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青蘭の傷心

高演、高湛たちが決起した朱華門での政変により、楊令公一派は除かれたが、政の実権は高演のものにはなかった。

朱華門での政変の後、常山王高演が政務を執り、政が一新されると思われていた。しかし政変の三日後、発せられた新たな叙任により、人々の希望は打ち砕かれた。


常山王高演は、大丞相・都督中外諸軍事・録尚書事(ろくしょうしょじ)となった。大丞相は、相国と同じく非常時に設置される官位である。漢末から太傳・太保・大司馬などの位は名誉職化して、実質的な権限は宰相・尚書令が握っていた。高演は、簒奪(さんだつ)の非難を避けるために実質的な権限を持つ官位への就任を避けたのである。

この時、彭城王高浟(こうゆう)を開府儀同三司・尚書令(しょうしょれい)として、それまで中書令の趙彦深を楊愔の代りに宰相とした。

鴻臚少卿(こうろしょうきょう)である陽休之(ようきゅうし)はこれを聞いて、

『天下を治めるにあたって、駿馬(しゅんめ)を殺して、駄馬(だば)を用いるのは、悲しい事だ』

と言ったという。高演は、非難を恐れて無難な人事をしたために、重要な地位に無能な人物を充ててし まったのである。

ちなみに、高演と共に中心的な働きをした長広王高湛は太傳(たいはく)京畿大都督(きょうきだいととく)となった。段韶は大将軍となり、平秦王高帰彦は、司徒となった。


ほどなく、大丞相に就任した常山王高演は、鄴都を離れて高一族の本拠地である晋陽に帰った。

晋陽の高演の宮殿には、夕闇が迫り桃花の香りが流れ込んできた。臥内に高演が奏でる幽玄(ゆうげん)な琴の音が響いた。


高演は、母婁氏の助力の元、楊愔を誅殺したはずであったが、事が成ってみると婁太皇太后は後悔に襲われているように見えた。

「楊愔の目をくりぬいて殺すなど、・・・あまりにも惨い。降格させるだけでも、よかったではないか」

楊愔の死を告げたときの母婁氏の言葉が、高演の胸に刺さった。楊愔は、婁氏にとって様々な恩讐(おんしゅう)があるとはいえ娘婿(むすめむこ)にあたるのだ。

『今回の決起は、間違っていたのか』

母婁氏の悩む姿が、高演が前進することを逡巡(しゅんじゅん)させた。高演は、鮮卑族と漢族の融和を図った高歓の教えを受け武勇の誉れ高くあるが、漢籍(かんせき)の素養もあり漢族的な常識も持ち合わせている。一方で、世情を気にして果断(かだん)さに欠けるきらいもあったのだ。

左手が琴の弦の上を緩やかに滑る。琴の哀愁を帯びた音が、高演の優雅な指先から紡ぎだされた。

『もう、踏み出してしまった。・・・皇族に平穏など望めぬのだ』

高演は、『春暁吟』の最後の一音を奏でると、溜息をついた。


王晞(おうき)殿がおいででございます」

宦官の声がすると、王晞が音もなく入って来た。一見風采(ふうさい)の上がらぬように見えるが、高演が最も信頼を寄せる人物である。

「よく来てくれた。王晞殿、酒の相伴をしてくれ」

高演は、椅を用意させた。

「私は楊愔一派を誅した。・・・晋陽の者は、鄴都での出来事をどう話して居るのだ」

世情を気にする高演は、酒杯に酒を満たしながら訊いた。王晞は、怪訝(けげん)な様子で高演を見た。

「人々は、殿下の事を悪人を誅した天下の忠義者と言っております。人々は、二王が誅されんものと恐れておりました。しかし、殿下たちは、朝廷をすっかり洗い清めてくださった」

高演は、酒を勧めた。

「そなたの進言を用いなかったなら、私は今頃、命を落としていたであろう。今後の身の振り方はどうすればいいであろう」

「常山王は、今までは儒教の教えに従って進退(しんたい)を決めればよかった。しかし、これからは天命に従って決めるのです。人智の及ばざるところです」

王晞は、高演の決心を促すように切れ長な瞳で見詰めて来た。


王晞が帰った後も、天命という言葉が、高演には重く響いた。 

「天は、我に何をさせようとしているのか。帝位に就くのが天意なのか」

婁氏所生の三男である高演は、兄二人の様には野心を持ち合わせていなかった。(いくさ)の傍ら書を読み琴を弾きながら、平穏な一生を送れればいいと思っていたのだ。しかし、兄二人の死により、高一族を背負って立たねばならない立場に立たされたのである。


高演は鄴都に上奏文を発し、大丞相府(だいじょうそうふ)の人員を整えた。まず、王晞を大丞相府の司馬とし、趙郡王高叡を大丞相府の左長史(さちょうし)元文遙(げんぶんよう)を大丞相府の功曹参軍(こうそうさんぐん)として、機密事項を処理させることにした。高演は、着々と執政を執るための足元を固めていた。


          ★         ★


窓から夜空を望むと、朔日(さくじつ)を数日後に控え月のない空に、星だけが瞬いている。数日前の皇宮での政変が、まるで存在しなかったような静けさである。

政変のあと、青蘭は眠りが浅くなり悪夢を見るようになった。


無数の長靴の音が地鳴りの様に近づいてくる。迫りくる音に、青蘭の胸が不安で押しつぶされそうになる。壮麗(そうれい)な宮殿の扉が、乱暴に音を立てて開かれた。その瞬間、兵士の怒声と長剣の(きら)めき、甲冑(かっちゅう)の兵士が血みどろでなだれ込んでくる。

青蘭は、暗闇に血糊を付けた剣の不気味な触れ合う音と、真っ赤な血しぶきに恐怖で声を挙げることもできない。無残にも切り裂かれた華林園の衛士たち死体。ここは皇宮。しかし、厳粛であるべき皇宮で、権力をめぐって廷臣同士が、血で血を洗う戦いを繰り広げた。青蘭はもがきながら逃げ惑うが、足が動かない。

青蘭は、迫りくる血みどろの衛士に悲鳴を挙げて目が覚めた。

「大丈夫か、青蘭。どうしたのだ」

暗闇の中で、青蘭を気遣う長恭の花顔が見える。

「怖い夢を、見たの・・・」

青蘭が広い胸に顔を寄せると、長恭は逞しい腕で青蘭の身体を抱いた。


政変のあと、青蘭は眠りが浅くなり悪夢を見るようになった。

長恭の激しい抱擁に身を任せ我を忘れる時だけが、青蘭の唯一の安息の時であった。

長恭の腕を枕にして、青蘭はやっと安らかな寝顔を見せていた。閉じられた長い睫毛が、滑らかな頬に優しい影を作っている。長恭の愛撫に応えて小さな喘ぎ声を挙げていた唇が、今は雨の後の花のように閉じられている。

ここ数日、青蘭がふさぎ込んで、就寝中にも、うなされる様子が見える。長恭は、青蘭の髪を優しく撫でた。

『自分と共に、皇宮に行かせたことは間違いであったか』

同じ臥所に御寝し、青蘭のしなやかな肢体を守るように抱きしめても、悪夢から守り切れないことに長恭は苛立ちを感じた。


以前、敬徳との打ち合わせを疑って、妓楼まで乗り込んできた青蘭である。夫婦の間に秘密は作りたくない、できるだけ協力したいと申し出た青蘭であった。その申し出を受け、昭陽殿まで太皇太后を長恭と一緒に導く役目を託したのだ。

しかし、そこで多くの殺戮の場面を青蘭の目に触れさせてしまった。深窓の士大夫の息女である青蘭にとって、それはどれほど衝撃的な出来事であったか考えるべきであった。

眉を寄せ、唇を小さく結んだ青蘭は、甘えるような小さな声を上げると、子猫のように長恭に体を寄せて来た。

「青蘭、君を苦しめたくない・・・」

長恭は青蘭の額に唇を寄せると、顔に掛かった髪の筋を指で直した。


        ★          ★


早朝の怜涼な空気の中、敬徳、長恭、青蘭の三人は、鄴城の城門を出ると西に向かって馬を駆った。

藍色と縹色、藤色の三人の長衣を、春の風になびかせながら走っていく。まだ明けきらぬ薄藍色の空の下、露を帯びた草原の若草が朝日を浴び、玉のように光って馬の後ろ脚を濡らした。

鄴城の西を流れる漳水(しょうすい)に至ると、三人は河畔の(えんじゅ)の大木の根元で馬を止めた。

敬徳は、朝日を浴び手綱を引きながら二人に近づいてきた。

「長恭、最近邯鄲(かんたん)で別院に手を入れた。上巳節の酒は、そこで酌み交わそう」

清河王敬徳は、広大な屋敷と共に多くの財物を亡き父より受け継いでいる。

「さすが、清河王だ。にぎやかな宴になりそうだな。喬香楼の妓女でも呼んであるのか」

長恭は、水筒から一口飲むと青蘭に渡した。青蘭は水筒を受け取ると、昨年の元宵節に喬香楼を思い出して苦笑いを浮かべた。

「誤解しないでくれ、喬香楼は、・・・その・・・社交の場なのだ」

敬徳は昨年の灯籠見物を思い出して、しどろもどろに言い訳をした。青蘭に妓楼に入り浸る遊び人と思われるのは耐え難い。

青蘭は、敬徳の狼狽ぶりが可笑しくて、笑いながら水筒から水を飲んだ。


「ああ、そうそう。今日は、二人に見せたいものがあるんだ」

風向きが怪しくなった敬徳は話題を変えようと、青蘭の持っていた水筒を奪った。

「ああ、そうそう。今日は、二人に見せたいものがあるんだ」

敬徳は自分のがあるにも拘わらず、長恭の水筒から水をごくっと飲んだ。甘露な水の感覚が、唇の間を春光のように通り過ぎていく。子供っぽい行為だと分かっていても、青蘭の飲んだ水に敬徳の唇が自然とほころぶのだ。

その時、敬徳はいきなり肩に衝撃を受けて水筒を奪われた。長恭の怒りの拳が、肩に炸裂(さくれつ)|したのだ。

「いいだろう。・・・のどが渇いているんだ」

敬徳は痛みを抑えて長恭を睨んだ。

「敬徳、そなたは・・・自分の水筒を使え」

長恭は腕で敬徳の胸を乱暴に小突くと、水筒の口の部分を乱暴に手巾で拭いた。


青蘭は、いつのまにか不穏な雰囲気になった二人の間に割って入って訊いた。

「ねえ敬徳様、邯鄲で見せたいものって何なのですか?」

敬徳は小突かれた胸を大げさに抑えていたが、機嫌を直して眉を上げると、おどけたように片手を挙げた。

「邯鄲へ行っての、・・・お楽しみだ」

三人は騎乗すると、馬鞭(ばべん)を振るい邯鄲に向かった。

 

邯鄲は、戦国時代に趙の都として栄えてきた(まち)である。趙は武霊王(ぶれいおう)の時、胡服騎射(こふくきしゃ)を取り入れ、中原で最強の軍隊を誇る国であった。その後趙国は秦に滅ぼされるが、漢の時代になっても趙国が置かれ、劉邦の皇子劉如意(りゅうにょい)を趙王に封じている。この時、華麗な邯鄲宮が造営され、「冨冠海内(ふかんかいない)、天下名都」と称されるようになった。

後漢末の混乱期には、邯鄲県は、戦火の被害を受けて衰退(すいたい)していく。紀元二一三年献帝が曹操を魏国公に封じ鄴城に建都すると、邯鄲は、政治・経済・文化の中心としての地位を鄴城に奪われていった。

長恭と青蘭、敬徳が訪れた頃には、臨漳県の一部として古都の趣を伝えていた。


西門豹廟(せいもんひょうびょう)を過ぎ、漳水を渡ると咲き誇る桃花が見えてきた。踏青(とうせい)の野遊びを楽しむ男女の姿を横に見て北上すると、邯鄲の邑が見えてきた。鄴城には及ばないものの、その城門と城壁はかつての趙の都の面影を残している。


三人は城門の前で馬から降りると、列に並んだ。籠に一杯の青菜を抱える女、菅笠を背負っている男と様々な生業(なりわい)につく人々が邑内(こない)に入ろうと並んでいる。鄴城で起こった騒乱など全く関係のないような、笑顔に満ちている。

『楊愔を除く企てなど、民にとっては何の関りもないということか』

鄴城での血生臭い殺戮(さつりく)の結果、楊愔を除いたにもかかわらず、常山王高演は大丞相になりながらも、鄴城を離れて晋陽に戻ってしまった。今上帝に代わって政を実質総覧(そうらん)しているのは、裏切り者の高帰彦である。長恭は、徒労感に唇を噛んだ。


城門をくぐり、邑内に入ると長恭たちは、馬に乗った。長恭が大街(おおがい)を北に臨むと、武霊叢台(ぶれいそうだい)に建つ楼閣(ろうかく)が見える。

「武霊叢台に昇ってから、別院に行くとしよう」

三人は、青蘭を真ん中にゆっくりと馬を進めて坂道を上ると武霊叢台の門前に至った。  

武霊叢台は、戦国時代の趙時代に軍の観閲(かんえつ)のために造られた叢台である。趙が滅亡し邯鄲が破壊された後も、眺めがいいために、後に楼閣が造営され、多くの詩賦(しふ)に歌われててきた。


         ★        ★


叢台の周りには、広い水濠(すいごう)が廻らされ、楼閣の壮麗(そうれい)な姿を映している。

敬徳は、邯鄲の邑守(こしゅ)に顔が利くのであろうか、門衛に声を掛けると門内に招き入れられた。


衛士に馬を預けると、叢台への道を登り始めた。小径(こみち)の側には、桃や梨の木が植えられている。

楼閣への小径を昇るにつれて、坂がきつくなる。長恭は、男装の青蘭の手を引いた。望楼の頂上に着くと、三人は観月台(かんげつだい)に出た。望楼(ぼうろう)の下から草の香りを含んだ風が、吹きあがってくる。

「長恭、眺めがいいだろう?以前からお前に見せたいと思っていたのだ」

敬徳は手摺(てすり)に手をやりながら、得意げに長恭に振り向いた。

「古都の邯鄲にこれほどの望楼があったとはな。驚いたよ」

遥か北西には、太行山脈(たいこうさんみゃく)が、雪を頂いて見える。その手前には、清漳水(せいしょうすい)が春の陽光を受けて輝きながら南に流れている。

長恭は、(まぶ)しさに手で影を作ってはるか南を望んだ。

「ああ、いい気持ち。・・・でも、敬徳様が邯鄲に別院を持っているなんて、初めて聞いたわ」

青蘭は男の髷を結い、後ろに流した黒髪を風になびかせながら敬徳に目を向けた。

「父上が、生前買っておいた屋敷を、昨年改修したのだ。鄴城は、気がめいってならぬ」

戚里(せきり)にある清河王府は皇宮に隣接しており、密偵(みってい)が潜んでいる可能性が大いにある。先帝の生前であったら、屋敷内であろうと政への不満を言おうものなら斬首(ざんしゅ)は免れなかったのである。そこで、邯鄲に屋敷を構えたのであろう。


「別院に、麗しい想い人を隠しているなどということはあるまいな」

長恭は、冗談めかして笑いかけた。

「敬徳様に想い人?たしか、・・・」

昨年、敬徳は、張氏の令嬢と婚約していたはずなのである。青蘭は、長恭に目を遣り無言で問うた。

「ああ、その・・・婚約は解消したのだ。こたびの騒乱でいろいろあってな・・それで娘との縁談はなくなった」

敬徳は、青蘭から顔を背け、居心地悪げに顔を伏せた。

「親が政争に負けたからと、婚約が破談になるなんて、相手の方の・・・」

青蘭は、まだ会ったことがない敬徳の元許嫁の気持ちを思うと胸が痛んだ。

「仕方がないのだ。・・・政変に加わった私とは婚姻できないと言って来た・・・」

破談を責める青蘭に対して、敬徳はしどろもどろに言い訳をした。

もともと張氏との婚約は、楊愔派を懐柔するための方策でもあった。しかし、そのことを青蘭には話せば、己の境遇に照らし合わせて長恭との婚姻に不安を感じてしまうだろう。きっと、青蘭から見ると自分は政争の為なら女を捨てる非情な男に映っているのあろう。敬徳は、苛立たし気に欄干を叩いた。


「おお、素晴らしい景色だ。鄴城が見えるぞ」

長恭は南方を指さすと、険悪な雰囲気を払うような明るい声で言った。敬徳の婚約に関わる事情は、長恭も知っている。しかし、青蘭に明かすことはできない。

清漳水は邯鄲の南、草原を隔てて南で漳水と合流し、東に向きを変え、渤海湾に向かって行く流れである。盛春の陽光に輝く漳水の南には、鄴城がかすんで見える。

「鄴城が、あんなに小さく見える」

新緑に満ちた草原の所々に、叢林の緑と桃林の桃色が散りばめられている。望楼の下から草の香りを含んだ風が、吹きあがってくる。

その時だ、観月台の前を(とんび)が翼を広げて悠々と輪を描いて飛んだ。

青蘭が心地よさに藤色の長衣の袖を広げると、緑の香りを含んだ風が青蘭の腕の下を優しく撫でながら通り過ぎていく。青蘭は、どこまでも蒼い空にうっとりと瞼を閉じた。

『人間の存在は小さい。あの政争もすべて、あの小さい鄴城でのできごとだわ・・・』

なぜ、人は争わなければならないのであろう。強い風に煽られながら、青蘭はめまいを感じ、身体がふわっと浮いたような気がした。

「青蘭、危ない。何やっているんだ」

長恭にいきなり後から抱きかかえられて、青蘭は腰を抜かして逞しい腕の中に倒れた。青蘭が、望楼から飛び降りようとしたように見えたのだ。

「師兄、ただ風が涼しかったので・・・」

青蘭は、長恭の胸にもたれながら弱弱しい声で言い訳をした。心を占める暗い想念から自由になりたかった。長恭は、青蘭を自分の方を向かせると荒々しく青蘭の肩を掴んだ。

「青蘭、何をやっているんだ。もう少しで落ちるところだったぞ」

あまりの長恭の剣幕に、青蘭は身を縮めた。

「師兄、大丈夫。あまりに空がきれいだったから、・・・眩暈(めまい)がしただけ」


『青蘭、君が望楼から飛び降りそうに感じて怖かったのだ』

朱華門の変の後、青蘭は口数が少なくなり、時々悪夢にうなされることがあった。本人は気づいてないが、心に負った傷が傷んでいるに違いない。長恭は、青蘭の心と身体を失ってしまうのが怖かったのだ。長恭は、荒々しく青蘭を抱きしめた。

「おいおい、いつまで抱き合っているんだ。それは、いくら夫婦とはいえ夜になってからだ。腹が減りすぎて眩暈がしたか・・・」  

敬徳は、冷やかすように話しかけてきた。


三人は望楼を降りると、敬徳の別院に向かった。敬徳の別院は、東魏の皇族である元氏の別邸を、高徳の父である高岳が借金の形に譲り受けたものである。

垂花門(すいかもん)を入ると、内院の西に四阿(あずまや)が建てられていた。三人が四阿に座ると、侍女により料理と酒器が運ばれてきた。敬徳が、三つの酒杯に酒を満たした。

「上巳節に、三人の健康を祈念して」

「こたびの成功を祝して」

三人は、酒杯を打ち合わせると酒を干した。香りのよい酒が、とろりと青蘭の喉を降りていく。

「長恭、そなたの働きは立派だった。太皇太后様をお守りして、剣を交えることなく劉桃枝(りゅうとうし)を抑えた。そなたの存在なくして計画の成功はなかった」

青蘭の前で政変について触れたくなかった長恭は、あいまいに頷いた。

敬徳は、再び三人の酒杯に酒を満たした。

「楊愔を倒して、大丞相についた常山王が執政を行うと思ったが、晋陽に行ってしまった。なぜ、政を行わない」

長恭は、鄴城では口にできぬ疑問を言葉にしてみた。

「大丞相などお飾り同然だ。今の朝廷は高帰彦が握っている。楊愔の企てを密告した裏切り者の高帰彦により政は牛耳られている。以前と何も変わってはおらぬ」

敬徳は、酒が満たされた酒杯越しに長恭を見た。

「ああ聞いた。陽休之が、新宰相の趙彦深(ちょうばいしん)驢馬(ろば)に例えたとか。反って悪くなっているということか」

長恭は青蘭の杯を奪って酒を飲むと、羊の煮物を青蘭の皿にのせて囁いた。

「そなたは、料理を食べよ。体力をつけるのだ」

敬徳は、酒を自分の杯に注いだ。

「高帰彦、・・・この企てに加わったのは、あやつを殺す為だった。ところがどうだ、裏切り者にも拘わらず、むしろ以前よりも力を持っている」

敬徳は、一気に酒を呷った。


敬徳の父高岳は、高帰彦により皇妃との不義密通(ひぎみっつう)の嫌疑をかけられ斬首されたのである。その誣告(ぶこく)を行ったのが高帰彦である。身の潔白が証明されたのは、斬首の後であった。しかし、讒言(ざんげん)を行った高帰彦は、罪に問われるどころか依然として先帝の寵臣であったのだ。

高帰彦は、幼少期に族叔父(おじ)の高岳によって養育された。その時の養育に不満を持って讒言をしたのだとの噂が流れた。

敬徳は、父の後を追うように母も失っている。敬徳が周囲に心を見せないようになったのはそれ以降であった。

「陛下は、幼少だが温順(おんじゅん)で聡明だ。成長すれば優れた君主になるに違いない。御祖母様は、今上帝の譲位を望んではいない。ゆえに常山王もそこまでは踏み切れないのだ」


長恭は、敬徳と自分の酒杯を満たすと、青蘭の盃に甘い蜂蜜酒(はちみつしゅ)を注いだ。

「師兄、私はもう子供ではないのよ」

青蘭は、そう言いながらも子供のように頬を膨らませて長恭を睨んだ。

「『荀子』にあるではないか。『君子は、(ひろ)く学びて日に己を参省すれば(すなわ)ち智は明らかにして行いにも過ち無し』己の失敗を(かえり)みるのだ」

「それなら『高山に登らざれば天の高さを知らず』でしょう」

青蘭は酒を飲まなければ、酒の美味(おい)しさも危うさも分からないと言っているのである。

「そうだ、青蘭殿の働きが無かったら、こたびの成功はなかった。この敬徳、朋友(とも)として誇らしい。存分に飲んでくれ」


「分かった。蜂蜜酒三杯までだ」

長恭は渋々そう言うと、青蘭の皿に魚の揚げ物を取り分けた。男子の装いをした青蘭は、かつての子靖そのものである。敬徳は、茶楼で語り合ったころが思い出されてその胸を苦しくさせた。

「太皇太后様は、楊愔を殺害させたことを後悔されているのよ。楊一族の族滅(ぞくめつ)をお許しにならなかったわ」

婁氏の様子が心配な青蘭は、たびたび宣訓宮を訪れていたので、婁氏の感情の機微(きび)をよく知っている。

「太皇太后様がその様子では、また何時、二叔の命が狙われるか分からぬ。いつ父上の仇が討てるのか・・・」

敬徳は、父高岳が斬首されて以来、敵意を隠して高帰彦下で政務に励んできたのである。

「敵討ちなどと、口に出してはならぬ」

長恭は、手で敬徳の言葉を制した。自分の屋敷であろうと、どこに密偵が隠れているか分からないのである。

「大丈夫だ。信頼の置ける者しか置いていない」

敬徳は、安心させるように笑顔を作った。

「王晞殿に内密に手簡を送ろう」

王晞は、晋陽の長史として、決して位が高くないが、常山王の信頼を得ている。しかし、王府からの遣いとなれば、密偵に察知される可能性がある。

「そうだな、それでは・・・義母上の鄭家から遣いを出してもらおう」

鄭家では、中原や江南の各地に出店がある。長恭が振り向くと、青蘭は頬杖を突いてつぶやいた。 

「鄭家からは、毎日のように晋陽に遣いを出しているわ」

男装をしているにもかかわらず、桃色に染まった頬と黒目がちな瞳が、どきりとするほど女ぽく見える。とろんとした眼差しで長恭を見詰めると、童女のような笑みを浮かべた。気付かぬうちにかなり飲んでしまったのだろう。

「青蘭が、かなり酔ってしまったようだ。すまない、部屋を貸してもらう」


長恭が、青蘭の頭を撫でながら敬徳を見た。

「どうせ、泊っていくのだろう。ゆっくり介抱(かいほう)したらいい」

敬徳は、笑顔で親友への気遣いを示した。長恭は案内を乞うと、青蘭の肩を支えるようにして席を立った。

『臥所の中では、いつもあんな表情をするのだろうか』

敬徳は、酒を満たした杯を見詰めながら、溜息をついた。高帰彦の仇を討つために、青蘭との婚姻を諦めた敬徳であった。それでも、二人の仲睦まじい姿を見れば心が痛む。しかし、会えなくなったら耐えられないだろう。


         ★     ★


客房に入ると、長恭は青蘭を榻に寝かせた。

青蘭のまとう藤色の長衣が、花が咲いたように榻に広がった。長恭は、跪くと青蘭の顔を心配顔で覗き込んだ。桃色に頬を染めた青蘭は、目を閉じて苦し気に眉をひそめた。

「青蘭、飲みすぎだぞ」

長恭は榻に座ると、青蘭の頭を膝の上に乗せた。男の髷を結った額は広く滑らかだ。閉じられた睫毛が深い影を作っている。長恭は指でなぞってみた。秀でた鼻梁の先には、花弁のような唇が息づいている。頬に手を遣ると青蘭が目を覚ました。

「師兄、・・・喉が渇いたわ」

卓にあった茶杯を取ると、青蘭を抱き起して飲ませた。青蘭は力なく長恭に身体を預けてくる。

「こたびの事に君を巻き込むのではなかった。すまなかった」

長恭は青蘭の肩を抱き寄せた。

「君を危険にさらし、見せたくない事もみせてしまった。君の心を傷付けた。全部私の責任だ」

長恭は、青蘭の手を取ると唇に持って行った。

「師兄、私は・・・父王琳と一緒に戦場にも立ったのよ。・・・そのぐらいで怖気づくとでも?」

青蘭は、かぶりを振った。悪夢を見ることがあっても、胸には武将の娘としての誇りがあった。 

「とにかく、君が怪我をしなくてよかった。もし、・・・」

青蘭は、常日頃は強そうな振りをしているが、実はもろく繊細な心を持っているのだ。

「危険な思いはさせない。一生君を守るよ」

長恭は、青蘭の頭を抱き寄せると、額に口づけをした。



今上帝高殷と大丞相高演による二重政治は、様々なところで支障をきたした。臣下の中でも高演待望論が大きくなっていった。

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