第3話「鎖国中に海外出張を命じられました」④
乗船当日。
日中は宿にこもる。外に出ない。目立つ行動は厳禁。ひたすら待つ。これが一番キツい。何かしてるほうが気が楽なのに、ただ待つだけ。前世の商談前の控え室と同じだ。時間が進まない。一時間が永遠に感じる。
午後。商会から使いが来る。洋装一式が届いた。シャツ、ズボン、ジャケット、靴。五人分。
着替える。
洋服。前世では毎日着てた。スーツ、ワイシャツ、革靴。でもこの体で着るのは初めて。鏡がないから自分の姿は見えない。でも他の四人の洋装姿は見える。
全員、ぎこちない。
山尾がボタンを留め間違えてる。遠藤が直してあげてる。野村は靴紐と格闘中。井上は袖を引っ張りながら文句を言ってる。
「窮屈じゃのう」
「慣れます。現地では毎日これですから」
「毎日か……」
井上がげんなりした顔をする。刀を置いて、着物を脱いで、洋服を着る。この人にとっては屈辱かもしれない。武士の誇りを少しずつ脱いでる。でも文句を言いながらも着てる。それが井上さんの凄いところだ。
俺が全員の着付けを手伝う。前世で後輩のネクタイを直したのを思い出す。
「山尾さん、ボタン一個ズレてます。上から順に」
「すまん」
「井上さん、靴紐はこう結びます。ここを引っ張って——」
「なんでお前はそんなに慣れとるんじゃ」
「……洋書に図解がありまして」
またごまかした。洋書の図解で靴紐の結び方までマスターする人間がどこにいるんだ。でも今はそれでいい。いつか本当のことを話してもいいけど、それはイギリスから帰ってきてからにしよう。
「よし。全員、準備できましたね。出発は日没後。あと三時間です」
三時間。長い。でも、これが最後の「待ち」だ。
◇ ◇ ◇
日が落ちた。
横浜の夜。提灯の灯りがぽつりぽつりと道を照らしてる。居留地方向だけは洋風のランプの灯りが暖かく滲んでる。異国の光だ。
五人で宿を出る。横一列じゃなく、二人と三人に分かれて。距離を取って歩く。目立たないように。深夜の密航者。映画のワンシーンみたいだけど、俺たちは主演俳優じゃない。ただの雑用係とその仲間たちだ。
居留地の裏手。約束の場所。暗い路地の入口に人影。白人の男。商会の案内人だ。コリンズと名乗った人。
『伊藤か?』
『そうです』
『付いてこい。静かに』
裏道を通る。港へ向かう。潮の匂いが濃くなる。波の音が近づく。ザザーン、というよりザッ、ザッ、という小刻みな音。夜の港は静かだ。でも水面は常に動いてる。生き物みたいだ。
港。見えた。
でかい。帆船がでかい。
何隻もの巨大な船が停泊してる。マストの林。夜空に黒いシルエット。その中の一隻がチェルシー号。三本マストのフルリグド・シップ。船腹に「CHELSEA」と白く塗られてる。
前世のフェリーとは別物だ。木造。帆が畳まれてる。甲板の上で船員が動いてる。ランプの灯り。積み込み作業がまだ続いてる。貨物がいっぱい。木箱、樽、ロープの束。この船は商船だ。貨物を運ぶのが本業で、俺たちはその「ついで」に乗せてもらう密航者。そう思うと、ちょっとだけ気が楽になる。
『こっちだ。貨物用のスロープを使え』
荷物を運ぶ船員たちに紛れて、俺たちは船に乗り込む。暗い。狭い通路。木の匂い。ロープの匂い。タールの匂い。足元が揺れてる。揺れに不意をつかれて、野村がよろける。遠藤がさっと支える。
案内人が船内を先導する。階段を降りる。さらに降りる。どんどん暗くなる。船底に近づいてる。天井が低い。頭をぶつけそうになる。前世の俺の身長なら余裕だったけど、この体は意外と大丈夫だ。背が低くて助かった。……これ、初めてこの体に感謝したかもしれない。
船底近くの小さな船室。二段ベッドが三つ。六人部屋。五人の俺たちにはちょうどいい。狭い。暗い。湿気がある。でも、文句は言えない。密航者に与えられただけでありがたい。
『航海中、あんたらの部屋はここだ。船長には明日の朝、会ってもらう』
『感謝する、……失礼、お名前は?』
『コリンズだ。……お気張りや、若旦那衆』
コリンズが去る。足音が遠ざかる。
五人が残された。
沈黙。
誰も口を開かない。しばらくして、野村が小さな声で言った。
「……乗ったな」
「ああ」山尾。
「乗ったのう」井上。
みんなの声に、安堵と緊張が混ざってる。そして、ゴウン、と船体全体が揺れた。
出港だ。
ゆっくりと、でも確実に、船が動き始めてる。波の音が変わる。停泊中の不規則な揺れから、航行中の規則的な揺れに。窓がないから見えないけど、今、横浜の港が遠ざかってる。日本が遠ざかってる。
俺たちは海に出た。後戻りできない場所に来た。
よし。
俺は五人に向き直る。声を出す。震えないように。震えそうだけど、震えないように。
「さて。出港しました。ここからは予定通り、明朝まで船室で待機です。船長への挨拶は明日。それまで静かに。質問は?」
ない。全員、緊張してる。でもパニックにはなってない。やることが明確だから。「待機する」。ただそれだけ。シンプルな指示が不安を抑える。これもPMの仕事。
「では、寝ましょう。明日から忙しくなります」
五人、それぞれベッドに潜り込む。狭い。硬い。揺れる。でも十日間歩き詰めだった足が、ようやく休める。横になれるだけで幸せだ。人間、幸せのハードルは状況で下がる。
目を閉じる。
船が揺れてる。ゆっくりと。子守歌みたいに。いや、明日になったら船酔いで地獄を見るかもしれない。でも今は。今だけは。
この揺れ、嫌いじゃない。
考えてみれば、俺はいつだって気づいた時にはもう「ここ」にいた。入社した時も、配属された時も、「もう辞められない」と思った時も。選んだのか流されたのかわからないまま、「ここ」にいる。
でも今回は、一つだけ違う。
今回は「ここにいる理由」が少しだけ見える。
英語ができるから。段取りができるから。五人の中で俺だけが「外」と繋がれるから。だからここにいる。この役割を果たすために、ここにいる。
前世では「なぜ自分がここにいるのか」が、最後までわからなかった。十年間、わからないまま働いて、わからないまま死んだ。でも今はわかる。俺は通訳で、渉外で、調整役で、雑用係で、PMだ。五人を無事に英国に送り届ける。それが俺の仕事で、俺の役割で、俺がここにいる意味だ。
役割がある。それだけで不思議と安心する。前世で欲しかったのは、たぶんこれだ。「自分にしかできないこと」。そんな大層なものじゃない。でも「自分がここにいる理由」くらいは欲しかった。
船が揺れる。海の底から響くような、低い振動。
明日から四ヶ月の航海が始まる。地獄の始まりかもしれない。でも少なくとも、俺はひとりじゃない。五人いる。それは大きい。
眠りに落ちる。
最後に思ったこと……船酔いの薬、やっぱり持ってくればよかった。
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