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打倒令公の計画

元宵節の宴と偽り、高演と王睎の密会をもうけた敬徳と長恭の二人は、楊令公を倒すための計画に関わっていくことになる。王青蘭を巻き込むことを躊躇していた長恭も、青蘭に助力を求めるようになった。

臥内(がない)(寝室)の窓から冬の幽光(げんこう)が差し込んで、榻牀(とうしょう)(寝台)の中の長恭の横顔を薄絹越しに照らしている。

まどろみの中で指を伸ばすと、青蘭は長恭の清雅な額の肌に触れないようにしながらゆっくりと形をなぞった。長い睫毛(まつげ)が滑らかな肌に秀麗(しゅうれい)な影を作り、美しい曲線を描く鼻梁がそれに続く。桃花のような唇が(わず)かに開けられ、悩ましい湿り気を帯びている。

青蘭の指の温かさを感じたのであろうか、ほどなく長恭の清澄(せいちょう)な瞳が開いて青蘭を見た。

「青蘭、・・・もう起きたのか」

長恭は、長い腕を伸ばすと青蘭を優しく抱き寄せた。頬を寄せた滑らかな胸から肌の温かさと沈香(じんこう)の香りが直接伝わり、青蘭の心臓を波立たせる。


青蘭は恥ずかしさに目を(つぶ)ると、昨夜の清河王府での宴の事を思い出した。

元宵節の宴との触れ込みであったが、楊愔(よういん)を倒し政権の統帥権(とうすいけん)を取り戻すべく常山王を説得するための宴であったのだ。宰相の楊愔を倒す危険を考えてみると、妻の青蘭に内密に話を進めていたのも不思議はない。

しかし、なぜ敬徳との密談の場所が妓楼だったのだろうか。これには、敬徳の悪意を感じざるをえないのだ。妓楼に通えば青蘭がどう思うか、長恭はまったく無頓着(むとんちゃく)なのだろうか。青蘭は悔しくて、上目遣いに長恭を睨むと頬を指でつまんだ。

「んっ?まだ怒っているのか?・・・私が悪かった」

長恭は、子供を慰撫(いぶ)するように腕の中の青蘭の背中を撫でると、深く口づけした。


長恭は、青蘭から唇を放すと、清美な笑顔を見せた。

「青蘭、・・・君に頼みがあるのだ」

青蘭は口づけの余韻(よいん)にぼうっとしながら首を傾げると、仰向けになった長恭の肩に頭を乗せた。

「私に、・・・できることがあるかしら」

長恭は腕の伸ばし青蘭を優しく抱き寄せた。

「実は青蘭、これからは宣訓宮に頻繁に行ってほしいのだ。楊愔と高帰彦があやしい動きをしている。頻繁(ひんぱん)に御祖母様を訪ねてほしい」

長恭は、青蘭の首筋に頬を寄せた。

『私に、宣訓宮を探ってほしいというのね』

長恭は、青蘭の耳たぶを優しく噛むと、背中から腰に手を伸ばした。

「君は、まだ許してくれていないようだ」

長恭は、目を細めると首筋から胸に向かって、唇を沿わせた。


      ★       ★


先帝の文宣帝が、酒毒に侵されるようになってから、斉国では、むやみに官位や賞賜(しょうし)が行われるようになり、政は混乱した。そこで、楊愔はこの旧弊(きゅうへい)を改めようと、自分で範を示したのち不要の官位や賞賜を没収した。しかし、これが人々の不満を募らせ、常山王や長広王に心を寄せさせる結果となったのだ。


二十四節気の雨水にもかかわらず、尚書令府に雪が降っている。

「今年は、雪が多いですな」

燕子献(えんしけん)は、楊愔の書房の窓のわずかに開いた隙間から、外を見た。

「しかし、兵事では雪は吉兆ですぞ」

領軍大将軍の可朱渾天和(かしゅこんてんわ)は、気を引き立てるように言った。二叔(皇帝の叔父常山王と長広王)の聴政(ちょうせい)を望む声が廷臣の間で大きくなってきていた。二人はそれに対抗すべく、宰相である楊愔を訪ねてきたのだ。


楊愔が太った身体を揺らしながら、慌ただしく書房に入って来た。全国から出される上奏文は、楊愔が一手に決裁しなければならないため、楊愔は多忙を極めていた。

燕子献と可朱渾天和が挨拶をすると、楊愔は、二人に椅子と茶を勧めた。

「楊令公、このままでよいのですか。領軍府(りょうぐんふ)にいる常山王に政をさせよとの声が高まるばかり、二王を除かなければ、陛下の安泰(あんたい)はあり得ません」

領軍大将軍として、領軍府で将兵と日々接している可朱渾天和は、皇宮の雰囲気を敏感に感じ取っていた。

「二王よりも、太皇太后でしょう。幼君の場合は、祖母が執政を行うのが当たり前だと、何かと政に口を出してくるのですぞ」

尚書右僕射の燕子献が、不満げに楊愔を見た。

「太皇太后を北宮に追いやり、李太后が大権を握るようにしないと、陛下のお命があぶない。・・・勲貴派の配下の鮮卑族が、陛下の命をを狙っているのです」


先帝高洋の臨終にあたって、楊愔と高帰彦は高殷の行く末を頼まれていたのだ。しかし、漢人である楊愔にとって、君主への忠と両親への孝は、肌に染み付いた教えであった。

「太皇太后は、先帝の母君なのだ。罪もないのに北宮などに入れるなどとは、道理に合わぬ」

楊愔は眉根を寄せ、かぶりを振った。文宣帝は、時には乱暴に走る事もあったが、孝行の念は忘れていなかったことを楊愔は、知っていた。

「それなら、やはり二王を除くべきだ。このままでは、禍根を残すことになる」

可朱渾天和はいらいらと歩き回ると、卓を拳で叩き直ぐにでも二叔を殺しかねない勢いだ。

楊愔は、腕組をしてしばらく沈思(ちんし)した後、言葉を発した。

「二王には、刺史(しし)として遠方に赴かせることにしよう」

「令公、遠方の刺史などに任命しては、野に虎を放すに等しいのでは?」

可朱渾天和は、難色を示した。しかし、燕子献は拳で掌を打った。

「刺史が、無事に任地に赴けるとは限りませぬ」

燕子献は、赴任途中での不審死(ふしんし)もあり得ると意味ありげに笑った。


        ★      ★


宣訓宮の正殿の中、青蘭は菓子と茶器を盆にのせて居房に入った。太皇太后の横には、李太后の侍女である李昌儀(りしょうぎ)が榻に座っていた。

青蘭は二人の真ん中の卓子に菓子の皿と茶器を置くと、優雅な手つきで茶杯を満たした。

「李昌儀、この者は長恭の妃の王青蘭、・・・王将軍の娘だ」

青蘭が、礼に従って挨拶をすると、李昌儀は、扇子をたたむと優雅に礼をした。


李昌儀は、もとは高仲密(こうちゅうみつ)の妻であったが、仲密が西魏に寝返った際に捕らえられた。そののち、長恭の父高澄の側室とされたのである。

高澄の死後、同族の(よしみ)で李太后の侍女になっていたが、息子の側室であったことから婁太皇太后とも付き合いがあり、時候(じこう)の挨拶は欠かさなかった。


青蘭は二人に茶杯を勧めると居房から臥内に退出した。臥内で萎れている花瓶の水仙を交換しようとしたのである。水仙の花瓶を抱えて居房に入ろうとした時、婁氏の低い声が聞こえてきて青蘭は足を止めた。

「李太后は、いかがしている」

婁氏は、探るような眼差しで茶杯の湯気越しに李昌儀を見た。青蘭は、帳の陰に身を隠し、耳をそばだてた。

「息子の高殷が皇位について、さぞや得意満面(とくいまんめん)であろうな」

婁氏の言葉に権がある。高洋の死に際して、婁氏は三男の高演を後継者にと望んでいたが果たせなかったのである。

「それが、太皇太后様、陛下は、温順に見えてなかなか頑固でいらっしゃいます。この前だって・・・」

李昌儀は、後宮での高殷の様子を話し始めた。楊愔が二王を遠方の刺史に左遷(させん)する上奏文を、李太后に託したが、陛下の同意が得られなかったという。

『高演と高湛を、刺史に?』

婁氏は、内心の動揺を抑えて笑顔を作った。

「いずこも、息子との関係は・・・難しいのう」

李昌儀はしばらく、よもやま話をすると、居房を退出していった。


李昌儀の話を盗み聞きしてしまった青蘭が、臥内と居房の間で進退(しんたい)きわまっていると、鋭い婁氏の声が飛んできた。

「青蘭よ、出てくるのだ」

婁氏は、帳の陰で話を聞いていた青蘭に気づいていたのだ。

「太皇太后様、申し訳ありません」

青蘭は、うなだれて婁氏の前に進み出た。婁氏は、侍女の礼儀には厳しい。どんな叱責が待っているのか分からない。青蘭は、婁氏の御前に行くと花瓶を置き(ひざまず)いた。主君の話を盗み聞きをしていたことに言い訳の言葉もない。婁氏は、一度勘気(かんき)(こうむ)ると、側に寄せ付けないほど好悪がはっきりしている主君だ。

「その、・・・花を交換しようとしたとき、たまたま耳に入って・・・」

しかし、婁氏は気に掛けた風もなく笑顔で青蘭を立たせると、手招きをした。秀児に花瓶と茶器を片付けさせ、婁氏は人払いをして側に青蘭を横に座らせた。

「聞いていたか?」 

「はい、・・まさか、お二人を、・・遠方の刺史に出すことは・・・」

権力闘争に敗れた者が、幽洲(れいしゅう)越州(えつしゅう)の刺史に左遷されるという話はよくある。しかし、罪も無いのに皇帝の叔父を遠方の刺史にするなど聞いたことがない。

「楊愔め、よりによって、我が息子を流刑にするつもりか」

婁氏は、憎しみを込めて楊愔を罵った。しかし、仁愛に篤い高殷が叔父を流刑同然にするとは青蘭には思えなかった。

「結局、高殷は楊愔に(かな)うまい」

婁氏は幼い皇帝の無力を嘆き、苦悩に顔を歪めながらかぶりを振った。

「青蘭、屋敷に戻ったら、・・・明日、宣訓宮に来るように長恭に伝えよ」

青蘭は、息子と孫の確執を嘆く婁氏を慰めながら、夕刻になってやっと屋敷に帰った。


    ★      ★   


正殿の外に立ち、青蘭は長恭の帰りを待った。

昨夜の婁太皇太后の命により、長恭は侍中府から帰る途中、宣訓宮に寄ることになっていたのだ。青蘭は、正殿の扉の前に立ち、外衣の衿を寄せて手に白い息を吹きかけた。

『二叔が左遷(させん)になれば、師兄だって無事ではいられない』

宰相の楊愔に対抗する高一族の企てを知ってしまうと、長恭が心配で仕方がなかった。

「奥方様、居房でお待ちください」

非難を込めた声に振り向くと、照華が藍色の被風(とふう)を携えて立っていた。早春とはいえ一月の夜は寒い。照華は、後ろから被風を着せかけた。

仁愛深(じんあいふか)無辜(むこ)な魂を持つ長恭が、斉王朝の権力闘争に手を染めようとしている。これも母親代わりとなって長恭を育ててくれた婁氏への思いゆえだ。長恭への愛情ゆえに、長恭の叙爵(じょしゃく)を遅らせて、皇宮の醜い争いから距離を置くようにさせていた婁氏も、今回ばかりは長恭を巻き込むことになってしまったのだ。

『長恭様を、守らなければ』

ほどなく、大門の前に馬車が止まる音がした。

「青蘭、そこで何をしているのだ」 

馬車を降りた長恭が垂花門(すいかもん)から入ると、青蘭を見とがめた。

「師兄、・・・帰ったのね」

青蘭は、ほっとして長恭の顔を見上げた。

「そんなところで立っていたら、風邪をひく」


青蘭の健康を心配する長恭の清雅な瞳が曇った。長恭は、青蘭の腕をつかむと正殿の居房内に引っ張って行った。

「青蘭、君はなぜこの寒い夜に外にいるのだ」

青蘭を座らせると、詰問口調で訊いた。

「それは、・・・師兄がいつ帰って来るか心配で・・・」

青蘭は、胸にあふれる長恭への思いを言葉にできず下を向いた。

「今夜は、御祖母様のところに行くことは知っていただろう?」 

長恭は、宣訓宮には、楊愔の打倒に関わる面々が集っているに違いない。ゆえに長恭は、いつ刺客(しかく)に襲われないとも限らないのである。

「師兄が、賊に襲われないかと心配で・・・」

長恭の叱責(しっせき)に、横を向いた青蘭の瞳から涙が溢れてきた。

「師兄、できることがあったら、・・・私にも手伝わせて」

今まで同じ思いを共有してきた長恭との間にできる隙間こそ青蘭の恐れる事だった。長恭は、いつにない青蘭の涙に戸惑い、頬を拭うと優しく抱き寄せた。

「これ以上のことを知れば、君に危険が及ぶのだ。だから、・・・」

「二人は一蓮托生でしょう?師兄のためなら、・・・協力させてほしいの」

青蘭は、決心の気持ちを込めた強い眼差しで長恭を見た。

「君を危険にさらせない。・・・君は私が守る・・・」

長恭は、青蘭の頭を引き寄せると優しく抱きしめた。


       ★       ★


李太后の説得にも拘わらず、幼少より経書を学んで来た皇帝高殷は、二王の追放に同意することはなかった。二王を遠方の刺史にするという楊愔の計略は成功しなかったのである。窮した楊愔は、二王の追放について、平秦王高帰彦と領軍将軍高元海に相談することにした。

二人は、熱心に聞くふりをしていたが、楊愔が帰ると長広王高湛に密告したのである。

かつて楊愔が、高帰彦に無断で近衛軍の兵五千を晋陽に留め置いて、高帰彦の反乱に備えていたことがあった。このときから、面従服背(めんじゅうふくはい)しつつも、高帰彦は楊愔に恨みを持っようになったのである。


高演の巻き返しにより、楊愔は二王を同時に追放することを諦め、高湛だけを遠方に刺史として赴かせることとした。

かくして、高演に対しては、太師(たいし)司州牧(ししゅうぼく)録尚書事(ろくしょうしょじ)に叙任させることにより、政における実権を奪うとともに、鄴都の近くに置きその動向を監視できるようにした。

そして、高湛は、京畿大都督(きょうきだいととく)の職を解いて大司馬、録井省(ろくいしょう)尚書事、幷州刺史(へいしゅうしし)とした。これは、名目では軍の統帥(とうすい)を任せるように見えて、実は遠方の晋陽に赴任させることにより、政に関わらせないようにしたのである。


二月に入り、太皇太后はこの沙汰(さた)を知ると、ついに楊愔を誅殺する決心の固めた。太皇太后は、高演や段紹、斛律光、高孝瑜(こうこうゆ)、高長恭らを集めて、楊愔打倒の計画を巡らせようとした。

しかし、斉王朝では厳に徒党を組むことは禁じられている。楊愔の監視は厳しく、一堂に会することは事はなかなか叶わなかった。そのために、企ての詳細な詰めは遅々として進まなかった。


       ★       ★


夜明け前の東の空に目を移すと、そこだけが薄藍色に染まり、紅藤色の薄い東雲(しののめ)が筆で刷いたように掛かっている。内院の蠟梅(ろうばい)は霧に包まれてまだ夜の眠りの中であった。

長恭は狩の装束に身を固め、青蘭は侍衛の格好をしている。長恭と青蘭は、弓矢と佩剣(はいけん)を確かめると、大門を出て騎乗した。

人気のない中庸門街を南に走ると、城門の近くで馬を降りた。もうすぐ城門が開く時刻である。

「青蘭、侍衛の装束も似合うではないか」

長恭は、笑顔になって青蘭の兜を直してやった。

一昨日、太皇太后からの手簡があって、郊外の狩に同行することになったのである。その狩には常山王高演、長広王高湛、高敬徳が、行くことになっている。

高湛の幷州(へいしゅう)への赴任(ふにん)が迫っていた。楊愔を打倒するために詳細を詰めなければならなかった。監視(かんし)の厳しい鄴都での会合は危険を伴う。そこで、城外での狩を口実として集合し、最終的な計画の確認を行う事にしたのである。

長恭は青蘭にせがまれ、しぶしぶ狩に同行させることにした。目立たぬように侍衛として帯同させることにしたのである。


日の出と共に城門が開くと、長恭と青蘭は若様と従者といった体で城門を無事抜けた。しばらく東に駆けると、漳水の辺に至った。

早朝で、往来の人も見えない。

「約束は、巳の刻(午前十時ごろから午前十二時)だ。しばらく休もう」

長恭は(えんじゅ)の根元に腰を下ろすと、水を一口飲み水筒を青蘭に渡した。

「今日は、常山王以下、主だった人物が集まる。君が青蘭であることは内密に。女子であることは悟られないように言動に気を付けよ」

青蘭は、片膝を折ると勢いよく拱手した。

「子靖、承知いたしました」

青蘭は、兜を深めにかぶり顔を隠した。

「ここを南に行くと、小高い丘がある。曹操の陵墓だという話だ。そこで話し合いを持つ。君は辺りの警護に当たる」

青蘭は、長恭のとなりに座ると水を飲んだ。


     ★      ★


曹操の陵墓(りょうぼ)に着くと、長恭と青蘭は陵墓と辺りの喬木の林を見て回った。刺客や暗殺のための仕掛けがないか確認するためである。

「今日は、常山王、長広王、高元海、敬徳、そして私の五人が集まる予定だ。話し合いの間、他の侍衛と共に刺客を警戒してほしい」

一月下旬になって、長恭は再び青蘭に剣術の稽古を課すようになっていた。始めは戸惑った青蘭であったが、長恭の真剣さに青蘭も自ずと熱が入った。

『稽古は、このためであったのか』

「お任せください」

青蘭は、頬を引き締めると勢いよく拱手した。


程なくして、敬徳と高元海が侍衛を伴って到着した。敬徳は、青蘭の顔を認めると笑いをかみ殺した。

「先ほど仕掛けがないか確認した」

長恭は敬徳、高元海に報告すると、警戒するように辺りを見回した。

「そうか、・・・まだ時がある、・・・一応狩をしよう」

敬徳が時刻まで狩をすることを提案した。狩を理由に城外に出ているので、獲物の一つや二つ持ち帰らなければならない。六人は、騎乗すると三方に散った。


長恭と青蘭は、南に駆けた。二月中旬の森は、若葉がでたばかりで、見上げると蒼い空が枝の間に垣間見える。(えびら)から矢を抜くと弓に(つが)えた。その時、背後からバサバサと翼の音がした。青蘭が振り向くより速く、長恭の弓から矢が放たれ緑の尾羽を翻した(まだら)(きじ)に命中した。青蘭が雉を捕るために馬を降りようとすると、長恭がすばやく馬を降り、得意げに雉を提げて戻って来た。

「これで、狩の獲物は大丈夫だな」

長恭は、青蘭の鞍に雉を括り付けると笑顔になった。四半刻ほどでさらに兎と鳩を捕獲して、二人は陵墓に戻った。


高敬徳、高元海が獲物を携え集合すると、程なく常山王と長広王が連れ立って現れた。

緊張の中馬を降りると、五人は手綱を引きながら陵墓のある小山を登って行った。

青蘭たち侍衛は、丘を守るように麓を間隔を取りながら歩哨(ほしょう)するのだ。青蘭は、丘を背に喬木の林を見渡した。樹の陰に多くの侍衛が潜み、目立たぬように辺りを警護している。青蘭は、兜を目深にかぶって剣を構えた。

「そんなに力が入っては、体が持たぬぞ」

高湛の侍衛が、青蘭に話しかけてきた。三十歳半ばぐらいの精悍(せいかん)な男である。

「そなたの主人は、誠に気の毒な」

男は、片目をつぶると心底残念そうに唇を歪めた。

「ご主人様が気の毒と?」

「そうだ、あれほど男前なのに、嫉妬深い奥方のせいで、側女はもちろん、恋文も許されんとはのう。誠に気の毒」

青蘭は男の言葉に、顔色を変えた。

『このような身分の低い者達の間にも、恋文の事が噂として流布しているとは・・・』

このような侍衛でさえも、青蘭の嫉妬深さを非難している。青蘭を嫉妬深いと揶揄する心無いうわさ話に唇がわななき、涙が溢れそうになった。青蘭は兜を目深にかぶり涙で潤んだ瞳を隠した。

「奥方様は、お優しいです」

青蘭が、男子の声で奥方をかばうと、男子はかぶりを振った。

「王琳将軍の勢力は侮れぬからのう」


        ★        ★


陵墓に近い丘の頂で、五人は、顔を付き合わせていた。

「常山王、高帰彦は我らに寝返りました。」

高元海は、ギラギラした目で高演を見上げた。

「誠か?高帰彦は、容易に腹を明かさぬ。・・・信じてよいのか」

高演は疑い深げに顔を歪めた。

「兄上、祝賀会が最後の機会です。私が楊愔に酒を勧める。奴が拒絶したら、部屋に隠した家奴(かぬ)に捕らえさせる」

高湛は、掴みかからんばかりの勢いだ。

「燕子献や、宋欽道、鄭頤などは、我らが捉えましょう」

高敬徳と高元海が口々に言った。


「そして、我らは昭陽殿(しょうようでん)に向かう。そこで、長恭には、母上を昭陽殿に連れてきてもらいたい」

高湛は、長恭を見詰めた。

「我らは、楊愔一派の誅殺を陛下に報告せねばならない。しかし、そこに母上がいなければ反対に断罪(だんざい)されてしまう。我らが昭陽殿に着く前に、宣訓宮から昭陽殿にお連れするのだ」

宣訓宮から昭陽殿までは、かなりの距離がある。途中の門で行く手を阻まれる可能性もある。それは、太皇太后の愛孫として皆に知られた存在の長恭でなくてはできぬことであった。

「承知しました。御祖母様を必ず昭陽殿にお連れします」

「私以外、中には入れぬであろう。その時、母上を守ってほしい。もし、劉桃枝(りゅうとうし)が、中に入るようであったら・・・」

高演が、眉根を寄せた。劉桃枝は、近衛軍にも並ぶ者がいない剣の使い手である。

「その場合は、劉桃枝は私の手で仕留めまする」

長恭は、父親似の清澄な瞳で言った。

劉桃枝は、高歓の時から高家に仕える家奴である。並外れた武勇を誇り、稀代(きだい)の暗殺者であった。陛下が同意しなかった場合、その剣から太皇太后を守るのは、常に近侍してきた長恭の役目となる。

五人は、当日の時刻と手筈(てはず)を詳しく相談すると、目立たぬように別々に丘を降りて行った。


長恭が、最後に丘を降りていくと、青蘭が林の中で一人待っていた。何となく元気がない。顔を覗くと、黒目がちな目がなぜか赤い。

「どうしたのだ。目が赤いぞ」

長恭は、手巾で青蘭の汚れた顔を拭いてやった。

「若様の奥方は、ひどく嫉妬深い女子だと言われて、それが悔しくて・・・」

青蘭は肩を落としながら手綱を引いて歩いて行く。

「奥方には、他人の噂など気にするなと言ってくれ。私が分かっていればいいのだ」

長恭は、励ますように青蘭の肩を叩いた。

「実は、もう一つ噂が加わるぞ。それは、奥方は勇ましい」

長恭は、侍衛姿の青蘭の頬を手でつまむと楽しそうに笑みを浮かべた。


鄴の郊外で狩を装って、長恭たちは、反撃の打ち合わせをした。そして、ついに高演・高湛の就任祝いの宴席において、反乱が始まる。

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