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カップの底

作者: アキラ

 

 大きな白い、小さく青い花が描かれたカップにゆっくりとこがねいろの紅茶を注ぐ。こがねいろのそれはカップのうちがわの白いなだらかな側面にあたってすべるように回転する。いち、に回転したところで表面から湯気をあげ、古くなって黒ずんだベニヤの天井へとのぼっていく。

 

 私はそれを半分閉じられたまぶたでゆり椅子に座り、ゆったりと眺めた。手には読みかけの本が閉じられたまま、昔読みかけた本なのだがなぜ途中で読むのをやめたのか思い出せずにいた。十年ぶりに開くそれは、読み込まれてもいないのにお日さまの光でしおしおになっていた。

 

 赤い表紙に英語の文字。擦り切れてもう読めなくなっている。眠い目をこすりながら私は表紙を開いた。


 話は、広い広い。草原の中から始まる。

 そこには、虫や蝶や、小さい動物なんかがたくさんいる。足元に目をむければ、もぐらの穴があってちょうど穴の入り口から顔をのぞかせ、花は点々とそこらじゅうに、たくさんの見たこともないような鮮やかな色をしたもの、誰かが緑の絵の具をぶちまけたみたいにそこら一帯に広がる草は、ちょうど私のひざ下ぐらいの丈で、気がつくと地平線のまんなかに、まがった腰を少しつらそうに折り曲げて草むらの中にしゃがみこんでいる老人がいた。


 老人は私の視線に気づいたのか、大きな、牛乳瓶の底みたいに分厚い黒ぶちの丸めがねの向うから、小さくて細い瞳をきらりと覗かせた。


 「やあ。」


 老人は私を見て微笑みかける。そのなんとも屈託のない笑顔が私にてんてんとなにか後をつけてじんわりと染みこんだ感じがした。


 「あ、どうも」

 私はなんだか恥ずかしくなって、少し深めに会釈をした。老人はゆっくりと亀のように背筋を伸ばし、こぶしを作ってそれを腰にあて、顔は空を仰いだ。私もなんだかつられて空を見上げると、そこには空はなく広い宇宙が私たちのいる空間に顔をのぞかせていた。それは、天が宇宙なのではなく、天と地とが宇宙になってしまったかのような錯覚を私のなかにおこさせた。

 

 「今日はいい日ですね。ほら、お日さまがあんなに熱を放っていますよ。」


老人はそういって、黒い天井にひときわぼうぼうと燃え上がるきんきらりんの星をひとつ、ゆびさして言った。

「あれが、太陽、ですか」

私は思った。私の国から見えるそれは、ときどき出てこなかったり、出てきても形ははっきりと見えず、こうこうと光をはなつもの。という印象がある。でも、老人のゆびさすそれはまあるくて赤くて燃えていて、私たちは毎日こんなものを太陽と呼んでいるのかと疑問を持つぐらいちがうものだった。


「いいえ。あれは宇宙ですよ。」


老人は言った。にこやかに微笑んで、またしゃがみこむ。私は何をそんなに見ているのかと思い、老人の隣までいって同じように腰をおろした。

 すると、老人は背広のポケットからおもむろに大きな虫眼鏡を取り出して、大きなめがねのレンズが割れるんじゃないかってぐらいに近づけてそれをのぞきこんだ。老人のゆびさきにのっているそれは、目をこすってみてみれば赤い小さなりんごだった。

「とても綺麗でしょう?」

と、老人。

「はい。」

私は素直に答えた。この年になって素直なんて言葉が出てくると思ってなかったので、自分で自分にびっくりした。でも、本当のことなんだ。この小さい赤いりんごにはなにかが流れている。それがとても青くて、綺麗なんだ。

「この、りんごはね。」

老人はゆっくりと口を開く。


「このりんごには、このりんごの大きさの空間と時間が流れてるんだよ。」

「ええ。」

「おんなじように私たちの中にも空間と時間が互いに息を合わせ、流れている。」

「ええ。」

「君は、自分の中に宇宙があることをしってた?」

「ええ……って、宇宙?」

私はおどろいて、老人の方へ向き直った。

「そうだよ。人の中にも、あらゆる物体の中には小さいけれど宇宙が存在するんだよ。」

老人は分厚いめがねをきらりとひからせた。

「君は自分のなかに、宇宙を感じるときはある?」

「宇宙を…感じるとき?」

私はちょっと考えてみた。

 人はどうだか分からないが、私には少なからずそういうものを感じたときがある。いや、きっとほかの人間もそれを感じているにちがいない。みんな口には出さないだけで知っているにちがいないんだ。私はそう思った。


 秋、季節特有の、枯れ葉だとか、いちょうだとか、それから秋にしか咲かない花なんかの香りが互いにまざりあって私の鼻孔をくすぐるとき、それが体内に染みこんで私の体を満たすとき私は秋という季節の後ろに、もっと大きな存在がゆっくりと、いや、ずっしりかな?とにかく何か存在的なものがたたずんでいるのを感じるときがある。そういうとき、私はなんだか幸福な気持ちでいっぱいになるのだ。

 道端を散歩していて、雨が降ってきたとき、コンクリートにしみこんだ雨のにおいをかいで頭がいっぱいになるのは私だけだろうか。


「ああ、あれは。とてもきれいな…」

「そう、どれも君のなかで起こっていることだよ。君のなかの宇宙が、君から伝達される情報によって外 観をえて君の心を動かしているんだ。」


老人はそういって、ゆびさきにのったりんごを軽くふっっと、上に押し上げた。すると、りんごは空中に浮いて、風に少しだけ流れて金の粉となってはじけてきえた。


 私は空中にはじけた金の粉の残照をしばらく見つめたいたが、しだいにまわりが湯気のようにぼやけはじめて……




 

 気がつくと、私は天井を見つめてゆり椅子の上でゆらゆらと揺れていた。いつ手から離れたのか、足元にはあの赤い本が落ちている。いそいで、手にとってなかを開いてみたが、なかは白紙だった。


 なんだか呆然とする私をよそに、白いカップの中に入ったこがねいろの紅茶だけが静かに湯気をたてていた。

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― 新着の感想 ―
[一言] 物語の入り口で感情移入しにくいと言うか、共感できず、主人公と自分自身の意識の間に終始距離を感じます。 それだけが残念でしたが、太陽の光いっぱいの中で微笑む様な空気感が好きでした。
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