第440話 ノアとクロ
一瞬、脳が理解を拒否した。
今、何を言われた。ノア様は何と言った。
わ、分からない。分からないということにしたい。
しかし、平均よりはまあ回ると自負しているわたしの頭は、遅れながらもそれを理解してしまった。
しかし、やはりなにかおかしくなったのだろう。数秒の後、わたしが喉から絞り出した第一声は。
「はあ?」
「うそでしょあなた」
自分でも驚くくらい低めの「はあ?」が出た。
……ふー。落ち着けわたし。そうだ、昔もこんなことがあったじゃないか。
あれはそう、全神国にこれから行こう、という時だ。あそこの言い伝えにふざけたものがあって、その関係でわたしとノア様が結婚しているふりをした。
なるほど、今回もその類いか。
この御方は、何故こう何度も何度も、わたしに不要な心労をかけるのか。
「先に言っておくけど、フリとかじゃなくてマジのやつね」
………………。
ああ、じゃあ、
「血痕との間違いでもないわよ」
………………。
じゃあ、もう選択肢が無いんだが。
「念のため確認いたしますが、結婚とは、意中の相手と婚約し、籍を入れ、基本的には一緒に暮らし、生涯を添い遂げる―――というものとわたしは認識しておりますが、合ってますか?」
「まあ概ね」
「そうですか……」
そろそろ、ちゃんと理解しなければならない。
わたしは今、ノア様に求婚されている、と。
打算や仮初、ではない。ノア様のおっしゃる通り、以前全神国に行く時、偽装のために言われた時とは違う。
常人 (オウラン)の時に比べれば随分少ないが、顔の紅潮と発汗。ノア様らしからぬ、僅かながらの緊張が垣間見えてしまった。
こういう時だけは、自分の特技が嫌になる。
分からなければ、もう少し引き伸ばせたのに。
「なぜ……なぜ、わたしなんですか」
喉から勝手に出たのは、純粋な疑問。
誰かに好かれようなんて、毛ほども思わず生きてきたわたしに降ってきた、思いもよらない状況への返答を求めていた。
「わたしは、まあ……多少は動けますし、顔も悪いという訳ではありませんし、忠実ですが」
「思ってたよりは自己評価高いわねあなた」
「ですが口うるさいですし、正論パンチしますし、心配性な、欠点だらけの女です」
自分で言ってて悲しくなってきた。
どれ1つとして直すつもりもないのが尚更だな。
けど、こんなのは言い訳だ。わたしの頭にずっと浮かんでいるのは、こんなことじゃない。
こんなこと、より。
「何より……分不相応です」
―――わたしにとってノア様は、光だった。
恩人であり、主人であり、自分の全てを捧げると誓った、神に近しい御方。
その思いが傾いたことはない。那由多との間で揺れた時すら、それだけは途絶えなかった。
そんな、御方と。
この、わたしが?
そんなの―――、
「……最初に意識したのは、割と最近よ。ナユタと戦った時」
「え?」
「あなたが聞いたんでしょ。なぜ自分なのかって」
わたしとしては、相応しくないということを伝えたかっただけ、なのだけど。
「あの、わたしがノア様に牙向いた時、ですか?」
興味が湧いてしまった。
なぜノア様が、わたしを選ぼうとしてしまったのか。
「私はほら、美しくて強くて完璧な、世界一素晴らしい女じゃない?」
「完璧ではないです」
「そんな私だけど、だからこその弊害っていうのもあって」
「完璧ではないです」
……流された。
「結構ね、裏切られてるのよ、私」
「……裏切り?ノア、様、を?」
「心底意味がわからなそうなリアクションありがとう。でもそうなの。まずルーチェの馬鹿が発端でしょ、それから私に嫉妬した仲間とか、ルーチェと同じように私に魅了されすぎた部下とか。10人くらいかしらね」
意外だった。
話そのものもそうだが、何よりそれを初めて聞くことが。
「途中から裏切られ慣れしちゃったのよね。5人目くらいから、ショックではあるけど、『ああ、またか』くらいにしか思わなくなってた」
「それは……悲しい、ですね」
「でしょ?でも自分を変えるつもりはないから、そういうものだと受け入れてたの。……あの時までは」
「あの、時」
「あなたが、ナユタのところに行きそうだった時よ」
ああ……あれか。
反省はしているが後悔はしていない。
しかし、ノア様を怒らせてしまったことは、ずっとチクチクとわたしの心に針として突き刺さっていた。
「あの時のあなたは、私を優しいと言った。けど違う。私は普通に性格悪いわ。あなたたちに対して特別、というだけ。けど、牙向かれた時点で私は、その輪から外すようにしているの。あなたも、そうしようと思った」
「……!」
「でも、無理だった。いくら親友のために揺れ動き、苦しんでいることを知っていたとはいえ、あくまで一時的とはいえ。私を裏切ったあなたに対して、非情になれなかった」
あの時のノア様を、思い出す。
わたしが自爆覚悟でノア様を罠に引き込んだ時、わたしの命が危険だと見るや、攻撃を受ける覚悟で助けてくれた。
あの時の、必死な表情―――。
「あなたを失うのが怖かった。裏切りなんて、考えもしなかった。あなたが、私を見限るのが、本当に恐ろしかった」
「ノア……様」
「私はねクロ、今まで恋愛感情を持ったことがなかった。きっとどこかで、裏切られることを恐れていたんでしょうね。だから無茶な条件で自分を騙して、その感情に蓋をしていた」
でも、とノア様は区切った。
横を見ると、いつの間にか至近距離にいたノア様が、私の瞳をじっくりと見つめていた。
「へ、え……?」
「その私に、あなたは気づかせてしまったみたい。嘘偽りない本心というものを」
いつの間にか、わたしはベッドの上に転がされていた。
それに覆い被さるようにして、私の手をがっちりと握っているノア様。
逃げられ、ない。
「自分を曲げてでも傍に置いておきたいと思わせて、他の女にばかりかまって嫉妬なんてさせて。これじゃ私が普通の乙女みたいじゃない」
「な……なにか、問題が、おありでしょう、か」
「大ありよ。世界の王様が、この私が、そんな普通の女の子みたいなこと、格好がつかないじゃない。責任取りなさい」
「責任って……」
わたしの顔は、今どうなっているだろう。
真っ赤か。それとも真っ青か。
青い気がする。だって、世界で最も美しい、全てを従えるために生まれてきたこの御方を。
わたし、ごときが。
そんな、こと―――。
「好きよクロ。私のものになりなさい。真の意味で」




