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第2話「桂さん、その笑顔で言うことじゃないです」①

密航まであと二十日。


俺はこの二十日間を「出張前の準備期間」と位置づけて、徹底的に使い倒すことにした。前世の海外出張でもそうだった。事前準備の質が現地での成否を分ける。情報収集、持ち物チェック、関係者への根回し、トラブル対応マニュアルの作成。全部やる。全部やって不安を潰す。これが俺のやり方だ。


ただし、前世の海外出張と決定的に違う点が一つ。


今回は失敗したら死ぬ。


パスポートがない。ビザがない。そもそも鎖国中の国から無断で出国する。発覚すれば死罪。出国に失敗して捕まっても死罪。海外で身元が割れても終わり。帰国後に密航がバレても終わり。死の選択肢が多すぎる。RTAで死ぬルートを網羅してるゲームかよ。


前世のコンプライアンス研修で「法令遵守」と繰り返し言われたが、俺は今から国法を破る。しかも最高刑が死刑のやつを。コンプライアンス意識が高すぎて死んだ前職の自分に謝りたい。「すみません、転生したら犯罪者になります」。


でも、決まった以上はやるしかない。「決まったことに抵抗しない」のが俺の人生哲学……いや、人生哲学というほど大層なものじゃない。ただの習慣だ。十年かけて骨の髄まで染み込んだ「NOと言えない病」だ。これがなければもっと早く帰れてたかもしれないし、そもそも過労死もしなかったかもしれない。でも今はこの性格が役に立つ。皮肉なもんだ。


朝。起きる。稽古に行く。打たれる。転がる。起き上がる。打たれる。


本日の成績、十本打って、十本負けた。ただし二回だけ相手の竹刀に触れた。指が。めちゃくちゃ痛い。でも触れたことは確かだ。これを「進歩」と定義する。俺の人生、定義を甘くしないとやってられない。


稽古の後、井戸で水を浴びる。冷たい。生き返る。夏場の井戸水は唯一の贅沢だ。


午前中。藩校の勉強会に顔を出す。目的は建前上は「学問」だが、実際は情報収集だ。密航計画は極秘だから公には聞けない。でも周囲の会話から断片を拾う。


「——横浜の商人が手配してるらしい」

「——ジャーディンとかいう異人の商会が」

「——五人って聞いたが」


五人。そう、五人だ。俺を含めて五人。長州ファイブ。メンバーは俺の他に井上聞多、山尾庸三、遠藤謹助、野村弥吉。……全員の名前を覚えるだけで一苦労だ。というか野村弥吉は後の井上勝だっけ。改名すんなよ。ややこしい。


午後。自室に戻って情報整理。この時代にノートもパソコンもないので、半紙に筆で書く。これがまた時間がかかる。筆でメモを取ると、ボールペンの三分の一の速度しか出ない。文明の利器って偉大だったんだな。俺はMOS検定を持ってたんだぞ。筆じゃそのスキルが死ぬ。


でもやるしかない。情報を書き出すことで不安が減るのだ。前世でもそうだった。会議の前に議事録のフォーマットを作り、出張の前に旅程表を分単位で組み、新規案件の前に想定Q&Aを全部書き出す。不安を「対処可能なタスクのリスト」に変換する。これが俺のメンタル安定法だ。


書く。


「英国・基本情報」


蘭学書で得た情報、首都ロンドン。女王ヴィクトリア。議会あり。産業革命。蒸気機関。海軍が世界最強。植民地が世界中にある。


前世知識を追加、19世紀半ば。世界の工場。GDP世界一。通貨はポンド。ロンドンの人口約三百万……江戸より多いな。でかすぎる。俺、人混み苦手なんだけど。鉄道が走ってる。ガス灯がある。水洗トイレはまだ普及途上ってことは、四ヶ月も船に揺られて着いた先のトイレ事情も微妙ってことか。最悪だ。せめてトイレくらい文明の先端であってくれよ。


でもまあ、一番の問題はトイレじゃない。英語だ。


午後後半は英語の復習。前世のTOEIC 820点に、この体の蘭学知識が合わさって、読み書きはかなりいける。問題は会話だ。発音は? 19世紀の英語の発音をどうすれば? 前世の俺の英語は「カタカナ発音」とよく言われた。通じるけど、アクセントで笑われるタイプ。まあいい。「通じれば勝ち」の精神で行く。ビジネス英語なんて全部それだ。「伝わればOK」。完璧な英語より、伝わる英語。伊藤俊輔の英語道、ここに開幕。


夕方。飯を作る。米を炊いて、味噌汁を作って、干物を焼く。以上。メニューのバリエーションが「以上」しかない。栄養バランス? 知らん。生きられればいい。生還したら栄養のことを考える。


そして寝る。


この「朝稽古→情報収集→英語→飯→寝る」の繰り返し。単調。ひたすら単調。しかし俺はこの単調さが好きだった。何しろ来月からは命懸けの航海だ。今のうちに「何も起きない平穏な日々」を味わっておきたい。布団で寝られるのも今のうちだ。船の上ではハンモックか何かだろう。ハンモック、使ったことない。落ちないのか、あれ。


◇ ◇ ◇


しかし世の中は俺に平穏を許さない。


密航まであと十五日。夜。事件が起きた。


いや、事件というほどのものじゃない。ただ、久坂玄瑞が俺の長屋に来た。


戸を叩く音。開けると、薄闇の中に久坂の大きな体が立ってる。夜に突然来るとか怖すぎる。しかもこの人、笑わないからなおさら怖い。せめて「こんばんは」くらい笑顔で言ってほしい。いや、笑顔の久坂も怖いか。どっちにしても怖い。


「伊藤。邪魔するぞ」


「……どうぞ」


狭い六畳間に大柄な久坂が入る。一気に部屋の酸素濃度が下がった気がする。この人、体が大きいだけじゃない。存在感がでかい。空気の密度が変わる。物理法則を無視してる。


茶を出す。安い番茶。久坂は気にせず一口飲む。よかった。茶の味にうるさい人じゃない。そういうところは好感が持てる。


「伊藤。渡英の件で話がある」


「はい」


「お前に、これを持っていってほしい」


久坂が懐から紙の束を取り出す。数枚の半紙に、びっしりと小さな文字。表も裏も文字。余白がない。紙が泣いてる。


「何ですか、これ」


「俺の考えをまとめたものだ。日本がこれからどうあるべきか。攘夷の先に何を見るべきか。お前が英国で学ぶ際の、指針にしてほしい」


受け取る。パラパラとめくる。長い。めちゃくちゃ長い。攘夷論、国体論、教育論、軍制論……ざっと数千字はある。もしかして一万字? いや、この時代の人は文章が長い。ツイッターもないしな。推敲という概念がまだない。


重い。物理的にも重い。紙が分厚い。でも物理だけじゃない。これ、久坂先輩の魂がこもってる。彼の思想、彼の情熱、彼の人生そのものがこの紙に詰まってる。


「先輩、これは……」


「お前ならば、英国を見て、この文書の正しさと誤りを判定できるはずだ。帰国したら、俺に教えてくれ。どこが正しかったか。どこが間違っていたか」


久坂の目が真剣だ。いつも真剣だけど、今夜は特に。目がギラギラしてる。ていうか、この人いつも目がギラついてるな。寝てる時もギラついてそう。


「正直に、だぞ。遠慮はいらん。俺が間違っていたら間違いだと言え。それが、俺にとって一番ありがたい」


俺は紙の束を見下ろす。これ、要は「俺の思想を査読してくれ」ってことだよな。しかも英国で勉強した上で。つまり「留学して知識つけてから、俺の論文を添削しろ」。後輩にやらせる仕事じゃない。指導教官の仕事だ。


そしてふと思う。


この男は、歴史的には来年死ぬ。禁門の変。1864年。久坂玄瑞、自刃。


この紙を俺に渡しに来た男が、あと一年で死ぬ。本人は知らない。真剣に「帰国したら教えてくれ」と言ってる。


喉が詰まる。冗談じゃなく、物理的に喉が詰まる。


「……先輩。必ず持っていきます。そして、必ず帰ってきて、お答えします」


言っちゃった。つい「必ず」って言っちゃった。断れない病がまた発動した。だけど今回は、断りたくなかったのも事実だ。


久坂が笑った。


笑った! この男が笑った! 貴重! レア! プレミアム! スクリーンショット撮りたいけどこの時代にカメラはない!


いつもの重い表情が、ほんの少しだけ柔らかくなった。そうすると意外と顔立ちがいい。普段からもっと笑えばいいのに。仏頂面の九割減でいいから。


「頼んだぞ、伊藤。お前が無事に帰ることを、俺は祈っている」


それだけ言って、久坂は帰っていった。嵐のような男だ。来る時も突然、帰る時も突然。


一人になった部屋で、紙の束を読み返す。


……長い。やっぱり長い。内容も重い。思想が重い。魂が重い。この人の「日本をどうにかしたい」という思いが、びっしりと詰まっている。


俺はただの社畜だ。国のあり方なんて考えたこともない。でも、この紙は持っていく。読む。英国で何かを見た時、この紙を思い出す。そして帰ってきて久坂先輩に……。


いや、帰ってきて、この人に返すんだ。ちゃんと。あの目で「頼んだ」と言われたら、それはもう「頼まれた」じゃなくて「託された」だ。社畜の俺でも、その違いくらいわかる。

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