8・絶望
幾度となく感じた恐怖、何度も経験した不安。しかし、今までそれが偽物であることに気付く。
刻々と近づいてくる自分の死に、静止した世界が優希を受け入れた。
泣きながら必死に叫ぶ助けの声を、跳ね除ける三人の背中。
振り向きざまにこちらを見た顔は、嘘でも心配ではない。
――囮になってくれてありがと。
そう言ってるような気がして。
嘲笑うように響く木々の喧騒も、竜崎が作った魔族の死体から放たれる異臭も、狩猟虎に肋骨が折られた時の痛みも、今は一切感じない。まるで外側からの情報も、内側からの痛みも、無意識に拒絶しているような、そんな感覚。
弾丸鼠が後ろに迫っても一切そちらに目を向けない。涙、鼻水が顔を覆っているのに拭きもせず、ただただ徐々に小さくなる三人の背中を見つめるだけだった。そして、次第に三人の姿は見えなくなる。
「ぐぅぁっ!」
足に絡まったツルは、そのまま近くの木に優希を縛り付ける。まるで生きているかのように。いや、生きているんだと優希は思った。この世界が、優希にとって都合の悪いように出来ているんだとそう思うようになった。嘲笑う木々、蔑む風、大地は優希を無視するように静かでいる。
そして、迫った弾丸鼠は、マナを込めた拳で、優希の左足を――
「ぐぁああ゛ああぁあ゛ああああああああ!!!!」
折れた砕けた抉られた。どんな表現でも表せない痛みが優希の断末魔を生み出した。
痛い、痛い痛い、痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い痛い―――――――――――――――――――――――――――――。
途切れそうになる意識をマナはお節介なことに呼び止める。
殺してほしいと幾度も思う。何故生きているのか幾度も感じる。
響く断末魔は喉が潰れて音になっておらず、身動きが取れないために抑えることもできない。ただ感じる激痛を叫ぶことで誤魔化すしかない。
目前の敵は縛り付けられた優希をサンドバックかと思っているのか、いまだ痛みが消えず泣き叫ぶ優希の右腕を無慈悲に――
「ぁうあああ゛あぁああ――――――ッ!」
殴る。骨が折れる音を鮮明に聞いたのは初めてだ。痛みが一瞬で伝わりそして消えた。肘より先の感覚も一緒に。
優希は涙で霞む視界を移動させ、右腕の存在を確認する。視線の先にあるのはへし折れた骨が肉を残したまま現実にその姿を見せつけている。
感覚がない右腕に、いまだ激痛が走る左足、そして今度は――
「ぐぅあっおえぇうぷっ!」
腹が潰れた。胃が心臓の上まで押しこまれ、大腸と小腸はお互いの位置が分からないでいる。
口から吐き出す血と胃液が混じった液体は狩猟虎の時とは比べ物にならなくて、恩恵者の力が優希の意識をそれでも保つ。
この世界は、否、元の世界も合わせて確実に敵だ。すべてうまくいかない、すべて都合が悪いように出来ている。プラスに始まっても終わりはマイナスでしか終わらない。
次は肩、次は右足、次、次、次――
肩が外れた、肋骨はさらに折れた、腕の感覚は無くなり、内臓はその居場所をとどめておらず、吐き出した胃液は草木を汚し、全身から流れる血が大地を潤す。
もうすでに死んでいる。はずなのに、恩恵者の頑丈さが今も尚優希を生かせる。
「ころ……して……」
意識か無意識か、優希は訥々と声をこぼす。言葉など通じるはずがないのに、それでも、優希は、
「殺して……ください……」
声を出す。届かない願い。いや、届くはずだったのだ。恩恵者でなければ、竜崎の命令に従わなければ、戦える恩恵ならば、戦える仲間がいれば、異世界に来なければ。どれか一つでも持っていればこんなことにはならなかったのに。
「っ……ぅ……」
もうどこが殴られているのか分からない。何故自分の目は弾丸鼠を映しているのか分からない。
――なんでこうなったんだっけ……
――僕は何で殴られてるんだ……
――僕は何で生きているんだ……
――なんで生かせるんだ……
では死ぬのか?
――聞いたことがある声だ……誰だっけ……思い出せない、いつ聞いたかもどこで聞いたかもなあにも思い出せない。けど、なぜか安心する。
――死ぬ? 死にたい、死にたいさ。もういっそ楽になりたい……
ではなんで生きている。生きることを拒否しているのに、なんでお前の意識はまだそこにある?
――そんなもの……僕が知りたいさ
なら教えてやろう――
「答えは記憶の中にある」
「――――」
突然の変化に優希は言葉を失った。
上下左右前後ろ、どこを向いても純白の世界。すべての色が抜け落ちたような、どこまで高いのか、どれほど広いのか、部屋の外なのか中なのか、そもそも部屋の中なのか、一切の情報が見つからない。
その世界に立つ優希の体は全くの無傷で、何よりも突然現れたキトンのような服を着た彼女に、吐き出す言葉が見つからない。
銀色に輝く腰あたりまで伸びた長髪、黒真珠の瞳、艶やかな肌と、引き締待っているが出るところは出ている完璧な容姿。彼女の笑みは嘲笑うかのようだが、なぜか安心する。
「君は?」
止まった思考をフル回転させ吐き出した言葉。彼女は優希の声に嬉しそうに笑みを浮かべる。
彼女が動く度衣服が揺れ、隙間からさらに肌が露出して、優希は頬を染める。
「おっと可愛い反応をするものだな。そんなに見たいなら見せてやろうか? ほらほら」
挑発するように笑顔で布を巻き上げる彼女に、優希は目のやり場に困り、
「だ、大丈夫ですからっ、僕の質問に答えてください!」
この反応を待っていたかのように、彼女は揶揄うのを辞めて、自らの胸に手を置いて、
「私の名前は……パンドラだ」
名前を言う直前、突然喉元に何かが引っかかったように詰まってから、彼女はパンドラと名乗った。
パンドラと言われて思いつくのは『パンドラの箱』、開けると厄災が降り注ぐと言われるものだが、
「ふ、不吉な名前だね……」
苦笑いしながら彼女の名前に感想を述べてみる。そもそも、この世界に元の世界と同じ神が存在するのだろうか。今のところ出会った神はエンスベルのみ。エンスベルと言う神は少なくとも優希は聞いたことが無いもので。
「不吉とは失礼な奴だな。私はお前の恩人だぞ」
そう言った彼女に、優希は首を傾げる。
その反応を横目に、彼女は優希の周りをまわりながら、
「いくら恩恵を持っていても、あれほど内臓をえぐられて、骨を砕かれて、血が噴き出しているのに、生きているはずがないだろう。お前ほどの練度なら尚更だ。私がここからお前の体にマナを与えて命を繋いでいたんだ」
彼女の言葉に優希は感謝――ではなく、
「なんで……助けたんだ……」
非難。
死にかけた、死にたいと思うほど苦しんだ、本当なら死んで楽になれたのに、彼女のお節介のせいでもっと苦しんだ。彼女も優希の敵の――
「望みを叶えたんだ」
彼女の言葉に優希は敵と認識しかけた思考を止める。足を止めてまっすぐ見つめる彼女の瞳は嘘を言いてるとは思えない。笑っていながらも、悲しさを持った不自然な表情。家に居た頃の自分と似た笑顔を振りまく彼女に親近感が湧いてくる。
「望み? ……僕の望みは死にた――」
「本当にそうか?」
被せるようにそう言った。
彼女は優希に肩がすれ違うほどに近くに行くと、首だけ振り向き優希の横顔を覗く。その行動に合わせて優希も彼女と視線を合わせる。身長は優希より少し低いぐらいだろうか、身近で感じる彼女の存在に優希の鼓動は早くなる。
「私はお前の望みを叶えただけ、死にたいと望んでいるなら死んでいる。あの場で生きているのはお前が生きたいと望んでいたからだ。お前の心の奥底にある本当の願いはな」
「でも……」
そんなことを言われても実感が沸かない。死んだ方が楽になれたのに、すべてから解放されたのに、それでもなお、優希は生きたいと願ったのだろうか。
何故にそう願った、何が優希を生かせていた?
「本当の望みって何なんだ……」
頭がおかしそうになる。自分のことなのに答えが一切見つからない。
混乱する優希に彼女はある方向を指さした。
その指先に誘導される優希の視線。空間に映写したように画面が浮かぶ。
それが映したのは、
「かな……え……」
短いツインテールを揺らす小学生五年生の妹、桜木香苗。
あれは友達と登校している所だろうか、楽しそうに笑っている。
その光景に優希も思わず笑顔がこぼれ、その反応にパンドラも笑顔。ただ、彼女の笑顔は優希の反応を惜しんでいるようで。
「幼女を見て笑うなど、お前はなかなか面白い趣味をしているのだな」
「ち、違うよっ! ほら、三人の真ん中にいるツインテールの子、あの子は僕の妹なんだ」
「なるほど、ロリコンではなくシスコンなんだな」
「ちがっ……うのか? いや、違うと思う」
否定しようとした途端、優希は妹との接し方を思い出し、一概に否定しきれなくなる。
その反応を楽しんだ銀髪の少女は、画面をタップするかのように指を動かして、場面を切り替える。
「これは?」
「あぁ、僕が神格高校ってところに推薦状が届いた時だよ。僕らみたいな環境の人には決して立ち入れない世界だと思ってたから夢だと疑ったね、一枚の紙であれほど喜んだことは無いと思う」
「だろうな、人がこれほど歓喜する姿はそうそう拝めない。見ろ、あの涙ぐんでる阿保面の男、滑稽じゃないか」
「当の本人が横にいるのに言っちゃうんだ……まぁ今見たらホント凄い顔してるけど」
そして、次の場面。それは優希にとっては思い出したくないもので。
「これは何をしているんだ?」
「……お金を渡しているんだ」
竜崎に金銭を要求される優希の姿。この光景に優希は顔を俯かせながら彼女の質問に答えた。優希の返答に彼女は首を傾げる。
「何故だ? お前は人より金銭面では厳しい環境だろう、他人の世話が出来るほど余裕はないはずだ」
彼女の言っていることは的確だ。普通ならそう思うだろう。ただ、現実は厳しいものだ。
そして、優希の答えを待つ前に彼女は次々と場面を進める。
殴られ、騙され、遊ばれ使われ。そんな苦痛の一年半。
ただそれでも笑顔を忘れていないのは、一人の少女の姿。
家に帰ると元気にお帰りと言って、今日あったことを夕食時に楽しそうに話す少女。真面目で努力家で、優希よりもしっかりしていた自慢の――
「香苗……」
無意識に流れた涙が、優希の望みの答えを示した。
そして、その答えを言葉にしたのは隣でほくそ笑む銀髪の少女。
「つまり妹がお前が生へ執着する理由か」
香苗にしてやれることはたくさんある。しなければいけないことがたくさんある。香苗の家族は優希だけなのだ。友達、保護者的存在、支えてくれる人はおそらく優希よりたくさんいる。それでも優希は彼女の傍にいなければならない。それが兄の務めなのだから。
「けど、その願いは届かない――」
「と思うか?」
優希のセリフに続ける彼女を、涙を流している瞳で見つめた。
優希の願いは元の世界に帰る事。それはおそらく他のクラスメイトも同じだろう。しかし、それはかなわない。言われたのだ、帰ることは出来ないと、召喚した本人からその口で。
「えっ……」
その時優希の止まりかけた思考は突然の閃きに動き出した。




