第1話 黒い薔薇の契約
薔薇は、最後までひとつの真実を隠さなかった。
風が吹けば花弁は血のように舞い、地は薄紅に染まる――ローゼンリアの秋だった。
イザベル・コールディアは、血で濡れた手を見つめていた。手のひらには、かつて彼が笑った跡がある。ロアン。もう戻らない笑顔。彼の指先は冷たく、現実の重みで凍りついていた。いくつの嘘が、いくつの約束が、ここで終わったのだろう。
戦の嵐は、街を焼き、家族を奪い、無数の命を無慈悲に刈り取った。イザベルは幼くして孤独を知り、その瞳は凛とした薔薇のように冷たく輝いていた。だがその夜、戦場で倒れたロアンを拾った瞬間、彼女の胸に微かな熱が灯った。
「おまえは、何が欲しい?」
声は、風先の黒い薔薇から来た。人ではない。舌を持たぬ花が、闇の端で囁いた。
イザベルは答えた。言葉は震えなかった。
「彼を、戻してほしい。たとえ私が灰になっても。」
黒い薔薇は笑ったように見えた。花弁の縁から、墨のような露が滴る。露は彼女の肌に触れると、ゆっくりと血となって浸み込んでいった。その瞬間、世界は光を失い、音は骨の奥でこだました。
「永遠だよ、子よ。おまえが望む“戻る”は、永遠しか叶えられない。」
契約は簡潔だった。欲望と同義の言葉が彼女の喉を通り抜ける。握りしめたのは、小さな黒い薔薇。その棘が皮膚を切り、痛みが真実を教えた。他人の血の温度が、なぜか自分の胸を満たした。
夜明け、イザベルは立ち上がった。ロアンは――確かにそこにいた。だが瞳に光はない。そこにあるのは空虚か、あるいは燃え残った残滓。彼女が抱いたのは救済か呪いか。どちらでもよかった。今はただ、彼が手の中にあるという事実だけが、彼女を動かした。
街の跡地を抜け、彼女は王城を目指した。道中、焼けた屋敷や倒れた兵士の間を歩く。人々の血の匂いが、黒い薔薇の香りと混ざり、息を飲むような世界を形作る。誰も振り返らず、誰も救われず、ただ死の静寂が広がっていた。
「永遠は、重い……」
イザベルは囁いた。小さな声は風にかき消され、薔薇の花弁がひらひらと舞う。触れれば痛み、見れば美しい。黒と紅が交わる庭は、まるで死の祝祭のようだった。
王城に着くと、貴族たちは宴の準備に余念がなかった。だがイザベルの目には、それらがすべて仮面に見えた。愛も権力も、嫉妬も裏切りも、すべては血で書かれる物語の一節。彼女は冷たい笑みを浮かべ、黒い薔薇を握り締めた。
その夜、彼女は初めて自らの不死を実感する。傷は瞬時に癒え、寒さも疲労も知らない身体がそこにあった。だがその力の代償は重く、触れる者すべてが悲劇に見舞われる――それが、黒い薔薇の微笑の意味だった。
「これが……永遠の代償……」
イザベルは言葉を飲み込み、王城の暗い廊下を進む。足音だけが響き、彼女の影は長く伸びた。誰も救われず、誰も報われない世界を、これから自分は歩むのだと、初めて深く理解した。
そのとき、遠くの広間から歓声が聞こえる。宴の笑い声、王族たちの祝祭の声。しかしイザベルには届かない。心にあるのはただ、手の中のロアン、そして胸に刻まれた黒い薔薇の冷たさだけだった。
薔薇はまた一枚、風に舞った。その音は鎖のように彼女を縛る。世界は動き出した。血と王位、そして悪魔の微笑が混ざり合う舞台が――イザベルを待っていた。
――この少女が選んだ“永遠”の物語が、今、幕を開ける。