第442話 愛した者と愛された者
……昨日は大変だった。
「ふぅーーー……」
「あら、随分なため息ですわねクロさん」
「ええまあ」
本当に、大変だった。
あの後、本気でノア様を殺そうとする那由多(しかも見たこともないようなSFチックな銃火器を使ってた。なんだあの、万物を素粒子レベルまで粉々にできそうなビーム)を何とか宥め、ヘトヘトになってベッドに戻った頃には既に東の空が明るくなりつつある時間だった。
「今日は書類整理で本当に良かったです。この分なら夕方には終わりそうですね」
「向こうでステアが無双してますしねぇ」
オトハが指を指した方向を見ると、瞬時に目通しが必要なものとそうでないもの、印が必要なもの、その他諸々を秒間10枚くらい捌いている天才が、欠伸をしながら作業していた。
「おかげさまで読むべき書類は最小限、印も流れ作業で押すだけですからね」
「持つべき仲間は天才に限りますわ」
「同感です。男どもは?」
「オウランは向こうに仕事持ってって作業してますわ。ルシアスはアルスシールの鎮圧に」
「ああ……例のノア様の放送で怒り始めたやつらですか。帝国軍とかち合わなければいいですが」
「大丈夫でしょう、あの男なら。……少し疲れましたわね。クロさん、紅茶でも飲みます?」
「お願いします」
ぐーっと伸びをして机に突っ伏す。
これなら今夜はゆっくりできそうだ。昼の内に食事の用意だけ済ませておくか。
「どうぞ」
「いただきます。……おお、腕上げましたね」
「光栄ですわ」
本当に、ノア様さえ絡まなければ限りなく完璧に近い女なのに。
「ステア、あなたも休憩したらどうですか?美味しいですよ」
「いい」
「おや。そうですか」
わたしが淹れるより美味しいのに勿体ない。
そのまま一杯飲み切り、お茶菓子に手を伸ばして。
「だって、それ、盛られてる」
力が入らなくなった身体が机に倒れ伏し、菓子の盆をひっくり返した。
「……えっ」
そのままズルズル……と身体は机からずり落ち、「よいせっと」なんて言いながらオトハに椅子にもたれかからされた。
なされるがままになりながら、わたしはこの女が、ノア様が絡んだ瞬間に世界一の頭パァな大馬鹿者になることを思い出していた……。
「ナユタ先生から教わった私のラベリング番号《S-7》。首より下を対象に脳から運動神経への伝達を著しく遅くする薬ですわ」
「いや、ちょっ……!」
何厄介なものを教えているんだ那由多とか、なんて拷問向きな薬だとか、そもそもどういう仕組みだとか、そういうのは一旦置いておこう。
「な、なんのつもりですか、オトハ……!」
「らしくありませんわねぇクロさん。普段のあなたなら、念のため紅茶の成分以外のものを消してから飲んでいたでしょうに」
クソッ、薬が消せない。
一応、体内にも闇を展開することは出来るようになっているが、気づくのが遅すぎた。既に全身に回って、薬の成分と抑制されている部分のみを消すのは不可能だ。
「し、質問に答えなさい!」
「質問?それをするのはこっちですわクロさん?場合によってはもう少し色々と盛ることも出来ますのよ?」
「ちょっ、話が通じな……ステア、助け……」
この場でただ1人、話が通じる子に助けを求めたが。
ステアはなんと助けるどころか、とことこと歩いてきたかと思うと、あろうことかオトハの隣に座ったではないか。
「残念でしたわね。ステアはこちら側ですわ」
「ステアぁ!?」
「クロ、ごめんね」
……終わった。
これがステアが敵側にいる絶望か。
「……で、何が聞きたいというのですか」
ま、まさか。
いや、有り得ない。昨日の今日だ。
いくらこのノア様至上主義全肯定厄介ド変態18禁オタク馬鹿とはいえ……!
「単刀直入にお聞きしますが、お嬢様に告白されました?」
嘘だろコイツ。
顔には出さないよう、精いっぱい努力したはずだが。
チラリとステアを見たが、彼女は静かに首を横に振った。
「……そう思った根拠は」
「あれは今朝のこと。何故かボロボロで、しかしどこか晴れやかな顔をしていたお嬢様にお会いしたのですが」
那由多を翻弄できたことで随分楽しそうにされていたからな……。
流石の世界一の天才も、魔法無しで二属性持ちを相手にするのはきつかったようだった。
「その時、勿論お嬢様の前に跪き、なんとか私を辱めていただけないか懇願したのですが」
「うっわ」
「その時、たしかにこの鼻腔に届いたのです。お嬢様の……そう例えるなら……メスの香り!」
「キモぉ……」
「オトハ、気持ち悪い」
わたしどころか、何故か向こうに回っているステアにすらもドン引きされているのにまるで気づいていないような―――いや、ステアのストレート罵倒はちょっと効いているっぽい―――素振りでいつもの如く気色の悪い演説を始めたオトハは、本当にもうダメなんだなと思った。
身体が動かないので、誰か目尻の涙を拭ってほしい。
「昨夜の就寝前3つの妙な音を聞きましたわ。扉の外から聞こえてきた物音。明らかに重武装をした何者かの足音。その後聞こえてきた謎の爆音。これらの音声から状況が推察できますわ」
変態の分際で探偵のようなことを言い出した。
「私たちのチームで重武装が必要なのはオウランかナユタ先生のみ。ですがオウランはその時、私と一緒にいました。ということは2番目の音の正体はナユタ先生。そして爆音轟かせたこと、お嬢様が翌朝疲弊していたことから、武装を向ける相手はお嬢様。そしてナユタ先生がお嬢様との契約を反故にする危険性を孕んででもあの御方を亡き者にする原因は?クロさん以外有り得ません」
後生だから、この才能を生かせる道へ勝手に進んでいってほしい。
「そしてあのお嬢様から漂う香り。あの、性欲に身を委ねようとしたのにおあずけを食らったような、しかしそのもどかしさもまた、いつか意中の相手を乱すためのスパイスと思っているような、あの、あの……!」
「ステア、お菓子食べさせてもらえますか」
「あーん」
「聞きなさい!!」
なら聞く価値のあることを言え。
「ていうか、なんで匂いでそこまで分かるんですか。犬猫だってもうちょっと控えめな性能してると思いますけど。人間やめて『変態』っていう種族にジョブチェンジをご希望ですか?」
「新種……歴史的には、弾圧の、対象」
「でも変態を弾圧って、割と当たり前の話ですよね」
「至極真っ当」
「そろそろ泣きますわよ」
オトハはため息をついた。
何故こちらがそんな対応をされなければならないのだろうか。
「ステア、なんでそちら側にいるんですか」
「……度し難い、あんぽんたんでは、あるけど。利害は、一致してた」
「利害?」
「クロと、お嬢のこと」
……やっぱり、そういうことなのか。
「あなたなら頭を覗くくらい簡単でしょうに」
「出来ることと、やりたいことは、違う」
ステアはわたしの目をじっと見つめ、どこか不安そうにわたしに語り掛けた。
「そういうのは、覗き見は、したくない。だから、教えてほしい」
「……それで、オトハがわたしに一服盛るのを黙認したと」
「安全性は、確認した」
「そういう問題なんですかね……」
ステアの身になれば、わたしとノア様の関係性が変わってしまうことに不安を覚えるのは分からなくない。
「こんなことしたことについては、謝罪しますわ。ですが、こうでもしないとクロさん、適当に流して逃げるでしょう」
「そんなこと……ありませんよ」
「なんですの今の間」
オトハもいつの間にか真剣な表情となり、わたしを真っ直ぐに見ていた。
「教えてくださいな。お嬢様と、何があったか」




