第十一話:日露戦争③~遼陽会戦まで~
5月29日、第三軍の編成が下令された。
第三軍司令官:乃木希典大将(山口県出身)
第三軍参謀長:伊地知幸介少将(鹿児島県出身)
所属師団:第六師団、第八師団、第九師団、野戦砲兵第二旅団
6月、ロシア軍三個師団はスタケリベルク中将に率いられて、南下を始めた。
得利寺に前進基地を設け、ここを拠点にさらに南下しようとしたのである。
6月15日、南下してきたロシア軍と第二軍は衝突した。
戦況は中央の第三師団がロシア軍の猛攻を受け、一時危機に陥るも、
左翼の第五師団がロシア軍側面を迂回し、攻撃。
後方遮断の恐れが出たロシア軍は撤退した。
日本軍投入戦力53600名のうち、死傷者1245名、
ロシア投入戦力41400名のうち、死傷者5879名であった。
以後、ロシア軍の南下活動は停止され、遼陽での決戦準備に専念することとなる。
6月10日、大本営では今後の戦略方針が決定された。主眼は遼陽であった。以下に内容を記す。
1.遼陽で会戦を行い、勝利すれば、ハルビンでの次期会戦を想定する。
2.第三軍は奉天の攻略を任務とし、攻略後北上して主力と合流する。
3.できれば、沿海州方面に軍をすすめ、ウラジオストクを攻略する。
4.ウラジオストクを攻略して、未だ余力があった場合、ハバロフスクを攻略する。
5.適当な時期に、樺太を攻略する。
6.兵站線が長くなるので、鉄道の強化・河川を利用して能力を増強する。
6月20日、満州軍総司令部が正式に設置された。
満州軍総司令官:大山巌元帥大将(鹿児島県出身)
満州軍総参謀長:児玉源太郎大将(山口県出身)
所属軍:第一軍、第二軍、第三軍、第四軍
その他:戦略予備として第十三師団・第十四師団・第十五師団・第十六師団が編成中
6月30日には、第四軍の編成が下令された。
第四軍軍司令官:野津道貫大将(鹿児島県出身)
第四軍参謀長:上原勇作少将(宮崎県出身)
所属師団:第七師団、第十師団、後備歩兵第十旅団
一方鴨緑江を渡河して満洲に入った第一軍は順調に前進を続け、6月30日、摩天嶺を占領した。
第一軍の北上を聞き、第二軍も呼応し、7月9日、蓋平を占領した。
第一軍と第二軍の中間を進む第四軍も、前進を続けていた。
また、弾薬も十分あり、戦闘に支障はなかった。
対するロシア軍は兵の輸送が遅れ、しかも訓練が不足していた。
このため、遼陽で決戦はせず、遅滞行動に徹し、体制が整ったら後方で決戦をするという方針となった。
ロシア軍は4月から陣地構築を開始、防衛戦は3線になった。
第一線陣地は遼陽より30キロほど前面の鞍山站正面に築かれたが、これは弱体であり、
主防衛線はその後の第二・第三線陣地である。これは首山堡・遼陽に築かれた。
ロシア軍は東部兵団と南部兵団に分割され、それぞれ、第一軍と第二軍にあたった。
7月14日、満州軍総司令部は大連に進出した。
総司令部はロシア軍が遼陽での兵力集結に専念している、と判断し、第二軍に前進を指示した。
7月24日、第二軍は大石橋のロシア軍を攻撃した。
激戦の末にロシア軍は退却、第二軍は勝ちを拾った。
同時期に第一軍方面では、ロシア軍の来襲を受けていたが、逆襲して橋頭方面のロシア軍を排除した。
さらに7月31日より攻撃を開始し、ロシア軍東部兵団司令官のケルレル中将を戦死させる成果を上げた。
8月、第二軍は海城に進出、第四軍と連携する位置に達した。
また、第三軍も遼陽方面に進出した。
これにより、日本軍各部隊は遼陽を攻撃する位置にたどり着いたのである。
日本軍の参加兵力20万1500人、野砲948門、機関銃18挺
対するロシア満州軍の参加兵力22万4600人、火砲653門、機関銃20挺
日本軍は遼陽攻略に当たり、第二・第四軍が中央でロシア軍を拘束している間に、第一軍が右翼より、第三軍が左翼より迂回し、遼陽を包囲、ロシア軍兵力を撃破するつもりであった。
第一軍が遼陽に迫るためには、まず寒披嶺・弓張嶺・狼子山の敵陣地を突破しなければならないが、ここは山岳地帯で行動が困難である。
一方第三軍が担当する左翼は、平野部であり、激戦が予想された。




