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第十三話:日露戦争⑤~鉄嶺会戦~

遼陽会戦の結果、ロシア軍は大幅に弱体化。ハルビンまで撤退することが取りざたされる位であった。

一方日本軍も弾薬が完全に欠乏し、10月中旬まで積極的な行動を取れない、と判断された。

こうした事から日本軍は奉天まで制圧した所で停止。暫くにらみ合いが続くこととなった。


一方ロシア国内では、明石元二郎により反政府運動に資金援助が行われたりするなど、日本による工作活動が行われていた。


また、アメリカ世論は日本寄りとなっていた。


また1904年8月22日、第一次日韓協約が締結され、朝鮮は保護国化の道を歩み始めた。


一方ロシア軍は遼陽から撤退し、鉄嶺に集結していた。

司令官クロパトキンは奉天を手放した事を追求され、その結果ロシア満洲軍は分割され、

第1軍司令官にクロパトキンが、第2軍司令官にグリッペンべルグが就任する事が決定された。


9月下旬、ロシア軍は増援を得て強大化、攻勢が決断された。

10月初め、満洲軍総司令部は様々な情報からロシア軍の攻勢を察知、陣地の強化が決まった。


しかし10月8日、ロシア軍は前進を開始した。総兵力は15万8600人。

10月8日夜、このロシア軍攻勢の報は総司令部に届いた。

ロシア軍攻勢に対し、総司令部は反攻を決断。


10月9日午後8時、大山総司令官は各部隊に攻勢命令を下令した。


10月10日、第二軍・第四軍は前進を開始した。

鉄嶺は山地であり、激しい山岳戦が繰り広げられた。

10月11日深夜、ロシア軍は第二軍・第四軍と接触、戦闘が開始された。

両軍は、混乱を極めた。暗夜と悪路のため、進撃は混雑し、停滞した。

しかし、日本軍は三八式十二糎榴弾砲を投入し、その結果10月12日朝にはロシア軍が後退し始めた。


ロシア軍は総司令官のクロパトキンと各支隊の指揮官から別々の命令が下され、指揮系統が混乱していた。

一方、日本軍は野戦有線電話を活用し、部隊間の連絡は緊密であった。


12日午後には、ロシア軍の戦況は深刻となり、とうとう第17軍団が潰走した。

第17軍団の隣の第10軍団も退却し、戦線に穴が空いた。

12日21時、満洲軍大山総司令官は、追撃を指示した。

13日朝。クロパトキンは第17軍団潰走・第10軍団退却の報を得て、他の軍団にも退却を命令した。

11月までにロシア軍はハルビンまで退却し、日本軍は松花江まで進出した。

鉄嶺会戦はこうして終わった。


最終的にはロシア軍投入兵力15万8600人のうち死傷者91,346人、日本軍投入兵力16万5800人のうち死傷者40,497人となった。

両軍とも大打撃を受け、以後日本軍は松花江で停止し、戦力の充実に努めることになる。

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