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僕が守りたかったもの

 マティアスと少し話しただけで、冷水をぶっかけられたみたいに背筋が寒くなった。

〈奇跡の扉〉は、偶然成功しただけで、僕を元の世界に戻せないなんて言う。

 それによく聞くと、伝説の剣を持っているのはマティアスのお兄さんのようだし、魔王っていうのも、RPGのラスボスみたいな悪役じゃなさそうだった。

 マティアスは部屋に閉じこもりっぱなしで、侍女に扉の前に食事を持ってこさせたりして、僕にも外に出るなとか言うし――いくらこの部屋がノイシュバンシュタイン城の内装なみに豪華でも、これじゃ家にいるときと変わらないじゃないか。

 異界へ来たんだって浮かれてたけど、何のことはない、現実から別の現実に移動しただけだった。

 お約束の通じない世界に、長居してもしょうがない。

 僕は毎日のようにマティアスに、もう一度〈奇跡の扉〉を開いてくれと頼んだ。でもマティアスは無理だとかなんとかいって生返事をするだけで、そのうち僕が何を聞いても答えてくれなくなった。

 食事とかはマティアスが多めに頼んでいたけれど、もう食欲もなくなって、体がだるくなってきて、毎日毎日、部屋の隅っこで膝を抱えてて。

 そんな日々が何日続いたろう。

 あの日――マティアスは〈瞬きの旅〉とかいう魔法をしきりに練習してて、部屋からすっと消えたり、また戻ったりしてた。

 マティアスのお母さんが部屋の扉の前で、しきりにマティアスを呼んでた。

 ヴァラス帝国の王様が殺されて、犯人としてマティアスのお兄さんが牢に入れられたって、そんな大変なことを言ってるのに、〈瞬きの旅〉から帰ってきたばかりのマティアスは、部屋から出ないばかりか、すごくひどい言い方をして、お母さんを追い返した。

 ぼんやりしてきた頭で、僕は思った。

 犯人は本当に、お兄さんなのかな。マティアスだったり、しないのかな。

 ぼくもこのまま、ここで死んじゃうのかな。

 マティアスに、殺されるのかな。

 すっきりしないまま。何もかもが、腑に落ちないまま。

 そんなことを思い始めた矢先に――

〈夜の虹〉が、出たのだった。


 僕は、眠ったふりをした。

 僕の寝息をうかがってから、マティアスはそっと部屋を出た。

 マティアスは、鍵をかけるのを忘れていた。チャンスだった。

 僕はマティアスの後をつけ、植え込みの陰から、ずっと見ていた。マティアスのお母さんが、牢の鍵を壊そうとして失敗し、岩山ごと牢を崩壊させてしまったのを。

 すぐにマティアスが水の魔法を放ったのも。牢の中にいたマティアスのお兄さんと、ピンク色の髪の女の子を助け出したのを。

 そして、マティアスがお兄さんに食料を渡し――お兄さんと女の子が、アヴィリオンに向かうのも。

 マティアスとお母さんが、遠ざかる二人を見送っている。

 彼らが部屋に引き取るまで、僕はずっと息を潜めていた。


 そして、お兄さんと女の子の後を追う。


 僕は裸足で走る。

 足に刺さる小枝も気にならない。

 何としても、追いつかなければ。

 だってあの人たちは、アヴィリオンの魔王に会いに行く。

 僕も魔王に会いたい。

 魔王は、ファルケンシュタイン城に住んでいるという。

 ルートヴィヒ2世の造られずじまいの、第四の城と同じ名前の浮遊城に。


 見上げれば、夜の虹が薄れかけている。

 マティアスはこの虹に向かって、しきりに話しかけていた。魔王に何か言いたいことがあったらしい。どうもこれは、個々人のつぶやきを集める魔法のようだった。


 じゃあ、僕が話しても伝わるんだろうか。


 僕は宮坂直樹、十五歳、中学三年、異界の人間です。

 マティアスの〈奇跡の扉〉でここに来て、帰れなくなりました。

 どうか元の世界に、できれば、ノイシュバンシュタイン城を観光中だったあの時点に戻してください。

 それが無理なら、日本の、東京都武蔵野市まで送ってください。


 ……こんなんじゃ、聞き入れてもらえなさそうだ。

 ていうか、僕が魔王なら、こんなやつ無視する。

 やっぱり直接頼まないとだめだな。

 直に頼んでも難しいかもしれないけど、頼まないよりは帰れる可能性が高いと思う。

 大きな湖に架かっている石橋を、走り抜ける。

 橋飾りの彫刻にあしらわれている、白い小花の香りが、つんと鼻にしみる。冷えた空気が喉に痛い。

 お兄さんと女の子は、左に折れて歩いていった。

 ずっと一本道なのだが、道幅は徐々に狭くなっていく。道の両脇にはうっそうとした木々がおいしげっていて、時折、甲高い鳥の声が響く。月明かりに照らされて、細い道が白く光っている。

 道はこのまま、大きな森に続くようだった。シュバルツバルトを思わせる、深く暗い森に。

 走って走って息が上がり、ぜいぜい言いはじめた頃、前を行く二人の後ろ姿が視界に入った。もう少しで追いつく。


「……ま……て、くだ……さ」

 声にならない。息を整えて、もう一度言う。

「待って、ください。え、と。その」

 聞こえたらしい。二人の歩みが止まった。

 怪訝そうに首を傾げている。

 そういえば、マティアスのお兄さんの名前はなんて言ったろう。聞いたはずなのに、思い出せない。

「待ってください。あの、そこの、かっこいいお兄さんッ……!」

「お? おれを呼んだか少年?」

 あっさりとお兄さんが振り返る。

「どうした、何の用だ。脱獄したおれの追っ手……じゃないよな、早すぎるし、そんな雰囲気でもないし。――はっ、そうか」

 お兄さんは何に思い至ったのか、ぽんと手を打った。

「お兄さんて呼ぶからには、おれの異母弟のひとりだな!」

「は? いえ」

「誰に産ませた子だ? 母上はどこの美女だ少年? 黒髪なところを見ると、エルハーベン近郊の自治領出身のエルマさまかな。それとも北のノルドハイム出身の、もと男爵夫人のヴェロニカさまか。うーん、黒髪の寵妃はいっぱいいるからなー。マティアス以外の兄弟と会う機会ってあまりないし、顔も名前もよく把握してないんだ。ごめんよ」

「いえ。僕は宮坂直樹っていいます。マティアスの魔法で、異界からこの世界に来てしまったんです。僕もアヴィリオンの魔王にお願いしたいことがあるんで、同行させてください」

 お兄さんはちょっと黙った後、女の子に小声で聞いた。

「えーっと。異界って何だミケ?」

 ピンクの髪の女の子は、とてもそうは見えないけど、ミレーヌケティとかいう妖魔らしい。何もかも見透かすような赤い目を、じっと僕に向けた。

「似て非なる、別の世界よ。そう、マティアスが〈奇跡の扉〉に成功したのね。……ふうん」

「はっ、待てよ。じゃあれか、異界にもおれの異母兄弟がいたんだな……! すげぇな父上」

「どうしてそうなるのよっ。人の話ちゃんと聞きなさいよ! いくらエドムントが女好きだって、異界の女性に子供産ませられるわけないじゃない!」

「いやぁ父上のことだからわかんねぇぞ? もう誰が兄弟だっておれは驚かないね」

「あのぅ。僕、両親の実子なんで。母さんが浮気した可能性はないです。そりゃ絶対ないとは言い切れないけど、それにしたって同じ世界の男の人としか出会えないと思うし」

 お兄さんと話してると頭がくらくらしてきた。すっかり向こうのペースだ。

「まあ細かいことはどうでもいいや。ナオキだったな。腹減ってないか? おれは減ったぞ。食べるの後回しにして手籠抱えてきたけど、もう限界だ」


「とりあえず、この人の名前はレオンハルトよ、ナオキ」

 ブナに似た大きな木の根元に、僕たちは腰を落ち着けた。

 驚いたことにレオンハルトさんは、器用に石を積んでかまどを作り、この木の葉っぱをうまく重ねると水が漏れなくていいんだよ、とか言いながら即席の小鍋を作って、近くの小川の水を汲んだ。集めた小枝を、かまどの下に入れる。

「ほれミケ、出番だ。火ぃ吹け、火。こんなときのための魔法だろうが。それくらいの魔力は、残ってんだろ」

「……火は吹けないわ。火の元素霊に火種を出させることぐらいなら、なんとか出来ると思うけど」

「それそれ。同じことじゃん」

「違うわよ!」

 唇を尖らせながらも、ミレーヌケティが小声で呪文を唱える。小枝にぽっと火がついた。

「マティアスからもらった食料は、野菜以外は結構日持ちしそうだな。ちょっとパンかじるくらいで、後はこの場でなんとかしよう。肉は乾かして干し肉にしとけばいいし」

 レオンハルトさんは、近くの草むらから、じゃがいもに似た丸い根っこを引っこ抜いてきた。食べられる野生の根菜なんだそうだ。持っていた短刀で、くるくると上手に皮を剥いていく。

「……なんてことかしら」

 ミレーヌケティが、がっくりとうつむいた。

「妖剣〈誰彼〉が、ちゃちな短刀になったばかりか、自生馬鈴薯の皮むきに使われることになるなんて」

「これはこれで、有効な使い方だと思うがなぁ。人に向けるよりはさ」

 レオンハルトさんは、今度はゴボウに似た根菜を取ってきた。手早く皮むきを終えると、短刀の先をうまくスライドさせて、笹がきを始めた。母さんがゴボウのきんぴらを作るときよりも、十倍は手際がいい。

 僕も何か手伝えないかと、トレーナーに付いているポケットを探る。

 そういえば〈奇跡の扉〉が開いた瞬間までは、バタフライナイフを握りしめていたのだった。マティアスの部屋に来てからは、いろいろあって失念してしまってたけど、僕のポケットにはずっとバタフライナイフが入ったままのはずだった。

(……あれ?)

 ない。どこかに落としてしまったらしい。

 僕がもたもたしている間に、食材は煮えはじめ、いいにおいが漂いだした。小鍋の中に手籠の野菜を追加で投入し、やがてシチューは完成した。

 取り分け用の三人分の皿も、葉っぱを使ってレオンハルトさんは作った。この人だったらたぶん、いきなり異界に放り出されても生きて行けそうだなぁという気がする。

「ほいナオキ。熱いぞ。火傷すんなよ――どした? 捜し物か?」

「いいえ。あ、はい」

「どっちなんだよ」

「持ってきたナイフを落としたみたいで……。マティアスの部屋か、でなきゃ走ってる最中か……」

「大事なものなのか?」

 ……大事?

 偶然見つけた金物屋で買った、あのバタフライナイフが?

 言い負かされて悔しくて、如月の鼻先に突きつけることにしか結局は役に立たなかった、あの武器が?


 僕はあれで、何を守ろうとしたんだろう。

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