら、送り帳から名を外します。それが宵ヶ浦の決まりです」
組合の世話役が咳払いをした。
「布流しの晩に寄り合いがある。汐路屋の送り染めの株、与市さんから移し替えの願いが出ている。そこで決める」
叔父が私を見た。
「一年、黙ってやがったな」
何か言わなければならなかった。私は白い布を握った。指が冷たかった。
「父は、色を売っていません」
自分の声が、境内に思ったより大きく響いた。
「布流しまでに、それを証してみせます」
叔父は鼻で笑った。巫さまは何も言わず、白い布を私の手に返した。
境内を出るとき、誰も私に頭を下げなかった。さっき礼を言った魚屋の後家さんは、灯籠の骨のほうを向いていた。
石段を下りながら、指を折って数えた。布流しまで、七日。
証す、と言った。何を、どうやって証すのか、私には一つも分かっていなかった。
*
灰小路は、浜の裏手の、日の当たらない坂の下にある。
干場の竿も、ここまでは来ない。軒の低い家が肩を寄せ合い、戸口に座った人たちの目は、昼でもどこか灰をかぶったように薄い。褪色した人や、色を売った人が流れ着く場所だ。町の送り染め師は、ここへは来ない。
坂の上で、私は一度立ち止まった。
振り返ると、干場の竿の向こうに、浜の家々の屋根が見える。あそこからなら、坂を下りていく人の背中はよく見えるだろう。汐路屋の娘が灰小路へ入っていった、と、夕方までには誰かが言うかもしれない。昨日、境内で白い布を出した娘が。
私は前掛けの紐を締め直して、坂を下りた。
辰五郎の古着屋は、坂の一番下にあった。
「おや。汐路屋のお嬢さんが、こんなところへ」
「父の残りを払いに来ました」
私は父が箪笥に残していた金を、帳場に置いた。辰五郎は数えて、にんまりした。
「ありがてえ。こっちも色札がみんな紙くずになっちまってね。灯紗に透かしたら、灰が沈んでやがった」
「それで、寄り合いで話してください。父は色を売っていないと」
辰五郎の笑いが、止まった。
「お嬢さん。俺に、あんたの代わりに牢へ入れってのかい」
そうだ。この人が表に出れば、この人の商いが表に出る。
「金は、借りの分だ。話は別だよ」
帳場の奥で、誰かがすすり泣いていた。辰五郎が顎で示した。
「今朝、婆さんが一人死んだ。うちに色を卸してくれてた婆さんだ。孫がああして泣いてるが、町の送り染め師は灰小路には来ねえ。来てくれたとしても、抜け人の色なんざ、ろくに出やしねえと言う」
辰五郎は私の顔を見た。
「あんたがこの婆さんを送ってくれたら、惣次さんのこと、話してやってもいい。ここでだけな」
断る理由は、いくらでもあった。灰小路で送り染めをしたと知れたら、汐路屋の名はもっと落ちる。送り染めには、私の色も少し要る。
私は鉢を借りた。
奥の間に、小さな老婆が寝かされていた。枕もとに、十五、六の娘が座っている。私が鉢を置くと、娘は怯えたように身を引いた。
瞼に指を添える。碧を垂らす。
奥は、ほとんど空っぽだった。浅い。乾いた井戸の底を、手で探るような感じだった。それでも、指の先に何かが触れた。
かすかな翠。
私はそれを引いた。布は、ほとんど白に近い、薄い薄い翠に染まった。けれど、色だった。
「出るんですね」
思わず声に出ていた。辰五郎が戸口で鼻を鳴らした。
「当たり前だ。仲買は、売り手が抜け殻になる手前で止める。売り手を死なせりゃ足がつくからな。どんなに売った奴でも、色は必ず残る」
「でも、父は」
「白かったんだろ。それが妙だと、俺も思ってた」
辰五郎は煙管を出したが、火はつけなかった。
「最後の一滴まで渡しきるなんてのは、売り買いじゃできねえ。真名を知ってる身内が、自分で移したときだけだ。受けた方の瞳にゃ、渡した奴の色が筋になって混じる。俺らの商いも、それで足がつく」
「父は、何をしに来たんですか」
「惣次さんは、売りに来たんじゃねえよ」
辰五郎は、娘のほうをちらりと見た。
「碧を買いに来たんだ。それも、たんまりと。だが売り手の娘を見て、やめちまった。こんな子から取るわけにいかねえってな。代わりに、眠ってる相手に真名で色を移すやり方を聞いていった。その手間賃が、あの受け取りだ」
「誰に、移すために」
「言わなかったよ。あの人は、何にも言わねえ人だった」
辰五郎は煙管をくわえたまま、ぼそりと付け足した。
「近ごろは、染都の客が色をまとめて買っていくがね。惣次さんみたいな買い方をする人は、ほかにいなかった」
私は薄い翠の布を絞り、娘の手に載せた。
「これは、あなたのものです」
娘は布を見つめて、それから、声を上げて泣いた。
坂を上りながら、私は考えた。
父は売っていない。それは分かった。けれど、寄り合いで言えることは一つもない。
そして父は、誰かに碧を欲しがり、それを買うのをやめ、代わりに自分の色を、最後の一滴まで渡した。
身内に。
汐路の家に、碧の者はいない。母は撫子だった。叔父は藍で、叔父のおかみさんだったしのさんは翠だった。
では、父は誰に。
坂の上で、足が止まった。
受けた方の瞳にゃ、渡した奴の色が筋になって混じる。
その人を見つければいい。父の朽葉を目に宿した、碧の誰かを。その人を寄り合いの前に立たせて、瞳を見せてもらえば、父の色が売られずに、その人へ渡ったと分かる。辰五郎の口がなくても。
手がかりは、父の持ち物にしかなかった。
*
それから二日、私は父の部屋をひっくり返した。
文箱、箪笥、行李。出てくるのは、送り染めの控えと、古い勘定書きと、母の櫛ばかりだった。父は、物をほとんど持たない人だった。
仕事の合間に、浜で碧の目の人を探しもした。網を繕う女、魚を運ぶ若い衆、手習い帰りの子ども。宵ヶ浦には、碧の者が多い。瞳に色が差していなければ、誰が碧かも分からない。朽葉の筋など、なおさらだ。人の顔をのぞき込んで歩く私を、町の人は気味悪そうに避けた。
布流しの四日前の晩、私は父の部屋の押し入れの奥から、古い仕事箱をもう一つ引きずり出した。
父が若いころに使っていた箱だ。葬式のあと、開けもせずにしまい込んでいた。道具を全部出して、底を叩くと、音が軽かった。
二重底だった。
板を外すと、まず布が出てきた。
朽葉の布だった。驚くほど鮮やかな。秋の山を一枚に畳んだような色。手に取ると、角に小さく「惣」と縫い取りがある。
父の初染めの布だ。
十五の歳に、初めて自分の色で染める一枚。生涯手元に置き、死ねば本人と一緒に焼く。それが宵ヶ浦の慣わしだ。葬式の日、私はこれを探した。どこにもなかった。仕方なく、父は初染めの布なしで焼かれた。
ここにあった。
私は朽葉の布を膝に広げた。父の色を、こんなにはっきり見たのは初めてだった。送り染めの最中、父の瞳に差す朽葉は、いつも渋く、静かだった。十五の父は、こんな色をしていたのか。
父はどうして、これを焼かせなかったのだろう。
その下に、帳面が一冊あった。
開くと、父の角ばった字で、日付が並んでいた。父が死ぬ半年前の冬から、毎晩。日付の横に、ただ「碧へ」とだけある。そして小さな丸。最初は大きく、日を追うごとに、少しずつ小さくなっていく。
最後の行は、父が死んだ前の晩だった。
「碧へ 残り」
丸は、なかった。
私は帳面を閉じて、また開いた。何度読んでも、名前はどこにも書いていなかった。名前がなければ、その人を探しようがない。寄り合いの前に立たせる人は、どこにもいない。
それなのに、帳面の中には、確かに誰かがいた。毎晩、父が通った誰かが。
母が死んで、三年も経たないころだ。父には、碧の誰かがいたのだ。
その人のために、色貸しから碧を買おうとした。それをやめて、自分の色を毎晩、半年。最後の一滴まで。
私の知らない誰かに。
私が隣で送り染めをして、隣で飯を食べて、隣で眠っていたあいだに。
店のことも、私のことも、何一つ言わずに。
帳面を持つ手が震えた。喉の奥が熱くなった。
こんな気持ちは、いつ以来だろう。母が死んだときでさえ、私は泣きもしなかったし、怒りもしなかった。
私は、父に怒っていた。
*
頬が熱かった。顔を洗おうと思って、工房の水甕の前に立った。
行灯の明かりが、黒い水に落ちている。柄杓を取ろうとして、手が止まった。
水面に、私の顔が映っていた。
怒りで、瞳に色が差していた。碧。
その碧の中に、細い筋が一本、走っていた。
朽葉色の筋が。
柄杓が手から落ちて、水面が揺れた。揺れが静まるのを待った。もう一度見た。消えなかった。碧の中を、枯れ葉の色が、ひとすじ、確かに流れていた。
受けた方の瞳にゃ、渡した奴の色が筋になって混じる。
あんた、色が深くなったねえ。
私は甕の縁をつかんだ。
思い出したくないことが、順番もなく浮かんできた。
母が死んだあと、何を食べても味がしなかったこと。それを、悲しみが落ち着いたせいだと思っていたこと。笑うことも怒ることも、いつのまにかなくなっていたこと。それを、大人になったのだと思っていたこと。送り染めをしても、自分の碧がなかなか瞳に上がってこなかったこと。
去年の春ごろから、少しずつ飯の味が戻ってきたこと。夜、よく眠れるようになったこと。
夜更けに、私の部屋の前で止まった足音。
眠れたか、と父は聞いた。
眠っていてほしかったのだ。眠っている子にも、親は真名で色を移せる。
碧は、ほかの誰でもなかった。
私だった。
最後の冬、父は急に箸が遅くなった。痩せたね、と私が言うと、年だ、と父は答えた。春には、送り染めの途中で手を止めて、しばらく目を押さえていることがあった。疲れ目だ、と父は言い、私はそれを信じた。疑う力が、あのころの私には残っていなかった。
夏の初め、父はもう起き上がれなかった。枕もとで、私は粥を冷ましていた。父の瞳は、水のように薄かった。父は私の顔をじっと見て、少しだけ笑った。何を見て笑ったのか、私は聞かなかった。
今なら分かる。
父は、褪せていく私を見ていた。私自身が気づかなかったものを、隣で見ていた。色貸しから碧を買おうとして、売り手の娘の顔を見てやめた。そして、自分の朽葉を、毎晩、眠っている私の中へ流し込んだ。痩せて、瞳が透けて、最後の晩に残りを全部。
だから、最期の色が出なかったのだ。
私の腕のせいでも、父が色を売ったせいでもない。父の中には、もう何も残っていなかった。父の最期の色は、ここにある。私の目の中に。
私が、父を空にした。
「私が、父を殺した」
声に出すと、水面の碧が、燃えるように濃くなった。朽葉の筋も、一緒に濃くなった。
証は、ここにある。父が色を売っていない証が。
でもそれを人に見せることは、宵ヶ浦じゅうの前で、私が父を殺しましたと名乗ることだった。
*
布流しの前の日の昼、叔父が工房に来た。
「鍵を寄越せ。寄り合いの前に、帳場と道具を改めておく」
私は鍵を渡さなかった。代わりに、帳面を差し出した。
叔父は黙って読んだ。最後の行で、指が止まった。
「碧へ、だと」
「私です」
私は叔父の前に顔を上げた。怒りでも悲しみでもない今の私の目には、何の色も差していないはずだった。だから、あの晩に見たことを、全部言葉で話した。灰小路のこと、辰五郎の話、水甕に映った朽葉の筋。
話し終えるまで、叔父は一度も口を挟まなかった。
「ですから、株の願いは取り下げてください。父は売っていません。寄り合いでは、私が話します。目のことも」
叔父は帳面から顔を上げなかった。
「話して、どうする」
「どうする、って」
「お前の目にゃ、今、何の色も差してねえ。寄り合いの爺さま連中の前で、筋を見せられるのか。見せられたとして、皆の前で言うのか。兄貴は娘に吸われて死にましたって」
私は答えられなかった。それは、あの晩、水甕の前で、私自身が行き当たったところだった。
帳面を閉じる音がした。
「あの馬鹿が」
叔父の声が、割れた。
「あの馬鹿兄貴が。てめえで、同じことをしやがった」
「同じ、こと」
「しのだよ」
叔父は工房の土間に、どかりと腰を下ろした。藍の沁みた両手を、膝の上で組んだ。
「しのが褪せたのは、上の子を流行り病で亡くしてからだ。お前はまだ小さかったから、覚えちゃいねえだろう。俺は三年、毎晩、しのに色を移した。真名で。お前の親父と同じやり方でな」
知らなかった。叔父のおかみさんは、私が十の歳に死んだ。病だと聞いていた。
「三年で、俺のほうが灰まで褪せた。嬉しいってのが、分からなくなった。腹が立っても、怒鳴り声が出るだけで、目にはもう何も差さねえ。それでも、しのは死んだ」
叔父は笑った。少しも笑っていない顔で。
「二年目の冬に、兄貴が言ったんだ。やめろ、お前まで持っていかれるってな。俺は聞かなかった。そのくせ、てめえは」
拳が膝を打った。
「いいか、かさね。死人の色は、死人に返せ。抱えた奴から先に潰れる。俺がその見本だ。お前は淡のまんま送り染めを続けてる。この一年、ずっと見てた。兄貴としのと、同じ道だ」
淡。褪色の、一番浅いところ。涙が出にくくなる。
父が戻してくれたはずの色は、まだ一番底までは届いていなかったのだ。私が泣かないのは、掟のせいだけではなかった。
「だから、株を」
「お前から送り染めを取り上げりゃ、少しはましだと思った」
叔父は顔を上げた。
「返せ。お前は送り染め師だ。白い布をお前の色で染めりゃ、兄貴の朽葉が筋になって布へ出る。そいつを張って、兄貴を海へ渡してやれ。最期の色の形見布だ。巫さまも文句は言えねえ。抜け人の話も消える」
叔父は立ち上がって、私に背を向けた。
「そうすりゃ、株のことは引く」
慣わしは満たされる。父の名は晴れる。汐路屋も残る。
そして、私は父の色を返せる。
「返したら、私は」
「また褪せるだろうよ。だが、若えんだ。時が経ちゃ、少しは戻る」
叔父の声は、そこだけ少し弱かった。受け取った色は、返せば返したきりだ。叔父もそれを知っている。それでも、叔父は言った。
「抱えたまま潰れるよりは、ましだ」
叔父は、自分の三年を賭けてそう言っていた。その三年の重さを、私は量ることができなかった。
返せば、許される気がした。父を空にした罪の分だけ、私がまた空になる。それが正しいことのように思えた。父の色を、父に返す。娘として、それくらいはしなければならない。
「分かりました」
私は言った。
「今晩、染めます」
叔父は振り向かなかった。戸口で一度だけ立ち止まり、それから出ていった。
*
夜、私は工房に白い布を張った。
父の箱から出した、あの白い布だ。鉢に水を張り、布を沈める。いつもなら死者の瞼に添える指を、今夜は自分の瞼に当てた。
自分の色で、自分の奥を探る。
碧がある。その中を、細い朽葉が流れている。私はそれを、引いた。
鉢の水が、かすかに色づいた。
布の端に、朽葉の線が一本、滲み出した。父の色だ。一年前に、どれだけ探しても見つからなかった色。それが今、私の中から、布へ戻っていく。
もう少し引く。
線が太くなる。
水甕に、自分の顔を映してみた。瞳の色が、薄くなっていた。碧も、朽葉も。
そして、気づいた。胸の奥が、静かだった。
三日前の晩に父へ向けた怒りが、遠くなっていた。水甕の前で「殺した」と口にしたときの、喉の熱さも。父の箱の底から初染めの布が出てきたときの、あの胸の詰まるような感じも。
全部が、薄い膜の向こうへ下がっていく。
楽だった。
これでいいのだ、と思った。返せばいい。何も感じなくなれば、苦しくもない。父の名は晴れ、店は残り、叔父は株を引く。私はまた、泣かない送り染め師に戻るだけだ。
もう少し引こうとして、指が止まった。
ここでやめれば、と、薄くなった頭の隅で考えた。
ここでやめれば、布はほとんど白いままだ。最期の色のない父は、明日の晩、送り帳から名を外される。抜け人として。汐路屋の株は叔父に移り、私は送り染めを失う。そして私は、父の命を目に宿したまま、父を殺した娘として、この町で生きていく。
続ければ、全部が収まる。誰も傷つかない。私が、何も感じなくなるだけだ。
鉢の水が、行灯の光を揺らしていた。どちらの道も、私の指一本で決まる。
水甕の顔を、もう一度見た。
知っている顔だった。
四年前、母を焼いた日の、私の顔だった。味のしない飯を食べ、何も感じず、それを大人になったのだと思っていた娘の顔。
父は、この顔を見ていたのだ。
毎日、隣で。半年かけて、自分を空にして、この顔を戻そうとした。
私は今、自分の手で、それを元に戻そうとしている。
――形見布は、遺された方のものです。染め師は、預かるだけですから。
おとせさんに言った言葉が、耳の奥で聞こえた。灰小路の娘に言った言葉も。
これは、あなたのものです。
死んだ人の最期の色は、遺された者のものだ。私は何百人の遺族に、そう言って布を渡してきた。それなのに、自分の番になったとたん、それを海へ返そうとしている。
父の最期の色は、もう送られていたのだ。父が生きているうちに。遺される者のところへ。
一滴残らず。
返す相手を、間違えるな。
私は、瞼から指を離した。
鉢の中の布を引き上げた。白い布に、朽葉の線が一本だけ、細く残っていた。
私はその布を畳んで、箱に戻した。それから、物置から竹ひごを出して、灯籠の骨を自分で組んだ。父がいつも、遺族に頼まれて組んでやっていたやり方で。父の初染めの布を、そこに張った。
夜明けまでかかった。
*
布流しの浜には、日暮れとともに人が集まった。
波打ち際に、灯籠が並んでいる。橙、翠、碧、撫子。一年前に死んだ人たちの色が、まだ灯の入らないまま、潮風に揺れている。少し離れた砂の上に、組合の寄り合いの人たちが座っていた。巫さまが、送り帳を胸に抱いて立っていた。
私は朽葉の灯籠を抱えて、その前に進んだ。
叔父が、人垣の中から一歩出た。灯籠を見て、顔色が変わった。
「かさね。それは」
「父の、初染めの布です」
ざわめきが広がった。初染めの布は、本人と一緒に焼くものだ。それを、なぜ。
叔父が低く言った。
「返さなかったのか」
「はい」
私は巫さまに向き直った。
「お話があります」
声が震えないように、腹に力を入れた。
「父の形見布は、一年前から白いままでした。それを私は、誰にも言わずに隠していました。父が色を売ったという噂を、私も、どこかで信じかけていたからです」
人垣が静まった。
「でも父は、色を売っていません。父は、私に移したんです。母が死んだあと、私は褪色していました。自分では気づきませんでした。父は気づいて、半年、毎晩、眠っている私に、真名で自分の色を移しました。最後の一滴まで。だから、最期の色が出なかったんです」
誰も、すぐには口をきかなかった。
寄り合いの年寄りの一人が、ゆっくりと首を振った。その隣の人は、私から目をそらした。娘のために死んだ父親。その話を、美しいと思う人もいるだろう。けれど浜の人たちの顔に浮かんでいたのは、別のものだった。では、この娘が惣次さんを。
私はそれを、まっすぐ受けた。
帳面を、巫さまに差し出した。
巫さまはそれをめくり、寄り合いの人たちに回した。誰かが言った。
「碧へ、とあるだけだ。これじゃ、誰のことか分からん」
「碧の娘なら、宵ヶ浦に何十人といる」
「証は、私の目にあります」
巫さまが私を見た。
「受けた色は、受けた者の瞳に筋になって混じる。そうですね」
「はい」
「ならば、ここで布を一枚染めてごらんなさい。惣次さんの朽葉が筋で出れば、それが何よりの証です。その布を張って、改めて送りましょう」
叔父が、私を見ていた。それでいい、という顔だった。
ゆうべ私が捨てた道が、またそこに差し出されていた。今度は、町じゅうの目の前で。
「できません」
私は言った。
「これは、父が私にくれたものです。返しません」
「では、どうやって証すのです」
私は顔を上げた。
瞳に色を差せばいい。強く何かを感じれば、本色は瞳に差す。あの晩、怒りで差したように。
私は巫さまの目を見た。息を詰めた。胸の奥を探った。
何も、上がってこなかった。
水甕の前ではあれほど燃えたものが、どこにも見つからなかった。人の目に囲まれると、胸の奥は凪いだ海のように平らになった。泣かない。客の前で泣かない。何年もそうしてきた体が、言うことを聞かなかった。
ざわめきが、さっきより大きくなった。
「見せられねえのか」
叔父の声だった。怒鳴り声ではなかった。それが、かえってこたえた。
私は、目を閉じた。
証してみせると、言ったのだ。七日前、境内で。
――もういい。
私は、巫さまからも、叔父からも、寄り合いの人たちからも、顔を背けた。
足もとの灯籠に向き直った。朽葉の布の灯籠に。
膝をついた。
「父さん」
死んだ父に向かって、そう呼びかけるのは初めてだった。
「気づかなくて、ごめん」
声が、変なふうにかすれた。
「隣にいたのに。父さんが痩せていくの、ずっと見てたのに。何にも気づかなくて」
喉の奥から、何かがせり上がってきた。止めようとした。いつものように。止まらなかった。
「ありがとうって、言えなかった」
頬に、熱いものが落ちた。
一つ落ちたら、もう駄目だった。二つ、三つ。灯籠の朽葉の上に落ちて、色を濃くした。私は声を上げて泣いた。父が死んだ日にも、焼いた日にも、一度も出なかった涙が、一年分、まとめて出てきた。客の前で。宵ヶ浦じゅうの前で。
誰かが息を呑む音がした。
「目を」
おとせさんの声だった。人垣の前のほうから。
「あの子の目を、見てごらんよ」
私は顔を上げられなかった。上げなくても、分かった。目の奥が、熱い。碧が差している。泣いている私の瞳に、碧が溢れるように差して、その中を――
叔父が、私の前に膝をついた。
私の顔を、両手で上に向けた。藍の沁みた、ごつごつした手だった。
叔父は、私の目を見た。
長いあいだ、見ていた。
「兄貴の色だ」
叔父の口から、そう漏れた。
何か言いかけて、叔父の口が閉じた。叔父の目に、色が滲んだ。藍だった。初めて見た。父の葬式でも、境内で私を責めたときでも、一度も差さなかった叔父の色が、今、滲んでいた。
叔父は私から手を離した。立ち上がり、巫さまの手から火種を取った。
誰も止めなかった。
叔父は朽葉の灯籠の前にしゃがみ、自分の手で、灯を入れた。
巫さまが送り帳を開いた。墨を含ませた筆が、惣次の名の上で、止まった。それから、名の横に、何かを書き添えた。消さなかった。
灯籠が、次々と海へ押し出されていった。
橙も、翠も、碧も、撫子も。宵ヶ浦の一年分の死者の色が、夜の海に浮かび、潮に乗って、ゆっくりと沖へ出ていく。
その群れの中に、朽葉の灯籠が一つあった。
ほかのどれより鮮やかな、秋の山のような色だった。十五の父が、初めて染めた色。
私は波打ち際に立って、それを見送った。涙は止まらなかった。止めようと思わなかった。濡れた目の中で、碧と朽葉が、一緒に灯っているのが分かった。
灯籠は、ほかの灯の間を抜けて、沖へ、沖へと出ていった。
*
翌朝、組合の世話役が来て、株の移し替えの願いは取り下げられたと言った。
宵ヶ浦の送り帳には、昨夜、初めてこう書かれたそうだ。汐路惣次、初染めの布にて送る、と。
昼前に、叔父が来た。藍の端布を一枚、帳場に置いた。
「しのの形見布は、まだ流してねえ」
叔父は私の顔を見ずに言った。
「十四年、箪笥の奥だ。来年の布流しにゃ、お前が張れ」
「はい」
叔父はそれだけ言って帰っていった。帰りぎわ、戸口で、一度だけ鼻をすすった。
私は送り染めの支度をした。ゆうべ、網小屋の並びで、また一人亡くなった。
帳場の引き出しを開けた。父の帳面をしまう。朽葉の線が一本だけ残った布を、その上に重ねる。
懐から、おとせさんの色札を出した。灯紗に透かす。澪色の奥に、かすかな灰が沈んでいる。
これも、誰かの色なのかもしれない。
私は札を、帳面の横に並べて置いた。引き出しを閉めた。
店の戸を開けると、ちょうどおとせさんが通りかかった。手に、朝の市で買ったらしい青菜を下げていた。
おとせさんは私の顔を見て、目を細めた。
「やっぱり、深くなったねえ」
私は鉢を抱え直して、笑った。今度は、ちゃんと笑えた気がした。




