リハビリのゴール
リハビリが始まり、また新たにいろいろな想いや悩みが頭を巡りはじめた。脳梗塞のリハビリには出発点もゴールも無い。人それぞれなのだと思う。重症な人や軽症な人、年取った人も若い人もいる。スタートラインが皆んな異なっている。リハビリを受ける目的やリハビリを終えた時に到達したい後遺症の状態、潜在的に達成可能性な最善の後遺症の状態もみんな違っている。更に、後遺症を伴う実生活や人生に対する悩みや不安もみんな異なる形で抱えている。自分より悲惨だと思う人をみて、「自分の方が運がいい」と思うことがある。でも、実際には「運がいい」わけではない。自分も含めみんなそれぞれ自分だけの問題を抱えている。そのような問題に優劣はなく、ここでの「運がいい」とは、目に見える一部分に基づく表面的な評価でしかない。そもそも、比較するようなことでもないと自分を諌める。
ふと、「今、私は何処にいる」、「ゴールはあるのか」などと考える時がある。日々の努力に拘らず、どの程度回復しているのか全く分からない、進展しているのかどうかすら分からない。リハビリを終えた後の最終的な自分の姿を想像することもできない。
発病から3週間が過ぎた頃、まだ総合病院にいた頃である。やっと数本の指が動くようになった。指が動いたことは嬉しかったが、何かが出来るようになった訳ではない。指が動くようになった時に、改めて手は複雑な動きをするものだと気が付いた。肘のように一方向にしか曲がらない関節もあれば、親指のように円を描くように指を動かせる関節もある。そのような親指の関節には、複数の筋肉が複雑に絡み合って繋がっており、それら複数の筋肉の複合的な動きにより関節が目的の動きをするのだろう。だから、指が一方向に動いただけでは何も出来ない。指を正しい方向に動かし、それと同時に腕や手首を正しく制御できなければ、物を正しい状態で掴み正しい場所に運ぶことができない。動くことと機能は違う。またこれらの動きは、発病前には無意識に行っていたことである。意識するとその複雑さに圧倒される。どのようにすれば、これら複雑に絡む複数の筋肉をコントロールすできるのだろうか?スポーツや楽器がなかなか上手くならない理由も分かったような気がする。複雑に絡んでいる複数の筋肉を正確にコントロール出来なければ、スポーツや楽器は上手くなるkとはなく、それは非常に難しいことなのだ。
指を動かそうとしている必死になっている時、ユリ・ゲラーが流行っていた時のことを思い出した。あの頃、必死に指に念力をかけてスプーンを曲げようとしていた。今も動こうとしない指が動くことを願って必死にその指に念力をかけている。先が長いとも感じた。そんなことを1ヶ月も続けたが、その念力にも拘らず人間の機能としては何も回復していなかった。
一方、立てない歩けないという状態は続いている。改めて立つことがこんなに大変なことであるのかと思った。なぜ人間は二足歩行なのかと恨んだ。普通に歩いている人や両手を普通に操っている普通の人、いわゆる健常者を見ると羨ましく感じてきた。そんな感情を抱き始めた時、人間なんとも勝手なものだと思った。発病前は、経済的に成功していない人や名声を得てない普通の人、あるいは能力や容姿などに何も特徴のない普通の人には何も特別な感情は抱かなかったのに、人間、何かが変わると憧れの対象も変わるものだ。ただの普通の人が憧れの対象になるなんて。