第一部
さあ、僕らの街と塔を作ろう。塔の先が神に届くほどの。
あらゆる地に散って、消えることのないよう、僕らの為に名をあげよう。 「創世記」11章1-9節
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二十七回目の年が来て、僕は混み合う塔の目前に坐っていた。正面には、あの巨大な「バベル」が広がっている。神の門とも称されるそれは、てっぺんの方はまだ骨組みしか完成してないようで、建設途中であることが伺える。しかしながらその高さは雲を優に超え、全体像を見るためにはかなり離れたところから出ないと厳しいだろう。この神への反逆の記号となるであろう塔が海岸線に作られているのは、海運による建築の材料や人材などの運搬を効率化するためだろう。あるいは、海へ戦争を布告したカリグラの真似事であろうか。
壁面に触れてみると、白化合成プラスチック独特の滑らかさと冷たさを感じた。絵画を飾るのには不適切に感じるその建材は、室内のあらゆる照明の光を強く反射しているせいで、まるで壁自体が光っているかのよう。LEDから発せられる、電気消費効率の良い祝福の光は油絵具で彩られた絵画の明暗を下品に塗り替えることに必死になっている。
バベルの塔は、未完成のまま捨てられた。神に壊されたという話が広く広がっているが、それは誤りだ。
人々は、同じ言語、価値観、そして宗教のもとに高い集団凝集性を生み出し、それを燃料としてバベルの塔を建設していた。しかし、神は言語に多様性をもたらしたことでこれを諫めた。同一言語を失った人々は混乱し、バベルと名付けられた街から自ら散らばっていった。
しばらく備え付けのソファに座って巨大な塔を眺めていると、背広に身を包んだ男女がこちらに歩いてきた。どちらもアジア系のように見える。僕は立って軽く会釈をすると、男性の方が話しかけてきた。
「ナガタニ。ナガタニケイタです。会えて光栄です。ミスター・エイブラハム。」
彼の首に、縦3cm、横1.5cmほどの白い機械が取り付けられている。機械の中央部には青色のLEDが取り付けられていて、しっかりと起動していることを証明し続けている。そして、この装置から内頚動脈へ生体電気駆動のナノマシンが投入され、脳へと血流に乗って移動していく。
ナノマシンには「ROPE」と呼ばれる翻訳ソフトウェアがインストールされている。
ブローカ野といった言語中枢の活性化を感知すると言語野および一次聴覚野を部分的に『弄る』ことで翻訳を行うのだとか。
「ありがとう、ナガタニ。エイブラハム・ウォルターだ。」
18を過ぎた頃に「ROPE」を初めて付けた時に行ったL F A Tでは口の動きとは異なる発音に戸惑うこともあったものの何年と経過するとやはり慣れてしまった。
ナガタニ。僕に一通の手紙を寄越し、トーキョーの美術館に呼び出した張本人。
ROPEがもたらした革新的な『言語技術』は文字を翻訳することはまだ出来ていない。
開発元であるS& E社は、『オールドメディアをニューメディアへ』というキャッチコピーの元、視覚による文字情報の翻訳を日々目指しているのだとか。
手紙の内容は簡単にまとめるとこうだった。
『貴方の父親について興味がある』
手紙の半分ほどは堅苦しいお世辞や建前だらけだったため省略。
とはいえ僕が日本語を読めないことを考慮してか、英語で書かれていたのは幸運だった。
文字の翻訳に関してはまだ、ROPEほど正確に、滑らかに出来ていない。
「バベルの塔、ですね。」
ナガタニの隣にいた女性が無機質に、しかし僕を敬うように口を開いた。
「私はあまりこういった芸術鑑賞をすることはありませんが、この絵画は知っています。」
「貴方もこの絵画に興味があるようですね。」
「申し遅れました。私はミヤネキリコと申します。」
深く一礼をする姿をみて、僕はSF作品に出るような、男の欲望を満たすために作られたアンドロイドを連想する。動きそれ自体は機械的だというのに、最大限の魅力を見せつけるような。
「さて、先日送った手紙でお知らせしていたように、今回エイブラハム・ウォルター様に来ていただいたのは、貴方の父親についてです。」
正直なところ、父に会いたいがために僕へコンタクトを取る語学者や出版社、S&E社の社員の数は呆れるほど多く、苛立ちさえ覚えていた。僕の......正確に言えば父と僕の理論がROPEの根幹を担っていた、らしい。
ただ、今回この場に来たのは日本観光も兼ねている。街にあふれる漢字は一種のサイケデリック的な酩酊感で僕を満たす。
「申し訳ないが、僕の父親は何年も前から行方を晦ましている。今頃は悩むティーンエイジャーにカウンセリングをしているかバーで安酒を浴びてるかだろう。」
「私達に協力すれば、父親の居場所を見つけ出せるかもしれません。」
しばらくの沈黙が続いた。なんらかの取引のブラフだろうか。それとも、ただ僕の神経を逆撫でしたいだけなのだろうか。
そもそも、父を探そうとしたことは一度もなかった。僕との共著論文を書き上げ、そのまま僕を置いて得られるはずだった富を独占した父。
「悪いが、僕には父親を探す理由も必要もない。金なら間に合っているし、過去に固執することもやめた。」
ナガタニ。そしてミヤネ。二度と顔を見ることはないだろう。僕は荷物を持って立ち上がる。
電子絵画の投影は、バベルの塔から洞窟壁画にスライドした。
アルゼンチン、クエバ・デ・ラス・マノス洞窟の深層。年代測定によると14万6700年前。人類史のシンギュラー・ポイント。
「これはお願いではなく、命令です。貴方にUSACAPOCと日本国防衛省の共同作戦への協力を求められています。ミスター。」
USACAPOC。アメリカ陸軍民事活動及び心理作戦コマンド。僕の所属している組織。
「PMC、教育機関。そして現在はUSACAPOC所属のカウンセラー、エイブラハム・ウォルター。貴方には祖国のため我々に協力する義務があります。」
そうして僕は日本の防衛省に招集された。
先の美術館とは違って、ひどく前時代的な内装だ。建物の材質も現代ではあまり見ない鉄筋コンクリートだろうか。
入り口では綿密なボディチェックを受け、待機室で幾つかの質問を受けた。身分、経歴、特に政治的思想。僕が生まれた時にはすでにレッドスケア的な風潮は過去のものだったが、どうにもそれを感じざるを得ない。
「貴方は過去、共産主義国に渡航したことがあるか。」
「貴方は人を殺したことがあるか。」
貴方は現在父親を死ぬほど憎んでいるか。
質問攻めが終わると、今度はおかしなことにROPEの電源を落とすように言われた。日本語話者ではない僕にはあまりにも酷い仕打ちだった。でも、逆らえばどうなるか、実際の兵士ではない僕からすればわかったもんじゃない。大人しくROPEの電源スイッチを長押しして電源をオフにする。それを確認した職員に案内されると、「特派室」にたどり着いた。職員は英語でこの部屋に入るように伝え、どこかへ行ってしまった。
意を決して中に入ると、パイプ椅子に腰かけた10人ちょっとのアメリカ人と日本人がこちらを見る。
ナガタニとミヤネの姿もあった。
「こちらにどうぞ。ミスター・エイブラハム。」
言われるがままナガタニの隣に座る。
周りをよく見ると、僕とナガタニ、キリコ以外の人間の「ROPE」に付いたLEDは緑色に光っていた。
グリーンカラー、つまり職業軍人。ここにいるアメリカ人は特に筋肉質な人間が多い。一方で日本人のほぼ全員は、あまり体力に自信があるようには見えない。
「全員揃いましたね。私はシムラカツジ。特殊作戦群第5小隊所属です。主にシステム通信分野での作戦立案を担当しています。」
よかった。どうやらこの空間だけ、公用語は英語のようだ。
何人かが拍手した。コンクリートでできたこの空間は、おそらく外に音が漏れないように吸音処理されているのだろう。拍手の反響音は聞こえてこなかった。
「今回の日米合同作戦のコードネームはポスターアイズ。以後はこのように呼称します。」
「ビッグ・ブラザー探しか?」
誰かがそう言うとアメリカ人で笑いが走った。
「ビッグ・ブラザーではありません。今回の目的はどちらかというと、ニュースピークにあります。」
「Horses for courses.」
また笑いが起きた。それはそうだ。言語学の問題なら、グリーンカラーではなく言語学者に頼んだ方が早い。僕だって学者だが言語は専門分野ではない。心理学者だからと言って、誰もがティーンエイジャーの悩みを解決できるわけじゃないのだ。「ことば」についても、ROPEに頼りっぱなしで、世界中の論文を読み込むときも英語か自動翻訳を使う。外国語などもってのほかだ。
「こちらの資料をご覧ください。」
プロジェクターが画面を移す。
日本を中心としたメルカトル図法の世界地図。その地図の中に、5つの赤い印がつけられている。
「今回の作戦目標は「聖人」と呼ばれている存在です。測定の結果、約14万6700年前のものだと思われる人間のミイラから作成されたクローンである可能性があります。」
部屋に沈黙が訪れる。オカルトか、何かの情報隠蔽なのだろうか?そういえば、アルゼンチンの壁画と同じ年代だったろうか。
「2017年現在において、クローン製造は条約あるいは法律でほとんどが禁止されているはずですが。」
「はい。中国もロスリン条約に批准しています。我々が手に入れた情報によると「聖人」は中国で建前上「蘇生」され、その後行方不明になりました。」
「秘密裏とはいえ、建前を用意しておくとはな。んで、その赤い印はなんだ?」
「この赤い印は「聖人」のミイラが発掘された国家だと考えられる候補です。興味深いことに、これらすべては共産勢力が実権を握っている国々であり、また発掘されたミイラは複数あるとのことです。つまり、ミイラは最大でも8000マイル別の場所で見つかった可能性がある、ということになります。」
「おい、これは何かの映画撮影か?」
素っ頓狂なこの話に難色を示す人間は半分以上だろう。僕だってそうだ。
「冗談もいい加減にしろ。私たちは宗教裁判をしにきたわけでもアニメの制作をしにきたわけでもないんだぞ。」
机を叩き、椅子から立ち上がった男「少佐」。
何度か僕がカウンセリングを担当した特殊作戦コマンドの人間だった。
彼の任務は毎度のように少年兵遭遇率の高い地域で行われるため、カウンセリングの頻度はかなり高い。どれだけ武勲を上げても、まだ声変わりもしていないのに銃を持たされている子供たちを目の前にすることはいつだって精神に負荷がかかる。
「はじめはあなた方の国からです。少佐。CIAによるOSINTからの情報です。5年前、中国の甘粛省に脳科学センターが設立されました。最初こそ至って普通の施設だと思われていましたが、資料をご覧ください。ここ1、2年ほどでトラフィック量が急激に増加。CIAが傍受した通信内容でさえ、妙に手の込んだ暗号化が施されています。他にも軍事施設であったり人民大会堂にも。私達日本側も解析を続けていますが、私たちとCIAはS&E社による暗号通信技術であると考えております。」
先ほどの空気が一変した。よりによってアメリカ企業のS&E社が、世界有数のデータセンターと暗号通信技術サービス、そして何より「ROPE」の開発元が、中国と秘密のやり取りをしているというのは大問題だ。
「S&E社が?国際問題どころの話じゃなくなるぞ、戦争でも始める気か。」
「アメリカ含め先進国達はS&E社の暗号化技術を戦場でも使っている。「ROPE」もそうだ。」
この場にいる一同が、互いに首筋へ取り付けられた「ROPE」を見る。
そのほとんどが、妖しく緑色に光っていた。
この緑の数が、最先端の技術を詰め込まれた兵士たちの数であり、S&E社の戦略的情報源の数になっているかもしれない。
「戦争において情報というのは絶対値的なものだ。敵国より多くの情報があれば、インテリジェンスを元に常に有利な戦争を仕掛けられる。なぜドイツはエニグマを発明し、アウシュビッツにIBMを用いたか....?」
「いや待て、それがさっきの聖人とやらにどう繋がる?」
「中国での件を受けて、S&E社の暗号通信を片っ端から精査しました。本当に辛い作業でしたよ。」
シムラがため息をつく。そういえば、部屋に入った時は気づかなかったが目の下には酷い隈が残っていて、どれほどの作業だったかをその黒さが示している。
「その結果、先ほどのミイラが発掘された国同士、特に中国との通信経由が確認されています。クローンが中国で完成したことを考えると、脳科学センターにS&E社が関与しているのは.....」
「そのクローンは文字通り脳なし野郎ってことか?」
大柄な兵士が軽口を叩くと、隣にいた大人しそうな兵士に肩を小突かれた。
服装こそ観光客のような軽装でこの場にふさわしくないようにも見えるが、おそらく彼らも立派な特殊部隊の出だろう。特に鍛えられた兵士たちは、立ち振る舞いや息遣いの細かいディティールが極めて”兵士的”に統一されている。性格も似通ってはいないであろう二人も、その例に漏れない存在だ。彼らも、貴重な消耗品としてカウンセリングを毎度受けているのだろうか。
「......はい、何の目的があって古代人のクローンなど作ろうとしているのかは分かりませんが、ミイラだけではただの肉体でしょう。通常のミイラのように、内臓が摘出され保管されていたのであれば、それを復元しようとするはずです。特に、脳は。」
死者の蘇生。しかも、人類がまだ存在していない14万年前の死者だ。ミイラが残っていると言うだけで奇跡なのに、内臓が現代まで耐えうるほどの防腐処理を施され保管されているとはちょっと考えずらいものがある。まだ、僕らには知らされていない情報があるのだろうか?
「今回の目標は世界中にまだ残存している、共産主義国への最新のです。一時間後にそれぞれブリーフィング予定を連絡します。また、この集会以降ROPEを使用した戦術暗号によるやり取り、またこの件に関する会話でのROPE使用は制限されます。この作戦を共産国およびそれに提携している可能性のあるS&E社に悟られる危険性があるため、現状ではこうするしか対策がありません。これで会議は終了します。」
時計に目をやると、ちょうど19時ぴったりに終わったようだ。
会議終了後、僕とナガタニとミヤネは円筒状の注入器を渡された。どうやら、臨時的に用意された兵士用のROPEソフトウェアのインストーラのようだ。
渡してきた職員は僕のROPEの電源を知ってか知らずか、日本語で話し始めた。それに気づいたミヤネが翻訳してくれる。
「このインストーラはいわゆるお試し版で、一カ月が経過すると自動で以前の民間ソフトウェアにダウングレードされます。」
ナガタニに目線をやると、お先にどうぞ、と言わんばかりに微笑んで注入器を手渡してきた。
仕方がないから、ROPEのポートを開いて、注入器を差し込む。
ポートは注入器の接続を確認すると、違和感を軽減するために頸動脈付近の神経に麻酔をかける。これがないと、システムアップデートの処理に手間取ったナノマシンが神経に引っかかり激痛に襲われることがある。
僕がROPEをアプデすると、ROPEの色が青から緑色へ変色する。僕がグリーンカラーになった一時的な証拠だ。
それを確認して、ナガタニとミヤネも注入器を挿してROPEを塗り替える。経済行動全てに生体認証を用いるような、いわゆる”認証社会”には程遠いが、これだけで軍関係者であることを身の回り全ての人間に軍事関係者であることをひけらかすことになる。街中を歩くだけで、人目を引いてしまうのはあまり好ましくない作戦も当然あるのだろう。それを問題視したS&E社軍事部門によって、一部の軍事関係者は状況によってROPEの色を偽装できるよう改良されているらしい。どうやら僕らのお試し版もそれができるみたいだ。動作をチェックすると、ナガタニがブリーフィングまでの時間、簡単な個室を用意してくれた。まだ具体的な作戦内容は聞いていないが、中国へ直接赴くかもしれないみたいだ。
人通りの少ない廊下に面した個室は、簡単な机とパイプ椅子、そして簡素なベッドが備え付けているだけだった。
お洒落とは程遠い部屋は、なかなかどうして綺麗に整っている。整頓されたベッドの上に横たわり、今日のことを振り返る。なぜ、僕が呼ばれたのか?僕は007でもCIAの極秘部隊でもない。ただの軍事カウンセラーなのにどうしてこんな作戦に徴集されたのだろうか。
もう、カウンセリングの終了時刻に差し掛かっていた。カウンセリングを受ける人間はもちろん兵士だが、基本的に私服で受けることが義務付けられている。少しでも、戦場から離しておくこと。これが結局のところ一番ストレスを軽減させる対策だ。
「最後に、何か言いたいことや知ってほしいことなどはありますか?もちろん、個人的な相談でも構いませんよ。あなたが望むならばここからの会話はカウンセリング記録には記録されません。」
他のカウンセラーがこのようなことをしているかは知らない。いつの時代でも兵士は貴重な消耗品であり、どのような部隊であろうと精神を病む人間は消えない悩みの種だ。マッチョだからと言って、メンタルまで強固な筋肉で保護することはできない。だからこそ我々のようなカウンセラーが必要になる。精神をメンテし、どのような戦場でも最大最上のコンディションを保てるように心に優しく工作を行う。意外なことにあの第一世界大戦以前から行われていることだ。戦士がベニテングダケを食べてトランス状態になった、という逸話がそれの先駆けかもしれない。
とはいうものの、結局のところ戦争というのは儲けた方が勝ちだ。多く殺した方でも、主張の正しい方でもない。
だから以前まで、国家は戦争にかかるコストは「金銭と生産と死傷者」のみ見積もられていた。しかし日本に二つの爆弾が落とされたこと、二つのビルに飛行機が突っ込んだことを皮切りに、人々は戦争それ自体を拒絶し始めた。国際連合の設立に始まり、戦争にもより厳格なルールが定められるようになった。残念ながらまたイラクで発生した戦争を経て、米軍でも「兵士」から「個人」として扱うように反発が起きた。意外にもこれはすぐ受け入れられ、兵士一人一人に専任カウンセラーがつくようになった。
僕たちのカウンセリング記録は的確に、よりリアルに残される必要がある。ここ最近だと、カウンセリングの会話をマイクで拾い、記録AIに取らせる人も増えている。ただ、一部の兵士たちからは不評なようで「心無いカウンセラー」なんて言われる始末だ。だから僕はAIをいまだに導入せず、こうして時代遅れな手書きのSOAP形式で報告書を作成している。だから僕はあえて記録しないこともできるし、記録を改竄してもばれることはない。無論後者はしていないが。ただし、徹底的に兵士の管理を行いたい老人達、あるいは国からしてみれば好ましくないだろう。自由の国は、自由を掲げるのと同時に何かを管理したがるようになってしまった。あるいはアウシュビッツの囚人を管理するコンピュータの方が早かったかもしれない。
「いつも助かるよ、ドクター・エイブラハム。今からする話は記録しないでほしい。」
正直なところ、その時驚きの感情を隠せていたか確信がない。「少佐」とのカウンセリングでは内緒話をすることがそれまでなかったからだ。
「ええ、もちろんです。」
僕は手に持っていたペンを置き、手書きのカルテをかばんのファイルの中に突っ込んだ。
今や僕は丸裸だ。その方が安心する人間も多い。兵士だからといって、装備を外せば同じ人間だ。
「私は、今までに27名を殺害してきた。一つを除いて承認された殺害だった。」
「承認された殺害、ですか?」
「ああ。テロ対応、イラク某グループへの攻撃、それに暗殺。暗殺と言っても、世間で言われているような都市伝説のように、完全な秘密裏の作戦とまではいかないがね。そのどれもが、アメリカから支給された制式採用された銃で、アメリカが承認した任務で遂行したことだ。当然、今話しているものはUSDDOからのものだけだがね。」
承認された殺害。兵士じゃない僕には、どうにも嫌悪感を感じざるを得ない。
神様を信じているわけじゃないが、承認されたとしてそれが免罪符になるのだろうか。
ブリーフィング、作戦資料および銃火器。カウンセリング。
そのどれもが、免罪符として罪を消し去ることなどできないはずだ。
どこかで聞いたことがある。
銃は、それ自体が罪悪感を減らすのではない。適切な環境と適切な条件が合わさるから、罪悪感を肩代わりしてくれる。
そう言ったのは、僕の友人が行ったカウンセリングを受けた数日後に、自ら頭を吹っ飛ばした兵士だったっけ。
僕はその場面を見たわけじゃないけども、ここに地獄があると言わんばかりに銃による自殺は頭を撃ち抜くことが多い。その方が確実なんだろう。実際に、銃による自殺の成功率は高いようだ。時代が時代なら、四辻は今頃死体の山で渋滞を起こしているかもしれない。
もちろん、それらを完全に撲滅することも僕らの仕事であり、同時に河清の夢でもある。
死というものが誰もが通る最短の逃げ道だと考えている人間は決して少なくないから。
「それで、その一つというのは?」
「あの子は少年兵だった。私の部隊のモットーは、被害の最小化だ。とある地域に潜伏している少年テログループ首謀者の逮捕が目的だった。毎度恒例になってしまった、少年兵遭遇率の極めて高い戦場でね。」
「少年テログループ....となると、中南米あたりでしょうか。」
「あまり詮索するものじゃない。とはいえ、当たりだ。9.11の後に採択された、武力紛争における児童の関与に関する...なんとか議定書。アレは確かに機能した。少なくとも一部の後進国を除いてだったが。残念なことに世界には、やはり少年兵は存在している。一刻も早く全員を救いたいものだが。」
「確かに、ここ最近はカウンセリング対象者から少年兵の話をよく聞きますね。カウンセラーである僕に作戦内容を回されることはほぼないので、実情までは分かりませんが。」
ううむ、と低い声で唸って彼は続けた。
「テログループを匿っている集落への潜入をしている時だった。北から横流しされた違法ROPEが出回っている地域だったから、指揮官はもちろん、それに従う少年兵にさえROPEがつけられていた。恐ろしいものだ。」
「少年兵にも、ROPEがついていたんですか?」
通常ROPEをつけられるのは18歳以上だ。頸動脈に装着するデバイスであるために、子供に装着してしまうと、体の成長はもちろん「こころ」の成長にも悪影響を及ぼす場合がある。何故か、言語野にのみ作用するはずのナノマシンと成長段階の子供の脳との相性は最悪だ。
「ああ。正規品だとしても、子供が長期間付けてしまうと疲労症状、錯乱状態に転換ヒステリーや不安状態などを誘発することがあるのは知っているだろう。」
まるで戦場でのストレスに晒された兵士たちだ、と僕は思った。ソフトウェアの指示で脳を闊歩するナノマシンと、成長のために不純物を取り除かんと強い免疫反応や一部の脳の萎縮を起こしてしまう。そうして、ただ荒れ残った戦場だけが残って終わる。
「もちろんです。それ専用の治療センターも最近では見なくなってしまいましたが。」
「ああ。でも、紛争地域ではそうはいかない。NGO団体や国連から派遣された医師たちの元にはそういった違法ROPEの後遺症を持った元少年兵たちで溢れているよ。戦場でのストレスだけじゃない。無理矢理脳と脳を繋げられているようなものだからな。大人でさえ、これがかなり辛い。......おっと、失礼。話を逸らしてしまった。」
「いえ、少佐のペースで構いませんよ。」
「......厄介なことに、違法ROPEは一種の”葉っぱ”のような効能をもたらすものがある。酩酊、高揚、死への恐れの消去......今となっては、コカの葉を嚙み嚙みする時間さえ勿体無いと言わんばかりに、ROPEから少量を持続的に注入される。」
まるでフォアグラのために餌を詰め込まれるムラードのように、と付け加え少佐は僕が入れたカモミールティーに口をつけた。
「薬物を摂取した少年兵はまるで獣だ。銃をなんとか取り上げても、噛みついてきたり殴りかかってこようとする。薬を通じて戦争に依存している。銃を失っても、手足の一、二本を失っても、敵を殺して、今を生き残るために動く。あの日私が撃った少年兵も、獣にしか見えなかった。」
「続けて。」
「私たちが偶然、情報から漏れていた敵キャンプに近付いてしまった時、その少年兵は虚ろな目で空を眺めていた。見つからないように、木々に紛れ最大限偽装をチェックしながら迂回路を探していた。チームの偽装を確認し、迂回路を決め、少年がこちらを向いていないタイミングを狙い、移動しようとした時、空を見ていた男の子は突然私の方を見て叫んだ。何故見つかったのかは、今でもわからない。偽装は言うまでもなく完璧だったし、その男の子は私たちがいる反対方向を向いていたのにだ。AKを乱射していたから、始末するしかなかった。」
気がつけば、彼は僕を見ていなかった。過去の、その薬漬けにされた少年兵の目を見ていたのだろう。
他の少年兵たちのように好きだった子を凌辱され生まれた村を焼かれ、戦争を構成する記号の一つにならざるをえなかったであろう少年の目だ。
死者の目から何かを感じることはできない。親しかったもの、あるいは殺した張本人を除いては。
「わ、私は発展途上国に学校を建設するNGOに寄付をしていたんだ。実際に行ったこともある。彼と同じぐらいの子供に囲まれた。でも、私は彼を殺してしまった。殺した時、私は何も感じなかったんだ。ただ、公共事業でダムを作る建設員のように、ただ国から言われたから仕事をしたとしか考えられなかったんだ。業務、命令、責務が、私の逃げ道だったんだ。そうだったのか?ただ、国からの許可と銃とカウンセリングが私の罪を減らしていると思い込んでただけか?お、教えてくれ!」
僕は、思わず机の下の非常呼び出しボタンに手を伸ばしていた。カウンセリング中、錯乱してしまう兵士は少なくない。
「教えろ!私の罪は、どこにあるんだ!?」
正直に言えば、僕は酷く惑わされてしまった。罪の場所。罪とは、どこに宿るものなんだろう。人々はあらゆる事象に罪悪感を抱く。虫を潰してしまったとき、お年寄りに席を譲れなかったとき。そんな小さな出来事でも、少なからず罪を意識してしまうけれども、すぐ忘れてしまう程度のものだ。でも、少年を自ら殺したという大きすぎる罪は、一体どこから来る物なんだろう。結局は脳の働きに過ぎないのか、いわゆる魂の分野なのだろうか。宗教はみんな、罪について説いていたけど、罪とは一体どこにある物なのかは教えてくれなかった。僕が父の殺人を手伝った時も、それはわからなかった。
カウンセリングルームの備え付け電話が激しく震えている。それを手に取ると、機械音声がブリーフィング開始前10分前を知らせてくれる。僕は急いでベッドから起き上がって、身支度を済ます。涙を流していることに気づいたのは、顔を洗おうとした時だった。