私は魔王に嫁ぎたかったのです
このところ毎日のように、夜の虹を見かけます。
私が今おりますところの、魔法研究のための塔は、積み重ねられた書物と、所狭しと並ぶ鉱物類にふさがれ、窓も窓の用をなしておらぬくらいですが、その隙間からさえ、白い輝きが差し込んでまいります。
銀粉のような星々を背景にちりばめて、夜空に大きく描かれた純白の弧は、魔法を忌み嫌う人が見上げたとしても、こころ洗われることでしょう。
まだまだ勉強不足、力不足で、このような高度な魔法は扱えぬ私にも、これがアヴィリオンを起点とした術であることは察せられます。
魔王アルトゥールさま。
これは、あなたさまのお手によるものでございましょうか?
その昔、タイザーマーリア姫を建国王レオンハルトの妃としてお迎えしたのを最後に、アヴィリオンは、ヴァラスとも他の国々とも一切の交渉を絶っておられますが、もしや六日前の事件は、あなたさまの関心をも引いたのでしょうか?
と申しますのは、夜の虹は、陛下があのようなことになった翌日より、頻繁に現れ始めたように思うからなのですが。
夜の虹は、幾多もの霧のようなつぶやきを拾い集める、水の魔法。
孤独な人が使う魔法とも申します。
あなたさまが魔王となられて、はや十三年を経ました。月の満ち欠けに合わせてアヴィリオン上空を移動する浮遊城――ファルケンシュタイン城の主として、未だ王妃をお持ちにならず、女人も侍らせず、召使いも置かず、おそばにいるのは、あなたさまの魔法でおつくりになった、小さな水龍のみ。
そんなお暮らしは、人々から見れば、孤独極まりないものに思えるのでございましょう。人々は言います。寂しい者ほど、強い魔法が使えるのだと。
そういたしますと魔王とは、この世で一番寂しい人間ということなのでしょうか。
銀色のにわか雨の後で、夜空に輝く白い虹を指して、こう言う人もおります。
孤独を知り、孤独を楽しむ魔王であるからこそ。
孤独に憧れても孤独になれず、もしくは必要以上に孤独だと思いこんで苦しむ、卑小な我々のつぶやきに、戯れに耳を傾けたいときもあるのだろう。
ゆえに、夜の虹とは、魔王の苦笑である、と。
〈魔王〉の呼称がお気に障りましたら、お許し下さい。
かつて建国王レオンハルトが、妖剣〈誰彼〉に封じた妖魔ミレーヌケティの力をもって、アヴィリオンを攻め落とし……あら、逆でしたかしら、攻め落として当時のアヴィリオンの魔王を殺害してから、妖魔を封じたんでしたかしら。
口伝を書き留めた書物は、それぞれ微妙に記述が異なりますが、伝説になってしまった歴史とは、そうしたものなのでしょう。歴史は勝者の記録であるがゆえ、どうしても建国王の栄光と業績をたたえる書き方に傾きがちです。
こころある学者によれば、アヴィリオンは昔も今も、平和を貫いた国であるとのこと。建国王レオンハルトによるアヴィリオン征服は、タイザーマーリア姫を手に入れたいがための、一方的で残虐な侵略戦争であると、一刀両断です。
ただ、私たちがアヴィリオンを一種異様で奇異な国に感じ、相容れないように思うのは、ひとえにその、即位式の壮絶さによるのではないでしょうか。
そして即位式こそが、アヴィリオンの王は魔王以外の何者でもないと、ヴァラスを含めた他の国々が、恐れたり敬遠したりする理由でもございます。
前王を斬り殺し、その断末魔の絶叫を耳にし、その血を浴びたものが次代の王として、王の象徴、鷹城を手に入れる。
あなたさまもその儀式を経て、王となられました。
ですがあなたさまにとっては、不本意な即位であったと聞き及びます。
年老いた先代の魔王は、しかし息子の誰かに殺される屈辱に耐えられず、五人の王子たちが王位を請求する前に、次々に暗殺するという愚挙に出ました。
末子のあなたさまは、父上を殺すことによって王座につくつもりはなく、人知れずアヴィリオンを出奔なさるご予定のはずでした。なのに出奔前夜、他ならぬ父上ご自身が刺客としてあなたさまの前に現れ、あなたさまは父上を返り討ちにしてしまった。
けれど、それから十三年間、あなたさまはご立派にアヴィリオンを治めておられます。
国内の平和を保つということは、治世者の犠牲を伴うものです。それはかつてタイザーマーリア姫がアヴィリオンの存続と引き替えに、祖国を攻め父を殺した敵国の王妃となることを承諾した故事からも見受けられます。
アヴィリオンは月の女神に祝福された土地柄でもあり、民たちはみな魔法に長けてらっしゃるとか。特に鷹城の主となった魔王は、魔法の才も拾得技術も魔力そのものも、著しく向上するそうでございますね。
私の父、フラウエンロープ伯爵は、アヴィリオンをそれは毛嫌いし、私が魔法の勉強をしたいと言うのを嫌がりました。
魔法は、もともとは古代獣特有の力だったそうです。妖魔ミレーヌケティがル・ガルダを支配していた時代、人々は恐れながら利用するといった逃げ腰の対応でした。
とはいえ当時でさえも、他の古代獣から魔法の体系や呪文の引き継ぎを試みた人間が何人かいました。中にはかなり強引に、古代獣を捕らえて飼い慣らすなど、無茶な例もあったとか。
彼らは魔法使いと呼ばれました。
最後の古代獣ミレーヌケティが妖剣に封印されてからも、独自に活動を続け、書物を著し、巷間に広めておりました――ああでも、そのようなこと、あなたさまはとうにご存じですから、これは「釈迦に説法」でございますね。
表現が多少、異界風で不適切なのはお許し下さいませ。この塔には、今では禁断の魔法とされている〈奇跡の扉〉を使い、異界の住人と交流を持った魔法使いの著書もあるのでございます。
けれども時代が進み、日々の生活で魔法に頼ることも少なくなったため、今では魔法を学びたがる人もめっきり減りました。
ヴァラスで魔法を学ぼうとする場合、昔の魔法使いたちが著した書物を、こつこつと読み込んで自分で修練するしかありません。
父は、そのような忌まわしい術は学ばなくて良い、古代獣ならいざしらず、そんな力は人間ごときが手にしてはならぬ、と頑固に申すのです。
魔法を愛好する人もいれば、魔法に近づきたくない人もいる。これはいつの時代にもあったことで、目新しい反目ではないのでしょうけど。
ですが私は、幼い頃より魔法使いに憧れておりました。
火の魔法。水の魔法。風の魔法。地の魔法。
火の魔法だけは、人間が使うには危険すぎると言われておりますが、それでも呪文を覚えることくらいは可能でございましょう。四種の元素霊たちを巧みに操って、さまざまなことができるとは、なんて素敵なのだろうと思ったのです。
そんな単純なものではないことは、今でしたらわかるのですが、なにぶんにも温室育ちの子供のことで、ただひたすらに、自分の指から奇跡が生まれる瞬間を夢想しておりました。
父に隠れて、魔法技術の書物などを多数取り寄せ、時間を忘れて読みふけってもいました。魔王の城として有名なアヴィリオンのファルケンシュタイン城のことも、いずれかの書物に記載されていたかと存じます。
どうぞ、お笑い下さいませ。
私は痛切に、ファルケンシュタイン城に住んでみたいと思いました。
魔王とは、私にとって、夢のような殿方でございました。
それゆえ。
あれは、あなたさまが十五で魔王となられた初春のこと。同じく十五になっておりました私に、エドムント陛下との縁談が持ち上がりました際、思いあまって父に申したのでございます。
――お父さま。わがままをお聞き届け下さい。私はヴァラスの王ではなく、アヴィリオンの王に嫁ぎたいのです。
私の希望はあっさり叱りとばされて、三日間、糸繰り部屋に閉じこめられる羽目になりましたけれども。
アヴィリオンに住む民は、他国人との通婚を好まず、ゆえに人々の容貌はみな似通っていると。しかし人々は誰もが、美しい黒髪と月光を閉じこめたような白い肌と、濃紺の闇のような神秘的な瞳を持っていると、言われております。
おそらくはあなたさまも、そのようなお方であろうかとは思います。
ですけれども、お目に掛かったことがないばかりか、あなたさまは肖像画さえ出回っておらぬ方ですので、実際のお姿は、想像することしかできません。
それなのにそのように思い入れるとは軽率もはなはだしいと、思われることでしょう。
そなたは、ファルケンシュタイン城に住んで、思う存分魔法を使いたかっただけではあるまいか。
私がどのような男でも、構わないのではないか。
そんなお言葉が聞こえてくるようです。
はい。
それは、その通りなのです。
あなたさまのお姿がどうあれ、たとえば、火蜥蜴の姿になった妖魔ミレーヌケティは、岩山もかくやとばかりの巨大さで、民は恐怖におののいて悲鳴も出ぬほどであったと言い伝えられておりますが、あなたさまがそのような、古代獣のようなお方であったとしても、私は気にしなかったことでしょう。
正直に申し上げます。
私は、魔法使いになりたかったのです。どんな手段を使っても、自分の魔法の才を向上させたかったのです。
そして今でも、あきらめてはいないのです。
私は結局、ヴァラスの王、エドムント陛下の正妃となりました。
他に縁談もございましたが、あなたさまのもとに行けないのなら、どなたに嫁いでも同じこと。陛下は浮気性である分、私への罪滅ぼしのつもりでしょうか、魔法研究のためのこの塔を、私専用に、宮殿に併設して下さいました。
ですから私は、陛下にとても感謝しております。
陛下は快活で武勇に優れ、また政務にも長けた方でした。反面、女癖の悪さはそれは凄まじいものでしたが、結婚前から覚悟していたことではありますし、宮廷で貴婦人たちがくちさがなく仰っているほどには、気に病んではいませんでした。
ただ、陛下は面食いでいらっしゃるとは、常々思ってはおりました。
出身国も身分も関係なく、ひたすら美女がお好きなのです。
陛下が何人寵妃をお持ちで、何人のお子をもうけられたかは――あら、改めて担当官と数えなおしてみませんと、すぐにはわかりかねますわ。ともかく、寵妃の方々は誰もが美しい女人たちです。
そうそう、レオンハルトさまをお産みになったルイーゼさまのことは、よく覚えております。
わけあって一度だけ、ご自宅をお訪ねしたことがございますので。