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朱華門の変

祖母の婁太皇太后のために、常山王高演に味方して、楊令公を打倒するための計画に参加することになった長恭と青蘭は、婁氏を守るという大切な役目を任されることになった。いよいよ、計画実行の日が訪れる。

二月二十三日、常山王と長広王の就任祝いの宴が、尚書府(しょうしょふ)で開かれていた。

明日には、長広王高湛は幷州刺史(へいしゅうしし)として晋陽に赴くことになっていた。楊愔(よういん)は尚書府の執務室に、腹心の鄭頤(ていい)燕子献(えんしけん)宋欽道(そうきんどう)などを待たせていた。


「これで、長広王を中央の政から遠ざけることができますなあ」

尚書右僕射の燕子献が、執務室に入って来た楊愔のご機嫌を取るように言った。楊愔は、おもねる燕子献の顔を目の端でねめるように見た。

時刻になり、四人が尚書省の堂に赴こうとしたとき、散騎常侍の鄭頤が制止した。

「令公、今夜は行かれない方がいいのでは?事態は、・・・どう推移(すいい)するか分かりません」

楊愔が、三人の前に立ちふさがる鄭頤を睨んだ。

「我らは、国家に忠誠をつくして来たのだ。その我らが、就任式と宴に赴かぬ道理はない。なぜそのような事を言うのだ」

楊愔は、就任式に宰相たる自分が欠席することなど考えられないと、鄭頤の言葉を歯牙にもかけない。

多くの漢民族を治める斉の政が、もっぱら漢人官吏によって行われることは当たり前の事であり、二王を排除することに何ら(やま)しいところはなかった。

官吏の俸禄(ほうろく)が極めて少なかったこの時代、多少の賄賂(わいろ)や汚職は、必要悪と認められているところがあった。その意味で、楊愔は、公明正大な政治家と言えたのである。

楊愔たちは、就任式に出席するべく尚書省の堂に急いだ。


★ ★


「粛よ、就任式は未の刻(ひつじのこく)、宴は申の刻(さるのこく)だ。まだ早いのでは?」

太皇太后は、いつにない威厳を表す豪華な衣装をまとい、扇で顔を扇いだ。

「御祖母様、昭陽殿までの道中で、妨げられたら一大事でごす。警戒が強まる前に、後宮に入るのです。道々この長恭と青蘭がお守りいたします」

長恭が力強く誓うと、婁氏が笑顔で応えた。

「これは、高一族の大事であるぞ。何としても成し遂げねばならぬのだ」

婁氏は、太皇太后の令牌(れいはい)と宝石がちりばめられた宝剣を取り出すと、前に跪く長恭に授けた。

「神武帝(高歓)より伝わる剣じゃ、歯向かう者があったら、これを示すがよい」

長恭は、鮮やかな青翠色の長衣に縹色の外衣を重ねていた。青蘭も、今日は髷に木蓮の飾りの簪を刺していた。葡萄色の長裙に、重ねた珊瑚色(さんごいろ)の外衣は、ほっそりとした青蘭に若草のような色気を添えていた。


未の刻の近く、太皇太后の一行は、六人の侍衛と四人の侍女を伴い宣訓宮を出発した。太皇太后は、周りに帳を垂らした輿に乗って移動する。その左右に長恭と青蘭、侍女の秀児が付き添って進むのである。

太皇太后の一行は、宣訓宮から右延明門を通り皇宮に入った。太武殿(たいぶでん)の前庭には、(うら)らかな春の陽光の中、所々に衛兵(えいへい)が立っている。

『この前庭で、どのようなことが・・・』

これから起こるであろう惨劇を思うと、長恭の脳裏は白い闇に包まれ、遠くで兵士の怒号を耳にした。

長恭は腰に手を遣り令牌に触れると、後ろの祖母の輿を振り返った。昭陽殿は、遥か後宮の奥にある。

中朝を抜け両儀門(りょうぎもん)を入ると、皇帝の生活の場である内朝に入った。内朝には、宦官と宮女が忙しく立ち働いている。

太皇太后の列が進むと、宦官と宮女たちは草原の草がなぎ倒されるように、退いて跪く。長恭は、初めて民草という意味が分かったような気がした。二王の就任祝いの宴を控えているためであろうか、内朝は静かな中にも華やぎを感じさせる。


一行は中朝から後宮に入る柏閤門を入るときに、初めて門衛に呼び止められた。

「お待ちを」

太皇太后が、後宮に入ることは今までほとんどなかったのである。皇族の通門時にはあるはずの連絡がなかったので、呼び止められたのだ。青蘭は、緊張して懐のヒ首(ひしゅ)(短刀)に手を遣った。

「太皇太后様が、太后様にお会いに行かれる」

長恭は、令牌を示すと宝剣を顔の高さに掲げた。

「この高長恭を知らぬのか」

低く鋭い怒声が、美しい唇から飛び出し、長恭の怜悧な瞳が宝剣の上で侍衛を睨んだ。長恭の美丈夫ぶりは、後宮の宮女たちどころか侍衛にも知れ渡っている。

門衛は急に態度を軟化させて、婁氏の行列を通した。

文宣帝により、精神的に傷を受けてしまった新帝は、日常の生活を本来の中朝ではなく後宮で過ごすことが多い。そのため、李太后の意向が政に大きな影響を与える。婁太皇太后と李太后は、政への影響力を巡って鋭く対立していた。


柏閤門(はくごうもん)から進んだ婁氏の輿は、昭陽殿の入り口である朱華門(しゅかもん)の前で止まった。長恭と青蘭が前に立ち、婁氏は秀児に手を取らせて朱華門から入って行った。

昭陽殿は、太后府であり、皇帝が実質的に生活している宮殿である。中央の石畳の両側には、李太后の好きな牡丹や石楠花(しゃくなげ)が咲き誇っている。ほどなく扉が開かれ太后が正殿の基壇(きだん)の上に現れた。


「太皇太后様、おいでに・・・」

婁太皇太后が、直接昭陽殿を訪ねてくることはかつてなかった。突然の訪問に、李太后は礼も忘れて立ち尽くしていた。婁氏の後には長恭と青蘭が後宮見物という風情で柔和な笑顔で従っていた。

「李太后、・・・久しぶりだな。今日は銘茶を馳走になりに来た」

李氏は基壇から降りると、慌てて礼をした。

「太后様にご挨拶を」

「今日は、長恭と嫁を連れてきた」

婁氏は、嬉し気に自慢の孫と孫嫁を紹介した。

姑の訪問に、太后も二人を正殿に入れないわけにはいかない。


李氏に案内されて正殿の扉を過ぎると、堂に隣接した居房に入った。太皇太后と太后が榻(長椅子)に座り、長恭と青蘭は勧められて椅(背もたれのない椅子)に座った。榻の後ろの衝立には、百花の王たる牡丹と高貴な藤花の透かし彫りが施されている。

「殷は、どうしたのだ」

婁氏は、柔和な笑いを浮かべて李氏に訊いた。

「陛下は、常山王と長広王の叙任の式で太武殿に行かれています」

「おお、政にあたっているのか・・・」

婁氏は、孫の仕事ぶりに満足したように頷いた。ほどなく茶杯と茶菓が運ばれてきた。

「この茶菓は、孫嫁が作ったものだ。太后にも食べてもらいたい」

青蘭が、立ち上がると笑顔で礼をした。昨年文宣帝が元気であったころ、新婚の挨拶に訪れた時に比べて、青蘭の姿に新妻としての落ち着きが漂っている。


昭陽殿の侍女が、皿から茶菓子の一口蘇(いっこうそ)を取り分けて各自に配った。菓子を目にした李氏の顔色が変わった。対立している太皇太后から贈られた茶菓は、当然のことながら毒殺が警戒される。しかし、姑たる婁氏から贈られた茶菓に毒見(どくみ)をすることは非礼にあたる。

「李太后、召し上がれ」

婁氏が勧めると、李氏に緊張が走り、体が強張った。

「昭陽殿では、・・・珍しい・・・」

李氏の皿に伸ばした指が、震えた。その時だ、重苦しい居房に明るい声が響いた。

「太后様、建康の菓子は、作り立てが美味ですのよ」

青蘭は先に一口頬張ると満面の笑顔を李太后に向けたが、太后は、恐る恐る一口蘇を口に運んでいた。


青蘭は、後宮の噂話に作り笑いをしながら、茶杯を傾けていた。揺らめく白い茶の湯気越しに長恭を見た。晴朗な瞳が、今日は蒼空(あおぞら)のような晴朗さを失い苦悩に沈んでいる。長恭は、遠い目をして皇宮の気配を探っていた。

中朝、内朝、後宮の各門には、侍衛を配置し、動きがあればすぐに連絡が来るようになっている。銘茶や建康の菓子の話など、時間は緩慢(かんまん)にそして確実に流れて行った。


未の刻が過ぎたころ、今上帝高殷が、中朝より戻って来た。無事、叙任式が済んだことに、青蘭は胸を撫で下ろした。

高殷は、居房に入ると太皇太后と太后に拝礼した。こういう場合は、一族内の長幼(ちょうよう)(じょ)が優先されるのである。高殷は、東側に椅子を設け、西側の長恭達と相対する形となった。


今上帝高殷は、この時十五歳である。もともと聡明で温順な性格であったが、勇蛮(ゆうばん)な鮮卑族らしい男子に育てたいという文宣帝の方針により、過酷な鍛錬をかされたのだった。罪人を自らの手で斬るように命じられたときには、あまりの恐怖に気絶し、精神的な傷のために吃音(きつおん)になってしまったほどである。

座った高殷は神経質に時々顔をひきつらせ、()せた身体を持て余すように椅子に寄りかかっている。皇帝としての重責に耐えかねたように空を見詰めては、溜息をついた。

「青蘭、たしか婚儀は、三月だったかと、・・・そろそろ子どもが・・・」

李太后は、青蘭の顔を目じりの方で意味ありげに捕らえた。

「太后様、・・・子どもは私だけではどうにもなりませんわ」

青蘭は、この一年で身に付けた宮廷儀礼を駆使(くし)して笑顔を作って長恭を見た。長恭は話が耳に入らぬ様子で、秀麗な瞳で南の空を窺いながらその時を待っていた。


★ ★


太武殿では、今上帝高殷の臨席(りんせき)の元、高演に対して太師(たいし)司州牧(ししゅうぼく)録尚書事(ろくしょうしょじ)を、高湛に対して大司馬(だいしば)・幷州録尚書事・幷州刺史の叙任が行われた。

そして時を置かずに、尚書省で百官総出の祝賀の宴が催されることになっていた。

高湛は、密かに早朝から数十人の家兵を録尚書事の控室に隠れさせていた。宴に出席する太保(たいほ)賀抜仁(がばつじん)や左丞相の斛律金(こくりつきん)など味方する勲貴派の将軍たちと、事前に決起の連絡を取り合っていた。


尚書府の堂で、宴が始まった。宰相である尚書令の楊愔が正面に座り、三公や左僕射、右僕射に交じって高演と高湛が上座に座っていた。明日には幷州に赴かなければならない高湛は、酒瓶を手に取り各官を巡った。

「長広王が幷州刺史で、常山王が司州牧とは・・・誠に、無念です」

范陽郡守(はんようぐんしゅ)源彪(げんひょう)は、髭だらけの顔を歪めて注がれた酒杯を勢いよく(あお)った。

「私に、北の守りを任せてほしいと言いたいですな」

高湛は、上座の楊愔に声が届くように声を張り上げた。多くの者が、今般の叙爵に不満を持ちながらも、楊愔などの漢人に遠慮して声を挙げられず、ぶつぶつと言いながら酒を飲んでいた。


大方の高官を回って一巡した後、高湛は再び楊愔の席に赴いた。

「令公、一献(いっこん)奉げます」

高湛は、楊愔に酒を注ぐと酒杯を掲げた。

「この高湛、北方の守り、謹んで引き受けまする。はっ、はっ」

高湛が一気に酒を呷ったが、既に酒をたっぷりと飲んでいた楊愔は、断った。

「令公は、斉朝の親戚で義理の兄、国のために尽力された。もう一杯飲むべきでは、ささ・・」

楊愔は、しつこく酒を勧める高湛に、席を立とうとした。 


「なぜ、酒を取らぬのだ」

立ち上がった楊愔に、いきなり高湛が怒鳴った。

その怒声を合図にて、数十人の家兵が堂に突入してきた。堂内は悲鳴と怒号で騒然となった。高湛の家兵が、乱暴に楊愔ら漢人派の官吏を縛り上げた。漢人らは抵抗したが、武勇に長けた鮮卑族の家兵に抗うべくもない。

「諸王よ、な、なぜこの忠臣を殺そうとするのだ。確かに諸王の力を削ろうとしたが、それはすべて国の為だ。罪に問われるいわれはない」

楊愔は、縄に縛られながらも矜持(きょうじ)を示した。

温順な高演は、それを聞くと楊愔が哀れになり縄を解こうとした。

「なりません」

高湛は、素早く手で制した。

「者ども、かかれ」

高湛の号令の元、一斉に家兵が楊愔や可朱渾天和、宋欽道を仗で打ち始めた。叫び声が上がりみるみる顔面が血に染まる。燕子献は、家兵の追っ手を逃れて尚書省の前庭に出たが、斛律光に捕らえられた。薛弧

延と康買が尚薬局の前で鄭頤を捉えた。


高演と高湛は、高帰彦、斛律金、段韶、領軍の劉洪微(りゅうきょうび)劉洪微(りゅうきょうび)劉洪微(りゅうきょうび)たちは、楊愔たちを連行し雲龍門(うんりゅうもん)より皇宮に乱入した。途中で都督の叱利騒(しつりそう)を説得したが、従わないので殺害した。東閤門(とうごうもん)に至ると、抵抗する近衛軍を領軍大将軍である高帰彦が説得した。高帰彦の説得により東閤門は血を見ることなく開門された。柏閤門(はくごうもん)永巷門(えいこうもん)なども、高帰彦の説得により開門されたのである。変の後、高帰彦はこの功績により大きな力を持つこととなる。


     ★     ★


瞼を伏せてしばらく馥郁たる香りを楽しんでいた長恭が、目線を挙げた。遠くから遠雷のような竹の葉の騒めきのような気配が聞こえてくる。

「遠くでもめ事があったのでしょうか。見てまいります」

長恭は、青翠色の長衣の袖を翻して居房を出て行った。


長恭が朱華門へ至るとすでに領軍将軍の劉桃枝(りゅうとうし)が近衛軍数十の衛士を率いて門前を守っている。令牌を奉げ持つ長恭に向かって、巨漢の劉桃枝が進み出た。

「何事だ。太皇太后様がご心配だ」

門から出た長恭は、わざと権高(いけんだか)な物言いで劉桃枝に問うた。

劉桃枝は、近衛軍の領軍将軍として文宣帝に近侍し、その身辺を護衛していた。今上帝高殷になっても、その身辺には常に劉桃枝の姿があった。しかし、年少である高殷は、李太后の元で過ごすことが多く、李太后の居所の門内に入ることは稀であった。

「今、様子を探らせております」

長恭は表情を消し清澄な瞳を、上げて内朝の様子を窺った。乱れた足音やかすかな叫び声が、遠雷のように聞こえてくる。


「どんなことがあろうと、ここで陛下をお守りするのだ」

長恭は令牌と宝剣を手に、銀色に輝く甲冑を着けた劉桃枝を睨んだ。浅黒い肌に太い眉、酷薄な細い目が、凄烈(そうれつ)な光を放っている。気が付くと朱華門を守る近衛軍の衛士たちが、長恭の麗容(れいよう)を呆けた様に見とれている。長恭は、あらぬ欲望に満ちた視線に気が付き、わざと眉を寄せて渋面を作った。

『最後には、こ奴を斬らねばなるまい』

長恭は、劉桃枝の剣の力量を図るように、足の(さばき)きと呼吸を図った。

内朝から、衛士が走ってきた。

「皇宮で、刃傷沙汰(にんじょうざた)があり、令公が、いや皇叔(こうしゅく)が、亡くなったと申している者もあります」

近衛軍の衛士たちに、動揺が走った。

「劉将軍が、守ってくれれば陛下も安堵(あんど)なさるであろう」

長恭は、麗妖な唇をほころばせると、昭陽殿に戻った。


★ ★


長恭は居房に入ると、今上帝高殷の前に日跪いた。

「高長恭が、ご報告します。皇宮で刃傷沙汰があった(よし)にございます。すぐに詳しい報告が来るということでございます」

高殷は、皇宮での刃傷沙汰との言葉に顔が引きつった。叔父たちの企てが成功したとは限らない。陛下への奏上ははっきりはできない。

「長恭、何があったのだ」

「報告が参ります。堂でお待ちになるのがいいかと」

皇宮での刃傷に呆然自失(ぼうぜんじしつ)の表情であった李太后は、長恭の言葉に今上帝を堂へ促した。

「そうじゃ、報告は陛下が受けねば」

婁太皇太后は、大きく頷くと青蘭に手を預けながら堂に向かった。

「太皇太后様を御立たせするのか」

高殷が玉座に座ろうとすると、長恭は鋭い言葉で遮った。祖母が立って孫が座っていることは長幼の序から道理に反するのである。


婁氏が堂の玉座に着いたとき、昭陽殿の南、朱華門の外から怒号が響いてきた。

「粛、見てまいれ」

婁氏の命により、長恭は昭陽殿の階を転がるように降りると、朱華門の外に出た。

朱華門に入ろうとする高演、高湛、高帰彦とそれを押し返そうとする近衛軍が、もみ合っている。今にも、剣が抜かれ斬り合いになりそうな様相である。長恭は、懐から太皇太后の令牌と祖父の宝剣を出し高く掲げた。

「太皇太后様の御命である。常山王は、昭陽殿に入るように。他の者は門街で待て」

長恭は良く響く声を張り上げて、近衛軍の衛士たちを見回した。

「常山王、太皇太后様に感謝いたします」

高演は、大げさに膝を突き拱手すると朱華門のなかに入った。劉桃枝は、目を怒らせて門外に留まっている。長恭は、ほうっと息を吐いた。

「母上は、大丈夫か?」

長恭に続き門内に入った高演は、まず訊いた。

「御祖母様は、陛下、李太后と一緒に堂にいらっしゃいます」

「ここからが、勝負どころだ」


高演は、瞳に荒寥たる気配を見せ、剣の柄に手を遣った。

高演は、長恭の後ろから堂に入ると、玉座に座る太皇太后に向かっていきなり叩頭した。

「臣は、陛下の藩屏であります。楊愔は、刑罰・恩賞を私し、結託して政を乱しております。このままでは、神武帝の大業が見に帰してしまいます」

この時、昭陽殿の前庭には、事態を察した劉桃枝ら近衛軍の衛士が、入り込んできた。高殷の命令があれば、近衛軍は正殿になだれ込み、常山王高演は一瞬にして命を失ってしまう。しかし、気弱で聞き取りやすい言葉が出ない高殷は、命を出すことができなかった。

「常山王に、帝位への野心はない。身を守るためにやったことだ」

婁氏は、不安に蒼ざめる今上帝と李太后を慰めるように言った。

「近衛軍は、退出し持ち場に戻るのだ」

昭陽殿の扉の前に立つと、長恭は威厳に満ちた声で前庭の近衛軍に命じた。長恭が居並ぶ近衛軍の兵を清澄な瞳で睨むと、兵たちは怯んで言葉も出ない。しかし、劉桃枝は頑として動かない。


そのとき、青蘭に手を取られた婁氏が、長恭の横に現れた。五十歳を超えているが、往時を思わせる美しさと、華麗な装束に身を包んだ存在感が、居並ぶ近衛軍の衛士を圧倒した。

「者ども、さっさと退出せよ。その首を斬られたいか」

神武帝と共に斉の礎を築き、前帝の母で今上帝の祖母である婁太皇太后の威厳は圧倒的である。老齢とは思えない婁氏の怒声に恐れをなして、衛士はすごすごと朱華門から出て行った。

この斉に、婁氏に異を唱える者はいないのだ。


婁氏は、玉座に戻ると今上帝を責めた。

「楊愔たちは、逆心を抱き、我が子二人を殺し、私も殺そうとしたのだ。そなたはなぜ勝手をさせた」

高殷は、祖母の怒りに何も言うことができない。

「どうして、我ら親子が漢人のお前に殺されなければならぬのだ」

婁氏は、これまでの不満と怒りをぶちまけるように言った。

「太皇太后様、お許しください」

太后は、段から降りると跪いて謝罪した。


この日、楊愔や鄭頤、娥永楽(がえいらく)などが誅殺され、皇宮の守りが近衛軍から、京畿大都督管轄の兵士に代えられた。高演は、楊愔の五人の妾や子を処断した。正妻であった太原長公主は、もちろん楊愔と離縁したのだった。


★ ★


青蘭は、太皇太后の寝息を確認すると、灯籠の灯り一つだけを残し、秀児に不寝番を頼んで臥内を離れた。

宣訓宮の居房に入ると、蝋燭の灯りの中長恭が榻に座って青蘭を待っていた。

「御祖母様は、大丈夫か?」

「薬湯をお飲みになって、お休みになったわ」

青蘭は長恭の横に座ると、疲労感を感じてに溜息をついた。

「青蘭、今日は大変だったね」

長恭が肩を抱き寄せると、青蘭は広い肩にもたれた。

「私は、何もしなかったわ」

「そんなことはない。君が御祖母様を守ってくれていたから、劉桃枝にも対峙(たいじ)できたのだ」

長恭は、青蘭に笑いかけた。婁氏を支え、常に付き添うことは最悪の場合、身を挺して守らなければならないので決して容易ではない。

長恭は、青蘭の手をにぎった。

「これから朝廷はどうなっていくのかしら」

青蘭は、心細さに長恭の手を握り返した。

「常山王が楊愔に代わって政を輔佐するのではないかな」

楊愔が誅殺された後の政の勢力図はだ霧の中である。婁皇太后と共に昭陽殿に突入した長恭が、どのよう扱いを受けるのかは、何も分かっていない。

「太皇太后様は、楊愔を殺したことで常山王をなじっていらっしゃったわ」

「楊愔は、仮にも娘婿だ。殺したくはなかったのだろう。しかし、こればかりはどうにもならない」

長恭は、青蘭を抱いて膝の上に乗せた。

「常山王は、聡明で慈悲深い執政を行えば、文宣帝のようなことはなさるまい」

青蘭は長恭の首に手を回すと、清雅な瞳を見詰めた。

「それでは、譲位があるの?」

「今上帝は、御祖母様の孫だ。譲位させる気持ちはないだろう」

昔から王朝内では、親族による血みどろの政争は、枚挙に暇がない。しかし、こたびの変に関わる者がほとんど親族と言っていい太皇太后は、どれほど心を痛めているであろう。その心中を想像すると、青蘭は胸が痛んだ。

「青蘭、何があっても私たちは一緒だ」

長恭は腰に手を回し青蘭を抱きしめると、その頬に優しく唇を当てた。


楊令公を倒し、政の実権を握ったかに見えた高演だったが、高殷が皇帝の地位に留まった。斉国の二重権は様々な問題を引き起こししまうことになった。

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