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メイドあがりの聖女様はワーカホリックなので祈るより働きたい

作者: 青山トウリ


『君、このままだと王位を継ぐ前に死ぬかもしれないよ』


王国の最北端に造られた、本来であれば聖女のみが足を踏み入れることを許される礼拝堂。しかし今ここに聖女の姿は無く、燃えるような夕陽が堂内の中心で佇む何者かを血のような赤に照らすばかりだ。大きく見開かれた瞳が、声の主へ無言で言葉の先を促す。


『君が助かる方法はただひとつ。()()()()()()をここに連れてくることさ』


思いもよらぬ単語だったのだろう。その人物はしばらく無言のまま考え込み、やがて小さく首を傾げた。


「……メイド?」


『次の聖女は彼女に決まりだ。しくじるなよ? カミーユ』


声の主はそう言うと自慢のオッドアイを光らせ、にんまりと口元を釣り上げたのだった。


♢♢♢♢♢♢


「あれが聖女様だって!?」


旦那様の驚きに満ちた声が屋敷中に響き渡った。

旦那様はどんな時だろうとご家族のことを「あれ」などと呼んだりなさらない。と言うことは私達のうち誰かのことだろうか。それにしても……


「せいじょさまって何かしら?」


初めて聞く言葉だ。小さく呟いたはずの独り言だったが、近くで窓を拭いていた同僚のアンは耳聡く聞き付けたらしい。


「嫌だわアリスったら。あなた仕事は出来るけど本当に世間知らずなのね。聖女様の事も知らないなんて」


お喋り好きの彼女はこの機会を逃がすまいと手にしていた雑巾をバケツへ放り早速「聖女様」について話始めてしまった。


まずい。これは私のミスだ。彼女に話題を提供したらこうなるとわかっていたのに。このままでは仕事に遅れが出てしまう、きちんと管理しなくては。

アンには申し訳ないけれど、話の内容をほとんど聞き流しながら私は急いで新しいシーツをベッドに広げる。


するとそこへ、話し声を聞きつけたのかメイド長が顔を出した。


「アン、何を騒いでいるのかしら。無駄口を叩かないで手を動かして頂戴。あなたもよ、アリス」


ちゃんと手は動かしていたのに。

とはいえ、アンがお喋りを始めるきっかけを与えてしまったのは私だ。シーツの皺を伸ばしていた手を止め、メイド長のほうへ向き直る。謝罪の言葉を口にするとメイド長は何か言いたげな顔をしたが、結局何も言わずに去って行った。


「……?」


謝罪の仕方が悪かっただろうか。それとも何か他に怒られるような事をしてしまった?

枕カバーを整えながら頭を巡らせてみたが、思い当たる節は見つからない。


まあいいか。


私は感じた小さな違和感を頭の隅に追い払う。

これから午後に掛けて取り組む仕事の段取りを再確認しないと。

今日も仕事は大忙し。

余計なことは考えず、やるべきことをつつがなく終わらせる。

それが私、アリス・キャビネットの使命だ。


♢♢♢♢♢♢


 グレンダルト王国東部、ウズニエル地方に位置するズェリアラ。


 質の良い銀が採れる「ズェリアラ銀山」の麓に暮らす人々はそのほとんどが鉱山業に携わっている。稼ぎは良いが寿命の短い鉱夫の家ではまだ働くことの出来ない幼子を残して両親が亡くなることも珍しくなく、アリスもその残された子供の一人であった。


 孤児院へ送られる子供が大半の中、アリスが身を寄せているエブロン家へ引き取られたのに何か特別な理由があったわけではない。しいていえばこの地域有数の大富豪であるエブロン家に若くして嫁いだ、少し頭は足りないが抜群の美貌とスタイルを持つジェーン夫人の気まぐれだ。


 両親を亡くしたアリスがまだおぼつかぬ足取りで孤児院行きの馬車に乗り込むそのすぐ横で、彼女の乗った馬車がぬかるみに嵌り停止してしまったとか。前日、懇意にしているご婦人が慈善活動の一環として孤児を引き取った事をお茶会で話していたとか。馬車が動くまでの暇つぶしに窓から声を掛けてみた子供の名前が、昔彼女の飼っていた猫の名前と同じだったとか。そんな偶然がいくつも重なり、アリスは今エブロン家で住み込みのメイドとして働いている。


 引き取られたとはいえ家族として迎え入れられたわけではない。しかも夫人の独断と思いつきで連れてきた子供だ。上流階級の子供が学ぶような教養など施されるわけもなく、その代わりとしてアリスはこの10年間掃除に洗濯、家人の身支度手伝い等の家事全般を仕込まれエブロン家に従事してきた。


それが彼女にとって幸か不幸かといえば、幸せだったと言えるだろう。少なくとも今日まで食事や寝床の心配をすることはなく、病気をすれば医者にだって診せてもらえた。


 そして何より、彼女はメイドという仕事が性にあっていたのだ。


 エブロン家の屋敷には常に十数名の使用人が働いており、各々清掃を担当する者、食事を担当する者など役割が決められている。その全てを統括しているのがメイド長、そしてその下のポジションを任されているのがアリスだ。直接掃除や給仕を行わないメイド長と違い、ほぼ全ての仕事を完璧にこなすことができるアリスは日によって取り組む仕事が違う。ある日は新人が入って手が回らない洗濯係のサポート、ある日は風邪で倒れた料理係の代理、といった具合だ。


 時にはメイド長代理としての役割も担う彼女の仕事ぶりは周囲からの信頼も厚い。共に働くメイドの中には孤児であることを馬鹿にする者もいるが、ほとんどの者は彼女に仕事を助けられた恩があり、この年若いメイドに好意的だ。


 これからもこの屋敷のメイドとしてエブロン家に尽くしていくのだろう、と本人初め、屋敷の誰もが思っていた。


────その手紙が届くまでは。


♢♢♢♢♢♢


「私がその『聖女様候補』なのですか?」


「せいじょさま」という単語を初めて耳にしたその日、私は最後に呼ばれたのがいつだったか思い出せないほど久しぶりに旦那様から名指しで呼び出しを受けた。


掃除や給仕で旦那様のお部屋に入ることは年中だが、座り心地の良いこの椅子に座るのは初めてだ。後ろで旦那様よりも威圧感を放つメイド長が立っていなければ、何度も座り直してその感触を確かめてしまったかもしれない。


「この手紙によるとどうもそうらしい。候補、と書いてあるようにお前が聖女様であることが決まったわけではないようだがね。急な話だが明日明後日にも国から迎えが来るようなのだ」


「……」


理解の範疇を超える話に、私は何と言ったらよいかわからず口をつぐむ。


「いやはやしかし、お前が聖女様とはねえ……」


全くその通りだと思う。そもそも私は「聖女様」のせの字も知らなかったし、皆のようにお祈りを捧げたりもしない、神への信仰心などまるで持っていない人間なのだ。何かの間違いじゃないだろうか。


あのお喋りさんの話をもっときちんと聞いておけばよかったと、私は少し後悔した。うっすら思い出せるのは、聖女様というのはこのグレンダルト王国を守る神様のおことばを受ける人だとか祈りで国を平和に導く人だとかなんとか。他にも色々と言っていたような気がするが関心が無いのでもう覚えていない。


神様や妖精、魔法。そういう普段は目にすることができない何かがこの世界に存在するのは知っている。この家にもそういった類の扱いを生業としている客が来ることはまれにあり、その不思議な力を少し見せてもらったことだってある。でも、私とは無縁の世界だ。そのはずだった。


「あの……」


「なんだね?」


「たぶん私は聖女様ではないと思うんです。特別な力? みたいなものが自分にあるとは思えません。それでその、聖女様ではないとわかったら、私はどうなるのでしょうか」


私にとってこの家がすべてだ。こんな面倒ごとを持ち込んで、万が一解雇を言い渡されてしまったらどのように生きていけばいいのか何も……そう、何もわからない。アンの言う通り、私はこの家の外のことなどまるでわからない世間知らず。頼るあてもない、仕事を得るツテもない、どうすれば良いのかわからず途方に暮れて路地裏に一人うずくまる。そんな最悪の事態、想像するだけで肩が震えてしまう。


「それは当然、うちに戻してもらえるよう伝えておくとも。我が家としてもお前のような優秀なメイドを手放すのは非常に惜しいのだからね」


私は旦那様のその言葉に安堵し、同時に自分を少し誇らしく思った。

優秀なメイド。

この家に仕える者としてそんな風に言ってもらえるのは、自分が聖女様かもしれないなんて言われるよりもよっぽど嬉しい。

神様のおことば?

国の平和?

そんなことはどう考えても私がやることではない。他に居場所のない私を必要としてくれる、このエブロン家の暮らしを支えることで精いっぱい。そうだ、迎えに来た人に私はやる気がないと伝えたらどうだろう。聖女様の仕事はやる気のない人間に任せるようなものではないはずだ。候補が一人減ればその分向こうも手間が減るだろうし。


「私、聖女になる気はないって遣いの方にお話ししてみます。この家が私の居場所ですから」



と、思っていたのが三ヵ月前のこと。


私は今、神域と呼ばれるこの場所で国の平和の為に守護神「ビド」へ祈りを捧げている。


────新しい恋をするのは、生まれ変わるのと同じなのよ。


そう言っていたのは屋敷の誰だったか。

私には無縁だと思っていた、その時は全く理解の出来なかった言葉の意味が今の私には少しだけわかる気がする。自分でも馬鹿だと思う。でも仕方がないのだ。まだ子供だろう、と笑われたってかまわない。

だって恋はするものじゃなく落ちるもの。

……これも誰かの受け売りだけど。

あの方が望むのなら、私は私の全てをあの方に捧げよう。

そんな気持ちが自分の中に生まれるなんて、私がメイド長代理に選ばれた時以来の驚きだ。

エブロン家を離れたくない、という強固だったはずの意思は、私を迎えに来た一人の少年によってあっけなく砕かれてしまった。


私の人生を大きく狂わせた彼の名はカミーユ=フォリアム・グレンダルト。


この国でその名を知らぬ者はいない、グレンダルト王国の王子様だ。


♢♢♢♢♢♢


 アリスが主人から話を聞いた数日後。


客車に様々な動植物が描かれた豪奢な馬車に乗りやってきたのは真っ白なローブに身を包んだ神職と思しき男性、メイド長よりも神経質そうな老婆、そして二人の少年だった。


 国からの使者相手に給仕用の服なんぞで会わせられるものか、と急遽も急遽、超特急であつらえられた着慣れぬドレスに身を包み、ただでさえガッチガチに緊張していたアリスは訪問者の名前を聞いてぶっ倒れかけた。


「まさかカミーユ殿下御本人においでいただくとは」


「将来この国を背負う者として当然の務めです。そう畏まらないで頂きたい。それで……」


 客間で屋敷の主人と相対しているのは一人の少年だ。一見すると少女と見紛う愛らしい顔とは裏腹に、堂々とした振る舞いや些細な仕草から高貴な身分の人間であることが窺える。


「は、はい、アリスはすぐに参ります。メイドとしては完璧な娘なのですが、何分教養が無いもので。失礼を働くことがありましたら何卒ご容赦の程を……、失礼。アリスが来たようです」


 一方エブロン家の主人は突然のカミーユ王子の訪問、そしてその子供らしからぬ振る舞いに恐縮しきりである。アリスが現れるとあからさまにホッとした表情を浮かべた。それとは対照的に、客間中の視線を一斉に向けられたアリスは可哀想に今にも失神しそうなほど青ざめている。


「あっ、あの、ア、アリッ、アリス・ヒャ、キャビネット、です」


 ジェーン夫人から付け焼刃で習った優雅な挨拶の仕方など全て記憶から抜け落ち、身体に染み付いたいつものお辞儀をひとつ。したは良いものの、教わったものとはまるで違うお辞儀をしてしまったことに頭を下げてから気が付き、アリスは脳内でパニックを起こした。


お辞儀の体勢で硬直したままのアリスに主人が声を掛けようとしたところをカミーユが制し、彼女の許へ歩み寄る。


「お初にお目にかかります。アリス・キャビネット様。私はグレンダルト王国第一王子、カミーユ=フォリアム・グレンダルトと申します」


アリスとはまるで違う、流れるような所作。と言ってもアリスは床を見つめていたのでその姿は目にしていないのだが。


「顔を上げて下さい。むしろ頭を下げるべきなのはこちらのほうなのですから」


 その言葉を受けてようやくアリスが顔を上げた。そして目の前に立つカミーユの顔を一目見て、その美少年ぶりだとか気品だとか、王子から発せられる後光のような眩いオーラに言葉を失った。一気に紅潮したのは顔だけに留まらず、耳から首から全身真っ赤である。それが何を意味しているのかは一目瞭然だったが、カミーユは自分を見つめる熱い視線について触れることなく、余裕の表情でアリスに声を掛ける。


「突然のことにさぞや驚かれたでしょう。お時間を頂いてしまい申し訳ありませんが、どうか私どもの話を聞いていただけないでしょうか」


「ふぁ、はい」


 どうぞ、と手を取られ、勧められるままカミーユより先に椅子へ腰を下ろし石像のように固まるアリス。その礼儀も何もあったものではない態度に同席していたメイド長が厳しい視線を投げつけた。しかし投げつけられた本人はその視線に気付く余裕など無く、頭の中は「お嬢様のように丁寧に扱われたのは初めて、こんなに美しい人がいるんだ、なんて素敵な人なんだろう」と突然現れた王子様のことでいっぱいだ。


 カミーユの座る隣で直立していた神職の男が聖女について話を始めても、まるで頭に入ってこない。そもそもアリスは勉強というものをほとんどしたことがないのだ、いきなり歴史や役割といった難しい話をされたところでちんぷんかんぷんである。おまけに目の前には微笑みながらアリスを見つめる王子殿下。そんなのもう真面目に話を聞けと言うほうが酷だろう。


 何とか「理由はわからないが神様が自分を聖女様の第一候補に指名した」「いつでも聖女を辞めていいし、その後は国から一生困らない生活をさせてもらえる」「断っても別に構わない」という自分の得になりそうな内容を聞き取っただけでも褒められるべきだ。


「断っても良いんですか? 途中で辞めても?」


「はい。聖女様のお務めは決して強要しないこと、とビド神より言いつけられております」


男はにこりともせず、アリスの質問に答える。


「今回新たな聖女様をお迎えすることになったのも、当代の聖女様の個人的な理由によるものです。お役目からお降りになった際には聖域やビド神に関わることを外に漏らさぬよういくつか誓約を交わして頂きますが、それによって生活に大きな制限がかかることもありません」


「はぁ……」


 ではその分「お務め」が毎日眠れないような過酷なものであったり、肉体的……つまりは性的な行為などを要求されはしないのか。本人に任せておけないと思ったのか、エブロン家の主人がアリスに代わりそれとなく尋ねる。ところがそういうことは全くなく、神への祈りと対話をするのが主な仕事だと言う。


 あまりに好条件過ぎる待遇、普通なら何か裏があるのではと疑うところだ。しかし今のアリスはカミーユのせいで思考がほぼ停止しており(何だか思っていたよりラクそうだなあ)程度にしか頭が働いていなかった。完全に(ほだ)されている。


「想像と違いましたか?」


アリスの考えを見透かしたように、カミーユが笑った。その表情は先ほどまでの隙がない笑顔とは違う年相応な無邪気さで、その不意打ちカウンターアタックにアリスは心臓が一瞬止まりかける。


「い、いいえ! いえ、えっと、はい、実は思っていたよりもラクそうだな、と……」


嘘を吐くのも気が引けて、アリスがつい本心を口にすればカミーユは更に破顔した。そしてその笑みを間近に浴びたアリスは今度こそ心臓が止まった。


「素直な方なのですね。そういえばアリス様はまだお若いのに大変優秀なメイドでいらっしゃるとお聞きしました。実は王宮ではここ数年、私の身の回りの世話を任せる侍女を探しているのですが、今だに納得のいく……いや私は誰でも構わないのですが、そこに立っている乳母の御眼鏡に適う者がいないのですよ。なあ、メリル?」


 カミーユが後ろに控えている老婆に視線を送る。しかし彼女は目を閉じたまま微動だにしない。その泰然とした姿は、決して自分に非はないと無言で訴えているようにも見えた。背筋はピンと伸びているが顔や手首に刻まれた皺は深い。恐らくどんな小さなミスや緩みも見逃さないのであろうことが、一本も残さずぴしりと一つにまとめられた髪型やその佇まいから垣間見える。


 初めから彼女の反応を期待していなかったのだろう。カミーユは乳母の態度を特に気にする様子もなく再びアリスに向かって口を開いた。


「仕事を満足に任せられる使用人というのはそうそう簡単に見つかるものではないのだと痛感しています。ですのでアリス様という卓抜したメイドを失うことになるエブロン様には大変申し訳ないのですが、私には……いいえ。この国には、貴女の助けが必要なのです。他の誰でもない、貴女の力が。アリス・キャビネット様。どうか、聖女様になってはいただけないでしょうか」


♢♢♢♢♢♢


そう言ってカミーユ様が真っ直ぐ私の目を見つめたあの瞬間。

澄み渡った青空色の、あの瞳。

今思い出しても鼓動は高鳴り、顔が火照る。


「私はこの家を出るつもりはありません」


そう告げるはずだった口からこぼれたのは


「へぁい」


というどうしようもない腑抜け声だった。


旦那様もメイド長も目を丸くしていたに違いない。いや、それならまだ良い。ひょっとしたら軽蔑の目を向けられていたかも。だってあんなに「ここが私の居場所です!」なんて胸を張って言っていたのに、あっさりと聖女様の役目を引き受けてしまったのだ。ここまで育てて頂いたのに、裏切り者、とまではいかなくとも恩知らずと罵られるくらいのことをしたと思う。


あの後エブロン家の皆様や使用人の皆とほとんど話も出来ないまま慌ただしく屋敷を出てしまい、満足に御礼やお詫びの言葉を伝えられなかったのが今でも心残りだ。


でも後悔はしていない。


だって他の誰でもない()()必要だ、と言ってくれたのだ。エブロン家にしか居場所がない、誰の特別にもなれないと思っていた、この私に。その言葉がどれほど嬉しかったか。


それに私が聖女になると伝えた時のカミーユ様の顔といったら! あの方の笑顔が見られるなら私はなんだって出来る気がするのだ。まあ今のところ、これで良いの? というようなあまりにも退屈……じゃなかった、穏やかな日々を過ごしているのだけど。


そういえば城へ向かう馬車の中で私が心残りについて口を滑らせると、カミーユ様は酷く申し訳なさそうに

「貴方の気の変わらぬうちにお連れしたい、と私も気が急いてしまいました。申し訳ありません、配慮があまりにも足りませんでしたね。アリス様がそう望まれるのであれば今からでも遅くない、馬車を戻しましょう」

と仰っていたっけ。

ああ、私の馬鹿馬鹿馬鹿!

私がうっかり口にしたせいで、カミーユ様にあんな顔をさせてしまった。勿論すぐに断って、気にしないでほしいとお伝えしたけれど。そうだ、あの時メリルさんが「では落ち着いた頃に手紙をお送り出来るよう手配致しましょう」と言っていたっけ。落ち着いた頃っていつなのだろう。もうだいぶ前から落ち着いているような……もしかして忘れられてしまった?


『それのどこが僕への祈りなんだよ』


と、ふいにくぐもった声が聞こえてきて、私は「わあ」と思わず声をあげる。声の主を探して辺りを見回すと、居た。


この国の守護神・ビドをモチーフにした筋骨隆々な白大理石の石像、その頭上に器用に寝そべる一匹の猫。石像と同系色なせいで、一目ではそこにいると気付くのが難しい。柔らかそうな毛並みから覗く金色とエメラルドグリーンのオッドアイが私を見据えている。


「ちょっと考え事してただけじゃないですか。ていうか、また猫ですか。好きなんですか? 猫の姿」


『そりゃあ猫が可愛いからに決まってるじゃないか。君だってこんな筋肉ムキムキ男より今みたいな愛らしい猫ちゃんと一緒のほうが嬉しいだろ? それとも君、こういうのが好み……な訳ないか。カミーユのやつはこんな、フフッ、筋肉はついてないもんな』


何がおかしいのか、彼はくすくすと笑いながら石像を降りるとこちらへやってきた。

一面藍色の床の上を真っ白な猫が一匹歩いている。ただそれだけなのに何だか神々しい光景に思えるのは、今いる空間のせいだろうか。


『いや、僕が神様だからだろ。普通に』


聖女が神へ祈りを捧げる、そのためだけに造られたこの特別な礼拝堂はとても小さい造りで、中には成人二人分ほどの高さがあるビド神の石像と私が座る簡素な椅子が一脚置かれているだけ。この程度であれば私が毎日掃除をする、と言ったのに、巫女の人たちは口を揃えてそれはダメだと言う。聖女様にそんなことをやらせる訳にはいかない、万が一怪我でもしたら大変だ、と。おかしな話だ。その「聖女様」は役目を降りない限り、怪我も病気もすることなどないというのに。


ダメというならせめて掃除くらいきっちりしてほしい。毎日しているという割にやり残しが多く、結局隙を見て私が細部の汚れを払っているのだ。今もビド様が石像を降りた時に少し埃が舞ったのを私は見逃さなかった。これまでの聖女様はその辺りに疎い人たちだったのだろうか。それとも私が前の仕事柄過剰に気になってしまうだけ?


お祈りの時間、早く終わらないかな。掃除がしたくてうずうずする。


そんな事を考えていると、愛らしい(と本人が豪語している)猫、もといビド様は私の足元まで来て、膝の上に乗ってきた。その柔らかな重みと温かさに思わず組んでいた手を緩めそうになる。危ない危ない。これは本物の猫じゃない。


『別に撫でたって構わないぞ? どうだい、この毛並み。見事なものだろう。歴代の聖女達お墨付きの美しささ』


「さすがに神様を撫でる度胸はまだ無いです」


『へえ。それは意外だ。僕に会って開口一番、私あなたのこと全然知らないんですけど、なんて言ってのけた度胸のある子から出る言葉とは思えないな』


「それは度胸があるんじゃなくて私が礼儀知らずだっただけだって何度言ったら許してくれるんですか?


『許すも何も。僕はそんなことで怒ったりしないさ。そもそも君を聖女に選んだのはこの僕なんだからね』


私の膝の上に丸まったビド様はそう言うと、わざとらしくニャァ、と鳴いてみせた。


『ま、歴代といってもルルなんかはこういう馴れ合いに一切応じてくれないタイプだったけどね。彼女の割り切り方も潔くて好きだったよ僕は』


ルル。

先代の聖女様だ。

会ったのは私がこの王宮に来て代替わりの儀式を行った一度きり。てっきり役目を務め上げたおばあさんだとばかり思っていたのに、礼拝堂で私を待っていたのはまだ十代かそこらの可憐な女性だった。


一体何がきっかけで聖女をやめることに決めたのか。今後の参考は建前で、本当はただの好奇心から訊ねた私の質問に、彼女はどこか冷めた口調で「早く結婚したいから」と教えてくれた。思わず聞き返せば「最初からそういう約束だったの」と。


ビド様から後で聞いた話によれば、ルル様には幼い頃から生涯を共にすると心に決めた相手がいたらしい。自分は早くその人と結婚して家庭を持ちたいので務めは十代まで、それで良いならなってあげても構わない。そういう契約で聖女になったそうだ。


なぜ彼女を聖女に選んだのか、そこまでは聞いても教えてくれなかった。一体どんな基準で聖女は選ばれているのだろう。私が選ばれたのも同じ理由なのか、それとも別の理由なのだろうか。


彼女は聖女という役割を完全に仕事とみなしていたらしく、今の私のようにビド様と会話をすることもほとんどなかったらしい。けれど、果たしてこんな毎日が「仕事」と呼べるのか、私には疑問だ。


「じゃあ私もルル様のように仕事だと割り切ります」


『無理無理。君はそんな性格じゃないだろ。今だって僕のこのフワフワを撫でたくてうずうずしてるじゃないか』


図星を指されて私の指先がピクリと揺れる。


『いいんだよ、アリスはアリスのままで。別に僕に祈りを捧げる必要もない。祈ったところで君から貰える魔力なんてたかが知れてるんだからさ。君が好きなことをしてくれて構わないって、そっちこそ何度言ったらわかるんだい』


そう。ビド様は私に「祈る必要はない、好きなことをしていい」と事あるごとに言う。でもそれならまず、巫女や神職の人たちにビド様から「聖女は自由に活動して構わない」って言ってもらわないと叱られるのは私なのだ。


「だから、そう言われたって私が好き勝手出来るような環境じゃないんですってば! 掃除のひとつもさせてもらえないんですよ? 好きなようにできるなら、自分の身支度もこの聖域の掃除も手入れも、みーんな私がやりたいのに! ビド様、ここ、あんなに人がいるのにあっちこっち微妙に掃除のやり漏れがあるの知ってます? 私見つけ次第こっそり拭いたりしてるんですから! カミーユ様も仰ってましたけど、神に仕えてるからって別に仕事が完璧ってわけじゃないんですね。あれなら私のほうが絶対良い仕事しますもん」


溜まっていた日頃の鬱憤が堰を切ったように口から溢れだし、八つ当たりとばかりに私は膝の上のフワフワを撫でつけた。

穏やかな暮らし、と言えば大抵の人は不満のない平穏な日々を送っていると思うだろう。

平穏ではある。

「祈りの最中、神様に頭の中を覗かれる」という行為にさえ目をつむれば、規則正しい、恐らく多くの人間が憧れるような生活なのだ。

では不満はないかと言われれば、それはある。大いに、だ。


 朝日が昇ると起床を促され(と言っても私は日の出より先に起きる生活リズムが身についているので巫女から声がかかるのを布団の中でぼんやりと待っていて時間の無駄だ。かと言って巫女の皆さんより先に活動し始めると、次の日から彼女達は私より更に早く起床しなければならなくなるらしい。それは気の毒なので布団に丸まっているしかない)、着替えの世話をされ(自分一人でやったほうが絶対早いのに、わざわざ二人も私に付いて服を脱がせたり着せたり髪を梳いたりするのだ。コルセットを付けることすらない、極々簡素なドレスなのに。時間と人員の無駄だと言っても、決まりだから仕方ないというけれど、誰が決めた決まりなのだろう? ビド様じゃないよね?)(『僕がそんなことまで口出すわけないだろ』と声が聞こえた。)朝食を済ませると、後は一人礼拝堂に篭ってビド神へ祈りを捧げ(そもそも祈りを捧げるという行為が私にはよくわからないのだ。祈りって何? 感謝? お願い? 神官の人に言われたまま、手を組んで、いつもありがとうございますーとかなんとなく頭の中で言っているけど、正直言って別にビド様に感謝してるかというとそうでも


『わかったわかった。君が今の暮らしに不満を感じているのはよーーくわかったから。一日の流れにひとつひとつ丁寧な不満を添えながら紹介しないでくれ』


「やっぱり私、聖女には向いてないと思うんですよね。ビド様も実はそう思ってるんじゃないですか?」


『それはそうさ。君に聖女の資質なんてほとんどないよ』


「そうでしょう……って、はい?」


ビド様を撫でていた手が止まる。口ではこう言ってもさすがにそこは否定してくれるだろうと思っていたのに、随分あっさりと。


じゃあ。

どうして。

カミーユ様が私を迎えに来てくれたあの日から、少しだけ信じ始めていたのだ。

自分は特別な人間なのかもしれないって。

違ったの?

本当は私じゃなくても良かった?

カミーユ様が言っていたのは嘘?


『あのなァ、アリス。傷つくのなら自分からそんな質問するもんじゃない』


「……別に傷ついてないですけど」


この人相手に強がったって意味なんてないってわかっていても、悔しくて「傷ついてない」なんて嘘をつく。ビド様はこちらの表情を確認すると小さくため息を吐き、床へ降りて私と正面から対峙した。


『これを伝えると君が変に気を張りそうだから嫌だったんだけど。そんな顔をされるんなら話したほうがマシだな。いいかい、アリス。アリス・キャビネット。大神マスティスの子・ビドの加護を受けし娘よ。君を聖女に選んだのは、この国の行く末に君が深く関わるからだ。僕に未来の断片を見る力があるのは知っているだろう?』


急に仰々しい話し方をするものだから面食らってしまう。なんというか、神様っぽい。というか未来が見える? そんな話聞いたことあっただろうか。


「それは……聞いたことがあるような……ないような?」


『知らないって言いなよ、そういうときはさ。嘘ついたって意味ないだろ? とにかくそういう力がね、僕にはあるんだよ。ま、未来なんてこれからいくらでも変わる可能性のある、曖昧な夢みたいなものだけどさ』


「はあ。それで、どんな夢を見たんです?」


『夢()()()、って言っただろ。本当に君は……まあいいさ。僕が見たのはね、カミーユの死、そしてこの国の“滅亡”だよ』


♢♢♢♢♢♢


 アリスが一日の大半を過ごす礼拝堂はグレンダルト王国の最北端、海にせり出す崖の端に造られている。礼拝堂を含めたこの神域は禁足地、王宮の一角にあるとはいえ国王ですらそう易々と足を踏み入れられる場所ではないのだが、それをまるで意に介さないといった顔で歩いている者が一人。


 グレンダルト王国第一王子、カミーユ=フォリアム・グレンダルトだ。


 幼いながらに整った顔立ちは知らぬ者が見れば、場所が場所なだけに神の化身と信じ込んでしまいそうなほど。海風に揺られた細い金色の髪が太陽に反射して煌めいた。


「失礼します。アリス様はいらっしゃいますか?」


 開け放たれた礼拝堂の出入り口からカミーユが顔を出す。

 天窓から差し込む光がカミーユに背を向ける形で座っている少女に降り注いでいたが、彼女からの返事はなかった。普段であれば自分が顔を見せればアリスの慌てふためく可愛らしい姿が見られるのにこれは一体どうしたことか、とカミーユは訝しむ。


「アリス様?」


カミーユがもう一度声を掛けるとアリスの肩が大きく揺れ、何か良くないものでも見たかのような表情で振り返った。


「どうかなさったのですか? どこか具合でも?」


「いいえ、その……」


俯いたアリスの顔に影が落ちる。見慣れぬ彼女の様子にカミーユが慌てて駆け寄ると


『カミーユ』


もう一人の声が礼拝堂に響いた。見れば、アリスの前で丸まっている猫が一匹。尻尾まで隠し、カミーユと目があうとどこかばつが悪そうに眼を伏せた。


どんな姿になろうとも唯一それだけは変わらない、宝石のようなオッドアイの瞳がいつもより曇っている。


「ビド様。一体何が?」


『話したんだよ、あんまり彼女が理由を知りたがるものだから』


「なっ……! 話したって、一体何を!? どこまで!?」


狼狽するカミーユの声に、ビドは一層体を丸め込む。


『それは勿論、君がアリスに隠していることのあれこれさ。自分は聖女には相応しくないんじゃないか、なぜ自分なのかってアリスのやつ、ここに来てからずっとそればっかり考えていたんだぞ、不憫じゃないか。僕なりの優しさだったんだよ』


 国の守護神であるビドはいくつかの特別な力を持っている。未来視はそのうちの一つ。数年あるいは十数年先の未来の断片が見えるというものだ。


そして彼は見てしまった。カミーユの死、他国による領土占領、最後には国の消滅する様を。


とはいえその未来は確定されたものではなく、ビドの瞳には様々な可能性が映し出される。最悪の未来を見たその直後に映ったのは、カミーユが生き残る可能性を示した未来……身を挺して王子の命を守る、アリス・キャビネットの姿だった。


 このグレンダルトにおいて聖女とは祈りを通して神と繋がり、自身の魔力を捧げる者のことを指す。魔力もビドへの信仰心もまるで持たないアリスが聖女に選ばれたたった一つの理由。


それは来る日に備え、彼女に神の加護を与えてカミーユを守らせることだったのだ。


しかし生まれながら王国の将来を背負うカミーユならいざ知らず、アリスはただの平民である。国の為に神へ祈る仕事と聞いてやってきたのに、身体を張って王子を守れとは随分と話が違う。カミーユ、更にはグレンダルト王国の文字通り「命運」が掛かっているなどアリスにはあまりにも荷が重い。


『アリスがここまで動揺するとは予想外だったよ。もっと肝が据わっていると思ったんだけどなあ。ほら、彼女が僕と初めて会った時のことは君も覚えてるだろう? 随分度胸があるって君も笑ってたじゃないか。でもまあ、良い機会だ。アリスは今の生活に不満があるみたいだからさ。この辺りで彼女の扱い、もっと考えてやったほうがいいと思うぞ、カミーユ?』


そう言ってそっぽを向くビドへ抗議の声をあげようと口を開きかけたカミーユは、逡巡してから小さく頭を振った。


「そんなに饒舌になるってことは、ビド様も選択を誤ったとお思いなのですね」


そしてカミーユはアリスの前に(ひざまず)き、椅子に座ったまま青い顔をして俯く彼女の手を取る。


「……アリス様。貴女が聖女に選ばれた本当の理由を伏せておこうと決めたのはビド様と私なのです。事が事だけに、あの場で詳しい事情を話すことはできませんでした。そして恥ずかしいことに、もし本当の理由を話せば貴女がこの話を受けてくださらないのではないかと……そう思い、これまで理由をお話ししませんでした。全くなんと身勝手で浅はかなことか。そのうえ今の生活にご不満があることにすら気付けず、様々な我慢を強いてしまっていたのですね。お咎めはどうか、ビド様ではなくこの私に」


「おやめ下さい! 私なんかに頭を下げるなんて……!」


「いいえ。ここにお連れしたのは私です。私が自分の命の為に王子という立場と貴女からの好意を利用してここに連れてきたのですから、責任は私にあります。ビド様のお話を聞いてもしエブロン様の許へ戻りたいとお思いになられたのでしたら引き留めはしません。初めにお伝えした通り貴女はいつでもその役目を降りることが出来るのです」


「えっ……。そん、な、」


戸惑うアリスをよそに、カミーユは静かに言葉を続けた。


「未来は変えられるものです。将来何者かから命を狙われるということが分かっただけでも充分なのですよ。私には優秀な護衛もついていますし、貴女が私の命という重い責任を負う必要はありません」


「でも……ん? こっ、好意!? カミーユ様、今さっき、私からの好意って仰りました!? えっ? わわわ私の気持ちをずっとごっ、ご存知でっ!?」


「それはまぁ、その。そうですね。人の心の機微については敏感にならざるを得ない立場におりますので」


困ったような笑みを浮かべるカミーユに、先ほどまで思いつめた表情を浮かべていたアリスが「ひえぇぇぇ」と小さく悲鳴を上げ手で顔を覆った。


 カミーユはさも自分は他人の感情に(さと)いから気付いたかのような言い方をしたがこれは彼の優しさである。実のところカミーユでなくともアリスの恋心など周囲の人間にはバレバレだ。皆アリスとそういった話題を話せる関係ではないため口にしないだけで、巫女、ひいては普段滅多に顔を合わせない神官にすら新しくやって来た聖女様がカミーユに好意を寄せていることは知れ渡っている。


「アリス様」


 いつも以上に優しいカミーユの声色。この後に続く言葉が予想出来てしまい、アリスは泣きそうになった。しかしだからと言ってこの場から逃げ出す訳にもいかない。アリスは大きく息を吸ってカミーユの目を見つめる。


「……はい」


「貴女のお気持ちは本当に嬉しいのです。そこに偽りはありません。ですが、」


ですが。

言いよどむカミーユに、彼女の胸は締め付けられる。

初めから一国の王子相手にどうにかなれるなんて夢を見ていたわけではない。そんなことはアリスだって百も承知だった。そもそも想いを告げる予定もなければ、当然、こうして面と向かって振られる予定だってなかったのだ。ただでさえカミーユの生死(と、この国の行く末)が自分にかかっているなどと言われて混乱しているのに、とんだ追い打ちである。


「ビド様がお伝えした通り、私は女なのです。貴女の気持ちに答えられず心苦しいのですが……」


「…………え?」


「私はこの国の王位継承者。成人すれば世継ぎを産まなければなりません。それもまた私の大切な責務なので「ちょちょちょ、ちょっと待って、じゃなくて、お待ち下さい!!!」


「……? どうかされましたか?」


「いや、今、女って」


「ええ。ですから私は本当は女……えっ?」


アリスとカミーユは互いにポカンと口を開けてしばしの間見つめあった。

静けさに包まれた礼拝堂の外で、うみねこが呑気に鳴く声がこだましている。


 先に動いたのはカミーユだった。頬を引き攣らせゼンマイ人形のようにぎこちなく首を捻り、糾弾する相手はもちろん素知らぬ顔をしている猫、もといビドである。


「ビ、ビド様? これは一体どういうことでしょうか?」


『僕は隠し事を()()話したとは一言も言ってないだろう。あれこれって言ったじゃないか。君の性別に関して僕は何も教えていないぞ』


そこでやめておけば良かったのに、ビドがそれから更に「やれやれ。全くカミーユは早とちりだなァ」なんて煽るからタチが悪い。事実カミーユの早とちりだったわけだが、この言い方は良くなかった。努めて冷静であろうとしていたカミーユもこれには我慢の限界、スッと顔から表情が消えたかと思うとツカツカとビドの許へ歩み寄り、その首根っこを掴んで力任せに石像めがけてぶん投げた。


『っと。危ないなあ。動物虐待っていうんだぞ、これ。こんな事していいと思っているのか? ちゃんと証人もいるからな!』


ビドは華麗に石像へ飛び乗ると、抗議の声を上げた。だがカミーユは神の声などまるで意に介さないといった体で冷めた視線を送る。


「ビド様が動物だったとは初耳ですね。ああ、アリス様。私がこんな事をするのはこの方相手だけですのでどうかご安心を」


 にっこりと笑みを向けられたアリスは生まれて初めて「肝が冷える」というものを経験した。カミーユの身体からほとばしっている感情と、顔に浮かぶ表情があっていない。自分の知るカミーユからは想像もつかない破天荒ともいえる行動に、アリスはただこくこくと頷くのが精一杯だ。


「ビド様、貴方わざと私の性別をアリス様に伝えたか言及しませんでしたね? 私や事情を知る者たちがこの事についてどれ程心を砕いているか知らない貴方ではないでしょう。お考えがあっての事だと思い、何も言うまいとしましたのに。していい事と悪い事の判別もお出来にならないのですか? いや、失礼。それがお分かりになるような方ならそもそもこんな所にいらっしゃらないですよね」


『……おい。それはいくらお前といえど聞き逃せないぞ。僕相手にそんな事言ってどうなるかわかっているんだろうな?』


最後の台詞はビドの何かに触れたらしい。瞬間、カミーユは視界が歪むのを感じてよろめいた。地面の底から湧き上がってくるような、空から押し潰されそうな圧迫感。


 猫だったはずのビドは瞬きをする度に大男や鋭い牙を持つ獣、巨大な鳥へとその姿を変え、大きく羽ばたいた翼から艶やかな藍色の羽根が舞う。不思議なことに礼拝堂はビドの姿によってその大きさが変化しているようだ。


「何をなさろうと、私は、謝りませんよ」


 ビドの強い魔力に当てられ息も絶え絶えな状態でなお、カミーユは怯まない。両手足に力を込め、座り込みそうになる体を押さえつける。仮にもこの国の守護神であるビドの怒りに触れるなど、国王に知られれば叱られるだけでは済まないだろう。


だが許せなかったのだ。


政略結婚による隣国からの侵略を防ぐ為、国王はカミーユが産まれた瞬間から今日まで国民に子の性別を偽り続けている。男児が産まれたと知って盛大に沸いた国民達を欺くその行為。罪悪感はどれほどのものだろう。そしてそれはカミーユもまた同じことだ。自身もこの秘密のせいで我慢せざるをえない事が数多くあったし、秘密を知る者にはたくさんの苦労をかけてきた。


それを聖女相手とはいえこんな風にバラされるのは、これまでの自分達の努力を無下に扱われたも同じである。


 一方、ちょっと凄んでみせればすぐに謝るだろうと思っていたビドはカミーユの決して折れまいとする姿に少しばかり感心した。そして、過去の弱みを持ち出され子供相手に柄にもなく本気を出しかけた自分をほんのわずか恥じ、ないのがまあ、神というものだ。それでもどこか思うところがあったのだろう。ビドは天井を覆っていた翼をたたみ、猫の姿へと戻っていく。


『……はあ。確かに少し意地悪だったな。今の暴言は目を瞑ろう』


止まっていた時が動き出したような感覚。全身からドッと汗が吹き出し、カミーユは長い息を吐いた。そして礼拝堂にもう一人この大問題の当事者がいたことを思い出す。


「アリス様、ご無事ですか!?」


「あっ、はい。私は特に。カミーユ様のほうこそ、その、大丈夫ですか?」


 アリスは思いの外普通、とでも言えば良いのか特に影響を受けた気配もなくカミーユを心配そうに見つめていた。


なるほど、とカミーユは一人納得する。通常、魔力がほとんど無いはずのアリスが神の力の前に晒されて何ともないわけはない。これは間違いなく聖女としての加護によるものだ。王子であるカミーユもビドからいくらかの加護は受けているのだが、聖女へ与えられるそれは桁違いらしい。


「私も問題ありません。恥ずかしいところを見せてしまいました」


 カミーユの照れ笑いする姿にアリスの目が眩んだ。好きな相手が同性だったと知ったところで、すぐに「じゃあこの恋はおしまい!」なんて切り替えが出来る人間はそんなにいないのではないだろうか。少なくとも恋というものが初めてのアリスには難しいことだった。


「さて。そろそろ話を戻しましょう。先ほど私が口を滑らせた性別の話は極々身内の者のみが知る秘密事項。アリス様に非が無いとはいえ、この事は父に伝えなければなりません。丁度こちらへ伺ったのは明後日の晩餐会についてお伝えするためだったのですが、その時に父からお話があると思います」


「うっ。晩餐会……」


 月に一度催される国王一家と聖女の晩餐会。


今回が三度目となるそれは、アリスが聖女になって最も気の重いイベントである。カミーユがここに来たのはマナーに自信がないと嘆くアリスのためにあらかじめ振る舞われるメニューや振られそうな話題を教えるためであった。


当然、そんなのは王子のすることではないと周りの人間はもちろんアリス本人にまで咎められたが、後ろめたさがあったのだろう、カミーユは頑としてその役目を他人に任せようとしなかった。


「もしエブロン様の屋敷へ戻りたいということであればアリス様もその際お話されるのがよろしいかと。そういえばエブロン家の方々と手紙のやりとりはなさっているのですか?」


「いえ、まだ手紙は一通も送っていないんです」


「そうなのですか? メリルのほうからはまだ何も?」


「……? はい、特には」


 アリスの返答にカミーユが何か考え込む素振りをみせる。不思議に思ったアリスが声を掛けようとすると、猫に戻ってからだんまりを決め込んでいたビドが突然呟いた。


『やれやれ。ここはいつからこんな気軽に出入りできる処になったんだ?』


「「え?」」


アリスとカミーユの声が重なった。

石像の上から扉を見つめるビドにつられ二人もその先へ視線を移せば


「カミーユ様!!!」


タイミングを図ったかのように、一人の少年が飛び込んできたのだった。


♢♢♢♢♢♢


「何? メリルが?」


耳下で真っ直ぐに切り揃えられた濡れ羽色の髪が、カミーユの耳元へ寄せる顔を隠している。禁足地の為に普段は待機を命じられている彼がわざわざここまでやってきたということは、何か急ぎの用なのだろう。


レニー・バルディン。

カミーユ様の護衛だ。


どうやら私は彼に嫌われているらしく、先ほど礼拝堂に入って来た時もこちらに挨拶のひとつなかった。王子の下に仕える者としてその態度はいかがなものかと思う事もあるけれど、そもそもほとんど顔を合わせる機会がないのであまり気にしないことにしている。


「わかった。すぐに行こう」


眉を寄せながらバルディンの言葉に耳を傾けていたカミーユ様は、ビド様との応酬で乱れていた衣服の襟を正すとすぐにどこかへ行ってしまった。あとに残されたのは、一匹の猫もどきと目まぐるしいひと時に呆然とする私だけ。


ふう、とひと際大きく溜息をついて椅子に深く沈みこみ、先のあれこれを思い返す。それから事の重大さを再確認してまたひとつ、溜息。


「ビド様、私どうすればいいんですか?」


『君が好きなようにすればいいってずっと言ってるだろう』


「それがわからないから聞いてるんじゃないですか……」


『僕が何か言えば君はその言葉に従うだろう? それじゃあ困るんだよ。自分の人生を僕に委ねないでくれ。じゃあ僕はもう眠るから。君も今日は早く休むといいよ。良い夢を、アリス』


言うが早いかビド様は寝息を立てて眠り始めてしまった。

まだ日も落ちていないが、私も今日はもう休んでしまおう。たまにはそんな日があってもいい。何だかどっと疲れてしまった。


 今日は食事は取らずに休む、と伝えれば案の定あれこれと詮索を受けたけれど、適当にあしらってベッドに潜り込む。


国王様達との晩餐会を除けば酷く穏やかな日々ばかりを過ごしているから、こんな疲労感を覚えるのは随分と久しぶりだ。メイドとして働いていた頃は一日が終わるとくたくただったのに。


毎日緊張感を持って働いていたあの頃が懐かしい。時間に追われ、どうすればより効率よく仕事をこなす事が出来るか試行錯誤する日々。使用人のみんなと休息を取る、束の間の楽しみ。いつも厳しくて怖いメイド長、屋敷で働く私たちに優しくして下さるエブロン家の皆様。


ここにはあんな風に私と親しくしてくれる人はほとんどいない。


……寂しい。


そう思ったのはここに来てから初めてのことだった。

エブロン家で過ごした記憶が次々と蘇り、気付くと涙がこぼれていた。


私が聖女に選ばれた理由。

驚きはしたものの、正直言ってその役目が嫌なわけではないのだ。

ただ単純に、自信がない。

カミーユ様をお守りするなんてそんな大役、本当に私に務まるのだろうか。

もし肝心なところで私が失敗してしまったら?食事の味付けを間違えるのとはわけが違う。失敗すればこの国は終わってしまう、そんなことを言われて怖気づかないはずがない。だって私は訓練を受けた兵士でも何でもない、ただの田舎娘。いくらビド様の加護を受けているといっても、咄嗟に動けるかどうかすらわからない。


それにしても、君が好きなことをすればいいだなんて全く、ビド様も簡単に言ってくれる。

そもそも私が好きにやりたいことは掃除とか洗濯とか、誰かのお世話とか。聖女ではなくメイドの仕事なのだ。


そうだ、メイドとしてここで働けたら最高なのに!


仮にも私はズェリアラでも有数の御屋敷で「優秀なメイド」と評価を頂いた人間だ。貴族や王族のマナーだって教えてもらえればすぐに覚えられるはず。以前はエブロン家以外私を雇ってくれる所なんてあるはずない、なんて思っていたけれど、この聖域で働く巫女の人たちの働きっぷりを見る限り、私って実は結構仕事の出来る人間なんじゃないかと思う。


そういえばカミーユ様が私を迎えに来た時、メイドを探しているって言っていたじゃない。カミーユ様の侍女になれば常にカミーユ様のお側にいてお守りすることができる。それに私はカミーユ様の秘密も知っているのだ。私以上に適任はいないのでは?


……なんてね。


今や自分で自分の世話をすることすら許されない環境で、そんな突拍子もない私の我儘がまかり通るわけはない。それに、メイドの仕事だって私程度の働きが出来る人はいくらでもいることくらい本当はわかっている。


────貴女はいつでもその役目を降りることが出来るのです


いつもならカミーユ様のことを思い出すだけで胸が弾むのに、今はカミーユ様のあの言葉が私の心に暗い影を落とす。


失恋したのが理由じゃない。

私がカミーユ様とどうこうなれるわけがない、そんなのはわかりきっていたことで、その事については「ですよねえ」と言う他ないのだ。……もちろん、面と向かって振られたことはショックだけど。振られたところでそう簡単に気持ちは変わらない。


あの時カミーユ様が繰り返し仰っていた「務めを降りてかまわない」という言葉。最初は私ってその程度だったのかと悲しくなった。でもよく考えればあれはきっと私が責任を感じないよう気遣ってくださったんだろう。その言葉通り、私がエブロン家に戻れば、自分は死んでしまうかもしれないのに。

なんて優しい。そして、強い方だ。

だけど。


私が欲しかったのはそんな言葉じゃなかったのだ。


♢♢♢♢♢♢


 時は少し巻き戻る。

珍しく礼拝堂まで迎えに来たレニーから話を聞いたカミーユは、その場を後にすると足早に自室へ向かった。


「メリル!!!」


白とパステルグリーンを基調とした部屋は真ん中に天蓋付きのベッドが置かれ、カミーユお気に入りのテディベアが主人の帰りを静かに待っていた。そして部屋の隅ではテーブルに花を生けている老婆が一人。


「なんですか騒々しい。そんなに声を荒げて。はしたないですよ、カミーユ様」


大声をあげながら戻ってきたカミーユをしゃがれた声がたしなめる。


「なんだとはなんだ! 過労で倒れたのだろう!? 休んでいろとあれほど言ったのに、お前こそなんで働いているんだ!」


老婆はカミーユを一瞥し、クローゼットから新しい着替えを用意し始めながらこともなげに答える。


「もう充分お休みは頂きましたよ。それに私が動かなければカミーユ様のお世話は一体誰がすると言うのです」


「世話と言ったって、問題があるのは着替えと入浴くらいだろう? そのくらいなら私一人でも……ま、まあ、レニーもいるのだから、なんとかなるだろうし! なあレニー?」


「いえ。私がカミーユ様のお身体を拝見、ましてや触れるなど、それこそ大問題でしょう」


「……っ、そこは嘘でもとりあえず私に同意するところだろう!?」


レニーにあっさりと梯子を外され、カミーユは悔しそうに地団駄を踏んだ。礼拝堂でビドと対峙していた勇壮な姿とは打って変わり随分と子供じみたその仕草に、病み上がりの老婆はやれやれ、と頭を振った。


 カミーユの乳母を務めるメリル・クープは現国王、更には先代国王も育て上げた大ベテランである。年齢は80を過ぎ、家臣は勿論、王すらも彼女にはなかなか頭が上がらない。とはいえ年齢が年齢だ。現国王カルウェルの妻、王妃ルミリアが懐妊した当初メリルは退任しカミーユの世話は別の者が引き継ぐ予定だった。


しかしルミリアが懐妊してまもなく、グレンダルト王国に大きな悩みの種が生まれた。それは政略結婚を推し進めていた隣国ヴァルザーグと取り交わした「娘が産まれた場合にはヴァルザーグの王子を婿に迎える」という約束である。


ヴァルザーグ帝国は政略結婚によって近隣諸国を次々に併合しており、グレンダルトももし王子を迎え入れればどうなるのかは明らかだった。


 そして産まれた子供は女。国王カルウェルは「産まれたのは男児である」と偽り、ヴァルザーグとの取り交わしを破談させることに成功した。


 次に持ち上がった問題は当然、この秘密をいかにして守るか、ということだった。カミーユの周りには王がとりわけ信頼できる者を置かなければならない。その為に次の適任者が見つかるまで、という条件でメリルは再び乳母として王家に仕えることとなったのだが、その後彼女のお眼鏡に叶う人物は現れず、今日に至る。


「お前ももうこんな風に働くような歳ではないのはわかっているだろう。いい加減次の世話役を決めたらどうなんだ?」


カミーユは丁寧にブラッシングされ光沢を放つベルベットチェアに腰を下ろし、焼き立てのクッキーを頬張りながらメリルに噛み付いた。


「任せられる者がいないのですから仕方ないでしょう。ましてや例の件を知っても問題がないと思えるような人物など。そんな者がいるのであれば私もすぐに身を退きますとも」


メリルが紅茶を注ぐと、沈丁花があしらわれたティーカップからは柔らかな湯気が上った。


「秘密かあ。秘密……ううーん」


湯気の揺れ上る様を見つめながら、カミーユはつい先程秘密をバラしてしまった少女を思い出す。


「そういえばメリル。お前、アリス様がエブロン家へ手紙を出されるよう手配していないのか?」


「手紙、ですか?」


カップへミルクを注ぎ、紅茶を淡く色づけていたメリルの手が止まる。まるで心当たりがないというようなメリルの様子に、カミーユは顔を曇らせた。


「私たちがアリス様をお迎えに上がった時、帰りの馬車で満足に別れの挨拶が出来なかったと仰っていただろう。その時、お前が言ったんじゃないか」


部屋が静まり返る。そこまで説明してもメリルはまだピンと来ないらしい。カミーユが労わるような声色で言葉を続ける。


「やっぱりお前ももう歳なんだよ。前はこんなことなかったのに、最近物忘れも増えているだろう? 仕事を正確にこなせないのはメリル、お前が一番許せないんじゃないのか?」


「……!」


反論のひとつやふたつ返ってくるかと思っていたカミーユは、メリルが愕然とした表情を浮かべているのを目にして動揺する。メリルのそんな表情を見るのは初めてだった。言い過ぎたかと慌ててフォローを入れようとしたが、メリルはそれよりも早く深々と頭を下げた。


「全くもってその通りでございます。私の不手際はカミーユ様、ひいては国王陛下の御顔に泥を塗るようなもの。カミーユ様のお世話は耄碌した老婆に務まるような仕事ではございません。すぐに代わりの者を見つけるよう、国王陛下に進言致しましょう」


「……そんな簡単に見つからない、ってお前が言っていたんじゃないか」


散々渋っていたくせに。カミーユが口を尖らせると、数秒前までの神妙な態度から一変、メリルはいつもの泰然とした姿に戻っていた。


「事情が変わりました。これ以上カミーユ様に恥をかかせるようなことがあってはなりません。何としてでも後任を見つけなくては。……とはいえ」


「とはいえ?」


カミーユが続きを催促する。メリルは中性的な美しさを放つこの部屋の主を見やり、小さく溜息をついた。


「適任者が見つからないのは事実なのですよ。城で働くメイドは若い娘ばかりですから、どこまで信用できるかわかりません。かといって長年勤めている者はすでにそれぞれ重要な役割を担っている者ばかりですので、迂闊に役職を移すことは難しいのです」


ルミリア様付きのピレーネならあるいは……いえそれでは……などと一人呟き始めたメリルを横目に、カミーユは自分好みの甘さに調整された温かいミルクティーを口へ運んだ。


メイド。


最近やたらと関わりがある単語である。

実はカミーユにはある考えがあった。そしてそれが大勢の人間から反対を受けることもよくわかっていた。アリスの好意を利用してここまで連れてきた手前、あの時はああいうしかなかったが……。

自分の生死がかかっているのだ、話してみる価値はあるだろう。


「なぁ、メリル。それにレニー。ひとつ、私から提案があるのだけれど……」


♢♢♢♢♢♢


歓声につぐ歓声。

耳が痛くなるほどの大歓声だ。


それまで雲に覆い隠されていた太陽が彼女の登場に合わせ顔を出すさまは、さながら舞台装置のよう。胸元から腰にかけて細かに施された銀糸の刺繍、サファイアのはめ込まれたクラウン、身に着けたジュエリーの数々……そのどれもが彼女を輝かさんときらめいている。


「カミーユ王女万歳!カミーユ王女万歳!」


熱狂する民衆の声に、笑顔で手を振るカミーユ様。

やっと。やっと、この美しいカミーユ様本来の御姿を陽の光の下で見ることが出来た。

私は感極まって涙ぐむ。

ああ。

この方にお仕えできて私はなんて、


「カミーユ様!!!!!」


後ろから誰かが飛び出してきた、と思うのと同時にレニーの叫び声が上がった。

金属のぶつかり合う堅い音が響き、歓声は一瞬のうちに悲鳴へと変わる。


私は反射的に駆け出し、カミーユ様を背後に庇う。バルコニーの中央で揉み合うレニーと刺客の男を避けながら屋内へと逃げようとして、違和感に気付いた。何かがおかしい。先ほどまでここに居たはずの衛兵はどこに行った?陛下とルミリア様は?警戒を怠らないようにしながらバルコニーに続く部屋の様子をそっと確認した私はその光景を見て息を呑んだ。数十人はいたはずの衛兵、そして陛下と王妃様までもがその場に倒れている。無事なのは私とレニーのみなのか。これは……


キィン、とひと際高い音がして振り返れば、刺客の得物が弾かれていた。レニーが倒れこんだ何者かの首元に剣先を突きつけている。まだこの緊急事態には気付いていないようだ。


「誰の差し金だ」


男はその質問に答えず、視線だけをこちらに向け口の端を小さく吊りあげた。


────笑った。


男の笑みに嫌なものを感じ、背後にいるカミーユ様の無事を確認する。彼女は屋内の様子を目にし、立ち竦んでいた。と、きらり、カミーユ様のティアラが何かに反射して光った。


咄嗟に私はカミーユ様の肩を掴み、押しのける。その光が私の身体にぶつかる前のわずかな一瞬、部屋の奥で布で顔を隠した何者かが立っているのが目に入り込む。やっぱり。刺客は一人ではなかったのだ。先の男は囮だったのだろう。


「アリス!!!!」


カミーユ様が私を呼ぶ声は爆発音にかき消され、視界が白煙に埋め尽くされる。

カミーユ様は、あの男は、レニーは、、、、


♢♢♢♢♢♢


今見たものが予知夢と呼ばれるものだと、目覚めてすぐ直感した。

あれがビド様の言っていた、将来起こりえる可能性。

ビド様め、何が「良い夢を」だ。


動悸が止まらない。

もう一度眠る気には到底なれず、身体を起こして窓の外を確認する。空はうっすら明るくなってきているが、巫女の誰かが起こしにくるまではまだしばらく時間が掛かるだろう。


心を落ち着かせようと私はしばらく部屋の中を行ったり来たりしてからベッドに腰掛けた。冷え切った指先を温めようと擦り合わせた手が震え、そのまま指を組んで祈りのポーズを取る。肺から全ての空気を吐き出し、苦しくなるほど目一杯息を吸い込めば、ほんの少し、緊張がほぐれた気がした。


先ほど見た夢を思い返す。不思議と夢の中の私に恐怖はなかった。あったのは「カミーユ様をお守りしなければ」という強い使命感。更に意外だったのは、あの時の自分が随分と場慣れしていることだった。もっと同様して右往左往しそうなものなのに、あんな状況でもなんとか自分の使命を全うしようと必死だった。


あれ?

なんだ。

私、ちゃんと出来てたじゃない。


ビド様から聖女に選ばれた理由を聞いた時、まず思ったのが「自分にその大役が務まるのか?」。それだった。というか、やっぱり今考えたって私には少し、いやかなり荷が重すぎると思う。


でもビド様は私がカミーユ様を守るところを見たと言い、私も今、それを見た。


大丈夫。私はしっかりやっていた。


ひょっとしたらあの夢がビド様の見せた物というのは私の勘違いで、単に私が「こんな風になれたらいいな」と夢想して作り上げたただの夢かもしれない。それでも、今私がカミーユ様に向けるこの感情は。


きっと人はこれを「吹っ切れた」というのだろう。昨日から抱え込んでいた戸惑いが嘘のようだ。何だか急に自信が湧いてきて、居ても立ってもいられない。跳ねるようにベッドから立ち上がるとクローゼットの扉を開いて新しい服に着替え、髪を結う。


私は私のやりたいことを、やるべきことをやってやる。何か言う人には、文句はビド様へどうぞ、そう返してやれば良い。


生まれ変わったり吹っ切れたり。最近の私、(せわ)しないな。


少しだけ自嘲気味に笑ってから、そっと扉を開けて部屋を抜け出した。


首元を撫でる外気が心地良い。久しぶりに嗅ぐ、生き物が動き出す前の土と雨が混ざったような香りを胸いっぱい吸い込んで、私はある場所へ向かう。


礼拝堂の横を抜けて更にその先、この国の本当の最北端。あと一歩踏み出せば海へと真っ逆さまの崖端は普段立ち入りを禁止されていて、私も今来たのが初めてだ。次々と寄せては砕けていく波は、一度見始めると目が離せなくなる不思議な力がある。足元から静かに忍び寄る冷気は、どこか死の気配を思わせた。


でも今の私に怖いものはない。だってビド様の加護があるんだし。うっかり足を踏み外しても、きっと加護の力でどうにか……落っこちたらどんな風に「どうにか」なるんだろう……。


いけないいけない、脱線してしまった。

気を取り直して仰いだ空には、すぐそこまで朝がやって来ている。

それから私は、国中の人々を叩き起こす勢いで叫んだ。


「やるぞぉーーーー!!」


こんな大声を出したの、いつぶりだろう。腹の底から吐き出した私の叫びが風と波の音に混じって溶けていく。


「アリス様?」


「ひゃあああ!?」


唐突に掛けられた声に私は心臓が飛び出るほど驚いてよろめき、危うく崖から転げ落ちかけた。加護の力がどんなふうに働くのか身をもって知る寸でのところで、慌てて伸ばされた手に腕を引かれて事なきを得た。


腕を掴まれたまま、私はその人物から少しでも距離を取ろうと体を精一杯反らせる。あぁ、もっときちんと身だしなみを整えてから来るんだった。自分で髪を結うのは久しぶりだったし、気が(はや)っていたからかなり適当だったのに。


こんな時間にお会いするなんて思いもよらな……あれ、なんでこんな時間にカミーユ様がここにいるんだろう。


「カミーユ様、どうしてこちらに?」


挨拶も忘れて疑問をすぐにぶつけてしまったことを、私は口に出してから後悔した。見たところ寝巻きではない、普段のお召し物のようだ。たぶんカミーユ様が私のように一人で着替えをなさることはないだろうから、少なくともメリルさんはカミーユ様がここに来ていることを知っているのか。


「ビド様に叩き起こされたのですよ。こんな時間に何をお考えなのかと思ったのですが……。アリス様こそこんな所で何を?」


あ。

カミーユ様の私を見る目つきで気が付いた。疑われている。たぶん、私が身投げでもするのではないかと。だから今だにカミーユ様の手は私の腕をそこそこの力で掴んだままなのだ。確かにこんな時間に一人で崖に佇んでいたら何かよからぬことを考えているのではと怪しまれるのも無理はない。


「いえ、私は何というか……決意表明? そう、決意表明というやつです! 決して身投げとかそういうのではないのでご安心を!! ですから手を離して頂けると助かるのですが……」


カミーユ様は私のいつになく力強い返答に気圧されたようで、すぐに「失礼」と手を離して私から距離を置いた。


「決意表明? ということは何かアリス様の中で決心がつかれたということでしょうか? その、もし差し支えなければ、お聞きしても?」


「勿論です。カミーユ様にも聞いて頂きたいことでしたから」


カミーユ様は随分と探るような物言いだ。昨日の今日で決意表明といったら聖女に関する何らかであることはすぐに察しがつくだろうから当然か。


岸端を背に、私はカミーユ様の御顔をしばし見つめる。歯切れの悪い話し方とは裏腹に、その表情からは期待も不安も何一つ読み取れなかった。


「以前メイドとして働いていた頃は、今ぐらいの時間にはもう働いていたんです。でも今は私が早起きをすると巫女の人たちに迷惑がかかってしまうらしくて。だから皆さんに合わせて動いていたんですけど、そういうの、もういいかなって思いまして」


「……何か心変わりがあったのですね」


「はい」


思いっきり叫んだ後だからだろうか。緊張してろくに返事もできなかったこれまでが嘘のように、今日はまともに会話が出来る。さっきはいきなりのことで驚いたけど、今はもう落ち着いて、穏やかな気持ちだ。自然と笑える。


「私、カミーユ様をお慕いしています。異性としてではなく……ううん、初めは異性として、カミーユ様に恋をしていたんだと思います。でも今はそれ以上に貴方を敬愛しているんです。だから私にカミーユ様をお守りする力があるのなら、逃げません。聖女を続けます」


その言葉にカミーユ様は美しい……そう、私を一目で恋に落とした、その美しい空色の目を見開いて何度か瞬きをした。


「ただ、今までみたいに色々と我慢するのは辞めます。ビド様がずっと言ってたんです、私の好きにしていい、って。やっぱり私は一日中お祈りをして過ごすより、家事をしたり身体を動かしているほうが合っているんですよね。だから、神官の方にお願いして私も「あの!!!」


「えっ?」


饒舌になりつつあった私の話をカミーユ様が遮った。

これまでにない晴れやかな気持ちで調子に乗って喋り過ぎてしまっただろうか。わ、何だか急に恥ずかしくなってきた。


「お話を遮ってしまい申し訳ありません。ですが、ええ、まずはその告白とご決断に心からの感謝を。それから、これはご提案なのですが」


「提案、ですか? 私に?」


「はい。アリス様にその気があれば、の話としてお聞き下さい。私の侍女として働いてみる気はございませんか?」


「えっ」


「前にもお話した通り、メリルが仕事の後継人を探しているのです。エブロン氏はアリス様のメイドとしての腕を大変評価していらっしゃいました。ビド様はアリス様が私を守る所を見たのだと仰っていましたから、常に行動をしなくとも()()()には側にいらっしゃるのでしょうが、一緒にいてくださる時間は長い方が心強い。そして何より、貴女は最大の問題であった私の秘密をご存じだ。貴女以上に適任はいないと私は思うのです。無論、無理にとは言いません」


まさか、カミーユ様が私と同じことを考えているなんて。でもそれよりも。


「無理にとは言わない」……またそれだ。


どうしてこの方は王族という立場でありながらそんな風に私なんかのことを気遣うのだろう。


「カミーユ様」


「はい」


「どうしてそんな風に、私のことを気遣ってばかりおられるのですか」


「? そうでしょうか。相手の意思を尊重するのは当然のことかと」


「……いいえ。いいえ! 失礼を承知で申し上げますが! もっと我儘を言ってもで良いのではないでしょうか! 少なくとも私は、カミーユ様に初めてお会いしたあの日、貴方に全てを捧げようと、そう決めていたのです! 提案だなんてそんなこと仰らないで下さい。貴方がそうしろと、私が必要だと一言そう仰って下されば、私は聖女でも侍女でも何でもこなしてみせます!!」


思わず握りしめた手に力がこもった。

私はこの方の力になりたい。

身の丈に合わない役目だって、カミーユ様が私にそう望むのなら精一杯努力してみせる。


「……ふぅ」


カミーユ様が小さく嘆息した。

……急に私一人で盛り上がって引かれただろうか。握った手の平が緊張で汗ばみ始める。


「貴女が私のことをそこまで想っていて下さるとは。とても光栄です。いや、違うな。そうじゃなくて……」


ふと、今朝の夢で見たカミーユ様の姿が重なった。歳を重ね美しく麗しい王女へと成長なされたあの御姿。朝日が(あつら)えられたかのようなタイミングで昇り、今はまだ中性的なその御顔をゆっくりと照らし始める。


「アリス・キャビネット。侍女として、聖女として、私を支えてほしい。私には貴女の力が必要だ。そして私もまた、貴女が仕えるに値する正しい人間であるよう努めることをここに誓おう」


この感情を何と表わすのか、今の私にはまだ分からない。初めてカミーユ様にお会いした時とは違う、もっと心の深いところに突き刺さるような、身震いする程の喜び。


「カミーユ様がそれを望むのなら、喜んで」


今日のこの出来事を、私は生涯忘れる事はないだろう。


♢♢♢♢♢♢


「ねえ、今の子。カミーユ殿下付きになった新しい侍女でしょ?」


「そうそう! 元聖女様って聞いたけど、本当なのかしらね」


 階段の踊り場で清掃にあたっている先輩方へアリスが挨拶をして通り過ぎると、背中からそんな会話が聞こえてきた。正式にカミーユの侍女となって以降、もう何度聞いたかわからない噂話だ。アリスは心の中で(半分当たりで半分外れですよ)と返事をしながら王宮の最上階へと向かう。


聖女様を王子の侍女に。


カミーユ及びメリルによって提案されたその珍人事は、滅多なことでは表に出てこない神官達まで巻き込んでの大騒動に発展した。


性別の件に加え、アリスが聖女に選ばれた理由を知らぬ者がほとんどである為、カミーユがアリスへ個人的な感情を抱いた事によるものなのではなどと言った噂も立ち、事態はカミーユの想定を遥かに上回ることとなった。


最終的にはビド神の神託によるものであると国王が宣言することで何とか収拾はついたものの、アリスはこの半年近く王宮中の者達から奇異の目に晒されている。


 ちなみに先程「半分外れ」とアリスが言ったのは勿論「元聖女様」の部分だ。表向きは聖女を過去最速で引退した事になっているが、アリスは今でも現役の聖女としてビドからばっちり加護を受けている。なので、仮にこの鳴り物入りでやってきた侍女に何者かが嫌がらせをしようとしても間違いなく失敗するのだが……影の権力者と恐れられるメリルの推薦ということもあり今のところアリスの労働環境は非常にクリーンだ。


「おはよう、レニー」


「……ああ」


 すでに扉の前で主の起床を待っている護衛のレニー・バルディンへいつものように挨拶をすれば、これまたいつものように愛想の悪い返事が返ってきた。


「ああ、って。今日も不愛想で結構なこと」


以前アリスはこの愛想のなさからレニーに嫌われているのではないかと感じていた。それが自分へ限ったものではなく、彼の生来の性格であると気付いたのはつい最近のことである。とはいえ、普段共に過ごす時間の最も長い同僚が常にこの調子なのはアリスとしてもあまり面白いものではない。


いつかその無表情を崩してやる、とあの手この手で交流を図っているとかいないとか。

 

アリスは今日一日の予定を頭の中で確認してから、よし、と声に出して気合いを入れ、部屋の扉を叩く。


「おはようございます! カミーユ様!」



今日も仕事は大忙し。


カミーユが不自由なく、快適で安全な一日を過ごせるよう尽力を尽くす。


それが侍女兼聖女、アリス・キャビネットの使命である。


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