第十章 「わたしと先生」
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キリアが、「ミレナ先生に憧れていた」と語っている。
デュラハンは、その様子を見て驚いた。こぼれる笑顔、はにかみながらうつむくしぐさ。まるで花が咲くように、感情表現が豊かになっていた。それから、身振り手振りが多くなった。手や腕が動くたびに、ひび割れた鎧とぼろぼろの服をしきりに気にしている。彼女は、それらを邪魔に感じているようだ。
白のアイドル時代のことを話していたときの危うい感情のゆらぎや重々しい口調からは想像できない。
デュラハンは、今感じていることを彼女に伝える。
「キリアは、ミレナ先生のことを大切に思っているんだな。話すときのしぐさを見ていると、それがはっきりと伝わってくるよ」
キリアは「そんなこと、ないよ」と言い、顔を赤くして、うつむく。
彼女の様子を見ていると、少し嫌な感じがした。このままミレナ先生の話を続けたくない。しかし、ミレナ先生は、キリアにとって大切な人らしい。彼女のことを知るためには避けて通れない。
デュラハンは、覚悟して先に進むことにした。
†
「ミレナ先生は、どんな人なんだ? 例えば、第一印象は?」
「第一印象? そうだな……」
キリアが、ふふっと笑いながら笑顔で答える。
「実は、最初は先生のことが嫌いだったんだ」
デュラハンが、驚いているような不思議な表情をする。
今の言葉をにこにこしながら話している自分に気づく。キリアは、楽しさと懐かしさを感じながら、先生のことを語り始めた。
「先生の名前は、ミレナ・アプローブ。当時は二十歳。大学に通っていた。わたしが十二歳の一年間だけ音楽の家庭教師として派遣されていた。週に一回、学校が休みの日だった」
書割が変化する。映ったのは、先生だった。濃い赤毛で、ヘアスタイルは編み込み。豊かな表情がとても魅力的な女性だった。書割に見入っていると、デュラハンから尋ねられた。
「キリア、ミレナ先生との思い出、いろいろ聴かせてくれないか?」
キリアは「わかった」とうなずき、書割に映る先生の姿をじっと見つめたあと、目を閉じる。心の中が温かくなった。
書割に映ったのは、わたしの家の玄関。先生が笑顔であいさつをしている。
「先生が初めてやってきた日。わたしは、あの人たちの子どもとして恥ずかしくないように、気品と威厳をたっぷり注ぎ込んだ自己紹介をしたの」
デュラハンはキリアの目を見て、しっかりうなずいてくれた。
「でも、先生は、わたしの儀礼的なあいさつを見なかったように、『ミレナ・アプローブです。よろしくお願いします!』って、フランクなあいさつをしたんだ。それを聞いて、わたしは、なぜかいらいらしてしまって」
「いらいら……。ミレナ先生の何が、そうさせたんだ?」
キリアは、書割に映る先生を見つめる。彼女と対話するように、ゆっくり語り始めた。
「……どうしてそんなふうにふるまえるのか、納得できない。わたしが、がまんしていることを、あなたは遠慮なく、何の断りもなくやってしまう。それらにいらいらしたのかもしれない」
「がまんしていたキリアは、がまんしないミレナ先生との違いが腹立たしかった?」
「腹立たしい……そうだね。第一印象がこんなふうだったから、最初の頃は、先生のことをまったく信じることができなくて……」
「何が信じられなかったの?」
「例えば、他の先生は、担当分野で有名な賞を取るほどの優秀な人ばかりだった。でも、先生はピアノ、歌、ダンスの技術は、どれも二流だった」
「それなら、なぜミレナ先生だったの?」
「以前の派遣先で、教え子の才能を上手く開花させて、高く評価されたみたい。でも、子ども心には、そんなこと、まったく響かなかった。だから、本当に教えてもらってもいいのかなって、疑っていたんだ」
デュラハンは、キリアの語りを邪魔せず、静かに聴いていた。キリアは、さらに続ける。
「それに、先生は、自分の気持ちを臆せずにはっきり言ってしまう人だった。わたしだったら言えないことを相手に伝えていた。しかし、それで、先生が怒られたり、損したりするかといえば、そうではなかったんだ。ほとんどの場合、先生が相手に伝えたことに、相手も納得していて……。なぜか知らないけど、先生の主張はいつも通っているんだ。そんなことができる先生に、嫉妬していたな」
「そんな状態でレッスンはできていたの?」
キリアは苦笑いをしながら、静かに首を振った。
「レッスンしなかったの。わたしは、最初の一か月間、レッスンを拒んでいたわ」
「その一か月間、ミレナ先生は何をしていたんだ?」
「持ってきた本を読んだり、歌やダンスの課題を練習したりしていたよ」
「なんというか、変わった先生だね」
「動じない先生に対して、わたしは罪悪感を覚えたわ。先生を怒らせたのかも、あの人たちに、このことが伝わったらどうしようって。ぐるぐる考えていたよ」
「ミレナ先生は何を考えていたんだろう?」
「先生は、たまに、わたしに話しかけてきたわ。どんな勉強をしているのか、他にしている習い事のこととか。わたしは不機嫌な様子をつくろって、単語をつなげて答えていたわ。失礼な答え方だったと思うんだけど、先生は怒らずに、わたしの答えに興味をもって、笑顔で反応してくれて……。先生に対して、いらいらしていたけど、居心地がとても良かったんだ」
「一か月後、何があったの?」
「先生が、歌やダンスがすごく好きなのだ、ということに気づいたの。先生が、歌いおどっているとき、普段の様子とはまったく違うんだっていうことに」
「どう違うの?」
書割の中の先生は、レッスンルームで鋭く鮮やかに踊っている。自分の声やからだに集中して、周りの様子を気にせずに一心不乱に自分を磨く様子だった。歌やダンスに入れ込み、集中している顔に引きこまれる。
「先生のすべて。色っぽくて、かっこよくて、きらきらと輝いていた」
「ミレナ先生の懸命な姿に魅せられたということか?」
キリアは大きくうなずく。
「わたしは、先生のレッスンを受けたくなっていたんだけど、これまでの態度をなかなか変えることができなくて……。先生に話しかけるのをためらっていたわ。でも、ある日、先生がレッスンを始めようって笑顔で声をかけてくれて。こんなに面倒くさい、わたしを見捨てず、気にかけ、許してくれた。本当にうれしかった」
「キリアが心の底から『やりたい』って思うのを待っていたのかもしれないね」
「そう、かもしれない」
キリアは、顔がほころぶのを感じた。
「そのときから、ミレナ先生は憧れの人だったのか?」
「どうなんだろう。憧れの瞬間……はっきりしたタイミングはなかったと思う。ゆっくりと、でも確実に、先生への憧れが強くなっていったわ」
キリアは自分の言葉に少し恥ずかしくなって、慌てて次の言葉を探す。
「先生とは、レッスンのことだけじゃなく、いろんなことを話したんだ」
「何か思い出せることはある?」
キリアは、うなずく。
「例えば、将来の夢について話をした」
「それも聴かせてほしいな」
「いいよ」
キリアは記憶の整理をした。先生が顔を赤くして、はにかみながら、自分に話してくれたことが浮かび上がってくる。
「先生は、舞台俳優を目指しているって話してくれた。きっかけは、十二歳のとき。ひとりで舞台を観に行って、そこで決めたことらしい」
「ひとりで、か。そんなに舞台が好きだったのか?」
「それには、理由があったんだ。先生の家は母子家庭で、母親との関係が良くなかったみたい。いい子でいようってがんばっていたけど、がまんすることに疲れてしまって……。ある日、全部どうでもよくなって、家出をしてしまったんだ」
また、書割に変化があった。これまではキリアの思い出の一シーンを切り取った写実的な絵画だった。しかし、今回浮かび上がったのは、漫画のようなイラストだった。少女が泣きながら夕暮れの街をさまよい歩いている。
これは、十二歳のときの先生なのだろうか?
「近くに親戚もいない、友達の家に行くのも迷惑がかかる、そう思い、行く当てをなくした先生は、仕方なく、自分通う学校に向かったの。忍び込んだ真っ暗な講堂の中で、うずくまり、これからのことを考えてすごく怖くなって、泣いていたみたい」
デュラハンが書割を見ながら、「ミレナ先生の心細さが伝わってくるようだ」と言う。書割には暗闇の中で、うずくまって泣いている少女が映し出されていた。
突然、少女の周囲が明るくなる。講堂の中に、にぎやかな一団が入ってきた。
キリアは続きを語り始める。
「その一団は、学校が招いた大学生の演劇サークルで、次の日に、地域の人に演劇を披露することになっていたの。代表の女性が先生に声をかけて、演劇の練習を観ていくように誘ったんだ」
書割の中の少女の目が輝き始める。最前列の席。目の前で繰り広げられるリハーサル。本番と同じ衣装やセット。役者たちが舞台の上で躍動し、セリフが講堂中に響き渡る。
「先生は、これから生きていく元気をもらったって言っていた。サークル代表の女性が言っていた『伝えたいことは、お客さんを信じて、堂々としながら、大きな声ではっきりと! そうじゃないと、お客さんに届かないし、劇も成立しないよ』というメッセージが印象的だったみたい。ずっと心に残っているって」
「とても良いメッセージだね」
キリアはデュラハンの言葉にうなずく。
「先生は、そのメッセージがきっかけになって、母親とのコミュニケーションの方法を見直して、関係の改善ができたらしいんだ。とても生きやすくなったと言っていた」
「その体験があったから、ミレナ先生は舞台俳優になりたいという夢を持ったのか」
「そうだね。それにサークル代表の女性のメッセージがきっかけで、大学では、コミュニケーションや人の育成について学べる学部を専攻し、家庭教師のアルバイトで学んだことを実践していたの。演劇との出会いが先生の将来を決めたんだ」
デュラハンは、キリアをじっと見つめて、尋ねた。
「キリアは、将来の夢について、何か話したのか?」
キリアは、口をつぐむ。首を横に振って、自嘲の笑いをもらす。
「具体的なことを話すことができなかったんだ……。先生と同じように、わたしも語りたかった。でも、時間をかけても何も出てこなかった。それで、悔しくて泣いてしまったんだ。小さい頃、わたしは何が欲しいとか、将来、何になりたいとかを考えたことがなくて。目の前の勉強とか、習い事を機械のように片づけていくことに必死だった……」
デュラハンが、心配な顔をして尋ねる。
「その生活は、辛かったのか?」
「いいえ。むしろ得意だったよ。勉強したこと、練習したことはすぐに身につけることができた。でも、そのあとに何も残らなかったの。次の勉強と習い事が待っているだけ……」
「……それでも、キリアはアイドルになった。どうしてアイドルだったの?」
「マリアのようなアイドルになりたいって思ったから、かな。でも、そう思ったのは、先生と出会って、歌とダンスが好きになって、先生といっしょにマリアのライブ映像を観たから、なんだけど……」
キリアは深く息を吐いた。からだの緊張がゆるむ。
少しの沈黙のあと、デュラハンが語り始める。
「キリアが、ミレナ先生のことを慕っていたのがよくわかった。気づいていた? ミレナ先生のことを語っていたときは、どんな話をしていたとしても笑顔だったんだよ? 第一印象、心を開くまでの一か月間、ようやくレッスンを開始したとき、ミレナ先生の将来の夢が決まった話、そのすべてで、あたしがびっくりするほど、キリアは笑顔だったんだ」
デュラハンが続けて尋ねた。
「キリアにとって、ミレナ先生はどれくらい大事なんだ?」
キリアは意外な質問に驚き、当惑した。
しかし、ちゃんと言葉にしたいと思った。だから、大切に考える。
「どれくらいって……。本当に大事な先生だよ。会えてなかったら、わたしはどうなっていたのか……。アイドルには、なっていないかな。今考えると、恐ろしくなる。そう思えるほど、大事な転機をくれた人だね」
「……あたしが言うことではないけど、あたしに聖杯浸食された今でも、そう言えるのか?」
キリアは自分の気持ちを確かめて、「言える」とはっきり答えた。そして、デュラハンをまっすぐ見つめて、言い切る。
「先生に出会って、アイドルを目指して、アイドルになったこと、デュラハンに負けて、聖杯浸食されたことに、何も後悔はない」
「そうか」
デュラハンは、胸に手を当て、息をついた。
「キリア、ミレナ先生について、いろいろな思い出を聴かせてくれてありがとう。最初にミレナ先生にも憧れていたと語っていたけど、結局どんなところに憧れていたんだ?」
「わたしは、先生のことを……」
キリアは、時間をかけて考えをまとめ、答えた。
「自分を表現することが好きで、表現しながら自分の隠れた魅力を発見しようと努力できるところ。そして、そんな自分が他の人に理解されることにやりがいを感じられるところ、かな。のびのびと楽しく生きている人で、そんなふうに楽しめることがうらやましい。わたしも先生みたいに生きてみたい」
「キリアは、ミレナ先生みたいに、楽しんで生きることができていないのか?」
どきっとする。マリアのことを話していたときと同じ気持ちになった。
「そう、なんだと思う」
わたしは楽しんで生きていない。じゃあ、どう生きているんだ?
デュラハンとの間に沈黙がただよう。
デュラハンが、この沈黙を嫌うように、あわてて別の話題に切り替える。
「ミレナ先生は、キリアにとって、とても大事な先生だったのに、なぜ、家庭教師の期間が一年間だったの?」
「契約期間の満了だったの」
「キリアにとって大事な先生だったんでしょ? 契約の延長もあり得たんじゃない?」
「それは検討されたんだけど、あの人たちが契約終了を決めていた。もしかしたら、わたしの周りに大きな影響を与える人を残したくないから、かもしれない」
デュラハンが、まじまじとキリアの顔を見る。
「それほど悔しかったんだな」
「えっ?」
「顔をしかめていたよ。まるで汚らわしいものを見るように」
キリアは、表情を確かめるように顔をぱたぱたと触る。
「わからなかった……」
脳裏にあの人たちの姿がちらつく。追い出すように、頭を振る。でも、消えない。
「あの人たちは、わたしにインプットされるものを完全に管理したいと思っているんだ。わたしを完全にコントロールしたいんだよ!」
デュラハンが言葉を継ごうとしたとき、キリアは、焦るように自分から話題を切り出す。
「先生とのお別れの話がしたい」
「……いいよ。聴かせて」
デュラハンは、少し戸惑っているようだったが、提案を受け止めてくれた。
キリアは、先ほど思い出したことを語り始める。
「わたしは、迫ってくるお別れにびくびくしながら、先生のレッスンを受けていたんだ。表情を変えないようにがんばっていたけど、ふとした拍子に表情は崩れていたかもしれない。きっと先生には、がまんしているってばれていたんじゃないかな」
書割から淡くて温かい光があふれ出してきた。光は、徐々に大きく広がり、キリアとデュラハンを包み込んでいく。書割には、十二歳のキリアと先生が映っていた。
*
最後のレッスンが終了してしまった。
ミレナが、キリアの目を見て、「おつかれさま」と声をかけたとき、キリアは抱えきれなくなった寂しさや不安な気持ちに負けて、ミレナの胸に飛びつき、抱きしめた。
「先生、行かないで! またここに来て、いろんなことを教えて!」
もう気持ちを抑えることはできない。涙があふれ、肩をふるわせてしゃくりあげる。ミレナのからだにぎゅっとしがみついた。
「先生、が、いないとっ、不安で、こわくて、いたくて……。うううぅぅ、ぐすっ、ひっ、せんせいっ。いやだよぉ……」
ミレナは、キリアを抱きしめ返し、頭をなで、背中をとんとんと優しくたたく。キリアのことを深く抱きしめたまま、問いかけた。
「キリア、悲しいんだね……。どんなふうに悲しいの? どれくらい悲しいの? 先生に教えて? キリアの気持ちをちゃんと知りたいよ」
キリアは、ミレナの温かさとふわりと香る甘くすっきりした匂いにつつまれ、抱えたものを安心してはき出すことができた。
「だって、先生が、いなくなるとっ、ううぅ、ひっ、思ったらぁ……。目の前が、まっくらになって、胸がずきすきいたくて、がまんできなくてっ、こわくて、もう歩けないかもって、思ったの」
ミレナは、キリアの両肩を支え、目をしっかり見つめて語り掛ける。
「大丈夫。キリアはそんなに弱い子じゃないよ。今までだって、いろんな人の前で、いい子でいられるようにがんばっていたんだ。それって、キリアが本当に強いからだよ。その強さは、ちゃんとここの中にあるんだよ」
ミレナの手が、キリアの胸に触れる。温かくて、彼女の強さが流れてくるみたいだった。
「この強さは、キリアのもの。持っていてもいい、使うことも間違っていない。それに、今のキリアは、その強さをもっとうまく使うことができるようになっているの! なぜなら、あたしと一年間いっしょに特訓したからね」
キリアは胸にあるミレナの手に、自分の手を重ねる。
「わたしの強さ……」
「そう! これまで生き抜くために使っていたキリアのその強さは、もっと先を歩くための力になっているの。だから、大丈夫」
そう言って、ミレナはキリアを再び抱きしめる。少し痛いくらいだった。
目を閉じる。脳裏に、今の言葉を語る笑顔の先生が焼き付いていた。
「うん!」
キリアは泣き止み、笑顔になっていた。ミレナといっしょに笑いあっていた。
*
キリアは、笑顔で見つめあう十二歳の自分と先生を俯瞰していた。
書割の光が弱くなる。背中と胸に、抱きしめられた圧迫感が残っている。頬には涙の痕も残っていた。あの十二歳のわたしは、今のわたしだった?
あのときは、わたしの強さが何なのか、わからなかった。しかし、今わかった気がする。がまんする力だ。きっと、あの人たちとの生活で培った力だ。デュラハンはもうわかっているのだろう。わたしとあの人たちの関係がいびつなことを……。




