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父王琳の行方

高長恭はついに王位を得て、蘭陵郡王に叙爵した。一方、長江沿岸で陳や北周と戦闘を繰り広げていた父王琳は、陳との決戦に臨んだものの、大敗してしまった。

政変により楊令公は誅殺された。しかし、婁太皇太后の意向を反映し、皇帝高殷と李太后は後宮に留まり、常山王高演は、晋陽で北方の守りに当たりながら政を行うかたちとなった。


四月に入り、正式に王琳が行方不明になったとの報が届いた。長恭は、宣訓宮に祖母の婁太皇太后を訪ねた。正殿の居房の鉢植えを前に、鋏を持って思案している婁氏に向かって、長恭は、頭を下げた。

「御祖母様、実は、密偵から数人をお借りしたいのです」

「婁府の間諜を貸せというのか?」

鋏を止めて、婁氏は(いぶか)し気に長恭を見遣った。


婁氏は夫高歓を見初めて婚儀を挙げて以来、多くの密偵を養って来た。質素を旨とする生活を送る一方、多くの間諜や密偵により夫の政略や軍略を陰から支えていたのだ。ゆえに先帝高洋や李皇后と対立して、一見孤立したように見える時でさえ、居ながらに朝廷の動向を探ることができた。皇宮の至る所に、間者を送り込んでいたからである。

「青蘭の父である王琳将軍が、行方不明だとの情報は、すでにお聞き及びの事と存じます。その捜索に、婁府の間諜をお借りしたいのです」

「ああ、・・・王琳が行方不明となあ」

最近耳に入って、気にかけていたことである。婁氏は、溜息をついて几案に鋏を置いた。

「昨日、王琳将軍の大敗を知りました。行方知れずとか、鄭家の探索だけでは心もとない・・・ぜひ御祖母様の御力をお借りしたいのです」

義母の実家である鄭家では、朝廷に知らせが来るまで、大っぴらには探索できなかったのである。長恭は、必死の思いで祖母に訴えた。


「そなたが、私に願い事をするのはめずらしいのう」

婁氏は、鉢植えを窓際に持っていかせた。

「報を聞いて、青蘭は寝込んでしまいました。王将軍は、斉に必要な武将なのです。王将軍は私の義父です」

婁氏は、長恭を座らせた。この間まで、子供だと思っていたのに、家族の無事を守ろうと必死になっている。孫は確実に成長しているのだ。


北魏が、東魏と西魏に分裂したころは、国外の状況を探る多くの密偵を養っていた婁氏であった。しかし現在は人数も縮小され、流民や行商人に身をやつして各国の政治状況を探っている者が多い。

婁氏は、自分が亡くなった後の、婁府の密偵組織の行く末が悩みの種であった。斉を正しき道に導いてくれる者はだれであろうか。婁氏は、長恭の手腕を試してみたいという気持ちになった。

「分かった。・・・そなたに婁府の間諜を幾人か貸そう。存分に使うがよい。詳しくは、家令の李丘に話をさせよう」

婁氏は、家令を呼ぶように命じると、後苑に出て行った。


次の日、蘭陵王府に、婁府の冠者が現れた。冠者と言っても、普通の侍衛の格好をしている。(おさ)は、宋閲(そうえつ)と言い小柄ながら鍛え上げられた肉体の持ち主である。

「何なりとお命じ下さい」

宋閲は、跪いて命を待っていた。

「王琳将軍を探すのだ。湓城、合肥、長沙など将軍が潜んでいそうなところを探索せよ。彭城の鄭家と連絡を取り合うように。経過は逐一(ちくいち)報告せよ」

長恭は、鄭家への手簡と銀子を渡した。

「銀子は結構でございます」

「江南は、北よりも世知辛(せちがら)い。必要な時も来る」

長恭は、馬市で新たに購入させた馬を与えて即刻彭城(ほうじょう)を目指ざして出立させた。


冠者たちの足音が、遠ざかった頃、青蘭が堂房に現れた。

「師兄、ありがとう」

青蘭は、頼りなげな足取りで長恭の側に立った。

「私に力があれば、援軍を送ることもできるが、私にできることは、御祖母様の間諜を借りることぐらいだ」

長恭は、青蘭の腕を支えると、横に座らせた。

「太皇太后様は、密偵をお持ちだから何でもご存じだったのね」


青蘭は、婁氏の力の大きさを改めて感じさせられた。

「なぜ、御祖父様が、一介の副尉(ふくい)から、丞相になれたと思う?」

高歓を見初めた婁昭君が、多額の費用を使い有力将軍との交流を後押ししたのは、有名な話である。

「それだけではない、御祖母様は、常日頃は質素倹約を心掛けながら密偵を養い、御祖父様に情報を提供していたのだよ」

婁氏の力の根源は、正妻として多くの子供を産み育ててきたことだけではないのだ。

「この斉の国は、祖父と祖母が協力して土台を築いてきたのだ。義父上は、私にとってはもちろん斉にとっても、ぜひとも必要な方だ。・・・必ず探し出す」

長恭は、青蘭の手を握ると胸の所に持っていった。

「師兄を信じているわ。・・・私には、祈ることしかできないもの」

青蘭は長恭の手を捉えると、自分の頬に持って来た。それは、いつも青蘭を温かく包んでくれる手である。


        ★             ★



初夏の爽やかな光が、馬車の窓から差し込んでくる。大街の喧騒(けんそう)と焼餅の芳ばしい香りが、涼風に乗って流れ込んでくる。人々の生業は、戦況に関わらず営まれているのだ。この平安な生活を守るためにこそ、国境での戦は続いているのだ。

青蘭は、屋敷にいても身の置きどころがない焦燥感に駆られて、独りで国宝寺に参拝に来てしまったのだ。神仏に祈れば解決すると思うほど、青蘭は信心深くはなかった。しかし、何かに(すが)りたいという気持ちで参拝に出かけたのだ。


山門を昇っていくと、境内は相変わらず多くの老若男女でごった返していた。侍衛二人と、侍女を従えて楼門を入ると、年若い僧が近づいてきた。

「蘭陵王妃にご挨拶を」

挨拶をすると、青蘭を拝殿に案内した。いきなり入った拝殿は昏く、目が慣れると黄金に輝く廬舎那仏が、鎮座しているのが目に入って来た。青蘭は三礼すると線香を献じ、手を合わせて祈念した。


『父上が、無事でありますように』  

父上は、今、南朝のどこにいるのであろう。怪我を負っていなだろうか。ひもじい思いをしていないであろうか。なぜ、鄭家の者達では見つからないのか。危険なところに潜伏しているのか。

青蘭は、涙が溢れしばらくは立ち上がれなかった。黄金の廬舎那仏を見上げると、その微笑みが陽光のように青蘭を優しく包んでくれている。

青蘭は侍女に支えられて、やっと立ち上がった。ずいぶん長く跪いていたのだろう。青蘭が眩暈と足の痺れに戸惑っていると、拝殿の外から声が聞こえた。


「なあに、この対応は、この方は、お前たちに侮られる様な方ではない」

どこか聞いた事のある声である。

「尊き方を、ここで足止めをする気なの?」

「今しばらくお待ちを・・・」

参拝者を中に入れる入れないで争っているようだ。青蘭は、僧に供物を渡すと侍女を促して西側の扉から滑り出た。

瞬間、東の方に目を遣ると、紅色の外衣を着た女人が入っていく。横顔が平陽公主によく似ている。

『まさか、大梁にいる公主がいるはずもない』

鄭家の令嬢であったときは、自由であった外出も、王妃の身分になってみると自由ではない。顔家に行くのも茶楼に行くのも自由であった昔が懐かしく感じられた。


多くの参拝者でにぎわう楼門をくぐり、山門を出ると馬車に乗った。馬車の窓を開けると、街の甍の間から南の蒼空が見える。

『あの蒼空の下で、父上は苦しんでおられる』

青蘭は窓枠に手を掛け、壁に寄りかかるとじっと目を閉じた。蘭陵王府は我が家とはいえ、多くの家人がいる中で、女主人として落胆の様子は見せられない。

「鄭家に寄ってちょうだい」

今日こそ、王琳の無事な知らせが届いているかもしれない。


       ★         ★


四月の鄭家は、従人たちの姿は多いものの屋敷内はひっそりとしていた。躑躅(つつじ)の美しい内院を通り、正房にに行くと扉を開けて入った。價主のいない房内はなぜかうら寂しい。書房で仕事をしていた家宰楊吉良が、筆を置いて立ち上がってきた。

「楊家宰、母上からの知らせは?」

青蘭は堪らず、挨拶も受けずに訊いてしまった。

「價主様は、八方手を尽くして王琳様を探していられますが、見つかりません」

家宰は、深く溜息をついた。

「ただ、現在は江州の湓城で周辺の探索を続けているそうです」

湓城は長沙と並んで、王琳が本拠地としてきたところである。

「そう、分かったわ。・・・何かわかったら、すぐに知らせて」

青蘭は、茶杯を傾けた。香りの高い清明茶である。戦乱が続く南朝でも、茶の栽培は営々と行われているのである。


「これは、何かしら・・・」

青蘭は、几案に広げられた料紙を手に取った。そこには、婚礼道具と思しき道具の数々が列挙されていた。螺鈿の鏡台や、漆の櫃など贅沢な物が目につく。

「これは、どこからの注文かしら」

青蘭が見遣ると、良信は幾分か躊躇しながら答えた。

「これは、・・・太原長公主府からのご注文でございます」

太原長公主は、二人目の夫である楊愔が死んだばかりである。まさか、三回目の婚姻があるはずもない。

「実は、・・・先日、平陽公主が、戻っていらっしゃいました」

平陽公主が、戻って来ていたのか。あっ、もしや宝国寺のあの女人は、平陽公主ではないか。

常山王は、元氏の虐殺を後悔して、遺児を探し出して家門を復活させているほどであった。そのため、前王朝の皇女である平陽公主を呼び戻すことを許したのであろう。


           ★           ★


三月に王琳が大敗し、行方が分からなくなると、梁の遺臣の結束は崩壊してしまった。四月になると郢州刺史であった王琳の副将孫瑒(そんよう)は、長江中流域を全て陳に献上してしまったのだ。

豊城県に割拠していた熊曇朗(ゆううんろう)は、陳軍に対抗して城を築き贛江(こうこう)に軍船を並べてその遡上(そじょう)を阻止しようとした。しかし、陳軍は付け城を築きこれを包囲した。周迪(しゅうゆう)が攻撃すると城は陥落し熊曇朗は付近の村に逃れ村民に斬られたという。


          ★           ★


蘭陵王府の後苑の睡蓮池には、丸い葉が広がり、可愛らしい白い睡蓮の花が顔を出していた。

青蘭は、後苑の睡蓮池の近くにある四阿に座り、詩賦の書写をしようと料紙と筆硯を卓の上に広げた。

青蘭は手本をじっくりと注視し、呼吸を整えると白い料紙に筆を走らせた。筆先に気持ちを集中させるときだけ、青蘭は、父の死への不安を忘れることができる。青蘭はゆっくり息を吐くと筆置きに筆を置いた。


明々たること月の(ごと)きも

何れの時にか()るべき

憂いは中より来たり

断絶すべからず


ささやかに輝く月の光は

いつまで経っても手に取れるものではない

心のうちから生ずる憂いも

断ち切ることはできない


四阿に差し込んでくる陽光に目を細めて、自分の筆趣(ひっしゅ)を確かめている。良く通る声で詠じた。朗々とした声が、四月の初夏の空に響いた。


その時、遠くから家宰が、走ってくる音が聞こえた。

「奥方様、彭城から遣いが参りました」

青蘭の心臓がドキリと波打った。大規模な捜索にも拘わらず、行方不明になった父王琳の安否はこれまで杳として知れなかった。父上は、御無事なのかそれとも、・・・。

不吉な想いが心をよぎった。

青蘭は立ち上がると、走って来た家宰の顔を注視した。

「王将軍が、・・・御無事で彭城に」

楊家宰は、視線を落とすとかすれる声で言った。

青蘭は、安心のあまり卓の前に座り込んでしまった。やがて、青蘭の瞳に涙が溢れた。

『ああ、父上はご無事だったのね』

『短歌行』を手写した料紙に、こぼれた涙の粒が落ちた。

 

           ★          ★


王琳将軍と梁の皇帝簫莊は、河戦で大敗を期した後、旧臣を集結しようと湓城に潜伏した。湓城の范家は、かねてより鄭家と取引がある豪商であった。その庇護(ひご)の元、山中の山荘に隠れていたのである。ほとぼりが冷めた四月の中旬、王琳一行は行商人に身をやつして彭城の鄭家に辿り着いたのである。

王琳と簫莊は傷を負っており、しばらく彭城で養生が必要であるという。

青蘭は、まずは父が無事であるとの報で胸を撫で下ろしたのであった。


             ★              ★


いつもより早く侍中府から戻った長恭は、着替えもそこそこに、居房に入って来た。

長恭は、夕餉の準備をしていた青蘭の側に立つと、青蘭の肩に手を置いた。

「御父上の王将軍が御無事だとの知らせ、本当なのか?」

青蘭は知らせが届くと、直ぐに侍中府の長恭に遣いを送ったのだ。

「父上が彭城で養生していると、婁家の冠者から報告を受けたの」


青蘭は、晴れやかな笑顔を長恭に向けた。

「これも皆、師兄や太皇太后様のお蔭だわ。早速礼を言いに行かなければ」 

食盤の上には、羊の煮込みや、川魚の揚げ物、雉の羹など、長恭の好物が並んでいる。父王琳の無事の知らせを聞き、二人だけのささやかな祝宴を開きたいと思っていたのだ。

二人は椅に座ると、酒杯を満たした。

「太皇太后様と長恭様に感謝して」

青蘭は笑顔で酒杯を献じ、酒杯に口を付けた。

「青蘭、酒は一杯だけだ」

こんな時も、長恭は道を踏み外さない。青蘭は、長恭の酒杯に二杯目の酒を満たした。

「勇敢な蘭陵王妃に感謝して」

長恭は、笑顔を作ると一気に干した。


「父上は、これからどうなるのかしら」

青蘭は、王琳の今後について思いを馳せ不安な眼差しを泳がせた。

「うん、・・・再び梁の恩顧の将兵を集めて旗揚げするか・・・それとも、斉に帰順するか・・それとも」

長恭は、様々な場合を考えていた。どの道を選ぼうと全てが困難な道であることには変わりはない。

「義父上のお考えしだいだ。斉に来るように、御祖母様にお願いしよう」

誇り高い武将である父王琳が、斉に帰順するだろうか。青蘭は、これからの父の行く末を思うと胸が詰まった。

「青蘭、君の夫は王で、今上帝の従兄にして太皇太后さまの秘蔵っ子だ。君の父上の為だったら、どんな手も使おう」

長恭は、清澄な瞳に涙を細め冗談めかして言った。


       ★         ★


それから程なく、母の鄭佳瑛が彭城から戻った。

青蘭は、父親の様子が知りたくて、鄭家に急いだ。

青蘭が居房に入ると、不在の間に溜まっていた書類に目を通していた。

「母上、父上のお体の様子は?だいじょうぶですの」

「父上は、傷も癒え彭城の屋敷で元気にしている」

佳瑛は榻に座るように青蘭を促した。

「身体は癒えた。・・・しかし、多くの梁の遺臣に裏切られ、父上は希望を失っておられる」

梁の元帝に裏切られたときにも、決して忠義の心を失わず、梁の再興に邁進してきた王将軍である。希望を失うとは、どれほどの大敗を期したのであろうか。

「簫莊皇子は、一緒なのですか?」

「ああ、簫莊様も彭城の屋敷にいらっしゃる」 

始めて南院で会ったときから、すでに三年が経っている。

今年で十三歳であろうか。梁のために人質になり、梁のために戦に身を投じて行った梁の皇族の生き残りであった。自分を捨てた王朝のために翻弄された人生を思うと、青蘭は胸が苦しくなった。 


「父上は、これからどうなさるのです?」

青蘭は、母鄭佳瑛を見上げた。

「実は、陳に投降した将軍達から、臣従を勧める手簡が届いているのだ」

青蘭は、胸が激しく波立った。

「王将軍は、信義を貫く方よ。決して陳には臣従しないわ。・・・でも、簫莊皇子をもってしても、もう反陳勢力を結集することはできなかったの」

生一本な父王琳にとって、苦悩はいかばかりであろう。

「父上は、あくまでも陳を倒すことを狙っている。実は、斉への亡命を進言したの。でも、父上は、まだ諦めていないの」

母の粘り強い説得にも拘わらず、父王将軍は、梁勢力の結集を諦めていないのだ。王琳は、誇り高い武将である。自分から斉への亡命など言い出せるとは思えない。

「朝廷からの勅書を出してはどうでしょう」

鄭佳瑛は、窓から見える夏の蒼空を見上げながら呟いた。

「長恭様から、働きかけてもらえれば・・・」

長恭と青蘭は、夫婦で楊愔の誅殺に貢献したと聞いている。蘭陵王として爵位を賜った現在は、以前より皇宮内での発言力が増しているに違いない。

「鄭家からも、手を回そう」

鄭佳瑛は横に座ると、自信に満ちた眼差しで青蘭の手を握った。


 


              


敗戦後、行方不明になっていた王琳であったが、発見され彭城で療養をしていた。陳からの帰順の誘いがあった。しかし、長恭や鄭家の働きかけにより、斉の朝廷からの勅書が発せられ、王琳は斉に亡命することとなった。

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