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俺の婚約者は悪役令嬢を辞めたかもしれない

悪役令嬢を男性目線で見た物語です。

  俺の婚約者であるアリシア・フォン・クラウゼン。

 彼女のことを、一言で表すとすれば『怖い』がぴったりだと思う。


 いや、普通の怖さじゃないんだ。幽霊がでたとか、魔獣が襲ってきたとか、そういうわかりやすい怖さじゃなくてさ。

 もっとこう、心をジワジワと締め上げるような、背後に立たれた時に冷や汗が吹き出すような……そんな怖さだ。


 アリシアは彼女は冷酷で、打算的で、貴族社会の権謀術数に長けた女だった。礼儀作法、学問、社交、どれを取っても隙がない。美しいブロンドに真紅の瞳を持ち、微笑めば貴族の男どもが群がるほどの美女だ。

 

 でも、あの美しさは男を絡め取る罠みたいなものだ。見惚れたら最後、心臓を手でえぐり取られる。

 

 俺は知ってるぞ……ああいうのを『悪役令嬢』っていうんだろ?


 

 彼女が伯爵令嬢から王子の婚約者という立場に上り詰めたのは、実力と策略の賜物だった。巧みな話術と根回しで王宮の重鎮たちを味方につけ、「エドワード王子には、私のような聡明で頼れる伴侶が必要ですわ」と宣言。気づいたら俺との婚約が決まっていた。


 いやいやいや。

 俺、何にも聞いてないんですけど。

 それに求婚とかもしてないし……。

 

 たしかに俺は王子だし、自分で言うのもなんだけど、見た目だって整っていて『ザ・王子』って感じだ。もちろん女性に人気がある。でも、アリシアって俺に興味なさそうなんだよね。

 

 どう考えても、彼女の野心のために利用されている感が否めない。


 ……それにさ。

 

「アリシア様を敵に回せば破滅する」って、王宮のあちこちで囁かれているのっておかしくない?

 

 実際、アリシアに逆らった貴族の息子が何者かに襲われたし、彼女の悪口をいった侍女は数日後に忽然と姿を消した。

 

 ねッ? 怖いでしょ?

 そんなアリシアと婚約するって……俺の未来って詰んでないか?


 このままじゃ、一生アリシアの掌の上で転がされるだけの人生になっちゃうんじゃ……。

 

「あぁー、婚約破棄したい……!」


 俺はなんとかして彼女と婚約破棄できないか、ずっと策を巡らせていた。

「アリシア・フォン。クラウゼン。お前との婚約を破棄する!!」と高らかに宣言したかったが、何をどうあがいても無駄だった。

 


 だけど――ある日を境に、アリシアは変わった。


 これまでの傲慢さは影を潜め、明るく穏やかな雰囲気に変わったのだ。鋭く人を見透かすようだった視線は、まるで聖母のような慈愛に満ちていた。


 そんなアリシアを、まず疑った。

 

「新手の罠か?」


 だって、変わり過ぎだし。

 罠か策略にしか思えないよね。

 そう考えてたから、できるだけ関わらないようにしていたんだけど……。

 

「エドワード様は、やはり、私がお嫌いなのですね……」


 ある日、アリシアが泣いた。


 俺は目を疑った。


 いやいやいや、あのアリシアが泣く!?

 氷の魔女みたいな奴だぞ?

 

 何があったんだよ!? 

 火事か? 戦争か? それとも世界の終焉か?

 

 まさか、もう心理戦に巻き込まれているとか? 俺が同情するのを狙っているのか?

 

 いや、でも……。

 アリシアの涙はどう見ても本物だった。

 だけど、どう考えてもおかしい。


 彼女は変わった。何が彼女を変えたんだ?

 その謎を探るため、俺はアリシアの観察を始めることにした。

 

 

 

 例えば食事の席。

 彼女の皿には、以前なら絶対に口をつけなかった魚料理が並んでいた。普段のアリシアなら、すぐに侍女を呼びつけ「誰がこんなものを用意したのかしら?」と冷ややかに問い詰めただろう。

 

 だが、今日の彼女は……普通に食べていた。

 誰よりも優雅で、少しのミスも許さない完璧さを崩しもせずに。

 

 気付いた執事が顔を青くして謝罪したけど、彼女は執事を咎めることなく「美味しかったです」と微笑んだ。

 

 おーい。この人だれ??

 お前、本当にアリシアか? そっくりさんとかじゃないよね?




 さらに奇妙なのは、彼女が以前なら絶対に見向きもしなかったものに、やたらと心を動かされていることだ。


 ある日、庭園でアリシアが小さな白い花を摘んでいた。

 

「……まあ、かわいい」


 ――ふぁッふ!?


 俺は耳を疑った。

 あのアリシアが、花を……かわいいって言ったのか?


 彼女が花を愛でるような素振りを見せたことは、一度もなかった。美しいものを理解する感性は持っていたけど、それはあくまで「貴族の女性として、教養の範疇」だったはずだ。


 それが今、花を手に取り……まるで初めて花を見た少女のような顔をしている。


「珍しいな。花に興味があったのか?」


 俺が問いかけると、アリシアは一瞬驚いたように目を見開いた。

 

 ……あれ? 俺、なんか変なこと聞いたかな?


「……ええ、なんだか、とても……愛おしい気がして」


 そう言って微笑んだ彼女に……その表情に、俺の胸が妙にざわついた。


 なんだ、この胸がポカポカする感覚は。

 いや、俺は知っているぞ。こういうのはフラグっていうんだ。


 まさか、アリシアに惚れ始めているってことなのか?

 

 たしかにアリシアは美人だ。最近は冷たい表情もなくなって親しみやすくて……。

 

 いやいや、待て待て。

 あのアリシアだぞ?

 

 俺が惚れるなんておかしい。悪役令嬢まっしぐらの彼女に、どうして惚れなきゃいけないんだ!?


 ――それなのに。


 アリシアの変化を意識し始めてから、俺の中で妙な感情が芽生えつつあった。

 

 べ、別に、好きになったとか、そういうんじゃないっ!

 ないはず。……たぶん。

 

 けど、なんていうか……気になるんだ。





 ある日、舞踏会の準備が進められる宮殿の廊下で、俺は偶然アリシアの姿を見つけた。彼女は侍女と共に舞踏会で着るドレスの確認をしていたが、どこか浮かない表情をしていた。


「アリシア様、こちらのドレスが王妃様のお好みだと……」


「……ええ、分かりました」


 あれ? なんかアリシアの元気がない。

 侍女の言葉に、彼女は曖昧に頷く。

 以前の彼女なら「王妃様のお好み? ふうん、でも私はこっちがいいわ」なんて言いながら好きな」ドレスを選んでいたはず。


 ちょっと気になる。というか、めちゃくちゃ気になる。

 よし、話しかけてみよう。

 

「どうした? 気に入らないのなら、無理をする必要はないんじゃないか?」


 俺の声に、アリシアは驚いたように目を見開いた。

 でも、すぐに微笑んで首を横に振る。


「いいえ……ただ、昔の私はこういう華やかなものが好きだったはずなのに、今は少し落ち着いたもののほうがいいような気がして」


「……趣味が変わったのか?」


「そう……かもしれません」


 彼女は寂しげに微笑んだ。その表情に、俺の胸がまたざわつく。


 これはもう、策略とかそういうんじゃない気がする。

 いや、違うのは彼女の方ではなく——俺のほうかもしれない。


 彼女が見せる些細な変化に、俺はこうして注意を向け、気にかけるようになっている。それがなぜなのか、自分でも分からなかった。


 けれど、1つだけ確かなことがある。

 俺はもう、以前のように彼女をただ疎ましく思うことはできなくなっていた。


 そして、その夜。

 俺は眠れなかった。


 暖炉の火が揺らめく薄暗い寝室で、ぼんやりと天井を見つめていた。


 アリシアは変わった。

 それは間違いない。


 だが、俺が気になっているのは、変化の「理由」だ。


 彼女はまるで、自分自身の罪を償おうとしている様に見えた。貴族の世界で生き抜くために作り上げた冷酷な仮面が崩れ、素顔が露わになったような——そんな印象。


 アリシア・フォン・クラウゼン。

 俺の婚約者。

 俺はずっと彼女を好きになれなかった。そのはずなのに……。


 なぜ、こうも彼女のことが頭から離れないのか?


 考えこんでいると、不意にノックの音が響いた。


「エドワード様……少し、お時間をいただけますか?」


 こんな夜更けに訪問者なんて珍しい。

 扉を開けると、そこに立っていたのはアリシアだった。


 軽いガウンを羽織っただけの姿で、落ち着かない様子で俯いていた。


「アリシアか……どうした?」


「お話ししたいことがあって……少しだけ、お時間をいただけますか?」


 いや、まずいんじゃないの、これ?


 夜に王子の部屋を訪ねるなんて、普通に考えてアウトじゃないの?

 こんなところを侍女とかに見られたら『婚前の密会! 王子と婚約者の熱帯夜』とか宮廷ゴシップのネタになるぞ。

 

 けれど、そんなことを気にする余裕もないくらい、彼女は切羽詰まった顔をしていた。

 俺は小さく息を吐き、静かに頷いた。


「……入れ」

 

 そして、その夜――彼女の「秘密」を知ることになる。



 アリシアは部屋に入ると、しばらく口を開けなかった。

 暖炉の灯りが揺れる静かな空間で、彼女はまるで言葉を探すように視線を彷徨わせる。


「アリシア、何か話があるのだろう?」


 俺が促すと、彼女は小さく息を吸い込み、ゆっくりと口を開いた。


「エドワード様……私は——」


 言葉が詰まり、唇を噛む。

 その仕草は、かつての彼女なら絶対に見せなかったものだった。


 やがて意を決したように、彼女は俺を真っ直ぐに見つめる。


「……私は、もう、以前の私とは違います」


 その言葉に、俺の心臓が大きく跳ねた。


「どういう意味だ?」


 俺の問いかけに、彼女は微かに震えながら続けた。


「この世界は……いえ、この人生は、私にとって二度目なのです」


 ――は?


「……二度目?」


「ええ。私は以前、一度死んだのです。そして、気がつけば……過去の自分に戻っていました」


 俺はしばらく何も言えなかった。


 二度目の人生……それはおとぎ話じゃないのか?

 時間逆行、転生といった概念。本の世界ではそういう物があることは知ってる。

 でも……ここは現実だぞ?


 やっぱり、アリシアは俺をハメようとしているのか。そう思ったが俺は考えを改めた。


 彼女の真剣な瞳が、それを嘘に思わせない真摯なものだったからだ。

 過去に戻るなんて真実味のない話だけど、彼女の話をもっと聞いてみてもいいかもしれない。


「それは……前世の記憶がある、ということなのか?」


「はい。私がどんなふうに生き、どんな結末を迎えたのか、すべて覚えています。私は……ひどい人間でした」


 アリシアは苦しげに目を伏せ、震える声で語り始めた。

 あまりにもリアルすぎる苦悩。


 たしかに以前の彼女は、策略を巡らせ、周囲を利用し、自らの立場を盤石にすることだけを考えているように見えた。婚約者である俺でさえ、利用の対象にしてたくらいだし。


 けれど、その先に待っていたのは——破滅だったらしい。

 

 誰にも愛されず、憎まれ、蔑まれ、捕らえられ。

 彼女は、すべてを失い、最後には処刑されたという。


「私は……あの時、ようやく気づいたのです」


 静かな声だった。

 アリシアは膝の上で拳を握りしめ、伏し目がちに続ける。

 

「自分がどれだけ愚かだったのかを。どれだけ、大切なものを見失っていたのかを」


 その顔に、傲慢さは微塵もない。


「だから、やり直したいと思いました。もう同じ過ちは犯したくありません」


 彼女がゆっくりと顔を上げる。

 目が合った。


「……本当に守るべきものを、見失わないために」


 彼女の瞳には、迷いも打算もなかった。

 ただまっすぐに俺を見つめていた。

 

「エドワード様は心の優しい方です」


 アリシアは微笑む。


「私のような者にさえ、変わらぬ優しさを向けてくださいました」


 そう言われても、実感はない。だって未来の話だしなぁ。

 少し前の俺は、アリシアを疎ましく思っていたし、婚約破棄できないか策を練っていたくらいなのだ。

 そんな相手に、俺が優しくしていたと言われても、正直信じられない。

 けれど。

 

「私は……あなたに、心から感謝しています」


 真摯な言葉。この話がデタラメとは思えない。

 どこにも駆け引きの気配はない。


 俺は無言のまま彼女を見つめた。

 そして気づく。

 胸の奥で、何かが変わり始めていることに。


「……アリシアが、やり直したいと思ったのは、なぜだ?」


 問いかけると、彼女は目を伏せる。


「……私には、もう一度やり直せる機会が与えられました。それなら、今度こそ本当に大切なものを守りたいと思ったのです」


 声が、かすかに震えている。


「あなたにひどい態度をとったこと、心の底から後悔しています」


 彼女は再び俺を見つめる。

 その視線は、もう以前の彼女とは違っている。


 かつてのアリシアは、どこまでも計算高く、自分のため他人を踏みにじることに躊躇がなかった。

 でも、今の前にいる彼女は違う。


「そうか……じゃあ、お前は変わったんだな」


 俺がそう言うと、アリシアは微かに笑った。


「ええ。ですが、もっと変わっていくつもりです」


 暖炉の灯りが彼女の横顔を照らす。

 

「これからの私を……見て頂けませんか?」


 不思議なことに、今まで気づかなかった。

 彼女のこんなにも穏やかな表情を。


 それが、なぜかーーひどく心を揺さぶった。


 俺は彼女を「勝手に決められた婚約者」としてしか見てこなかった。

 政略と知略でのし上がってきた怖い女。悪役令嬢を体現したような存在。

 そんな彼女と、極力かかわらないようにしてきた。


 でも今、俺は初めて彼女を「一人の女性」として意識し始めていた。


「アリシア、お前は今……幸せか?」


 俺の問いに、彼女は少し驚いたように瞬きをする。


 そして、ふっと微笑んだ。


「まだ……わかりません」


 その言葉は、どこか儚げだった。


「けれど……」


 彼女は俺を見つめる。


「エドワード様が、こうして話を聞いてくださることが……とても、嬉しいです」


 俺の、胸の奥がじんと熱くなる。


 ——俺は、知らなかった。

 彼女のこんな表情も、こんな想いも。


 そして、気づいてしまった。

 俺が今、彼女から目が離せないことを。


 それは今までみたいな敵意や恐怖からじゃない。

 ただ、アリシアという一人の女性に、心を動かされつつあるからだった。


 それから、俺とアリシアはよく話すようになった。


 宮廷での昼食の席。

 舞踏会の合間。

 そして何気ない散歩の途中——。


 彼女は以前のように高慢な態度を取ることはなく、俺の話に耳を傾け、自分の考えを率直に語るようになった。


 不思議なことに、彼女との会話は心地よかった。

 俺が思っていたよりも彼女は聡明で、思慮深く、それでいて時折見せる素直な表情が——妙に俺の胸をくすぐった。


 ある日のことだった。


「エドワード様、こちらへ」


 穏やかな風が吹き抜ける庭園で、アリシアが俺を手招きした。

 ふと視線を向けると、彼女は小さな花壇の前に立っていた。

 

「どうしたんだ?」


「見てください」


 アリシアの指差す先には、白い鈴のような可憐な花が咲いていた。

 鈴蘭だった。


「これは?」


「以前、この花をエドワード様に贈ろうと考えたことがあったのです」


 ふいにそんなことを言われて、俺は目を瞬かせた。


「……この花を、俺に?」


「ええ。けれど、その時の私は素直になれなくて」


 アリシアはふっと笑った。

 その横顔には、どこか遠い記憶を懐かしむような色が浮かんでいた。

 

 俺は無意識のうちに、彼女の指先へ視線を落とした。

 アリシアは、白い鈴蘭をそっと摘み、俺に差し出す。

 小さな鈴たちが風に揺れた。


「この花の花言葉はご存じですか?」


「……確か、幸せが訪れる、だったか」


「ええ、正解です。でも他にも意味がありますよ」


 そう言って、アリシアは俺を見上げる。

 彼女の瞳に、夕陽が反射してきらめいていた。


「……『ずっと好きだった』です」


 その瞬間、心臓が強く高鳴った。

 俺はハッとして息を呑む。

 

 それは、これまで感じたことのない感覚だった。

 アリシアが、俺を?

 


「アリシア……」


「ええ。私はもう過ちを犯したくありません」


 アリシアは、迷いのない瞳で俺を見つめる。

 嘘でも冗談でもない。彼女の想いは本物なのだと――理解した。


「私はエドワード様と、もっとお近づきになりたいです」


 その言葉に、俺は何も言えなかった。


 突き放すことはできない。

 なぜなら、俺も——彼女に惹かれているのだから。


 ふいに、アリシアが俺の手を取った。

 小さな手だ。でもその指先には確かな温もりがある。


「エドワード様。今の私は、あなたにふさわしいでしょうか?」


 その問いに、俺は初めてはっきりと答えた。


「……ああ、アリシアは、俺にとって特別な人だ」


 彼女の瞳が揺れる。

 そして、静かに微笑んだ。


 ——こうして、俺は初めて彼女を心から「愛おしい」と思った。


 アリシアの微笑みを見た瞬間、胸の奥に熱が広がった。

 これまで俺が見てきたどの笑顔よりも、彼女のその表情が愛おしく感じられた。



「エドワード様?」


 彼女が小首をかしげる。

 その仕草までもが、心を揺さぶる。


「いや……」


 俺は小さく咳払いをして、ごまかした。

 

「そろそろ戻るとするか……」


 アリシアがくすりと笑った。

 夕陽の中、彼女の金色の髪が風に揺れる。

 

 ――それを見た、俺の心も揺さぶられていた。



 王宮の大広間は、きらびやかな灯りと花の香りに包まれていた。

 シャンデリアの光が床に映り込み、豪華な衣装を着た貴族たちで溢れている。

 俺は会場の入口で彼女を待っていた。


 そして、彼女が現れる。

 アリシア。

 

 真紅のドレスをまとったアリシアは、今まで見たどの瞬間より美しかった。

 派手な装飾に頼らずとも、彼女の持つ優雅さがすべてを引き立ていた。

 長く伸ばされた金色の髪が、光を受けて柔らかく揺れる。


 目が合うと、彼女は静かに微笑んだ。

 

「お待たせいたしました、エドワード様」


 その笑顔はもう、作り物じゃない。

 かつての彼女は打算と計算で微笑んでいた。

 でも今は、どこか冷さのある微笑みとは違う、温かなものだった。


 俺は、ゆっくりと彼女に手を差し出す。


「行こう、アリシア」


 彼女が俺の手に重なる。

 指先から伝わる体温に、胸が高鳴るのを感じた。


 優雅な音楽が流れる中、俺たちはステップを踏む。

 アリシアの動きはしなやかで、俺にぴたりと寄り添っていた。


「……ふふ」


 小さく笑う声が、耳元に響く。


「どうした?」


「いえ。ただ、こうしてエドワード様と踊る日が来るなんて、昔の私なら想像もできなかったと思いまして」


 アリシアは少し目を伏せ、静かに言葉を続けた。


「私はずっと、エドワード様の婚約者としての役割を演じることしか考えていませんでした。でも今は……こうして過ごす時間が楽しいと、心から思えます」


 俺は思わず、彼女の瞳を覗き込む。

 もともと美人だった。けれど、どこか冷たく、近寄りがたい印象があった。

 でも今のアリシアは穏やかで、自然体で、その笑顔が俺の心に刺さる。


「もう演じる必要はない。そのままでいいんだ」


 俺がそう言うと、アリシアの頬がわずかに染まる。

 その反応に、不意に胸が熱くなるのを感じた。


 舞曲が終わる。でも俺はアリシアの手を握ったまま、そっと囁いた。

 

「……俺は、今のアリシアが気に入っている」


 彼女の瞳が揺れる、唇が微かに震え、言葉を探しているのが分かった。

 

「アリシアが変わったように、俺も変わったんだ。俺は今の幸せを失いたくないと思っている」


 彼女の瞳が、大きく揺れる。


「エドワード様……」


 俺はそっと彼女の手を引き寄せ、腕の中へと包みこんだ。

 アリシアの細い肩が、かすかに震えている。

 それでも、彼女は俺を拒まなかった。

 

「お前が望む未来を、俺と共に掴もう」


 その言葉に、アリシアは静かに頷き、そっと俺の背に手を回した。


 俺は、彼女を決して離さないと、強く心に誓った。


 夜の静寂が、オレたちを包む。

 遠くで響く楽団の演奏が、やけに心地良い。

 

 どれほどそうしていただろうか。

 やがて、アリシアがゆっくりと顔を上げた。

 その頬には涙の跡が残っていたが、瞳には確かな光が宿っていた。


「……エドワード様、本当に、私と共に未来を歩んでくださるのですか?」


 その問いに、俺は迷いなく頷く。


「当然だろ。アリシアは俺の婚約者だぞ?」


「……でも、それは、もともと私が策略で手に入れた立場で……」


「それがどうした?」


 俺は彼女の手を取り、優しく指を絡めた。


「お前がどんな方法で俺の婚約者になったかなんて、もう関係ない。俺は今のアリシアを見ている。だから、過去のことは気にしなくて良い。これからは、前だけ見ていこう」


 アリシアは目を見開き、少し戸惑ったように視線をさまよわせた。

 そして、やがて小さく微笑む。


「……ありがとうございます」


 その笑顔は、今まで見たどの笑みよりも儚く、美しかった。

 

 俺はふと視線を上げる。

 夜空には三日月が輝き、星星が散りばめられていた。

 まるで、2人の新しい未来を祝福しているかのように。


「アリシア、今度の日曜、一緒に城下へ行かないか?」


「城下、ですか?」


「ああ、お前と二人でゆっくり過ごしたいと思ったんだ」


 彼女は驚いたように瞬きをして、やがてゆっくりと笑みを浮かべた。


「……はい。喜んで」


 俺はアリシアの手をそっと握る。


 もう彼女は悪役令嬢じゃない。

 破滅の未来が訪れることもない。


 俺達の未来は、これから始まっていくんだ。

お読み頂きありがとうございます。

楽しんで頂けたでしょうか?

もし、すこしでも「楽しめたよ」と感じたら評価して頂けると最高です。

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