寂しかったのかも知れないわね
頭はずきずきと痛み続けていた。体全体がだるい。
あれからどういう経路で、レオンハルトの入れられたこの牢獄までたどり着けたのかも、うろ覚えだ。
あの得体の知れない呪文を聞いてから、世界中に靄がかかっているように思える。
気づいたときは、妖剣〈誰彼〉は、小さな短刀に変えられていた。私は魔力を吸い取られ、短刀から押し出されるように分離した――のだと思う。気を失っていたから、よくわからない。
呪文を唱えた主は、短刀を持ち、小さくなった私を抱き上げて、ある場所に連れて行った。
宮殿奥の、第二寝室。
たちこめる、血の匂い。
「あれを見ろ」
焦点の定まらない私の目が、像を結ぶのにだいぶ時間がかかった。
けれど、やっと目に飛び込んできた光景を、私は納得できなかった。
豪華な寝台からずり落ちるように、ヴァラスの王はうつぶせにこと切れている。
その背に、深々と突き刺さっているのは。
――妖剣〈誰彼〉。
不気味な笑い声が響く。
「そんな! こんなこと、ありえない」
だって私はここにいる。妖剣はここにある。レオンハルトは父親を殺したりしない。
これは……。この妖剣は偽物だ。
短刀に変えられた妖剣と同様に、地の魔法の一種、めくらましがかけられている。だけど……。
「どうして……。それは、妖剣には、地の魔法をかけて形を変えることは出来るけど……」
どんなに地の魔法に長けた者であろうと、この世のどんな剣をも、妖剣〈誰彼〉に見せかけることは出来ない。これは今は亡き古代獣、鵺が謎めいた手法で鍛えた剣なのだ。鋭い刀身も細かな細工の柄も、不思議な淡い光を三重に放っている。
遠い昔、私を封印して妖剣と呼ばれる前から、〈誰彼〉は、どんな名工も再現不可能な剣として名高かったし、見せかけだけでも同じものにしてみようとした魔法使いたちの腕試しは、ことごとく失敗したのだ。
だから、偽物なぞ造りようがない。当の鵺以外には。
「誰も偽物だなどと思うまいよ。これは見たとおり、妖剣〈誰彼〉で、レオンハルトが下手人なのだ。簡単なことではないかね」
笑い声が、くぐもった嘲笑に変わる。
すっぽりとフードをかぶったままで、そいつの顔は見えない。
「違うわ! 犯人はあんたじゃないの。あの呑気者の馬鹿は、骨董屋との取引にほいほい応じて、妖剣を貸してしまっただけよ」
そいつは笑い続けながら、寝室の窓から、私と短刀を放り出した。落ちた場所は柔らかい植え込みの上だったから、幸い怪我はなかった。
「これはおまえの咎でもあるんだよ、妖魔ミレーヌケティ。魔力を取り戻したかったら、そうだねぇ、アヴィリオンの魔王アルトゥールに――」
そいつは最後にそう言った。語尾は、よく聞き取れなかった。
その後、そいつは、すぐに寝室から抜け出したんだと思う。
しばらくして響いてきた絶叫は、まだ若い女のものだった。
エドムントの夜伽に呼ばれた、新入りの侍女のようだ。王の惨殺死体の発見者になってしまったのだ。
悲鳴を聞きつけて、近衛隊長が駆けつける気配がする。
小さな火蜥蜴の姿で、私は何とか短刀をくわえたけれども、また気が遠くなり、そのまま何日も、気絶していたらしい。レオンハルトは下手人として、死刑囚の放り込まれる牢獄に入れれられたはず……急がなければ……と思いながら。
やっとレオンハルトの元に辿り着いた。けれど、息を整えながら自分で抱きしめた体は、情けないくらいに小さい。
指先を見つめる。呪文を唱える。ほんの少しなら魔力が残ってるようだ。必死に集中すれば、小指の先ほどの火玉ができそうな気もする。でも、すぐに力が抜けてしまう。
もう炎の元素霊たちを、思いのままには呼び出せない。今まではあんなにもたやすく、炎の魔法を繰り出せた。前のあるじの時は、命令のままに戦場を火の海にしてきたのに。
あのときは髪の先までも魔力に満ちていた。だけど新しくあるじになったレオンハルトは戦争を嫌い血を流すことを嫌い、最強の剣である私を使ってくれなった。それがとても苦しかった。
(これは、おまえの咎)
私の咎とは何のことか。
罪ということなら、私は常に血を浴びて、罪と共に生きてきた。けれどこの世の誰が、私を裁けるというのか。
心の半分を強引にちぎり取られたような、この不安は何だろう。
遙かな過去、私と一緒に死んでくれると言ったはずのあの人。
今のあるじと同じ名の勇者レオンハルトに、実は封印されるのだと知った瞬間の、絶望に似ている。
かつて私は、ル・ガルダ大陸を治めていた――と言い切って構わないと思う。
人間たちは私を妖魔と呼び、火蜥蜴の化け物と罵ったけれども、私が使役する炎の元素霊の恩恵だけは、ちゃっかりと受けながら日々を過ごしていたからだ。
あの頃のル・ガルダは、人口は多いのに気候が厳しくて、私の魔法に頼らなければ生きづらい世界だった。それは事実なのだが、要求を主張することだけに貪欲で、感謝も反省もしない人間たちの面倒を、なぜ私はあんなにも見続けたのか……自分でもよくわからない。
魔法とは、火、水、風、土の四種の元素霊を使役して、幾多もの効果を得る術だ。本来は古代獣にしか使えないものだったのに、魔法に興味を示した人間たちが弱い古代獣を狩り、飼い慣らしては、強引に技術と呪文を取得していた。
人間の増加に反比例するように、古代獣の仲間たちが死に絶えていく、そんな時期だった。そしていつしか、私だけが生き残っていた。
魔法を操れるようになった人間は魔法使いと呼ばれ、それなりに重宝されていたが、彼らが使うのは水、風、土の三種の魔法のみにとどまっていた。
呪文さえ覚えれば、人間にも火の魔法は使えなくもない。だが魔法使いたちでさえ、火の魔法だけは嫌った。
火の元素霊は、すぐに暴走する。火の魔法は人間の手に余ると言われていたのだ。
……だから彼らは、都合のいい時だけ、私を頼った。
ザンシャン山脈の麓の小さな住まいで、私はひっそりと暮らしていた。
住まいの回りには、使い魔たちの手で結界が張ってあり、面会を求める人間が現れれば招き入れ、話を聞き、場合によっては力を貸す。そんな毎日だった。
人々は困ったときには私を訪ね、炎の魔法を要求するけれども、普段は私の存在など忘れていたいようだった。私とて人々に入り交じって暮らすのは少々辛かったので、あれはお互いのために適切な距離だったのではないかと思う。
なのに。
(おう。べっぴんだなあ。妖魔のくせに、べっぴんに化けるところが可愛いな。それに、その耳)
ヴァラスの長に選出されたばかりだという黒髪の青年は、ぶしつけに私の住まいに現れた。
(《鵺》よりも旧きもの、《猫》の耳だろう。知るものは少なかろうが)
当時のヴァラスはまだ、荒野と岩山と痩せ地だらけの、貧しい地域だった。
いいえ。ぶしつけなどという、生やさしいものではなかった。
面会を求める手順を無視し、住まいの回りに張り巡らせていた結界を、無惨にも使い魔たちを斬り殺すことによって力ずくで破り、ずかずかと踏み込んできたのだ。
(なんてひどいことを。あなたの要望など聞けません。帰りなさい!)
けれど私の怒りは一笑に伏されてしまった。彼は、高慢な女でも口説くような態度を通した。
(そう怒るなよ。誰かに訪ねられることが嬉しいくせに)
(何ですって)
(あんたは、寂しかったんだよ。だから、人間と関わった。そして、人間を受け入れたからこそ、古代獣の中であんただけが、生き延びることが出来たんだ)
(帰ってください)
(はは、まあいい、今日のところは出直すとしよう)
レオンハルトと名乗った青年は、自信家で野心家で怖いもの知らずだった。
好戦的でもあった。どうやって手に入れたのやら、鵺が鍛えた素晴らしい名剣を愛用していた。その剣を使うにふさわしい、腕のいい剣士なのだとも、自分で言った。
こんな世界だから、手を汚さずに国は大きく出来ない。
自分はどう思われても構わないから、ヴァラスを帝国と呼べるほどに豊かな国にしたいのだと、私の住まいにやってくる度に熱っぽく語った。
最初の印象があまりにも悪かったので、私は彼を見下していた。彼の言うことに耳を貸さなかった。
けれどある日、戦闘中の彼が落馬して、敵方の将軍にとどめを刺されようかという光景を〈遠目〉で見た瞬間。
――思わず、彼の愛剣に力を送ってしまったのだ。
死なせたくないと、思ってしまった。
動揺した私の心を、彼は敏感に見抜いたようだった。
(おれも今日から、ここで暮らしていいか?)
戦場から帰るなり私を抱きしめて、驚くほど優しい声で、そう言った。