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第七章 「あたしの悩み」

 眼下に広がるイドラの大釜。

 相も変わらず、膨大な量の液化イドラ・アドミレーションをたたえている。上空から見ると、まるで、大地にぽっかり空いた大きな穴のように見えた。バランスを崩して、その穴に墜落するんじゃないか。そんな気持ちになってしまう。意識的に前を向いて、自分のパラノイアスキルの出力を上げた。自分の足がしっかりと空間に固定されたことを確認して、拠点への帰還を再開する。

 北の方角に、最果ての都市、レンヌ・ル・シャトーが見えてきた。このイドラの大釜の黒とは対照的な白と灰色の建造物が立ち並ぶ光景が見える。

 ああ、帰ってきたんだ……。デュラハンはホームに帰ってきた安心感と、それを上回る緊張感を同時に抱えていた。

 また、キャメロットに敗北した……。

 マリアに叱責されるだろうか、仲間に嘲笑されるのだろうか。嫌な想像しかできない。このまま帰還しない方が良いのかもしれない。でも、あそこにはマリアがいる。帰らなければ、あたしは捨てられてしまう。戻らないと。

「キリア、なんであのタイミングで邪魔をしたのよ! 今度こそ、リンの大槍をくだき、彼女をたたき伏せることができたのに!」

「ごめんなさい。あのとき、わたしは眠っていたのよ。でも、直前に聖杯の中が大きく揺れ動いて。それで目覚めてしまって……。わざとじゃないの。信じて」

「本当なの?」

「聖杯の中にあなたが見る光景を映すスクリーンがあるの。あのとき、そこから、強くまばゆく輝くオレンジ色の光が聖杯の中に広がって、周囲を明るく照らしたの。そのスクリーンの中心には、ひときわ輝くリンがいて、その表情を見ていたら、なぜか納得していたわ。『ああ、そうか。これだった』という感じで……。そうしたら、自分をつないでいた鎖が外れていることに気づいて、そのあとのことは覚えてないの。ねえ、デュラハン。あの納得感は何だったのかな。なんでわたしの拘束が解かれたのかな」

 デュラハンは憤り半分、あきれ半分という感じでキリアに答える。

「それは、あたしが訊きたいことよ」

「そうだね……。わたし、本当に何が起こったかわからないの。だから、わざとじゃない。あなたの邪魔なんてしたくてもできないよ」

 キリアの言葉から、さみしさやあきらめを感じた。彼女を聖杯浸食して、自由を奪ったのはあたしだ。普段は意識することない澱のような罪悪感が浮いてくる。責めたい気持ちがなえてしまった。

 デュラハンは当時のことを思い出しながら話し始める。

「拘束が解かれていたというのが本当なら、あたしが意識をなくしている間、おまえが表に出てきて、コンクエストスキルを使った、ということなのかな。おまえのアドミレーション吸収能力によって、リンのアンコールバーストをすべて呑み込んだ、ということかもしれない」

「それならダメージがなかったことや、あなたがつい先日まで苦しんでいた、黒のアイドルの聖杯にアイドル・アドミレーションが溜まる『聖杯の矛盾状態』になったことの説明がつくけど、そんなことが本当に起こるの?」

「あたしも聖杯浸食のことを詳しくわかっていないの。生まれてから他のイドラと意思疎通することがほとんどなかったから。でも、あのような心とからだの痛みを伴った気持ち悪さを合理的に説明できるのは、あたしとおまえが一時的に交代したと考えるのがもっともらしいよ」

「そうね。わたしも自分のコンクエストスキルをイドラ相手に使うときは、不快な気持ちをこらえながらイドラ・アドミレーションを蓄えているわ」

 デュラハンは、キリアと会話しながら、不思議な思いに浸っていた。

 戦闘中に邪魔をされることは許しがたい行為だった。しかし、だからといって、自分の聖杯の中からキリアの心を排除したい、と思うことはない。

 キリアとの会話が大切だった。彼女は聖杯浸食したデュラハンを責めず、無視せず、ちゃんと話を聴いてくれる。そんな彼女をいつの間にか頼り始めていた。そして、デュラハンは彼女のことをもっとわかりたいとさえ思うようになっていた。

 たとえ、戦闘中に邪魔をされて、敗北し、苦悩の底に落とされたとしても、キリアの心を排除することは考えられなかった。

 自分は少しおかしいのだろうか? 何かを間違えてしまったのだろうか?

「どうかした? まだ気持ち悪さが残っているの?」

 会話の途中だったことを忘れていた。キリアが心配そうな声でデュラハンに尋ねる。

「何でもない」

 キリアに余計な心配をされないように、物思いをやめた。そして、宙を踏みしめて、北に見えるレンヌ・ル・シャトーへの帰還に集中する。

 このキリアに対する思いを本人に伝えても良いのだろうか。キリアはどう思うのだろう。今、彼女は自分の心の近くにいるのに、まったくわからなかった……。


 デュラハンがレンヌ・ル・シャトーに帰還した数日後。

 都市のにある山の頂上。そこにそびえ立つ、ノヴム・オルガヌムの本拠点、アヴニール大聖堂で、定期報告会が開催されることになった。

 大聖堂の中にある百人ほどを収容可能な講堂。そこが会場だった。内部は、磨き上げられた灰白色の大理石で、華美な装飾はなく、落ち着いた雰囲気を感じる。天井には、イドラの大釜とその上空にある星をモチーフにした巨大なステンドグラスが輝いていた。講堂の正面と両側面には、壁一面に十字型のガラスがはめ込まれており、太陽の光が十字に切り抜かれて講堂に降り注ぐ。正面中央の祭壇を中心にした扇形の階段教室になっており、円弧を描くように十四列の長机と、それに備え付けられた九十九脚のいすがある。長机にはこのような大聖堂に似つかわしくない小型の情報端末が設置されていた。

 この講堂の席次はノヴム・オルガヌム内の序列になっている。現在のデュラハンの序列は第七位。三つの円弧の中で祭壇に向かって右列の前から二番目のいすに座った。

 肘をつき、右側面の十字のガラス窓からレンヌ・ル・シャトーの白い街並みを見下ろす。白い外壁が、降り注ぐ太陽の光を反射し、まぶしく輝いていた。

 普段ならきれいだなと思うが、今はまったく心が洗われない。

 講堂内は、すでに黒のアイドルや人型イドラで埋まっていた。彼女たちは、一様に黒と灰のモノトーンで統一された修道服を着ている。これがノヴム・オルガヌムの制服だった。一部のものは、アクセサリーを付けたり、着くずしたり、改造したりして、自分の個性を主張していた。

 席に着いているものもいれば、近くの仲間といっしょに談笑しているものもいる。そして、半獣人や妖精の姿をした存在もいた。彼女らは神話型イドラのアバターだ。通常の姿では巨大すぎて会場に入れないため、人間大のアバターに姿を変えて、この報告会に出席している。

 開会の時間が近づく。あたし以外の序列上位者が、会場に入ってきた。悠然と祭壇近くの自分たちの席に向かって、通路を進む。彼女たちの他を圧倒する威容は、それまで騒がしかった会場を黙らせた。会場内の出席者全員が自分の席に着き、私語を慎しんでいる。

 序列上位者が着席したあと、祭壇側の出入り口から、修道服の上に真っ黒なローブを羽織った女性が講堂に入ってきた。先ほどの序列上位者を上回る威容を発揮する彼女が、ノヴム・オルガヌムのリーダーで、あたしの母親である、マリア・レイズだった。


 マリアの開会の宣言のあと、定期報告会が始まった。

 序列が下位のものから順に活動報告をしていく。彼女たちのほとんどが順調に活動し、報告内容は達成、成功、実現という言葉で満たされていた。

 いよいよ序列が一桁台の黒のアイドルの報告となった。序列が一桁のものは、それぞれに組織の重要案件が任されている。序列九位と八位の二人は着実に成果を上げていた。

 デュラハンの憂鬱は頂点に達する。前回の定期報告会と同じく、キャメロットに再び敗北したことを告げなければならない。恥ずかしさと情けなさで胸が張り裂けそうだ。

「では、デュラハン。報告を」

 マリアの言葉に過剰に反応し、誰かに胸倉をつかまれたように、立ち上がる。

「現在、アヴァロン・プロダクションに所属するアイドルのイドラ化を担当しています」

 これ以上の言葉が出てこない。言いたくない。

 言ってしまうと、あたしはどうなる? 序列の降格か? 懲罰か? 最悪の場合、捨てられるかもしれない。それだけは嫌だ!

 言いよどんでいると、周囲の黒のアイドルたちや神話型イドラたちがざわつき始める。彼女たちの一つひとつの言葉ははっきりとは聞き取れなかった。しかし、だからこそ、幻聴のようにあらゆる種類の蔑みの言葉が聞こえてくる。

「第七位なのに、大した成果を上げていないなんて……」

「マリア様の子どもなのに、たいしたことないんだ」

「あの子、泣いてるの? うわぁ、ダサい」

 デュラハンは顔を涙で濡らしながら、周囲の黒のアイドルや神話型イドラたちを見た。全員の顔が影で隠れている。その様子は、無表情で嘲り笑う、口が裂けた仮面をかぶっているようだった。彼女たちがひしめき合い、デュラハンを指さして、くすくすと笑いながらうごめいている。世界のどこにも自分の居場所がないことを証明する光景だった。

 突然、左前に座る序列三位の黒のアイドル、ヴィヴィアン・サーペンドが立ち上がる。

「デュラハンは、『ザ・インダクション』に乱入し、対戦後のキャメロットを襲撃しました。しかし、アクシデントが発生し、勝敗がつかずに帰還しています」

 デュラハンが隠したかった言葉を発していた。

 蒼白な肌で、光の加減で青く見える黒髪をシニヨン風にまとめた彼女は、冷徹な表情で、デュラハンをにらむように見つめる。腕をからだの前で組み、右手の人差し指を立てて、一つひとつ順を追ってデュラハンの失敗を並び立てる。

「彼女は、一年ほど前に、アヴァロン・プロダクションを襲撃しています。そのときは、キャメロットの新メンバーオーディションでした。要注意人物であるリン・トライストを第三段階の直前まで、つまり黒のアイドル一歩手前までイドラ化することに成功しています。しかし、リンの膨大なアドミレーションによってイドラ化は失敗に終わっています」

 ヴィヴィアンは一気に言い終えた。デュラハンは、これまで感じていた恥ずかしさや情けなさではなく、不条理を感じていた。彼女をにらみ返し、「なんで!」と問う。

「貴様が言いづらそうにしていたから、代わりに報告したまでだ。今、私が報告したことは間違いのない事実だろう。さっさと貴様の番を終わらせてくれ」

 たしかに、事実だ。しかし、あんまりな仕打ちだった。

「おい、デュラハン。おまえ、もしかして聖杯浸食に失敗したんじゃないか?」

 唐突に、目の前に座る、序列第二位のモルガン・ヴォルフが振り返る。

 褐色の肌に、茶色に近い黒髪はウェーブをかけたショートボブ。大きな瞳と大きな口が特徴的な彼女の顔は、面白いもの見たような笑顔だった。

「聖杯浸食の、失敗……?」

「そうだよ。失敗だ。俺もおまえがキャメロットに敗北したときの状況は知っている。おまえの活動の不安定さが、以前出会った聖杯浸食に失敗したやつに似ているんだよ。浸食したとき、相手の聖杯を割ったか? 融合したか? つながったか? 手段は問わないが、聖杯と疑似聖杯をひとつにしないとそうなるんだよ」

 どきりとした。そんなことしていない。そんなこと聞いたことがない。モルガンが状況を確認するように再び問う。

「浸食した相手は、キリアだったよな? そいつが、まだ聖杯の中にいるんじゃねぇか?」

「いる……」

「そうか。なら、その不安定さは仕方ねぇな。以前出会ったやつも悩んでいたな。いつの間にかどこかに行っちまったが……」

「どうすれば、いいの?」

「あぁ? 知らねぇよ、そんなこと。普通に聖杯浸食したら、聖杯がひとつになるんだ」

 周囲でうごめく黒い仮面たちの口がさらに吊り上がる。そして、何事かを話し始めてざわつく。また、幻聴が聞こえてきた。

「あいつ、聖杯浸食に失敗していたんだ!」

「あんなに動揺しちゃって、今までわからなかったのかしら」

 失敗。聖杯浸食の失敗。あたしの失敗。

 デュラハンは茫然とする。比喩でも何でもなく、目の前が真っ暗になった。さっきまで明るかった講堂の中が突然暗くなる。あたしの道が途絶えた。全身の力が抜け、いすに崩れ落ちる。

 なんであたしだけ……。知らなかった。誰も教えてくれなかったじゃない。生まれてすぐ、イドラの大釜に向かわされた。だから……。

「静粛に」

 そのとき、畏れを感じるおごそかな声が講堂に響き渡る。その瞬間にざわめきがおさまっていた。マリアだった。マリアがデュラハンに直接語り掛ける。

「デュラハン、顔を上げなさい」

 うつむいていた顔を上げる。期待していた。マリアが助けてくれることを。しかし、マリアの表情を見て、期待がかなわなかったことを悟った。

 あきれたような、聞き分けのない面倒な子を相手にするような表情だった。

 デュラハンは縮こまって、祈るように手を組み、ぽろぽろと涙を流す。罰の回避を懇願するように、「ごめんなさい」とマリアに謝った。

 マリアは暗い水底のような笑顔を見せ、「許します」と告げる。吸い込まれるような漆黒の瞳を見つめながら、デュラハンはマリアの次の言葉を待った。

「あなたは、私が苦労して産んだ大事な子どもです。だから、大切に思っています。そして、私たちノヴム・オルガヌムの『目的』を果たすために必要な人材です。本当に、無事でよかった」

 マリアにまだ愛されていることを確認できた。心が落ち着いていくのがわかる。周囲のざわめき、ヴィヴィアンに対する憤り、モルガンの指摘への動揺が少しずつ消えていく。

 マリアはさらに続ける。

「キャメロットの四人をイドラ化して、黒のアイドルにするのです。彼女たちの才能はとても素晴らしい。特に、リン・トライストです。彼女のアドミレーション生成力は何にも代えがたい最上の才能です」

 リンのことを話すマリアは、贈り物を待ち焦がれる子どものようだった。デュラハンはその様子に不安を覚えながら、マリアに尋ねた。

「キリアの聖杯とひとつになるには、どうしたら良いのですか?」

「私にもわかりません。ですが、その事象には興味があります。少し調べてみましょう」

 報告会は次の序列第六位のアイドルの報告に移る。

 全身の力が抜け、机といすにうなだれる。「キリアの聖杯とひとつになっていない」という新たな不安が急速に心の中を占領していった。


 †

 これで、デュラハンの報告が終わった。

 キリアは、聖杯の中の大きなスクリーンで、デュラハンの視覚と聴覚を共有していた。

 普段の彼女は無鉄砲で、独善的。しかし、他の黒のアイドルといっしょにいるときは、印象がまったく違うことに、とても驚いていた。

 デュラハンは、自分の失敗をマリアに許され、大切に思われ、無事を喜んでもらったことに安心しているようだった。

 しかし、キリアは、先ほどのマリアの言葉に違和感と怒りを覚えていた。上手く表現できないが、理屈っぽくて、デュラハンを口先の言葉で操作している気がする。

 キリアは、この感情に既視感を覚えた。いつなのか、どこなのか。今の感情が強すぎて、特定することができない。


 †

 聖杯をひとつにする。

 この言葉が心から離れない。キャメロットに勝てないのは、キリアが目覚めるから。そして、キリアが目覚めるのは、あたしが聖杯浸食に失敗したからだった。自分の席で、解決できない問題を抱え、ぐるぐると悩んでいた。

 がやがやと騒がしくなった。顔を上げると、参加者が講堂から退出を始めている。いつの間にか、報告会は終わっていた。

 デュラハンの席の近くをヴィヴィアンとモルガンが通る。

「おい、デュラハン。終わったぜ。早く出るぞ」

 モルガンが声をかける。

 さらに、ヴィヴィアンは厳しく冷たい口調で続く。

「さっさと立って、退出しなさい。情けない姿を見せないで!」

 キリアは顔を上げ、ヴィヴィアンを、憎しみを込めた目で見返す。

 ヴィヴィアンは「何よ?」と反応した。デュラハンに対してさらに言葉を浴びせようとしたとき、モルガンが「二人とも気にしすぎだ」と割って入り、ヴィヴィアンの肩を抱いて講堂の出入り口に向かっていった。

 子どものようにすねる自分が情けない。耐えられなくなり、思わず、祭壇の方を見た。

 マリア……。

 しかし、祭壇にマリアの姿はなかった。すでに退出したあとだった。


 講堂が静まり返る。もう誰もいない。デュラハンは再び机に突っ伏して、悩んでいた。

 静かな場所で、じっとしていると、いろいろな感覚が悩みを妨げる。

 講堂の外から、鳥の鳴き声が聞こえてきた。風が窓をたたく音。近くにある滝から水が落ちる音も聞こえる。机やいすの乾いた木材のにおい。大理石から漂うひんやりした冷気。横顔と背中が温かい。十字の窓から差し込んだ西日だった。

 これらの感覚が「ある」ことに気づいたとき、キリアに話しかけられた。

「デュラハン、大丈夫か?」

「……大丈夫よ」

「今の報告会、聴いていたよ」

「そう……」

「デュラハンの苦しみの責任は、わたしにもあるんだよね。何もできずにごめんなさい」

「えっ?」

「いっしょに、反論したかった。怒りたかった。泣きたかった」

 キリアがそう思ってくれているとは思わなかった。デュラハンは顔を上げる。

 机の前に誰かがいた。ゆっくりと、からだを起こし、その姿を確認する。

 そこには、プラチナブロンドの髪がとても美しい女性が立っていた。その髪は、講堂に差し込む西日を反射して、きらきらと輝いていた。

 整った顔立ち。広い肩幅としっかりした体幹、長い脚。

 その女性は、キリアだった。

 キリアは、デュラハンの肩に手をかけ、優しく声をかける。

「外に出よう。少し歩かないか?」

 なぜか、鼻がつんとして、涙が込み上げてきた。悲しいのではなく、嬉しかった。デュラハンは泣き笑いの顔で、肩にかけられたキリアの手に触れ、うなずいた。

 次の瞬間、キリアの姿は消えていた。心の中からキリアの声が聞こえてくる。

「さあ、行こう。きっと気分が楽になるよ」

 デュラハンは、涙を払い、もう一度うなずく。自然に口角が上がっていた。


 アヴニール大聖堂から出たあと、ロープウェーに乗って、下山する。ロープウェー発着場の真正面に大通りが見えた。大通りはゆるやかに下っている。地平線の先には、イドラの大釜の真っ黒な水面が広がっていた。

 行く当ても考えず、最初に目に入ったその大通りを、イドラの大釜の方へ向かって歩き出す。デュラハンもキリアも互いに声をかけることはなかった。

 白い煉瓦で舗装された歩道が後ろへ流れていく。その道は、暮れなずむ空を写し取ったように夕焼けの色をしていた。周囲の建物の白い外壁も黄金色に染まっていた。

 十数分の間、無心で歩いていると、いつの間にかイドラの大釜を臨む展望台に着いていた。デュラハンは、石でできた柵に寄りかかり、そこからの景色をぼうっと眺める。

 眼下には、夕日に照らされて輝くレンヌ・ル・シャトーの街並みが続いていた。白い建物がひしめきながら少しずつ外に広がっていくように見える。さらに、はるか先にはイドラの大釜が横たわっている。黒色の水平線は、首を横に振らないと全体が見えない。

 イドラの大釜の上空が、次第に濃紺色に染まっていく。夜が迫ってきた。それは、イドラの大釜からあふれ出た黒いアドミレーションが空を覆っているように見えた。

 デュラハンは、ため息をつく。

「どうして、こうなっちゃったんだろう」

「……聖杯がひとつになっていないこと?」

 キリアが応えた。

「うん。聖杯浸食したあとの一年ぐらいはまったく問題はなかった。デビューしたばかりのリンに敗北してから、心やからだがうまく動かないことが多くなったんだ。その原因が、聖杯浸食に失敗したから、だったなんて……」

 デュラハンは、苦々しい気持ちになり、さらに続ける。

「敗北のたびに、思い悩んで反省して、自分を戒めたり、今日みたいに他の黒のアイドルたちの嘲笑の的になったりして……。こんなに辛い思いをするのは、もう嫌」

「デュラハン。わたしに、その気持ちを教えて? どんなふうに辛いの?」

「どんなふうって……」

 デュラハンは戸惑う。それでも言葉を探しながら、ゆっくりと答えていく。

「いらいらして、みじめな気持ち、落ち着かない感じ。そう、マリアの傍からはじき出されてしまう焦り。自分の安心できる居場所がなくなって、この世のすべてから切り離される感覚。自分で自分を消し去らないといけない。そう思ってしまう……」

「自分の居場所がなくなってしまいそうで、落ち着かない。自分で自分を消したくなるほどみじめな気持ち……」

「そうだね」

「一年前、リンに敗北する前はそんな気持ちになることはなかった?」

「それは、なかった」

 デュラハンは、昔を思い出しながら、語り続ける。

「昔、イドラの大釜の守護が任務だったときは、神話型イドラと模擬戦をしたり、迷い込んできた白のアイドルと戦ったりした。白のアイドルを撃退したあと、そいつを見下ろす瞬間が、すっとした気分になって、とても気持ち良かったんだ」

 キリアの反応が遅い。二年前のことを思い出しているのだろうか。

 彼女の仲間を自分の大剣で刺し貫いたときも、同じ気持ちになっていた。

 ようやく、キリアが次の言葉を発した。

「……自分が倒した白のアイドルを見下ろすと、なぜ、すっとした気分になるんだ?」

 キリアの言葉は怒りに染まっていなかった。先ほどまでと同じ優しい口調だった。

「キリア、怒っていないのか? その、白のアイドルを見下ろすっていうことに……」

「うん。今は、あなたの話をちゃんと聴きたい」

「そう、なんだ」

 気持ちが温かくなった。そして、キリアにもっと話したくなった。

「白のアイドルを見下ろすと、そいつが、あたしを見上げて、評価しているように感じる。それは、自分の価値の証明みたいだった。安心して、わだかまりがとけて、晴れやかな気分になっていた」

「自分の価値を示すことができるから、すっとするんだ」

「そう、なのかもしれない。でも、キリアに聖杯浸食してからは生活が変わったわ。マリアや他の黒のアイドルから評価される対象になった。そのときから、だんだん現実が見えてきて、自分の期待通りの評価をしてくれる存在はいないということがわかってきたの。そして、気づいたんだ。今まで自分が倒した存在は、あたしを見ていない。だから、評価している訳じゃなかったっていうことを」

 眼下に広がる街並みを眺める。いつの間にか、日が沈み、夜になっていた。闇の中に、建物の白さがぼうっと浮かび、柔らかい灯りがぽつぽつと灯っている。デュラハンは夜の寒さと闇の中にいる心細さに任せて、キリアに語り掛ける。

「誰もあたしを見ていない。でも、キリアはあたしに負けても、あたしを見続けて、語り掛けてくれる。キリアと語ることができるのが、今のあたしにとって、唯一の救いかも。感謝してる。今も話を聴いてくれてうれしく思っているんだ」

「……わたしは、あなたが苦しんでいる心やからだの不調の原因なんでしょ? それなのに、そう思ってくれるの?」

「間違いなく、そう思っているよ。不調の原因は、あたしが聖杯浸食に失敗して、聖杯がひとつになっていないこと。キリアを恨むことじゃない。あたしが何とかすることだ」

「そっか……。ありがとう」

 言葉の意味を考えて、思わず笑ってしまった。

「ありがとうって、何かおかしい気がするけど」

「そうでもないの。これまで、あなたに対して憎しみ半分、あきらめ半分で接していた。でも、今日、あなたといろんなことを話してみて、もっとあなたに近づいてみないといけないって思えるようになったの。だから、そう思わせてくれて、ありがとうってこと」

 キリアとここまで会話しても、自分が抱える辛く苦しい気持ちは、どうにもなっていない。しかし、彼女との対話に期待していた。何かが変わる。そんな予感がしていた。

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