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51・まだ足りない

「…………」


 建国祭まで時間がない。だが、今の薫に焦燥感というものは一切ない。

 思いふけるような顔で、震える手で夕食を口にする。



 数時間前、修練所の更に地下の部屋で、薫は恐怖を知った。 

 雪のような真っ白な髪の下に宿す緋色の瞳を持った少年。

 彼と出会い、意味深な言葉を聞くと決まって現実世界へと戻される。目が覚めると乾いていた服は冷や汗によって再び服を濡らし、荒い呼吸と揺れる瞳。動揺と恐怖が心を犯され、あの悪夢が再び脳裏をかすめて、ついに我慢できず空っぽの胃から胃液を絞り出して床へと吐き出した。

 

 そして体内のすべてを吐き出し、呼吸に余裕が戻ると再び思い出す。

 鋭い腐臭、染み付く血の感触、直接脳に焼き付けるほどの衝撃を持った知人の死体が転がる世界。

 焼き付けられて、思い出して、そして――


「――――――ッッァ!!」


 叫ぶ。忘れようと叫んで、忘れることなく叫んで、喉が張り裂けても尚、絶叫を部屋中に響かせる。

 これ以上はまずいとウルドは判断し、薫の脳天を慈愛の拳がマナを纏って叩かれる。

 武闘家の恵術【衝酔拳】。相手を無害で気絶させるこの恵術は、乱れた精神の薫には効果が大きく、気を失うまでに時間はかからなかった。


 そして、落ち着いた頃合いに夕食の席についていた。

 娯楽が少ないこの世界で、食事は薫の楽しみの一つであったが、今の薫に味を感じ、それを幸福に思える精神状態ではなかった。


 瞳孔が開く瞳は揺れ動き、手は震え続ける。

 気を抜くと、薫の見える世界は一変する。スープは血、肉は臓物に見え、レトロ調なギルドの内装は、血飛沫に彩られる。

 

 一口。薫は食べるとスプーンを置く。

 薫と同じ卓に着くウルドはそんな薫を憂慮の視線で見守る。マリンは気にせず大量のご飯を腹に流し込む。

 そんな彼女の素直で明るい姿に少しだけ心を救われながら、薫は御馳走様ですと言い残して、部屋に戻った。


「ん、あおるおうしたんへふ(カオルどうしたんです)か?」

 

「マリン、飲み込んでから話しなさい」


 ウルドの注意に、マリンは口に含む食べ物を胃に送り込み、口周りの汚れを拭ってから言い直す。

 何も知らないマリンに、ウルドは二階へと上がっていた薫の幻影を見つめて、


「そっとしておいてあげなさい。私達にはどうすることも出来ないからね」


 慰めようにも、薫の見た光景はウルドには分からず、たとえ知っていたとしても下手な慰めは逆効果だ。

 これは薫にしか解決できない。


「カオル君が自分で身につけなければ意味がない」


 そう言ってウルドは階段から視線を外した。




 ********************




 部屋を照らす輝石を布で覆い、部屋は月明りで照らされて、透き通る藍色で彩られる。

 物静かな部屋と、自然からなる藍色の世界が、海底にいるような感覚を薫に与える。

 ふかふかのベッドで身体を休ませて、楽な体勢で月光浴をしながら深呼吸。瞳を閉じて、眼裏に浮かぶあの悪夢を思い出す。

 鼓動が早くなり、胃が締め上げられ、猛烈な不快感を抱きながら、白髪の少年に言われた言葉を考えていた。

 

 薫に足りないもの。いや、足りないものと考えるのではなく、あの世界で必要なものを考える。

 千思万考する薫。だが、答えは見つからない。そもそも手がかりがなさすぎるのだ。

 あの場所は何が目的で、何をすることが正解なのか、一切知らされておらず、体験した今でも分からない。

 

 だが、ウィリアムが紹介し、ウルドが連れて行ったあの地下室。鉄格子の扉が部屋全体を閉塞的なものへと変え、苔の香りが鼻腔をくすぐり、硬い地面と床の冷たい感覚が異様な空気を漂わせる。

 そこへ足を踏み入れると、あの悪夢へと誘われる。


 あれは未来を映しているのだろうか、それとも薫が恐れているものを映し出しているのだろうか。

 そして、そこで出会った少年。

 血の香りを染み付かせ、感情を失ったかのような冷徹な表情と、敵を見据え殺気立つ緋色の瞳。

 あの世界で唯一生きていた少年。


「あいつは一体……」


 死体の中には見慣れない顔もあった。

 もしあれが未来の世界なら、後々あの少年とも出会うことになる。そして、


「――ぅ、おぇ」


 未来の世界なら、あの世界で死んでいた人は全員死ぬということになる。

 その中には、親友と幼馴染までいた。

 そこまで考えると、薫は再び茅原の死体を思い出し、再び胸が締め付けられる。

 まだ覚えている。抱きかかえた時、細胞の一つ一つに浸透するような鮮血、彼女の腹には貫かれたような穴があり、そこから見えるは骨と臓物。

 そして、閉じることを忘れた瞼の奥に、光を失った瞳が薫を映す。


 その茅原の表情は、何度も何度も薫の脳裏に浮かびあがる。

 それだけではない。あの時は余裕がなくなり茅原しか見ていなかったが、和樹、クラリス、ウィリアム……全員の表情を窺っていたら、今頃薫はふさぎ込んでいたかもしれない。

 

 周りの評価と自己評価の格差が生み出した不安、責任の重さからなる圧迫感、そして、今まで恐れ、避けてきた『死』という概念を、親密な人々で体験した絶望。

 次々と襲い掛かるプレッシャーに薫の胸中は張り裂けそうな痛みを発していた。


 そして、薫が落ち着く頃には、月が輝く藍色の空に金色の輝きを交えたコントラストが、朝の時間であることを視覚的に知らせていた。


 一睡もできなかった薫はいち早く身なりを整える。

 鍛錬の時間だ。汗を流して頭をはっきりさせてから考えよう。時間はまだ早いが、薫は動きやすい服装に着替え、冷たく新鮮な空気が蔓延している外に走り込みに向かった。




 ********************



 

 暗い場所は苦手だ。

 何も見えず、得体のしれない恐怖と、閉塞的な圧力がいつも気分を悪くさせる。

 中でもこの場所は最悪だ。視界は暗順応したとしても、不吉な鉄格子がうっすら暗闇に影を生む程度にしか見えず、湿気臭い苔の香りが早朝に取り入れた新鮮な空気を侵食していく。


 閉じられた鉄格子。そこから先は悪夢と化している。

 本来ならウルドに見守られた上で向かうべくだが、薫は今一人。

 誰がにも頼ることのできない状況で自分を追い込み、一人で解決しようと躍起人あっていた。


「すぅ……ふぅ…………行くか」


 深呼吸で心を落ち着かせ、薫は鉄格子を開ける。

 錆び付いた音が部屋に響き、不快な音に鼓膜を弄られて、薫の肩に力が入る。

 震える手をもう一度呼吸を整えて静まらせ、行くことを拒む足に無理やり喝を入れて一歩を踏み出させる。

 

 すると昨日同様に薫の視界は瞬時に変わる。自分の姿はやけにくっきりと見えるが、それ以外は漆黒に包まれ、足元に膝くらいの高さで漂う冷気が体温を奪っていく。

 その世界へ着た途端、薫にはあの地獄がフラッシュバックされ、身体から何かがこみ上げる。

 口を手で覆い、その何かを吐き出すことを拒む薫は、ゆっくりと自分のペースで歩き始める。


 そして、何も起こらない世界に変化が起きる。

 だが、昨日とは違う。昨日は死体が散らばる世界で、白髪の少年とであう形だったが、今回は、いきなりその少年が姿を現していた。


 鼓動が異様なリズムを刻んでいるが、一回もより冷静な薫は、勢いに任せるのではなく、着実に少年との距離を詰め、


「君は、誰だ?」


「…………」


 返答はない。

 燃えるような緋色の眼に見つめられ、血液が沸騰しそうなプレッシャーを感じながら、高揚しそうになる自分を抑え込む。

 

「あれは、君がやったのか?」


 一つ考えていたことがある。もし仮に昨日見たあの地獄が未来を映しているなら、唯一の生存者である白髪の少年が引き起こしたのものであるかどうか。

 ウルドが薫に戦い方を教えたのもこの世界の攻略に関係があるとするなら。

 今、目の前で異様な雰囲気を漂わせるこの少年の言葉。

 まだ足りないというのは、実力の事を言うのではないだろうか。

 この未来を変える為、薫はこの世界で目前で不敵に佇むこの少年に勝たなくてはならない。


「…………」


 そうなればやることは単純明快。薫は背中に携えた剣を抜く。

 ウルドとの打ち合いで、それなりの風貌を見せるようになった剣の切っ先を、白髪の少年に向ける。

 昨日のような死体が転がる世界でなくてよかったと安心している薫。もし昨日と同じなら今頃薫は四つん這いになりながら全てを吐き出し、激情のままに突っ込んでいただろう。

 だが今の薫は落ち着いて、敵を考察する余裕があった。


「――――ッ!」


 昨日同様、少年に武器という武器はない。腰に携えていたものが何かで攻め方が変わるが、まずは牽制と言わんばかりに距離を詰めた。

 以前の薫なら力任せの高速度で距離を詰めるが、今の薫は勢いに緩急をつけ、直線ではなく鋸刃のような軌跡を描く。


 緋色の瞳はタイミングをずらそうとする薫を見据える。

 相手は素手、薫は剣。間合いの広さは薫の方が勝り、先に攻撃を仕掛けられるのは薫だ。

 薫は目前、自分の間合いに少年を入れてた瞬間、紫電の如き刺突を額に放つ。少年は見据えた顔でその一閃をかわす。

 空気が切り裂かれるのを肌で感じた少年は、すかさず勢い余る薫の距離をゼロにして、薫の側頭を拳が穿つ――


「――ッッ!」


 だが、薫もこの攻撃は後ろに飛び退いて回避する。以前なら勢い余る薫の一歩は大きく、攻撃をかわされれば相手のカウンターの対処に余裕が持てず、紙一重で頬を掠めるのだが今は違う。

 寄せ足による移動で、回避と方向転換が可能になり、体重も乗せやすい為、刺突の速度もはるかに向上した。


 一度距離をとる薫は体制を整え、自らの刀身を少年との間に壁を作るように構える。

 今の一瞬で、薫は少年との実力差を計る。現在分かっているのは少年は徒手格闘に長けている。

 近づけば近づくほど、間合いは少年のテリトリーに変わる。

 

 投擲武器を警戒しつつ、薫はじりじりと距離を詰めていく。

 変わらず、少年は自分から迫る様子を見せない。構えるわけでもなく直立する少年の瞳は、すり足で近づいてくる薫を見据えていた。


 そして、薫はじりじりとにじり寄る動きから、急加速で間合いを詰める。

 薫が残像を刻んだそこは、冷気が外へと吹き飛ばされ再び収束する。

 風を切る薫は、剣を横に構えて刀身に左手を添える。


「【剣輝けんき】」

 

 白刃が輝き、漆黒の空間を白が占領し、少年の視界を奪っていく。

 光が収束された時、少年の視界に薫が消え、少年の緋色の瞳は周辺を探す。

 だが、隠れる場所などないこの場所で、視界にいないということは居場所はすぐに確定する。


 少年は踵を振り上げ背後にいるであろう薫を攻撃する。少年の縦に弧を描く軌道を冷気が追尾し、竜が天に上る姿を彷彿とさせる。

 手応えがなく少年はすぐさま、振り上げた足を斜めに振り下ろし、自分の周囲を払うように爪先が円を描く。


 少年が足を払ったとき、草むらに潜む虎が飛び出したかのように冷気から姿を現した薫。

 跳躍した薫は上段で剣を構え、落下の力を加えた斬撃を叩きつける。

 刀身が少年にあたる寸前、すべての勢いが消失した。

 そして、跳躍して両足が宙に浮いたままの薫を少年は見上げて、


「――まだ、足りない」


 冷たく訴えかけるように言った。

 その時、薫は全身の毛が逆立つ感覚に陥った。刻み込まれた恐怖が再び薫を襲う。

 着地した瞬間飛びのいて、荒れる呼吸をどうにか抑えようと努力する。


 勢いが消えた薫に、少年は初めて自分から襲い掛かる。薫よりも素早く目を凝らしてようやく追いつける速度で少年は薫に迫る。 

 そして少年が間合いに入った時、薫は思わず剣を横に振りぬいた。筋は乱れ、その一閃は容易にかわされ、少年の突きが薫を襲う。


「…………ぇ?」


 思わず声が漏れた。

 血が滴り冷気が霧散する。腹部を穿たれ口から血を吐き出した見慣れた後ろ姿の少女。

 茶色交じりに黒髪と力を無くしたか細い身体。


「ちぃ……ちゃん?」


 庇うようにして腹部を貫かれた幼馴染は、少年が血に染まる手を抜いた時、崩れ落ちるように倒れる。

 あの悪夢が脳裏をよぎり、薫は倒れる幼馴染の身体を抱きかかえる。

 呼吸はない。身体は何故か冷え切り、血は止まることを知らず、薫の衣服を汚していく。

 生気の感じない瞳は薫を見据え、血で汚れた口元が僅かに動いた。彼女の声は掠れているものの、薫の鼓膜を揺さぶる。


「あなたのせい……」


 幼馴染の発言に薫は心臓が締め上げられる感覚に陥った。全身の血が逆流し、空気が上手く吸えない。

 過呼吸に陥る薫に畳みかけるように身に覚えのない言葉の刃が薫を襲う。


「守るっておっしゃったのに……」


 桃色の髪の少女が言った。額に傷跡を残して茅原同様に瞳に光はなく、亡霊のように力なき佇まいで薫の傍に立っている。


「何とかするって言ったのに……」


 足元に倒れる親友の姿。強い衝撃に襲われたかのように、全身から血が噴き出して倒れる親友は、薫の震える瞳を見据える。


「最善を尽くすと言っていたのに……」


 白を基調にした気高き騎士服に深い十字傷で朱色に染め、獅子の鬣を連想させるブロンドの髪は乱れた青年。翡翠色の眼に輝きはなく、幻滅した表情で薫を見る。


 順々に言葉のナイフが薫を襲う。身に覚えがない。だが、その言葉も薫が理想とし、いつか伝えられるよう願い努力していた言葉。

 言わずとも言っていたと錯覚してしまう。


「全部全部薫のせい……」


 ――違う


「無責任な言葉で……」


 ――――違う


「守れない者は見捨てて……」


 ――――――もうやめてくれ


「見殺しにして……」


 ――――――――やめてくれ!


「薫がみんなを殺すの」


 すり減った魂が擦り切れる。繋ぎとめていた心が壊れる。何もかもが瓦解していく。

 それぞれの言葉が心のひびから入り込み木霊する。理想と現実の軋轢が薫の心を破壊していく。

 逃げたい、逃げ出したい。だけど、


「私達を見捨てるの」


 逃げれない。

 守りたい、守り抜きたい。だけど


「薫に私達は…………救えない」


 守れない。

 全身に反響する言葉をかき消すように、叫んだ。

 喉が切れ口内に血の味が染みるが構わない。少しでもこの苦しみが紛れるのなら。

 そして自暴自棄に叫ぶ薫に、血を滴らせる少年は冷酷に無情に言い放つのだ。




 ――まだ足りない。と。 

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