第63話 取引
「取引?」
「はい、悪い取引ではないと思います」
「内容によるわね」
ノア様がそう言うと、ルクシアさんは口元を隠してふふっと笑い。
「ワタシと結婚してください」
「はい?」
「んなっ!?」
「………お嬢が結婚?」
「オトハ、落ち着けっ………あ、いないんだった」
待て待て、いきなりとんでもない言葉を。
いや、元々婚約者候補なんだし、顔が好きで一目ぼれしたって言ってたから、不自然なことではないのか?
「えっと、ここまで来ておいてあれだけど、まだ結婚する気はないのよ。ごめんなさいね?」
「そうですか………」
心底残念そうな顔をするルクシアさんは、どうやら本当にノア様がタイプらしい。
「では妥協案で、ワタシの婚約者になっていただけませんか?」
「変わってませんけど」
「どの辺を妥協したんすか」
「いえそうではなく。婚約者だという体で、名前だけ貸してほしいのです」
ああ、なるほど。
この美貌と聡明さで、しかも前大統領の娘ともなれば、もう引く手数多だろう。
しかし、恐らく本人はそれらの連中と会う気すらない。
だからノア様と婚約したことにしたい、と。
「まあそれくらいなら構わないわよ。それで、私はその条件を受け入れてそんな見返りが貰えるのかしら?」
「ワタシとの婚姻届けとか」
「さようなら、楽しかったわ」
「待ってください、冗談です!」
再びすっとぼけたことを言い出したルクシアさんがノア様を引き留め、辛うじてわたしたちはその場にとどまった。
「で、見返りは?」
「コホンッ、では改めまして。そもそもの話、ワタシと婚約したという状況そのものが、あなたのメリットとなるはずです。度重なる衆愚たちから送られてくる写真に参っているのは、あなたも同じでしょうノアマリーさん」
「………なるほどね。でも足りないわ」
「そうですねぇ。じゃあ、今後ワタシから敵対する意思は見せないという誓約書でも書いておきましょうか」
「あら、いいわね。それでいいでしょう」
それでいいのか、と一瞬思ったけど。
たしかに連邦と王国は、王国と帝国ほどではないにしろ、仲が良いというわけではない。
いくら中立国とはいえ、それが絶対に戦争には発展しないという保証にはならないのだ。
その時、ルクシアさんが相手側については何かと厄介なことになりかねない。
その点、協力関係を結んでおけば何かと有利に事が進められる。
「これでよろしいでしょうか、ノアマリーさん」
「ええ。あと、ノアマリーさんは長いでしょ?ノアで良いわよ」
「では遠慮なく、ノアさんとお呼びしますね」
わたしたち従者以外には略して呼ばれるのを嫌がる(尤もそれで呼んでいるのはわたしだけだったけど)ノア様がそれを許可するということは、つまり。
ルクシア・バレンタインもまた、ノア様が認めた人間だということになったのだろう。
二人はその場で握手を交わし、その直後、ルクシアさんの従者のケーラさんがお茶を運んできた。
その後はしばらく談笑が続き、ノア様とルクシアさんは婚約者というよりも気の合う友人のように楽しんでいた。
「そういえばノアさん、今日はオトハさんはいらっしゃらないようですが。せっかくですし挨拶したかったのに残念です」
「あー、オトハね。その、なんて言ったらいいのか」
「話の邪魔になりそうだったので、馬車の中に拘束してきました」
「な、何故?」
止む無くわたしは、オトハの生態を説明する。
「と、いうわけでして。ノア様を偏愛しているあの子がここにいては、まだ大本の話し合いも終わっていなかったでしょう」
「な、なるほど。しかしさすがノアさん、そこまで仲間に慕われるなんて、余程のリーダーシップをお持ちなんでしょうね」
「いえ、あの子が特殊すぎるだけよ」
「我々もノア様に忠は誓っていますが、オトハはベクトルが違いますし」
「ん、ちょっと異常」
「双子の弟でも弁解できないレベルだ」
「み、皆さん仲間なんですよね?」
仲間だし、信頼もしているが、『ノア様に対する危険性』という面で見れば奴ほど信頼できない女もいないだろう。
今こうしている間にも、必死にあの縄をほどこうと苦心を―――。
「見つけましたわああああ!!」
ずっとしていればよかったのに。
「オ、オトハ!?もう解いたのか、あの拘束を!?」
「ふ、ふふふ………やってくれましたわねクロさん、それにオウラン。ええ、あの縄と鍵を攻略するのは苦労しましたとも!」
「あの接着剤、ちょっとやそっとの毒では溶けない高級品なんですが」
「ふふ、甘いですわよクロさん」
この状況においては迷惑の塊のようなオトハが、得意げな顔をしているとなんだろう。
割とむかつく。
「接着剤に含まれている成分も、立派な有害物質ですわ。それを解析し、干渉してしまえば、接着剤を無効化、あとは縄そのものを酸で溶かしてしまえば私は自由!鍵はもっと簡単です、開閉口を溶かすだけで簡単に開きましたわ!」
「あの接着剤は毒劇魔法を使っていない市販のものなんですが。あなた、自分が生成したもの以外への干渉ってまだできないはずじゃ」
「お嬢様への愛が!私をさらに進化させたのですわ!」
「もうヤダこの変態」
ノア様への愛―――いや、もう愛なんて綺麗な言葉を使うのはよそう。
ノア様への性欲が、彼女の毒劇魔法をさらにワンステップ上へと押し上げたのか。
本当に変態ってたまに天才発揮するのが嫌だ。
「というわけで!何故私がお嬢様に怒られるの覚悟で、ここに来たのかというと!」
「婚約者を、抹殺しようと?」
「そうそう、私からお嬢様を奪おうとするバレンタイン家の小娘とやらを抹殺………って違いますわ、いくら私だってそこまでしませんわよっ!」
((((やりかねない………))))
わたしたち四人の心が一つになった瞬間である。
「まず言っておくと、私たちは仮初の婚約はしたけれど、結婚はしないという約束になったわよ?」
「あら、そうなんですの?ならいいですわ!」
満足そうな顔をするオトハ。
詳細すら聞かず、ただノア様が結婚しないという部分だけ聞き取ったなあれは。
「それよりオトハ?あなた、ここまでどうやって来たの?鍵とか閉まってたわよね」
「もちろん、すべて酸で乗り越えてきましたわ」
「見張りとかは」
「睡眠ガスで今頃ぐっすりと」
ノア様は頭を抱えてしまわれた。
あのノア様が頭を抱える。その状況がどれほど珍しいことか。
「………ルクシア、本当にごめんなさい。よく言っておくわ」
「い、いえ、ワタシは別に」
「オトハ」
「はいっ!」
「ちょっとこっち来なさい」
「はいっ!」
返事だけはしっかりしているトラブルの擬人化のような少女が、犬耳と犬尻尾の幻覚が見えそうなほど従順にノア様に近づく。
「オトハ?仮にも良好な関係を築いていこうというこの時に、何やってくれてるのかしら?」
「っ!?」
やっとノア様がガチ怒りしているのを察したようだが、もう遅い。
「ステア」
「な、なに?」
「この駄犬を『ワン』としか喋れなくして、二足歩行できなくしてやりなさい」
「えっ」
「お、お嬢様ぁ!?それはあまりに酷ではないでしょうか!?犬になれと!?」
「そうよ。駄犬から忠犬になって、『まて』の仕方を覚えるまで躾けるから覚悟しなさいねぇ?」
「え、ちょ、本気ですの!?ステア、ちょっとそれはさすがにああああーーーーーー!?」
オトハが必死に芸をこなして許してもらうまでに三日かかった。




