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Misericorde  作者: 浦辺 京
1st night ハイヒールと短剣
3/12

理由

 スティレッタに噛みつかれたその瞬間、バルダーはとっさに身を引き剥がそうとした。牙が傷付けられた肌から外れ、血が飛び散る。

「ぐっ……!」

 彼はすぐに傷口を手で抑え、スティレッタから身を放そうとしたのだが。

「がっ!!」

 バルダーはすぐに彼女に突き飛ばされ、頭をぶつけて再びベッドに倒れることとなった。どうにかして逃げ出そうと彼は思ったが、その前にスティレッタはバルダーの腹の上に馬乗りになり、両手首を掴んでベッドに押さえつけた。


 こんな女一人の腕力に負けるはずが。バルダーはそう思っていたのだが、どうもこの女、見た目とは裏腹に怪力らしい。

 腕が一切動かせない。抵抗しようにも骨を折られんばかりに手首を握りしめられ、うっ血して指先が冷えていく。

「ちょ、ちょっと待て!!」

 バルダーの制止の言葉などスティレッタの耳には入っていない。女の視線は先ほど自らが噛みついた場所にしかないのだ。

「あらやだ。血が」

 彼女はバルダーの首筋から流れる血を舌で舐め上げる。つぅ、と首筋を這う彼女の体温にバルダーはびくりと身体を震わせた。

 首には動脈も通っている。そんな場所を舐められて危険を感じない方がおかしい。


 いや、さっきは確かに死にたいとさえ思ったが、それとこれとは話が別だ。

 しかしそんなバルダーの心境などつゆ知らず、彼の反応にスティレッタは愉快そうにくすくすと笑っていた。

「何? 嬉しい?」

 嬉しい訳がないだろう! バルダーはそう言いたくなったが、この状況下で喋る余裕など一切ない。その上この女は文字通り目の前のご馳走に目を輝かせている。

 スティレッタはふふっと嬉しそうに笑うと一度手を放し、バルダーの頭を撫でた。

「大丈夫よ。すぐ終わるから」


 す ぐ 終 わ る。

 その五文字、そして予想通りの流れに恐るべき未来を幻視したバルダーであったが、次の瞬間。


 がぶりと。


 スティレッタは先ほど噛みついた箇所に再びその牙を突き立て、噛みついたのだ。

 抵抗は試みた。しかし両腕をその怪力で掴まれてベッドに押さえつけられた挙句、腹の上に馬乗りになられてどう抵抗しろというのだ。

 死地は何度も乗り越えた。しかし、こんな最期を誰が覚悟できようか。

 バルダーは悲鳴さえ上げることができなかった。


 牙が肌を深く裂き、熱い痛みが走る。じわり、じわりとその首筋から熱を吸い上げられ、命が吸い取られていく。

 このままだと全身の血を吸われて死ぬ。

 彼がそう思った矢先、スティレッタは彼の首筋から口を放したのだ。

 死ぬほどではないとはいえ、血を抜かれたのだ。頭がぐらぐらする。呆然として天井を仰ぐしかできない。


 スティレッタは口の端から垂れた血を人差し指でぬぐい、その指をぺろりと舐めていた。

「ふふっ、ゴチソウサマ」


 ――最悪だ。

 何でかは知らんが、血を吸われただけだが、何か己の尊厳をもことごとく彼女に奪われた気がする。

 こんなことならいっそこのまま食い殺された方が良かった気さえする。

 スティレッタがそんなことに気づくわけがなく、憮然とした表情のバルダーを見て頭を撫でるだけ。

「ホラ、そんなに暗い表情しないの」

 その暗い表情の原因は誰が作っているか、彼女は分かっているのだろうか。

 真っ赤な口のまま微笑まれても「ああ、あれは自分の血を吸ったせいだな」としか思えない。


「……何で俺を助けた」

 ぼそりと一言、バルダーは呟く。スティレッタは特に気にする様子もなく、彼に馬乗りになったままであらと言った。

「何それ? 死にたかったの?」

「…………」

 せっかく助かった命なのに。そう続けるスティレッタからバルダーは目を逸らす。彼女はさらにバルダーにのしかかると、毛布の上から彼のその胸板をさらさらと撫でた。

「それとも、元気(・・)にならなきゃダメって話?」

「なんでそうなる」

 バルダーは即座に彼女の手を跳ね除け、ため息を返した。

「もし仮に食料(・・)を探したいんだったら、別に俺でなくても死にかけの男なんぞ簡単に探せただろう」

「都合よく転がってたのが貴方だったからだし、それ以上の理由はきっと無いわ」

「きっと……?」

「まあ、ヒゲさえ剃れば清潔感あっていいかなって思ったけどね」

 そこまで言われて、バルダーは無精ひげでざらざらとした自らの顔に触れた。

「……余計なお世話だ」

 確かに見た目は少々不潔かもしれないが、特に差支えはないのだ。この女にいちいち言われる筋合いはない。

 スティレッタはバルダーにねめつけられてもニヤリと笑うだけで、バルダーの上からどこうとは一切しなかった。

「とにかく」

「何がとにかくなんだ」

「私が助けて、その上食料にしてあげるっていうんだから元気出しなさいよ」

「『助けた』はまあ納得いくが、後半は意味不明だな!?」

 スティレッタはバルダーの言葉にクスリと笑うと、その赤い爪でバルダーの首筋をつぅと撫でた。

 ぞっと肌が粟立つ。何をすると彼が言いかけたその時。

「ホラ。さっき私が噛んだ場所。全然血が付かないでしょ?」

「はぁ?」

 彼女にそう言われ、バルダーはとっさに自分の首を手で触った。

 どうやら傷が完全に癒えたらしい。しかし、どう考えても傷が癒えるには速すぎる。

「どういうことだ……?」

 困惑するバルダーにスティレッタはしたり顔を浮かべていた。

「ふふっ。せっかくの食料に早々と死なれちゃ困るでしょ? だから私の血を飲ませてあげたの」

「は……?」

 そういえば、意識が完全に戻る前……確かに口の中に妙な鉄の錆びた味を感じた気がする。

 あれがスティレッタの血だったということか。

 バルダーは全身から血が抜けていく感覚を覚えた。

「お前の、血?」

「そうよ。血を介して霊的なバイパスが出来るから、私が生きている限りは貴方も私級の不死身の身体よ。あれだけ酷い頭の打ち方して生きてるのもそのお陰。まあ……私は貴方の血を吸わないと生きていけないから、死にたくなかったら血を差し出すことね」


 余計なことをしてくれた。


 バルダーはそれを痛いほどに感じた。

 助けてくれと言ったわけでもないのに死ねない身体を与えられ。おまけに彼女に血を差し出さなければならないという事実。

 さっきまで自分が捨てようとしていた人生は一体なんだったのか。

 憮然とした表情の彼を見て、スティレッタは自分の大きな胸をバルダーに思いっきりくっつけて抱きしめた。

「いいじゃない。一度捨てた人生でも楽しめれば」

「楽しくないから捨てようと思ったんだ」

 彼女はそれに「あら」とびっくりしたように返事をして、その髭の生えた彼の頬をそっと優しくなでた。


「じゃあ、今から楽しくしてあげる?」

 そんな問いかけをするスティレッタの表情も、その撫でる手つきも、声色も、今まで体験したことのない危険と魅力をたっぷりと含んだもの。

 彼女が何を求めているかはバルダーにも容易く予想が付いた。バルダーも一瞬ごくりと喉を鳴らす。

 スティレッタの誘惑に乗れば、この上ない快楽が待っているのは間違いないだろう。

 だがそこから予想できるのは、骨の髄まで食いつくされてしまう未来だけだ。


 バルダーは再びスティレッタの手をはねのけ、彼女をぎろりと睨んだ。

「お前との遊び・・は結構だ。それよりも俺の服を返せ。勝手に脱がせるとはどういう了見だ」

「あら。だって貴方の服、土埃でひどかったんだもの。そんな状態でここに寝せたくないわよ」

「…………」

 言われてみればその通りである。

 この女に保護される前、自分は確かに崖を転がり落ちたのだ。そりゃあ土ぐらいついて当然だ。(しかし全裸にすることもないだろうとバルダーは同時に思ったが)

「おまけに貴方の服、真っ黒じゃない。だから土が付くと目立つのよねー」

「うるさいな」

「貴方、肌も髪も黒っぽいし……クロスケね」

「……は?」

「クロスケ。それっぽいと思わない? 貴方のあだ名」


 勝手に助けられ、勝手に服を脱がされ、勝手に血を吸われ、今度は勝手にあだ名まで付けられた。

「俺にはバルダー・ブラックモアって名前があるんだぞ?」

より黒い(モア・ブラック)でやっぱりクロスケじゃない」

「そこは文法的にはblackerだろうが」

「ええ。それぐらいは知ってるわよ」

「…………」


 果たして自分はこの女にどこまで翻弄されればいいと言うのだ。やはり自分の人生を捨てようとした罰か。

 バルダーは深くため息一つ。深く呼吸でもさせてくれ、といった感じで。

 しかしスティレッタはそれを不思議そうに見つめていた。

 そして。

「ため息吐くと老けるわよ?」

「うるさいないちいち」

「貴方いくつよ?」

「32だ」

「……やつれているからもっと行ってるかと思った」

「やかましい」

 酒におぼれ、ぼろぼろの状態でしかも髭面で。そりゃあ老け顔に見られても仕方ないとは思うが――実際に『実年齢より上だ』と言われて不快に思わないわけがない。

 怒っていたら更に疲れた気がして、バルダーは舌打ちを一つした。

「……もういい。お前の相手をする余裕は俺にはもうない」

 胸のあたりまで掛かっていた毛布を何とか更に引き寄せ、バルダーはスティレッタから視線を頭ごと逸らす。

「静かに寝させろ。お前の食料になったって言うんならそれぐらいの権利、俺にはある筈だ」

「…………」

 寝させろと言って、仮に嫌だと言われてもバルダーは意地でも眠るつもりだった。

 わざわざこの女の相手をする方が馬鹿なのだ。そう考えていたからだ。

「…………」

 スティレッタもついにあきらめたのか。バルダーが目をつぶり、寝ようとしていたせいか、ついにバルダーから降りていくことだけは彼は感じた。


 ……まあ、彼女がここで終わる筈がないのだが。


 目を閉じたものの、しかし眠っていなかったバルダーは、自分が寝ていたベッドが重みで少し沈んだ気がして違和感を覚えた。

 丁度、自分の真横に。何か人の体温を感じる大きい何か。

 何だか大体予想はついたが、彼がゆっくり目を開けると――彼の隣にスティレッタが寝ていたのだ。

「……何をやっている」

「えー」

「えーじゃない」

「だって、ここしか寝床無いもの。私はどこで寝ろっていうのよ」

 バルダーはそれに一瞬言葉を詰まらせた。確かにその点の配慮は一切していなかった。

 ……だが。

「じゃあ俺の服を返せ。そこら辺で寝るのには慣れている」

「ダメよ。血を抜かれたんだから安静にしなきゃ」

「誰が血を抜いたか分からんようなセリフだな?」

「第一あんな汚れた服でそこらへんうろつかないで欲しいし」

「…………」

 どうやらこの女、よっぽど自分をこのままの状態でいさせたいらしい。

 ……嫌がらせか。間違いなくそうだろう。


 舌打ち一つ。仕方なく眠ろうと思ったが、さっき自分を食料にした奴、しかも女が横に寝ていて落ち着いて寝られる訳がない。

 結局眠れたのは数時間の話で、目を覚ましたのは日が昇る前だった。その後何とか彼女が保護してくれた部屋を出て、仕事に行った訳である。


 ……まあ、そういう理由があってバルダーは見回りの最中気分が悪かったのだ。

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