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高一族の反撃

新帝高殷の即位後、高一族の長老でありながら常山王高演は、執政権を奪われてしまった。長恭と友の敬徳は、高演を盛り立てるべく話し合いを重ねるのだった。ところが、・・・


年が明けた。喪中のため、斉の皇宮では正月の儀式も万事例年のようではなかった。

八日には朝議が行われたが、喪中のため新帝高殷は、直接政に関わることはできなかった。そして、高演や高湛などの王叔(皇帝の叔父)がいるにもかかわらず、宰相の楊愔が、玉座の前に立って朝議を主宰していた。


就任三年目となり、後ろの席ながら長恭も散騎侍郎(さんきじろう)として朝議に参列していた。朝議では、漢人官吏が主に発言し、高位にいるはずの常山王や長広王、司徒(しと)の段韶たち鮮卑族の勲貴派(くんきは)の将軍たちは発言を封じられていた。

『これが、高家の王朝なのか、楊愔は、さながら皇帝のようだ』

朝議が終わっても、長恭は長く動くことができなかった。長恭がよろよろと重い身体を支えて朝堂の扉口に向かおうとすると、敬徳に声を掛けられた。

「長恭、領左右大将軍への就任おめでとう」

長恭は、右手を挙げて苦笑いをした。南北朝時代には大将軍の称号が濫用(らんよう)されて、単なる箔付けになり価値を失っていたのだ。外に出て基壇(きだん)の上に立つと、文昌殿の前には二つの高い階を隔てて南には石畳を敷き詰めた前庭が広がっている。

「何なのだ、この朝議は。楊愔がまるで・・・」

長恭が不満を漏らそうとすると、敬徳は、長恭の腕をつかむと柱の陰に連れて行った。

「長恭、言葉に気をつけろ。・・・気持ちは分かるが、ここは皇宮だぞ」

敬徳は長恭の耳元に唇を寄せ、小声で囁いた。

「敬徳は、何も感じないのか」

長恭は、敬徳に詰め寄るとその顔を睨みつけた。

そのとき、長恭の後ろを高帰彦と趙郡王高叡が、連れ立って近づいてきた。敬徳は二人を視界にとらえると突然話題を変えた。

「そういえば長恭、楊令公が近衛軍を五千を晋陽に残していることを知っているか?」

敬徳は、腕を組むと長恭を見た。

「近衛軍を五千か。・・・ううん、北周への備えだろうか?」

「いやあ、北周の備えなら、幷州軍(へいしゅうぐん)がいるであろう。・・・噂によると謀反(むほん)を警戒したらしい」 

敬徳は、いかにも言いにくそうに顔を歪めた。

「謀反を警戒?まさか、・・・だれの謀反だ」

敬徳は周りを見回し、官服を着た影が去っていくのを確認すると、耳元で囁いた。

高帰彦(こうきげん)殿?まさか・・・」

長恭は、敬徳の言葉を聞くと端正な顔を歪めてかぶりを振った。そののち、若い皇族である二人は、仲良く肩を組みながら(きざはし)を降りて行った。


ほどなくして、平秦王高帰彦が柱の陰から姿を現した。近衛軍の兵五千が晋陽に駐屯していることは、鄴都に入ってから初めて知ったのだ。楊愔(よういん)は、北野(ほくや)の備えと言っていたが、自分への謀反の疑惑が原因であると噂されているとは、初めて聞くことであった。

『楊愔が、自分のことをそれほど警戒していたとは・・・』

皇族でありながら、常に楊愔と行動を共にしてきた。勲貴派を抑え、斉が国としての体裁を保つためには、楊愔を代表とする漢人の力を利用することが必須であると信じて来たのである。

その楊愔に謀反を疑われていたとは、力が抜ける思いであった。

『楊愔のやつ、うまい事を言いながら、腹の中では違うことを考えていたんだ』

高帰彦は、怒りに任せて柱を叩いた。


        ★             ★


『師兄は、どうしたのかしら。こんなに遅くなって』

青蘭が初春の居房の窓から見上げると、膨らみを増した上弦の月が星空に浮かんでいる。長恭は、申の刻(午後四時から六時ごろ)には侍中府より帰ってくるのが普通であった。しかし、今夜は戌の刻を過ぎても戻っていないのだ。

扉が開いて青蘭が思わずそちらの方を見ると、侍女の照華が入ってきた。

「奥方様、せっかくの料理が覚めてしまいます。先にお召し上がりになっては・・・」

青蘭は、卓子の上の皿に盛った料理を眺めた。


亥の刻(午後十時から十二時ごろ)になり、長恭は酒の匂いをさせて帰宅した。そして沈香に脂粉の香りをまとった身体を、居房の(とう)(長椅子)に投げ出すようにして座った。

「師兄、・・・遅かったわ。・・・何の知らせもなく」

榻の前に立った青蘭は、眉を寄せ憤懣(ふんまん)やる方ないといった風情で長恭を見た。

「今日は、宴だったのだ。連絡しそびれた。・・・すまぬ」

長恭は、榻の手摺(てすり)に身体を預けるようにして(うつむ)いた。


次の夜も、長恭はまた千鳥足(ちどりあし)で屋敷に戻って来た。青蘭は泥酔した長恭を脇から支えて臥内(寝室)に入った。

「青蘭、こちらに来てくれ」

長恭は酒気に染まった笑顔で青蘭の手を捉えると、そのまま榻牀に倒れ込んだ。長恭の長衣には脂粉(おしろい)の香りが染みつき、端正な横顔の頬には口紅の跡が残っている。青蘭は、長恭の服を脱がせ内衣姿にすると、(かけぶとん)を掛け榻牀を離れた。

『これでは、立派な遊び人だわ』


侍女の照華が、臥内に入って来た。照華に御者から酒宴の場所を聞きだしてくるように命じたのである。

「奥方様、今夜の酒宴は・・・喬香楼(きょうかろう)であったそうです。それから、昨夜も・・」

『二日も続けて妓楼に登楼するとは・・・』

どんな一途な男子であろうと、男は一年も過ぎれば妻に飽きてしまうと聞いたことがある。昨年の元宵節の灯籠見物では、多くの喬香楼の妓女が長恭に秋波を送っていたのだ。長恭には思いを寄せる妓女がいるのかもしれない。

青蘭は、照華を下がらせると、榻牀に座った。

ほのかに紅に染まった長恭の頬は滑らかで、睫毛(まつげ)の深い影を宿している。青蘭は、頬に着いた紅の跡を指で乱暴に拭った。長恭は指の感覚に反応して、向き直ると青蘭の方に腕を伸ばしてきた。青蘭は、長恭の手の甲を思いっきり(つね)ると、長恭の側に横になった。


       ★       ★


「今夜も遅くなる。夕餉は先に食べているように」

次の日の朝餉の時、長恭は手の甲の傷跡(きずあと)を気にしながら、不機嫌に青蘭に告げた。三日間、同じ妓女に通えば、馴染となると聞いたことがある。


その日の夕刻、青蘭は士大夫の若様風に男装をすると、馬車を喬香楼の近くに止めて長恭を待った。蘭陵王府の馬車であると分からないように鄭家の馬車を借りてきたのである。

『どうぞ、どこか別の場所であってほしい。・・・師兄、ここに来ないで』

青蘭は窓から外をうかがい長恭を待ちながらも、むしろ自分の予想が(くつがえ)されることを願っていた。


日が暮れ、戌の刻(午後六時から午後八時)になったころ、見慣れた長恭の馬車が喬香楼の前に停まった。官服から薄香色(うすこういろ)の上品な長衣と外衣に着替えた長恭が、見慣れた馬車から清雅(せいが)容貌(ようぼう)を現した。

『きっと、想い人に会うのだわ』

長恭が喬香楼の紅門(こうもん)を見上げると、すかさず、中から従人が飛び出して招き入れた。

青蘭は、馬車の窓をわずかに開け紅門を注視しながら、半刻(一時間)待った。しかし、長恭は出てこない。長恭に絡む女の手や寄せられる赤い唇の幻が、青蘭の脳裏(のうり)を駆け巡った。苦い汁のような熱いものが体を満たして、青蘭は両手で顔を覆った。

『ああ、師兄、・・・そんなことはいや。・・・どうしても、確かめねば』

何かに駆り立てられるように、青蘭は気が付けば喬香楼の前に立っていた。

「若様、いい()がいますよ」

紅門に続く階の前で戸惑っていると、客引きの男が下卑た笑いを作って青蘭を招き入れた。客引きは、躊躇(ちゅうちょ)する青蘭にうろんな目を向ける。

一階は広い舞台があり、周りで飲食ができるようになっている。個室は二階以上であろう。青蘭は人ごみにまぎれて階段を昇って行った。妓楼の従人や妓女が行き来している中で、若い従人を捕まえた。

「私は、高の若様の友だ。ここへ来ているはずだが。見目麗しく、女子のような方だが・・」 

青蘭は低い男の声を作り、身振り手振りを交えて説明した。

従人は、わけ知り顔に笑うと二階の突き当りの客坊へ案内した。牡丹(ぼたん)の透かし彫りが施した扉が、堅く締まっている。この中では、長恭と馴染(なじみ)の妓女との痴態(ちたい)が繰り広げられているのだろうか。

青蘭は絹を張った扉の前で身を潜めた。嬌声(きょうせい)が聞こえてくると思った部屋の中は、思いの外静かである。青蘭はよく聞こうと耳を寄せた。


その時、いきなり扉が開かれ長恭が驚いたような顔を出した。扉に身を寄せていた青蘭は、よろめいて長恭の胸にぶつかった。

「青蘭、どうしてここに?」

長恭は、妓女と濡れ場を演じていたとは思えない冷静な口調で青蘭を見詰めた。青蘭が客坊の中に目を走らせると、中はがらんとして向かい合わせに並べられた卓に長恭ともう一人の男しかいない。

『妓女との逢引きではなかったの?』

客坊を見回した青蘭は、驚いてもう一度長恭を見詰めた。

「なんで・・・君が、ここにいるのだ?・・・その男装はなんだ?」

長恭は、訳が分からないというように首をひねった。青蘭は、恥ずかしさで身の置き所もなく赤面した。


その時、酒肴の並んでいた卓の前に座っていた男が扉に近づいてきた。鮮やかな海老色(えびいろ)の長衣を着た敬徳である。青蘭が驚いて顔を上げると、敬徳はにやにやしながら近づいてきた。扉の前で対峙(たいじ)している長恭と青蘭を見ると、敬徳は声をあげて笑った。

「ああ、青蘭殿、そんなところに立っていないで・・・まあこちらへ」

敬徳は、男装の青蘭を客坊のなかへ招き入れた。

「男装をして、妓楼に来るとは、・・・青蘭、・・・君は何を考えているのだ」

卓の前に座ると長恭は青蘭を不機嫌に見据えた。よく考えてみると、夫の通う妓楼に来るなどと、妻にはあるまじきことである。

「はっ、はっ、青蘭殿、妓楼に乗り込むとは愉快だ」

青蘭は、夫に攻められ敬徳に笑われて、恥ずかしさに俯いて横を向いた。

「妓楼は、女と何するだけの所ではない。社交の場でもある。奥方は知っておいてもよかろう?」

敬徳は、妓楼の常連らしく落ち着いて説明した。

「じゃ、師兄と敬徳様は、ここで何をやっていたの?」 

青蘭が思い切って言い返すと、長恭は、困ったように唇に指を当てかぶりを振った。


      ★      ★


馬車の中には、カラカラという車輪の音だけが響いている。

青蘭がとなりを見ると、長恭が窓をわずかに開けて注意深く外を窺っている。馬車に乗れば何らかの言い訳が聞けるものと思っていた青蘭は、気もそぞろの長恭の態度にすっかり失望した。

自分がどんな思いで喬香楼に乗り込んだのか、この男は全然分かっていないのだ。青蘭は、溜息をつき瞑目すると力なく壁に寄りかかった。

「なぜ、・・・君はそんな恰好(かっこう)をして、妓楼に来たのだ」

馬車の窓を閉めた長恭は、青蘭の頭から長衣までを見ながら、その男装の理由を訊いてきた。

「その、・・・男装の方が、妓楼では目につかないと思って」

青蘭は、不機嫌に顔を逸らした。

「士大夫の夫人が、妓楼に乗り込んでくるのは問題であろう?」

長恭は、表情を正すと真面目な顔で青蘭を見詰めた。儒教では、子孫を絶やすことが一番の不孝であるとされている。そのため、男子は正妻の他に側女を多く持ち、子をもうけることが奨励されていた。男子は妻をほっておいて妓楼に通うことも非難されることではないのである。

『なぜ、師兄は喬香楼に行ったのか?』

その疑問に答えていないにも拘らず、妓楼に行ったことを非難されるのは理不尽に思われた。

「師兄が、行き先を教えてくれないからだわ。・・・それで仕方がなく、どこで何をしているのか自分で探っていたのよ」

ここで弱気を出してはいけないと、青蘭は強気に長恭を睨んだ。

「青蘭、私を信じてくれないのか。敬徳と話し合いをしていただけだ。浮気などしていない」

長恭は、心外だというように唇を歪めた。

「それじゃあ、昨夜の頬の口紅は何なの?」

長恭は、思わず自分の頬を撫でから、空を睨んで昨晩のことを思い出そうとした。

「一応、人の目をごまかすために、最初は酒宴をやったから、その時に付いたのだろうか」

長恭は、ごまかすようににじり寄ると手を握ろうとしたが、青蘭は手を振り払い身を引いた。

「いや、妓楼でなければできない話?それとも本当に浮氣をしていたの?」

「私を信じてほしい。・・・君を巻き込みたくなかったのだ」

長恭は眉を寄せると、溜息をついた。

 

      ★            ★


元宵節の灯籠飾りは例年にもまして輝きを増していた。長恭と青蘭は、清河王府での元宵節の宴に来ていた。前庭の偏殿の回廊には、工夫を凝らした赤い灯籠が飾られている。


「長恭、この前は大変だったな」

居房で出迎えた敬徳は、長恭の腕を取りながら笑顔を作った。青蘭が妓楼に乗り込んだ件を言っているのだ。今夜の酒宴について妓楼で相談していたのを、青蘭に浮気だと誤解されて踏み込まれたのである。

言葉を尽くしても怒りを解くことはできなかった。そのため、今夜はの宴に青蘭も招待していたのである。


青蘭は、先日の敵を取るつもりで笑顔を作った。敬徳は、青蘭に嫉妬させるためにわざと妓楼で話し合いを持ったのではあるまいか。

「敬徳様、婚約が決まったとか。・・・おめでとうございます」

先日、敬徳と張晏之(ちょうあんし)の令嬢張裴媛(ちょうひえん)との婚姻が決められとの話を耳にしたのである。張晏之は、楊愔に近い漢人の官吏である。婚約を祝う青蘭の言葉に、敬徳は顔を歪めると目を逸らした。

「婚儀の時は、よんでくれるのだろう?」

長恭は、単純に友の婚約を喜んだ。しかし、張家との婚姻は、楊愔に油断をさせるための方策であった。


その時、家人が賓客(ひんきゃく)の到着を告げた。

長恭の叔父の常山王高演であった。高演は、四人兄弟の中で一番長兄の高澄に似て博識(おんわ)で温和な性格であった。

『賓客とは、常山王であったのか』

青蘭は、長恭が容易ならざる出来事に関わっていることに気づいた。

敬徳、長恭、青蘭の三人は、礼に従って挨拶をした。

「こちらは、昨年婚儀を挙げました。妻の王青蘭、王琳将軍の息女です」

長恭は、横の青蘭を高演に紹介した。高演は、忠臣として有名な王琳の息女と甥との婚姻を思い出した。


四人が卓を前に座ると、茶が運ばれてきた。馥郁(ふくいく)たる爽やかな茶の香りが広がってくる。

「そうだ、敬徳、鍾繇(しょうよう)の『薦季直表(せんきちょくひょう)』を手に入れたと聞いているが、見せてくれ」

高演は、鮮卑族でありながら文人の風韻を持っている。

鍾繇は、三国時代の魏の文帝に仕えた人物である。『薦季直表』は、三国時代に流行していた最新の楷書(かいしょ)であった。後に書聖(しょせい)と言われる王義之(おうぎし)であったが、当初は鍾繇をめざして書法の修練に臨み先進的な字姿(じし)を獲得したのである。

「やあ、楷書でありながら、流麗(りゅうれい)で力強い筆致(ひっち)に溜息が出る」

高演は、先賢の筆跡をみて興奮気味に叫んだ。高演は、文武両道で漢人の文化に心酔するところが多かった。敬徳が、南朝から亡命してきた梁の旧臣から買い取ったのである。

『常山王は、何のために来たのだろうか』

青蘭はなかなか始まらない宴に、気詰まりを感じて横を見ると、長恭が目配せをして来る。何か聞かせたくない話があるのだろうか。  

「敬徳様は、珍しい書冊を集めているとか。ぜひ、見せていただきたいのですが」

青蘭は、できるだけ無邪気な笑顔で敬徳に振り向いた。高一族内の込み入った事情は、王琳の娘である青蘭には聞かせたくないはずなのである。

「おお青蘭殿、そなたの好きな『文選』もある。好きに読んできたらどうだ。よかったら贈ろう」

敬徳が安堵の笑顔を作ると、房内にほっとしたような空気が流れた。


家人に案内されて回廊に出ると、すでに邸内は夕闇に染まり回廊に掲げられた赤い燈篭が、美しく浮かび上がっている。

家人の後に付き角を左に曲がった時、夕闇の中で男とすれ違った。小太りの五十がらみの男である。振り向くと敬徳の居房に入っていった。この宴のもう一人の賓客は、あの男だったか。

高演派と楊愔派との暗闘は、晋陽から鄴城に場所を移してますます激しくなっている。清河王府で何か会合が持たれようとしている。長恭は、否応なく巻き込まれているのだ。黒雲の様な不安が青蘭の胸に広がった。


家人が、書房の数か所に蝋燭に灯りをともすと、青蘭は敬徳の広々とした書房を見渡した。几案の後ろには、書架が大きく設けられ、多くの書物が収められている。『孫子』に『呉子』『六韜』など兵書もあれば、『史記』などの史書『文選』なども並んでいる。

青蘭は『韓非子』を手に取ると、敬徳の几案に座った。『韓非子』の至る所に注釈が書き込まれている。二十二歳にして高敬徳が、侍中を務めるのは、その能力と弛まない努力ゆえであったのだ。

几案の上を見ると、黒檀の筆架には筆が下げられ、上等な硯と上質な料紙が巻かれて置かれていた。

青蘭は、何気なくその料紙を開いた。そこには、一人の女人の絵が描かれていた。舞妓にしては地味な髷を結った女人が、媚態(びたい)を示している。黒目がちの女人である。敬徳の馴染の妓女であろうか、何となく自分に似ているような気がする。青蘭は、敬徳の知ってはいけない秘密を見てしまったような気がして、書巻きを戻した。


青蘭は、灯籠を引き寄せて『韓非子』を読み進めた。数項を読むと、青蘭は溜息をついた。

『かの賓客との話は済んだのだろうか』

それは、自分が聞いてはならない内容なのだろう。それぞれの家を背負っている以上、士大夫の夫婦には何らかの秘密があるのは普通であった。しかし、疎外感が青蘭の心を蝕んでいく。いつまで自分はここに居ればいいのだろうか。清河王府は、ひっそりとして家人の来る気配も感じられない。

青蘭は、書冊を戻し燭台を手に取ると北側の壁に寄って行った。曹操の『短歌行(たんかこう)』の詩賦(しふ)が掲げられている。

青青たる()(えり)

悠悠(ゆうゆう)たる我が心

()だ君の(ため)(ゆえ)

沈吟(ちんぎん)して今に(いた)


青い衿の若者よ

わが思いは尽きぬ

ただ君の為にこそ

深い胸の内を今もうたう


曹操は、漢王朝を簒奪したと悪名高いが、一方多くの有用な人材を求め登用したと評価もされている人物である。敬徳は、曹操のような大志を抱き大業を成そうと欲しているのだろうか。


青蘭は、蝋燭(ろうそく)を消すと回廊に出た。所々に掲げられた灯籠だけが回廊を明るく照らしている。堂の扉は、わずかに開いていた。青蘭は、音も立てずに中に滑り込んだ。居房では、まだ話し合いが続いている。青蘭は、帳の陰に身を隠して話がすむのを待とうと思った。

「皇帝が何もしなければ、臣下はのんびり暮らせる。陛下は寛容で思いやりのある良き後継者だ」

高演の声である。先帝は、暴虐な天子であった。それに比べれば、確かに新帝は寛容で思いやりがある。

俯いて常山王の話を聞いていた男が前を向いた。青蘭がすれ違った男である。

「今の陛下には、帝王学が未熟で海千山千の者を統率できません。同族の輔佐が必要なのです。もし、他姓の者に任せれば、専横を招いてしまうでしょう」

王晞の言葉に、高演の瞳に逡巡(しゅんじゅん)の陰が横切った。

「これ以上、楊令公を増長させては、国の政は混乱を極めます」

敬徳が、侍中として政の混乱を訴えた。

「国が危機に瀕しても、殿下は悠々自適に暮らせるでしょうか?」 

王晞の熱っぽい言葉に、高演は眉を寄せて長い間黙っていた。

「私は、どうすべきなのであろう」

高演はこんと咳をすると横を見た。王晞は、恭しく拱手すると言葉を繋いだ。

「古のころ、周公は幼い成王に代わり七年間政をおこない、しかる後に王位を成王に返して引退しました。これこそ、殿下のとるべき道ではないかと思うのです」

王晞は、周公と高演を比べて熱っぽく語った。

「太皇太后様も、叔父上の政を望んでいるのです」

長恭は、祖母の婁氏の意向を一番心得ている孫である。

「私が、どうして周公になれよう」 

高演は、かぶりを振って深い溜息をついた。

「地位も名声も高い殿下が、どうして周公になれないでしょう」

高演は、苦悩に顔を歪めて黙り込んだ。


『この宴は、常山王を反楊愔の行動を起こすように説得するためだったのか』

青蘭は、帳の陰から静かに離れた。用心深く扉の隙間から回廊に滑り出ると、書房に向かう途中の手摺に腰を掛けた。

『今、斉の皇宮では、宰相の楊愔を倒すための動きが起こりつつある。その中で師兄も大きな役割を果たしていこうとしているのだ』

王琳の娘である自分は、長恭にとって手助けになるどころか障害でさえある。そのために、青蘭は蚊帳の外に置かれていたのだ。


青蘭は、傍らの柱に手を回すと額を寄せた。柱の冷たさが、頬を伝い首筋に忍び込んでくる。

『自分はここでは邪魔な存在だ。なぜ来てしまったのだろう』

長恭の妓楼通いを疑い、喬香楼に乗り込んで行ってしまった。敬徳との会合をしていたとの真偽を確かめるために宴に招かれることを希望したのだ。青蘭は手摺に座ると、瞳に溢れた涙を拭った。


「青蘭、気に入った書冊はあったか?そんなところで寝たら風邪をひくぞ」 

目を上げると、前に長恭が孔雀青(くじゃくあお)の外衣姿で立っている。そうだ、書房に書冊を観に行ったのであった。そして、戻るに戻れずここにいたのだ。そのとき、長恭の外衣が掛けられ、ふわっと沈香の香りと孔雀青の温かさが青蘭を包んだ。

「妓楼で知らせずに密談をしたことを、まだ怒っているのか?」

長恭は、青蘭のとなりに座ると、無辜(むこ)な笑顔で話しかけた。青蘭は、涙のあとを見られたくなくて、柱の向こうに回って座った。

「叔父上を説得するために、誰にも漏らせなかったのだ」

長恭は、青蘭の前に立つと肩を抱き寄せた。灯籠の灯りに照らされて、青蘭の顔には涙のあとが見える。

「君に、誤解をさせた私が悪い。君にあんな行動をさせてしまったのも、私の罪だ。許してくれ」

長恭は、孔雀青の外衣を掛けた青蘭を抱きしめると、額に優しく口づけをした。


「そこの二人、清河王府で何をやっておる」

宦官の甲高(かんだか)声色(こわね)が聞こえて、思わず長恭と青蘭は体を離した。灯籠の下で、声の方を見ると敬徳のお道化(どけ)たような顔が見えた。いつから見ていたのであろう。二人は、敬徳を睨んだ。

「もう、常山王は、お帰りになったぞ。もう一度三人で飲み直そう」

敬徳は満面の笑みを浮かべると、二人の肩に手を掛けた。

「まこと、重畳(ちょうじょう)、重畳」

敬徳は、二人の背を押すようにして居房に戻った。



長恭との誤解も解け、できるだけの協力を決意した青蘭は、婁皇太后の宮殿で二王(高演と高湛)を左遷しようという情報を聞きつける。漢人派と勲貴派の対立は、激しさを増していくのであった。

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