第302話 ご褒美の……
「お嬢様、お願いしたい儀がございますわ」
転生者についての話も終わり、久しぶりに大書庫に戻ってきて早々、ノア様に真剣な面持ちでそう言ったのはオトハだ。
「改まってどうしたのよ?」
「お嬢様。私たちが二手に分かれる前、私におっしゃった“ご褒美”の件、覚えていらっしゃいますでしょうか?」
「ああ……」
そう切り出されたことで、ノア様はチラッとわたしの方を見た。
“ご褒美”とは、ノア様がオトハに全神国で提示したものだ。
ノア様と離れることに駄々をこねたあの阿呆を言うこと聞かせるためのもので、1つ目の前払いである『1日奴隷になる権利』は達成済みだ。これを褒美だと思っているこの淫乱ピンクの頭のネジは一体何本抜けているのか一度見てみたいものだけど、今回の後払いの話とは関係ないので割愛する。
そして後払いとは―――頬にキスしてもらうことだ。
そう、キス。唇を他人の人体に押しつける行為。かつての世界、アメリカなどでは挨拶の代わりにもなっていた文化だが、この世界では日本と同じくらいの感覚。つまり頬にキスだけでも大分に大分な行動ということになる。
「……そのことね」
「はい!その約束を、今この瞬間までただの一瞬たりとも忘れたことはありませんでしたわ!朝昼は働きながらその幸せな瞬間を夢想し、夜は毎晩夢にその情景が浮かび、何度枕を鼻血で汚したことか!」
「その度にわたしが血の跡を消してたんですよ。朝っぱらから血まみれの顔であなたがわたしを起こしに来た時の驚愕分かります?」
「懐古、それが原因で貧血になって使い物にならなかった日は置いていこうかと真剣にクロと話し合った」
「何してるのよあなた」
「その件については大変申し訳ございませんでした。ですが、それほどにこの瞬間を一日千秋の思いで待ち続けたということですわ!さあ!お嬢様!私とキ、キキキキキ……」
これに関しては、まあ予想していたことではあった。
このノア様限界オタクが、ノア様からのご褒美を忘れるなんてありえないだろう。それは分かってはいた。
予想外だったのは、長く離れたことで彼女のノア様耐性が大幅に減少してしまったことだ。自分で何を言っているか分からないが、とりあえずそういう耐性がオトハにはあるらしく、長く離れると今までは大丈夫だった程度の接触や声かけでもキャパオーバーして死にかける。なんて面倒くさい体質だ。
ノア様と離れる以前のオトハの耐性を100とすると、今は多分15そこらだ。さて、元の状態ですらキスなんてされれば数日は起き上がれないであろうこの娘が、今この瞬間にキスされるとどうなるか。
決まっている。心肺停止だ。つまり死ぬ。絶対死ぬ。
なので、いきなりノア様にキスさせるわけにはいかない。
「オトハ、分かってるんですか?今のあなたがノア様からキスなど受けようものなら、確実に死にますよ」
「些事!」
「些事!?」
「無論!お嬢様からの寵愛―――ファーストキスを受けるということ栄誉に比べれば、私の命などトイレットペーパー以下ですわ!」
「今更だけど、こんな変態宣言をよく身内の前で言えるもんだ、この愚姉は……」
「本当に今更だな」
「そもそも、ほっぺに、キスって、ファーストキスに、入るの?」
「入らないわよ」
「入りません。というかノア様、前にステアの頬にキスしてましたよね。だから百歩譲って入るとしてもファーストではないですよ」
「なあああああんんですってえええええあああああ!!??」
「うるっさ」
まだわたしたち全員年齢1桁、それこそオトハとオウランに会う前の話だが。
子供時代の可愛い思い出だ。
「うぐぐぐぐ……ええい、もうステアは可愛いからノーカンってことにしますわ!」
「今世紀一番意味わからないノーカウント出ましたね」
「兎にも角にもお嬢様!さあ!今こそご褒美をば!」
思い出に浸る間もなく、オトハの大声で現実に引き戻された。
さて、この状況になった際の対応については既に考えてある。
オトハはノア様が絡まなければ、戦闘もそこそここなせて雑魚狩りに関しては最強、挙句にサポートもこなせるという極めて優秀な側近だ。
主が絡むとポンコツになるという皮肉かつ強烈なデバフさえ無視すれば、失うにはあまりに惜しい人材なので、ここで死なせるわけにはいかない。
と、いうわけで。
「オトハ。その件についてなのですが」
「なんです?後にして頂けませんの?」
「無理です。ノア様のキスなど今のあなたが受ければ、間違いなく死にます。これはもう避けようがない未来です。あなたはそれを些事といいますが、他にしてみれば一大事なのです」
「ではなんですの、諦めろと!?」
「そうは言っていません。そこで、2通りの解決策を考えておきました。どちらか選んでください」
わたしはオトハに近づき、2本指を立てた。
ノア様は完全にわたしに任せるつもりのようで静観している。事の発端なんだからもっと絡んで来いよと思わなくもないが、この人の怠惰は今更なので気にしたら負けだ。
「まず1つ目ですが、延期。つまりあなたのノア様耐性が戻るまでお預けということです」
「2つ目で」
「まだ言ってませんが」
「この高揚をお嬢様からの即接吻以外で鎮められるとでも!?絶対に今ですわこれはチャンスなのですわあ!」
「まったく……では仕方ありませんね。ステア、リーフ、ちょっと来てください」
「「?」」
手招きをして、細剣を磨いていたリーフとテスラの資料を読んでいたステアを呼び寄せる。
「なに?」
「単刀直入に聞くんですが、あなた方オトハにキスできますか?」
「……………はい?」
唐突なわたしの疑問に2人は首を傾げ、オトハも興奮を忘れて素っ頓狂な声を挙げた。
だが、これは必要な確認なのだ。
「疑念、何故そんなことを?」
「いえ、ノア様からの突発的なキスで彼女が死ぬとまずいので、まずはわたしたちで複数回キスして慣れさせれば、まあ死にはしないかなと思いまして」
「ちょちょちょ、ちょっと!?なにを言ってますのクロさん!?」
「で、どうです?」
わたしの質問に、ステアとリーフは顔を見合わせ。
「まあ……」
「回答、普通に出来る」
「嘘でしょう!?」
「解説、見た目は愛らしいし抵抗感はない。少なくともそこらの軟派男にするよりは全然。なにより彼女が死ぬと困るので、ウチとしても協力はやぶさかじゃない」
「ん。同意」
「そうですか。さすがに男にやらせるわけにはいかないし良かったです」
「あの、私の意思は!?……あと、さっきから弟にかつてないほど敵意のこもった目を向けられているのですけれど!」
知らんがな。
まあ彼からしてみれば姉に思い人を奪われたかのような気持ちなのだろうが、姉の命には代えられないということで勘弁してもらおう。
それに、リーフは顔立ちが似ているオトハを愛らしいと表現した。つまりオウランもそう思われてる。多分。きっと。おそらく。
「じゃあさっさとやっちゃいましょう。リーフ、そっちの腕掴んでください」
「承諾」
「あのぉ!何か違うと思うのですけれど!嫌というわけではないのですが!絶対何かがずれてると思いますわ!」
「何か反論するときは言葉を明確にして話してください。ほら、ノア様にキスしてもらうためです、抵抗せずじっとしてなさい」
「選択、誰から行く?」
「年齢順でいきますか。じゃあステア、お願いします」
「おけ」
「ちょお!?」
オトハの肩にステアが手を添えた。
超絶可愛い容姿をしているステアが、すっと目を瞑って唇をオトハの左頬に近づける。その所作は、まるで映画のワンシーンのようだった。
……どこでこんな完璧なイケメンムーブを覚えてきたのだろうか。あとで問いただそう。
「ひ……」
「ひ?」
「ひ、1つ目でお願いしますわあああああ!!」
暗に「ノア様のキスはまた今度で良い」と言って、オトハはわたしとリーフの腕を振りほどいて出口へと駆け出した。
選択権をオトハに与えた以上、それを咎める権利はわたしにはない。なので普通に追わずに見送った。
「ふぅ、我ながら完璧な計画です。あの子は意外と恥ずかしがり屋なのでこうなると思いました」
「あなた、たまに鬼みたいな解決法考えるわね」
ノア様からお褒めの言葉を頂き、何故かオウランから恨むような視線を向けられたが、とりあえずオトハの死を回避することに成功した。