第316話 お迎え教室
「……うっ」
ここ、どこだろう。
わたしはたしか、あの御方とはぐれて、それで……。
……?
あのおかたって誰だろう。
変な夢でも見てたのかな、わたし。
辺りを見渡すと、もう夕方になりかけた時間。
わたしはブランコに乗ったまま寝てしまっていたらしい。確かに妙に眠いし、少し頭痛もする。
頭を掻くと、1本だけ髪が抜けてしまった。色は黒。
当たり前だ。ここは日本なんだから。
この国の小学生で、黒くない方が珍しい。
なんだか今日のわたしはおかしいな。なんでこんなどうでもいいことにばかり目が行くんだろう。
変な夢でも見ていたのかもしれない。
「ふああ……」
欠伸を1つして、少しだけブランコを揺らした。
決してサボりとかではない。授業はすでに終わっている。
でもわたしは両親が少し普通じゃないから、こうして放課後も学校に留まり、お迎え教室に参加している。
まあ、わたしの両親がお迎えに来てくれたことなんてただの一度もないけど。
今に始まったことじゃない、もう慣れた。
それに、早く帰って殴られたりするよりはよっぽどいい。
この学校に転校してきてもう1ヶ月。クラスでの友達はゼロ。
というより、皆の家の人がわたしの両親のことを知って、避けるように言ったみたいだ。
担任の先生もわたしを嫌がっているみたい。
これももう慣れた。というか前の学校でもそうだった。
けど、前の学校と1つだけ違うことがある。
クラスでの友達はいない。でも、お迎え教室では―――。
「だーれだ!」
突然、わたしの目を誰かの手が覆った。
柔らかくて小さな手。そして声。間違いない。
というか、こんな嫌われ者のわたしにこんなことするのが1人しかいない。
「……永和でしょう?」
「あったり~!」
「もう。これ毎日やるの面倒くさいからやめましょうよ」
雛月永和。わたしと同じ小学4年生。
わたしに初めて出来た友達。
転校初日、わたしの格好がボロボロだったのをいじられていた時、永和が助けてくれたのが始まりだった。
最初はもちろん突き放そうとした。自分が一緒にいたら迷惑がかかるって。
わたしの親は、父も母もわたしを好きじゃない。
まだ父がお金持ちだった頃、母を妊娠させてわたしを産んだ。
そして父の会社が倒産したら、一転して今の借金まみれの生活。
殴られる蹴られるは当たり前。土日は色々なところでお金を稼がされて、唯一休めるのが小学校だった。
昔は行かせてもらえない時期もあったけど、最近は児童なんちゃらっていうところが凄く父と母をマークしていて、わたしを行かせないと捕まっちゃいそうだから仕方なく、らしい。
わたしを助けてくれた後、何度も話しかけてきた永和にこれを話した。
わたしと関わってもいいことない。やめた方がいいって。
そしたら永和は、離れるどころか目を輝かせて寄ってきて。
『アタシも同じ感じだよ!仲間じゃん!』
永和は、父親が悪魔みたいな人らしい。
母親にも永和にも暴力を振るい、母親は逃げ出す勇気がない。
だから永和も、母親を守るためにずっと一緒にいる。
『アタシもこんなんだから、皆に避けられてんの!嫌われ者同士仲良くしよーよ!』
そう言ってくれた永和の優しさには、感謝してもしきれない。
自分の痛みと苦しみを分かち合える、親友だ。
「ん?どしたの、久音?」
「なんでもありません。それよりわたしを呼びに来たんじゃないんですか?」
「あ、そうそう。あいつ、教室で待ってるって。行こ!」
「ちょっ……もう、引っ張らないでください」
そう口では言うけど、嬉しい。
今まで、誰かとこうして手をつなぐことなんてなかった。
永和と親友になって―――わたしはやっと、人生が少しだけ楽しいって思えた。
「とうちゃーく!」
そのまま手をつないだまま、お迎え教室の前まで来た。
わたしが扉を開くと、中には何人かの子供と先生がいる。
けど、わたしたちだってわかると全員顔を逸らした。
これが普通の反応だ。前の学校でわたしがずっとされてた反応。
それと、たまにいるいじめてくるやつ。わたしの中で小学校は、この2パターンしかなかった。永和がわたしの手をとってくれるまでは。
「えーっと。あ、いたいた」
上履きに履き替えて、教室の中を進んでいく。他の子たちが避ける。
そして奥には、ものすごい量の本に囲まれた女の子が1人いた。
わたしを助けてくれたのは永和。それは間違いない。
でも、その後もう1人いた。わたしのことを知っても、わたしの前から離れないでそばに居てくれた子が。
「うへぇ、また難しい本読んでる。えっと……なんて読むのこれ?」
「き……き……」
「『幾何学』だよ。今まで触れてこなかったけど、見てみると面白いよ、読んでみる?」
「いや、どうせ漢字読めないし」
「それに、あなたの頭にわたしたちがついていけるわけがないじゃないですか」
わたしがそう言うと、目の前の子は「あはは」と笑って。
「それはそうだよ、私は天才だからね」
「知ってるよ。だから先生にも嫌われてるんじゃん」
「授業中に本読んでるのを怒られたのに、そこで先生をろんぱ?しちゃったんでしたっけ」
「うん。だって、知ってることをわざわざ1日かけて教えられるなんて苦痛なだけでしょ?まだ見ぬ知識を求めて本を読んだりネットサーフィンをしたりする方がよっぽどいい」
「もう学校来る必要ないじゃん」
「私が学校に来てるのは、2人に会うためだから」
「ええ?えへへぇ」
「そ、そんなこと言われたら照れます……」
「さ、今日は何して遊ぼうか?永和、久音」
そう言って、その子は立ち上がった。
この学校で初めて出来た、わたしが何よりも大事なもの。
永和と同じくらい大好きな、もう1人の親友。
「前はアタシの鬼ごっこだったよね!」
「その前はわたしのポーカーだったので……今日はあなたが選んでいいですよ」
「那由多」
***
「はぁ……はぁ……」
『クロ!大丈夫なの!?ねえ、クロってば!』
そうだ、思い出した。
全部思い出した。
名前も、空白の時間も、大切な記憶も。
あの時の思い出を、わたしは死ぬ直前まで強く思っていた。
走馬灯に両親の顔なんて欠片も出てこなかった。あの時駆け巡ったのは、何もかもが2人との思い出。
どうして忘れていたんだろう。命よりも大切だったはずなのに。
絶望的だったわたしの人生を悪くないと思わせてくれた、楽しくて美しい記憶だったのに。
わたしのかつての名前は―――久音。
日陰 久音。
永和と那由多の、親友だ。
小学生の語彙力とかわかんねえ……。