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人魚と城主の奇譚

作者: 木津川 結

 その城は、北の海を望む断崖の上に建っていた。

 日に焼けたような錆色の石壁を強風に晒し、崖に打ちつけては砕ける波の音を真下に聞き、果てしなく広がる海に挑むように聳えるそれは、築城から千年余りが経過しているという。


「今はお客さまが少ない時季で。ご宿泊はお二方だけでございます」


 私とネイトを招き入れてくれた執事は、階段を上がりながら振り向きざまに告げた。


「五日間ずっと?」

「左様でございます」

「それは――話に聞いたとおりの、面白い体験ができそうだ。なあ、エミリア?」


 隣から嬉しそうに笑いかけてくるネイトに、私も心からの笑みを返した。

 執事は階段を上りきると、石柱に三方を囲まれた殺風景な広間を抜け、私たち二人をバルコニーへと導いてくれた。


「ここからの眺めは一度見たら忘れられないと、どのお客さまも口を揃えておっしゃいます」


 執事の言葉は疑いようもなかった。

 私たちの眼前には、青灰色の海面がどこまでも続いていた。文字どおり、どこまでも、だ。前方にも左右にも、海と私たちを隔てるものは何ひとつない。


「お二方は、この城のことをどこで?」

「友人からです。彼もあちこちの郷土史や民間伝承が好きで。北部に旅行に行くならいいところがあると教えてくれました」

「それでしたら、すでにご存じですね。この城でかつて何が起こったのか」


 裾の長い黒の上着に白のタイをあわせた、小説の挿絵から抜け出してきたような老齢の執事は、果てしない海を背に私たちに尋ねた。

 私とネイトは顔を見あわせ、示しあわせたようににっこり笑った。


「もちろん聞いています。でも、改めてこの場で聞かせてもらえるなら、とても嬉しいんですが」

「記録に残っている限りで、事件は四度起きております」


 執事は話しはじめた。旅行客にこの話をせがまれるのには慣れているのだろう。私たちをこの場所に導いた手際といい、執事というよりも観光ガイドみたいだ。


「はじめは今よりも五百年ほど前――この城が、さる伯爵家の所有だった時代でございます。当時の主は国王陛下のご信任も篤く、領民たちからも慕われ、誉れ高い騎士として、領主として、多くの詩人に歌われておいででした。その朝に、寝台の上で発見されるまでは」


 ネイトが隣で片手を握りしめ、私も首から下げた写真機の紐を指に食い込ませた。

 旅行を決めてから何度も聞いたり読んだりした話なのに、実際にその現地に立っているせいか、執事の話しぶりのせいか、はじめて聞く話のように聞き入ってしまう。


「はじめにそれを見たのは伯爵の奥方でした。いつものように同じ寝台で休み、明け方になって先に目覚めたところ、隣にいる変わり果てた姿の夫君に気づいたのです。遺体には明らかな外傷はなく、生前の伯爵にも急激に悪化するような持病はありませんでした。当然すぐに医者が呼ばれ、遺体はすみずみまで調べられました」

「死因はわかったのですか?」


 ネイトが畳みかけるように尋ねた。答えをすでに知っているにもかかわらず。


「溺死だったとのことです」


 私たちは同時に息を呑んだ。


「当時の医術で診た限りですが、医者は間違いないだろうと。事実、伯爵の髪も寝衣も、水から上がったばかりのように塗れそぼっていたそうです。海で溺れ死んだあと、何者かの手で寝台へ運ばれてきたように」


 執事の背後には、青灰色の海が変わらず広がっている。バルコニーのはるか下のほうから、ごく穏やかな波の音が上がってくる。


「伯爵夫妻に跡継ぎはございませんでしたので、家名は途絶え、この城も別の領主の所有となりました。しばらくは平穏な代替わりが続き、およそ百年ほど経ったころ――今より四百年ほど前でございますね、まるで同じ事件がこの城で起こったのです」

「主が寝台で、溺死した?」

「左様でございます」

 執事は続けた。

「二人目の犠牲者が亡くなった後は、その長男がこの城を継ぐはずでしたが、彼は以前の城主が父親と同じ末路を辿ったことを知っており、時の国王に嘆願して、この城を手放させてほしいと訴えました。願いは聞き届けられ、この城はまた別の家の手に渡りました。新たな主はこの城で起こった事件をおそれず、それよりも城と海の美しさに魅入られていました。そして実際、彼の身に奇怪なことは何も起こりませんでした。彼の曾孫にあたる後の主は、曾祖父がおそれなかった憂き目を見ることになったのですが」


 執事は目を細めた。何百年も前に死んだ、面識があるはずもない男を憐れむように。


「最後の溺死体が発見されたのは、今から二百年と少し前のことです。それ以後はこの城を領有したいという貴族はいなくなり、いったん政府の管理下に置かれたあと、民間の史跡保護団体の手に委ねられました。一般に公開されるようになったのはここ二十年ほどのことですが、おかげさまで多くのお客さまが国内外から足を運んでくださいます」


 つまり、この執事は本当に観光ガイドでもあるのだ。きちんと整えた白い口髭も、大仰なほど畏まった態度も、旅行客にちょっとした貴族気分を味わわせるための演出なのだろう。


「これが、この城で起こったことのあらましでございます」


 執事が話を締めくくると、ネイトが私の隣でうずうずと身じろぎした。正真正銘の怪異の現場に立っている喜びを全身に漲らせている。

 もちろん、興奮しているのは私も同じだ。


「お話してくださってありがとう。ここに泊めてもらうことにして本当に良かったわ」


 私がお礼を言うと、執事は海を背景に穏やかに微笑んだ。好事家の旅行客をあしらうのには慣れているのだろう。


「それでは、お部屋へご案内いたしましょう」



 執事が通してくれたのは、お城の最上階にある広々とした続き部屋だった。一方の部屋には現代の手が加えられ水まわりが整備されているが、もう一方は黒を基調とした骨董風の家具調度が揃い、いかにも観光客が喜びそうな貴族の部屋の趣だ。


「歴代の城主夫妻が使っていたベッドかな?」


 四隅に支柱が据えつけられた、大きな天蓋つきベッドにごろりと横たわり、ネイトが私に尋ねた。

 城主たちの溺死体が見つかったベッドか、という意味だろう。


「さすがに違うんじゃない? 私が事件の後でこの城を継ぐことになっても、同じベッドで眠りたいとは思わないわ」

「でも相当に古そうだよ。シーツや枕はともかく、土台の部分は中世の意匠じゃないかな」


 ほらきみもおいで、と言うように手招きするネイトの隣に、私もワンピースを着たまま横になった。両側から斜めに横たわってもお互いにぶつからずに済むほど広い寝台だ。

 私たちはどちらからともなく身を這いずらせ、互いの手を握って額と額をぶつけあった。


「来て良かったね」

「うん」

「本物の怪奇屋敷に、一度でいいから泊まってみたかったんだ」

「お城も素敵だけど、私はここの海も好き。このあたり、人魚伝説でも有名なところでしょう」


 私たちは同好サークルの会員として知り合ったが、人里での怪異譚や幽霊譚が好きなネイトに対し、私は海や森など自然に根ざした伝承が好きだ。国の最北にも近いこの地方には、人魚にまつわる民話が残されていて、私も旅行に先がけていくつか読んだ。人魚の唄に誘われて沖へ漕ぎ出し、二度と帰らなかった漁師の話。海で出会った人魚を連れ帰って妻にするも、約束を破ったために彼女に去られてしまう船乗りの話。

 先ほどバルコニーから眺めた海に人魚の姿は見つからなかったが、人工物に遮られることのない水面のはるか奥には、どんな世界が眠っているのだろう。


「人魚かあ」


 ネイトが天蓋を見上げながらつぶやいた。


「城の主たちの溺死にも、ひょっとして人魚か関わっているのかな」


 しばらく休んでから荷物を整理した私たちは、再び執事に案内されて城の中を観てまわった。千年以上の歴史を持つ城だけあって、怪奇事件の他にも美術や調度など見どころはいくらでもあった。

 二人には広すぎる大広間で、たくさんの給仕人に世話されながら夕食をとり、すっかり城主夫妻の気分に浸らせてもらったところで、寝室に引き上げて休むことになった。



 水が蠢く音で目が覚めた。

 違う、蠢いているのは水ではなく、その中にいる何か――私だ。手足を動かそうとしてそのことに気がついた。体中がたいそう重たくて、手を上げることも身を起こすこともゆっくりとしかできない。

 目を開けると、そこはまさに水の中だった。

 周囲にあるものは眠る前に目にしたものと変わらない。歴史を感じさせる重厚な家具と、古びた石壁。私の隣ではネイトが目を閉じて眠っている。その寝室の中を、空気のかわりに水が満たしている――いや、部屋全体が水の中に沈んでいる!


「ネイト」


 私は呼びかけた。不思議なことに、水の中にいても呼吸は苦しくならず、ゆっくりと口を動かせば声を発することもできた。


「ネイト、起きて」


 私は確かに声を出したのに、ネイトは寝返り一つ打たず枕に頭を載せて眠り続けている。肩を叩いても、揺さぶっても、目を開けようともしてくれない。まるで死んでいるかのように深い眠りについている。


「起きて、お願い。死んでしまう」


 泣きそうになりながら、私は何度も呼びかけた。



「今日は海岸へ出かけようと思います」


 朝食の席を立ちながらネイトが言うと、執事がにこやかに微笑んだ。


「それは良うございます。今日はあたたかい日和ですので、風もそう冷たくはないでしょう」

「昼食時には戻ってきてここでいただきます。それでいいよね、エミリア?」


 私はまだ椅子から立ち上がっておらず、ネイトの問いかけにすぐに反応できなかった。不審に思った二人が再び口を開く寸前、ようやく我に返って慌ててうなずいた。


「――ええ。それでお願いします」

「じゃあ、部屋に戻って支度しよう」


 ネイトが差し出してくれた手を借りて、私はゆっくりと立ち上がった。


「エミリア、疲れている?」


 私に手を貸したまま階段を上りながら、ネイトが振り向きざまに訊いてくれた。朝食の間も私がどこか上の空で、あまり食べてもいなかったことに気づいていたのだろう。


「出歩くのが辛かったら、今日は城の中にいようか」

「いいえ、疲れてないわ。ありがとう」


 体調はどこも悪くなかった。あんな夢を見たのにもかかわらず。

 もちろん、あれは夢だ。いくら海沿いに建っているとは言え、海面から私たちの借りている寝室までは、十階建てのビルの最上階と地上よりも離れている。何かの天変地異で海面が上がってきたのだとしても、城がまるごと海水の中に沈むなんてありえない。

 怪異の城に泊まっているという興奮と、昼間に執事から聴いた話のせいで、いかにもそれらしい夢を見たのだろう。

 私は微笑んで、ネイトにその話をしようとした。ネイトなら笑って面白がるか、この城が宿泊客の精神に与える影響について真剣に考察しようとするだろう。

 だが、私はすぐに口を閉ざした。生々しかったのは水の中に閉じこめられていた感覚よりも、どんなに呼びかけてもネイトが目を開けてくれなかったことの恐怖感だ。

 あれは本当に夢だったのだろうか。



 目を覚ますと、また水の中だった。

 私は不思議と落ち着いた気分で起き上がり、周囲をよく観察してみた。前の晩にどこか違和感を覚えた理由がすぐにわかった。水の底に沈んでいるにも関わらず、体が浮き上がっていく様子がまるでないのだ。天蓋から垂れ下がっているカーテンも、シーツも、ベッドのまわりに置いたノートやハンカチ、水に浮かぶはずの他のどんな小物も、水面を目指して上へ行こうとしていない。

 ネイトは今夜も私の隣でぐっすりと眠っていた。肩に手をかけて揺さぶってみても、やはり目を開けてくれなかった。

 ネイトの体に触れたまま、私は確信した。これは夢ではない。ありえない状況にもかかわらず、慣れ親しんだ手の感触は間違いなく現実のものだ。

 私はふと顔を上げ、寝台の上に座り直した。私たち二人しかいないはずの部屋の中に、何か別の気配があることに気づいたのだ。

 物音がするわけでも、家具が動くわけでもない。それでも、水の中に何か――あるいは誰か――がいるのを、はっきりと感じ取ることができる。


「誰かいるの?」


 私は声を発した。片手はまだネイトの肩にあてたままだ。どうしてだかわからないが、その手を離してはいけないような気がした。

 水の中から返事はない。


「誰なの? 私に何か言いたいの?」


 もう一度、私は口を開いて問いかけた。

 部屋の中の水が波打ち、大きな黒い影が私とネイトのほうへ泳いできた。



「今日は日帰り見物のお客さまを、二組お迎えすることになっております。城内をご案内いたしますので、その間はお騒がせすることになりますが、お二方は今日もお出かけになりますか?」


 朝食を終えた私たちに、コーヒーを運んできた執事が尋ねた。


「今日は部屋でゆっくりしようと思ってます」


 私が口を開くより一瞬早く、ネイトが答えた。


「敷地内の庭は少し歩かせてもらうかもしれませんけど。日帰りの人たちと一緒になっても構わないんですよね?」

「もちろんでございます」

「ネイト、私は大丈夫だから、予定どおり出かけましょう」


 私は口を挟んだ。

 ここに滞在できるのは四泊五日、その間の計画は出発前から念入りに立ててきた。今日はかつての城下町である近くの市街に行き、聖堂や古代の城壁跡を観てまわる予定だった。


「無理するのは良くない」


 ネイトは手を伸ばし、テーブルの上に置いた私の手に重ねた。

 寝室で目覚めた時から私たちはこの問答を繰り返している。私の顔色が良くないので予定を取りやめにしようと言うネイトと、大丈夫だから計画に沿って観光しようと言う私と。


「もともと少し予定を詰めすぎていたんだ。一日くらい休んでゆっくりしよう」

「ありがとう」


 ネイトは優しい。自分のやりたいことよりも私を気遣うことを優先してくれる。

 実際のところ、私は観光地を歩いてまわる気分ではなかった。体の具合が悪いからではなく、二晩続けて経験した奇妙な出来事のせいだ。

 あれは夢ではないと私は確信していた。水の中にいた記憶は急に途切れ、目覚めるとごく普通に寝台に横たわっていたけれど、眠りと眠りの間に見たものは決して夢ではない。

 では、私が目にしたものはなんだったのか。水の中で感じた誰かの気配は――私たちの上を横切っていった大きな影はなんだったのか。


「――そして、今から二百年ほど前、最後の主の溺死体が、やはり寝台の上で発見されたのでございます」


 執事が話し終えるのを、私たちは二日前と同じバルコニーで聴いた。左右には年輩の夫婦と、学生風の男女四人のグループがいる。一日中部屋にいてもすることがないので、執事が日帰り客を案内するのに同行させてもらったのだ。


「いやだ、本当にここがその場所なのね」

「これだけ海に近いと、なんでも起きそうだよね」

「人魚の話と関係があるのかしら」


 若者たちはそれぞれ写真機や地図を手にし、怖い怖いとはしゃぎあっている。私たちのような趣味がなくとも、怪異のあった城には惹かれるものがあるようだ。


「溺死した城の主たちには、何か共通点があったのですか」


 ゆったりと問いかけたのは、夫婦連れのうち妻のほうだ。年齢は五十歳の手前だろうか、古風な詰め襟のブラウスを着て、背の高い夫の腕に優しく手をかけている。


「千年以上の歴史があって、事件の犠牲になった主は四人だけでしょう。その方たちが不運にも選ばれたのには、何か理由があったのかしら」


 私はネイトと顔を見あわせた。

 旅行を決めて以来、この城に関する文献にはできる限り多く目を通してきた。日帰り客の妻と同じ疑問を持った研究者は当然いて、四人の犠牲者の人となりに触れた記述も複数あった。


「さすがは奥さま、良いところにお気づきになりました」

 執事は微笑んだ。

「溺死体で見つかった四人の主には、確かに共通すると言えるものがございました。見る者によって揺れが生じるような点ではございますが」

「どんな?」

「故人を悪く言うのははばかられますので」


 執事の言い方で、私は旅行前に仕入れてきた知識が間違ってなかったことを知った。

 溺死した四人の城主たちには、決して美点とは呼べない共通の特徴があった。使用人や領民に横暴だった、毎晩のように大酒を飲んで騒いでいた、海辺に流れ着いた獣を殺して喜んでいた、などだ。

 他にもこれにあてはまる城主はいたかもしれない。ただ、四人に共通していたのは、彼らがはじめから暴君ではなかったという点だ。城を継ぐ前、あるいは継いでから間もない若かりしころは、寛大で慈悲深い主として慕われていたそうだ。


「人魚の話も聴かせてもらえませんか。溺死ってことは、やっぱり人魚と関係があるような気がするんですけど」


 若い女性の一人が目を輝かせながらせがむと、執事はまたにっこりした。


「人魚はおりませんよ、お客さま」

「え、言い切っちゃうんですか?」

「人魚に限らず、自然物にまつわる伝承の多くは、自然に対する人間の畏敬が生み出したものでしょう」


 どの民話の本にも書かれているありふれた言説を、執事は臆面もなくすらすらと述べた。背後には青灰色の穏やかな海が広がっている。


「人間が人魚を忘れてしまったら――つまり自然をおそれなくなったら、その時こそ、人魚は私たちの前に現れるのかもしれませんね」



 三日目の晩も、私は水の中で目を覚ました。

 寝台の上に起き上がり、隣にネイトが眠っているのを確かめると、水に沈んだ部屋をじっと見つめる。昨夜も見た大きな黒い影が、部屋の右手から左手へ、天井に近い高さでゆっくりと横切っていった。

 大きく見えたのは水の中で見ているから、そしてその正体がわからず、不安と驚きをもって目にしたからだろう。あらためて視線を向けると、それは人ほどの大きさしかないことがわかった。

 影は左端の天井まで泳ぐと、水に溶けるように音もなく消えた。


「あなたは誰? 何がしたいの?」


 答えが返ってくるのは期待せず、私は問いかけた。隣で眠っているネイトに片方の手で触れる。


「この人はここの主じゃないし、とても優しい。溺れ死なせたりしないで。その必要はないはずよ」


 ネイトを守ろうと必死ではあったが、恐怖は感じていなかった。影が消えても水の中に残っている気配は、恐ろしさよりも哀しさを感じさせるものだった。哀しくて、優しくて、どこか懐かしい。

 正体のわからない存在でありながら、私はそれを――彼女を――知っていた。自分自身を知っているのと同じように。

 水の中に、再び彼女の姿が現れた。



 気がつくと、私は彼女だった。

 私はこの城が面している海に棲んでいた。青灰色の波の下にある、深く果てしない世界を、私は自由に泳ぎまわることができた。

 海を望んで建つ城のことも、海と同じくらいよく知っていた。その城で暮らす一人の少年は私の友達だった。私は毎日のように陸地に近づき、海辺に降りてきてくれた彼と逢い、さまざまな話をした。

 少年は城で大切に育てられているようだった。たくさんの召使いや教師がつけられ、立派な主となるよう躾られていた。この城が築かれて間もないころ、南ではたびたび戦が起きており、少年の父も兵士たちを率いて戦いに赴いていた。


「あなたも、大人になったら戦に行くの?」


 波打ち際に身を横たえて、私は尋ねた。少年は成長して背が伸びていたが、父親よりはまだずいぶん小さく、ほっそりと痩せていた。


「行くみたいだ。行きたくないけど」


 波の近くに立つ少年は、小さな声で言った。城の中では誰にも話していない胸の内を、ここで私にだけ打ち明けてくれた。


「僕は戦いよりも書物が好きだ。歌や物語が好きだ。父上のようにたくさんの家臣に囲まれて尊敬されるよりも、ここに座って波の音を聞いているほうがいい」

「波の音? 私の声よりも?」


 私がからかうと、少年は真っ赤になった。

 それから私たちは身を寄せあい、口づけを交わした。

 やがて南方での戦が終わり、少年の父親が戦地から戻ってきた。戦場で負った傷のために歩くことができず、馬ではなく馬車で帰還した父親は、この僻地には不釣りあいなほど美しい少女を連れていた。息子の妻になる姫君を見つけて連れ帰ってきたのだった。

 私はもちろん悲しんだ。けれど、どうにもならないことはわかっていた。陸地に上がることのできない私が少年の妻になれるはずがない。

 少年も同じように悲しんでいた。結婚式の前の晩、いつものように海辺にやってきて、私と口づけを交わして約束してくれた。


「君のことは忘れない。これからも君に会いに、ここに来るよ」


 少年が結婚してしばらく経ったころ、父親が戦傷のために世を去り、息子が城の新しい主となった。

 それからだった。すべてが変わりはじめたのは。

 少年は城主となってからも毎日のように海へ来ていたが、次第に一日空け、三日空け、一月以上も空けるようになり、ついにはほとんど訪れてくれなくなった。

 私は海辺で彼の訪れを待つのをやめ、かわりに沖から城を見上げるようになった。新しい奥方がやって来てからというもの、城は生まれ変わったように明るくなり、華やかな宴や催しが毎晩のように開かれているようだった。奥方は城主の妻にふさわしい、よくできた人で、夫を褒めて持ち上げ、自信をつけさせるのに長けていた。

 ときどき、城のバルコニーに城主が姿を現したが、私は手を振ることも、呼びかけることもしなかった。城主が昔よりも幸せなのはわかっていた。海辺に座って私と貝殻を拾ったり、海鳥の鳴き声を聴いたりするよりも、美しい妻を隣に置いて、家臣たちに敬われているほうがいいに決まっている。

 寂しかったけれど、城主の幸せを喜ぶことは難しくなかった。奥方に息子が生まれるまでは。

 跡継ぎが生まれたことを喜ぶ領民たちに、城主は祝いの品を献上するよう命じ、それができない者には厳しい罰を与えた。海の底に眠る伝説の宝を捜し出せと言って、何隻もの武装した船を沖へ放った。

 祝宴に饗されるために途方もない数の魚が獲られ、その多くが客の口に入ることも、召使いや貧しい者に下げ渡されることもなく、無為に海へ投げ捨てられた。中には、宴席に飾られるためだけに殺された美しい大魚もいた。

 祝いの期間が過ぎても城主は飽き足らず、今度は息子のために城を大きくすることを考えた。海を埋め立てて城壁を築き、私たちの世界を完全に陸地から閉め出してしまった。私と口づけを交わした海辺の岩場も、人の足で踏み荒されてどんな生き物も棲めない場所になっていた。

 私は耐えようとした。いつか城主が目を覚まし、かつての優しい少年に戻ってくれると信じようとした。

 けれどもある晩、沖に浮かんで城を眺めているうちに、自分の望みが泡のように消えてしまったことを悟った。

 私は泣いた。私の涙は海に落ち、水のかさを増し、揺れ動く海面を少しずつ持ち上げた。

 真夜中、城は荒れ狂った水の底に沈められた。



「この人は違う。あなたの恋人のようにはならないわ」


 片方の腕でネイトを庇いながら、私は彼女の影に向かって告げた。

 四日目の晩もやはり私は水の中にいて、彼女と対峙していた。前の晩と同じく、恐ろしさは感じなかった。私は彼女のことを知っている。彼女が感じた悲しみ、寂しさ、恐怖を知っている。

 私の言葉に疑問を呈するように、彼女の影が水中でゆらゆらと揺れた。


「本当よ、約束する。だからお願い、溺れ死なせないで」


 水が大きく蠢き、私の目の前を彼女の影が横切った。



「おはようございます、お客さま。最後の晩もよくお休みになれましたか」


 朝食が用意された広間に入った私とネイトを、執事がこれまでの朝と同じように迎えてくれた。


「ええ、とても」

「結構でございます。今日は昼食をとられずにご出発されるのでしたね」

「そうです。四晩お世話になりました」

「最終日も、どうぞお楽しみになってください」


 執事は礼儀正しく告げると、給仕人たちに指示を残し、広間から去っていった。

 テーブルの上にはこれまでの朝と同じく、ゆで卵とトースト、ベーコン、それに何種かの果物が並べられている。海に面した大きな窓からは、朝の陽射しがたっぷりと注ぎこんでくる。


「結局、何も起こらなかったな」


 朝食に手をつけながら、ネイトが何気なく言った。不満というほどではないが、それなりに本気でがっかりしているようだ。


「何か起こってほしかった?」

「それはまあ……本当に起こったら、それはそれで大変なんだろうけど」

「写真を現像したら何か写っているかもしれないわ」

「写真か。そうだね、楽しみだ」


 私たちは目をあわせ、くすくすと笑った。

 この城で過ごしたすべての夜に見たもののことを、ネイトに話すつもりはなかった。彼女が私だけに打ち明けてくれたことだし、話してもネイトにその意味はわからないだろう。


「エミリア、元気になって良かった。今日はおととい行けなかった場所を見て帰ろうか」

「予定が狂ってしまってごめんなさい」

「いいよ――そういえば、おととい一人で城の中を歩いていた時、見つけたものがあるんだ」


 外出を取りやめにした日、私は寝室で何時間か休むことに決め、ネイトに一人で城内を観てくるようにすすめたのだ。


「何を見つけたの?」

「階段室の壁の上のほうに、明らかに石の色が変わっている部分があって。たまたま通りかかった掃除の人に尋ねたら、どうも洪水の跡らしいって」


 窓の外から、波の音が忍び寄ってくるのが聞こえた。


「津波なのか豪雨なのかわからないけど、この城ができてそれほど経っていないころに、ひどい水害で住人のほとんどが亡くなったらしいよ。王朝が変わる前のことだから、文書での記録は残っていないみたいだけど」

「――そう」

「城主たちの怪死も怖いけど、災害はもっと怖いね。自然をおそれる人の心が人魚を生み出したって、わかる気がするよ」


 私は波の音に耳を澄まし、彼女のことを思った。城が丸ごと水に沈むほど泣かなければならなかった、彼女の悲しみ、寂しさ、恐怖を。それらを引き起こした男のことを。


「怖いと思っているのは、人魚のほうも同じなのかも」


 きょとんとするネイトを見て、私は思った。どうか、彼が今の優しさをずっと持ち続けてくれますように、と。

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