第2章 贖いの影
目を閉じると、いつもあの夜の音がよみがえる。
サイレン、雨、そして――悲鳴。
白石悠真は、薄暗い部屋で煙草をもみ消した。
外では細い雨が降っている。
ガラス越しの光が、歪んで滲んだ。
彼にとって雨は、記憶の合図だった。
あの夜、自分が何を奪い、何を失ったのか。
そして、その“奪われた側”の女性が、いま目の前にいるという事実。
彼女は知らない。
自分が盲目になった原因のすべてが、この手に繋がっていることを。
――それでも、離れられなかった。
「白石さん、ここに花を置いてみたいんです」
灯の声は、まるで光そのもののように柔らかかった。
彼女の指先が、白いカーネーションの茎を撫でる。
「この角度で大丈夫ですか?」
「はい。……ちゃんと、香りがこちらに届きます」
白石は息を飲んだ。
彼女が笑うと、胸の奥の何かが軋んだ。
こんな笑顔を、自分は壊した。
その事実が、罪として身体に刻まれている。
「白石さん?」
「……ああ、すみません。少し考えごとを。」
「ふふ、真面目なんですね」
灯の笑みは柔らかく、どこまでも無垢だった。
――もし、このまま彼女が全てを知らずにいてくれたら。
そんな願いを抱くたび、心が軋む。
仕事帰りの夜。
白石はビルの裏通りでひとりの男に呼び止められた。
「よぉ、白石。……また“罪の代償”から逃げてんのか?」
声の主は、刑事・高瀬。かつて白石と蒼汰を追っていた男だ。
「俺はもう関係ない。あれは――」
「“冤罪”だった、だろ? だが、蒼汰があの日死んだのは事実だ」
胸の奥がひやりとした。
その名前を聞くだけで、息が詰まる。
「……放っておいてくれ。」
「いいや、そうもいかねぇ。あの女――灯って言ったな。
お前、近づいて何をするつもりだ?」
白石は答えなかった。
ただ、コートのポケットの中で拳を握りしめる。
指先に、古傷の痛みが蘇る。
「……彼女を、傷つけたりはしない。」
「白石。お前の“優しさ”が一番危ねぇんだよ。」
雨が降り始めた。
高瀬の声が遠ざかっていく中、白石は空を見上げた。
――優しさなんかじゃない。ただの、贖いだ。
夜、灯の家の前。
白石は傘を閉じ、静かにインターホンを押した。
「白石さん? こんな夜に……?」
「通りかかったので。……これ、差し入れです。焼き菓子が好きって言ってたから。」
ドアの向こうで、灯の小さな笑い声が聞こえた。
「ありがとうございます。……私、白石さんの声、好きです」
息が止まった。
その言葉は、刃よりも鋭く胸を貫いた。
――あの夜、灯を助けたのは、俺じゃない。
白石は笑うしかなかった。
彼女の“記憶”が、別の誰か――蒼汰のものであることを知っているのに。
「……ありがとう、灯さん。」
「いえ、こちらこそ。」
ドアの隙間から漏れる光が、雨の粒を照らす。
その中で、白石は小さく呟いた。
「もし、神様がいるなら……俺に罰をくれ。
でも、どうか――彼女の光だけは、奪わないでくれ。」
雨音が優しく包み込む。
まるで、誰かが泣いているようだった。




