第426話 湿度
「……で、どうするんですこれ。暫く動けなさそうですよ」
「困ったわねぇ。明後日から任せてる仕事があるのに」
傷心のところ申し訳ないが、こっちは落ち込んでいる場合じゃないほど忙しい。というか彼がこのまま離脱したら、わたしにその御鉢が回ってくる可能性がある。それは全力で避けたい。
「オウラン、元気だしてください。ケーキとお茶ありますよ」
「ほらオウラン、立ちなさい。私の顔があるわよ」
「お嬢様あ!?そんなガチ恋距離この愚弟には勿体ありませんわこの私に近づけてくださいな!!」
「いやあなたも慰めなさい」
しかし本当にショックだったのだろう、ピクリとも動かない。
「困りましたね。ノア様こういう時はどうすればいいのでしょうか」
「分からないわよ。フラれたことないもの」
「ごふっ」
「おい血吐いたぞ」
「お嬢、やめてあげて」
重傷だ。下手をすれば命に関わるかもしれない。
仕事で失敗したとかならノア様に一喝してもらえば済む話だが、しかし恋愛の話なんてノア様の立場からして見れば、言い方は悪いが「知ったこっちゃねえよ」案件だ。この程度のことでいちいち主の手を煩わせるのもよろしくない。
「早々に何とかするべきなんですがねぇ……」
「うーん」
よく知らないが、人を慰めるのは同じ経験をした人が最適と聞く。
失恋をした人を癒すのは、同じように失恋の経験を持つ人、か。しかしここで失恋したことありそうな人は皆無だ。
「……あ」
しかし、ここにいない人で、心当たりがなくもなかった。
しかし……いいのかこれは。色々な意味で。
「あーもう、めんどいですわね。ルシアス!」
「あん?」
「ちょっと送り届けてくださいな。スギノキに」
「何か用でも……おいお前まさか」
いや、でもわたしが葛藤してる間に姉がやろうとしてるし、いいのかもしれない。
「一応わたしもついて行きます」
「お願いします。ほらルシアス、早くしてくださいな」
「ええ……おお……いいけどよ……」
***
「うむ……うーーーーむ」
転移してきたのはスギノキの一室、その手前。
襖の横の壁を何度もノックしたが返事がなく、何かあったのではと中に入ってみると。
「手慰みに作ったにしてはよく出来てはいる気がするが、あの方の可愛らしさとかっこよさにはまだ届かぬなぁ。もっとこう彼奴は、ほっぺがぷにぷにしてて尻がこう……」
「「「……」」」
その一室とはまあ、ボタンの部屋だったのだが。
超発達した聴力を持つはずの彼女は、まったくこちらの音に気づかず、何かをチクチク縫っていた。
「まあまだ13体目、こんなもんじゃろ。後は彼にこいつを抱きしめさせて匂いをつければ完璧なんじゃが」
「ボタンちゃん」
「うぴゃああああ!!?あいだああああ!!」
夢中になるのはいいが、自慢の耳と重力レーダーのブレですら気づかないほど熱中するのはいかがなものか。
針を自分の指に勢いよくぶっ刺したボタンは、悶絶しながらこちらを振り向いた。
「お、お、驚かすではないオトハ!親友とはいえやっていいことと悪いことがあるぞ!」
「いえ、驚かせたつもりは無いのですが。ノックもしましたし、ボタンちゃんが気づかないとは思いませんし」
「ああ、うむ……そうか……そうじゃな」
指を舐めつつ、改めてこちらを向いたボタンは、ようやく色々と気づき始めたらしく。
「クロ殿に馬鹿ゴリラ、それに……オウラン!?オウランではないか!ワシとしたことがこんな近くに本物がおるのに気付かぬとは!?ちょっ、待て、今日の下着は……」
「確認しなくていいですから」
手に持っていたもの―――どう見えもオウランを象った人形―――を離し、嬉々として向かってきたの、だが。
「久しぶりじゃ旦那様よ!最近は―――どうしたのじゃあ!?」
ピクリとも動かず、涙も枯れたようでひたすらに虚無を覗いている男の様子に、驚天動地といったようだった。
「何があった!いじめられたのか!?」
「いえ、そういうのでは……いや、間違ってもないんですかね?」
「肉体的にも精神的にもボコボコにされたわけですから、定義するならいじめかもしれませんわね」
「誰じゃあ!!このワシが愛する男をこんな目に合わせたのはぁ!?今すぐ連れてこい、すり潰して魚の餌にしてくれる!!」
まさに怒り心頭という感じで、床がミシミシ言うほどの重力を己にかけている。これはまずい。
「あの、とりあえず事情を説明しますので、お座り下さ」
「貴様か!?貴様じゃなこのクソハゲザル!!そこになおれ、成敗してくれるわ!」
「なんでだよ俺じゃねぇよ!おいやめろっつの、お前が本気で暴れたらここら一体吹き飛ぶの忘れんな!」
聞いちゃいない。
「ボタンちゃん、オウランが作ったクッキーありますわよ」
「くれ!!」
慣れたようにボタンを宥めてくれたオトハ。
ありがたい。だがそのクッキーを作ったのはわたしだ。
「うまい!!」
「ありがとうございます。では説明を」
「ああうむ、すまぬな。……なんで其方が礼を言ったんじゃ今?」
事情をかいつまんで説明すると、ボタンは先程の暴れぶりから一変、オウランを見て動かなくなっていた。
「そうか……失恋してしまったか」
「まあ、オウランが彼女を楽しませるほど強くなるならまだワンチャンありますが」
「無理でしょう。リーフですわよ」
「ワシとは違い、才覚と努力だけで覚醒へと至った魔術師と聞いておるぞ。厳しいじゃろうな」
そう言いながら、ボタンは動かないオウランを引力で引き寄せ、自分の膝の上にしれっと乗せて膝枕を始めた。
「辛かったじゃろうな。しばらくこうしておいてやるから、好きなようにすれば良い」
「うっ……ぐすっ……」
あ、また泣き始めた。
傷心の時は、やはり人の温もりと心からの優しい言葉か。
それだけはわたしたちには誰にも出来ないからな。なにせサディスト、ダウナー、マゾ(姉)、筋肉だ。
わたしもその辺はよく分からないし、連れてきたのは正解だったようだ。
「ふぐっ……分かってたよ、分かってた……こうなるんじゃないかってことぐらい……」
しかも喋り始めた。
「でも好きだったから……あの時から……うう、好きだったんだぁ……!」
「そうか。 そのまま好きなように話すとよい」
深く心が傷ついた今のオウランに、ボタンの慰めは相当効いたらしい。
普段なら顔を赤くして跳ね除けるであろうボタンの膝枕も、頭よしよしも、微動だにせず受け入れている。
「ワシにもわかるぞ、お前の気持ちは。さあ、今のうちに泣いておけ。ノア殿のところでは抑えが効いてしまうじゃろうからな」
「……でも、ボタンの服が汚れる」
離れるという選択肢が今はないらしい。
「わはは、気にするでないわそんなこと。お前の涙なら本望じゃ」
想い人がフラれたという話に喜びは見せず、傷ついた想い人を癒すことを優先する。
……なるほど、これがいい女というやつか。
今のボタンからは、何やら母性のようなものすら感じる。
「……なんでしょう、私もちょっと膝枕されたくなってきましたわ」
「わかります」
「すまん、今日こやつの特等席じゃ」
これは、わたしたちはお邪魔かもしれないな。
オトハとルシアスに合図して、立ち上がり、静かに部屋を出た。
「いいのか?」
「ええ。あれなら大丈夫でしょう、彼女に――」
『しかし勿体ないのう、その女。こんなに愛らしいお前に好かれながら、機会を棒に振るとは』
『はは……そんなこと言ってくれるのお前だけだよ……』
……ん?
あれ、気のせいか。湿度が高くなったような。
『むう、そうなのか。そうかそうか、他の女は見る目がないのう。……ワシなら、お前に寂しい思いなどさせぬぞ?』
いや、気のせいじゃない。
そういう魂胆かあの女。
「おいあいつまさか」
「傷心のオウランにつけ込む気まんまんですね」
「ボタンちゃんったら悪い女ですわ」
引き続き襖の奥では、湿度高めのボタンが、オウランが今1番欲しそうな言葉を選んでかけ続けている。
「おい、どうすんだ」
「どうするって……」
わたしは悩んだ。どうすべきか。
数秒うなり、考え―――。
なんかもうめんどくさくなったので、そのままにすることにした。
「いや、もういいんじゃないですか。彼らももう19ですよ。仮に一線越えたところで当人たちの問題でしょう」
「それもそうだな。じゃ、行くか」
「明日迎えに来ればいいですわね」
わたしたちは湿度から避難するがごとく、さっさと帰宅した。