ヘルゲート
宮殿の中央に位置する玉座の間、薄暗い部屋の中に燃えるような赤髪の美丈夫が佇んでいた。
玉座の前に立つ、漆黒のローブを身に纏ったその男が深いため息をついたあと、ぼそりと呟く。
「神よ、天上におわす生きとし生ける物を産み出したる神よ。我は汝らを恨む」
「神よ、神よ。いつまでこの世界に苦難を与え続けるというのだ」
男の名はヘルゴー・リッシェル・クラウン、一つの世界を統べる者だ。
彼の統べる世界は魔界。日夜を問わず、光が届かない魔瘴気に閉ざされた世界だ。
魔界に住む住人は魔人と呼ばれる。魔族とは区別される。
魔族とは日の光に溢れる世界、エルヴァンにおける魔に魅入られた者たちであり、その本質はあくまで表の世界の住人に過ぎない。そのため、魔の力は魔人に比べると魔族ははるかに劣る。魔族最強と呼ばれる者であろうとも、魔人の中ではせいぜい兵士長クラスであると言われる。
最も魔人の本質は魔に位置する裏の世界の住人であるため、表の世界たるエルヴァンに活動する場合には大幅に弱体化してしまう。吸血鬼と呼ばれる者の多くは日の光を嫌うように、魔人もそれと同じく日の光に悩まされるからだ。
そのため、エルヴァンで弱体化をさほど苦にせず活動できる魔人は魔人の中でも強者と呼ばれる者たちだ。
もっともここ二千数百年、魔人が自らエルヴァンに顕現したことはない。ヘルゲートと呼ばれる魔界とエルヴァンを結ぶ門の機能が停止しているからだ。
今では魔人がエルヴァンに行くにはエルヴァンにいる人族たちから召喚されるしかない。
だが、魔人は日の光を嫌い、さらにエルヴァンにおいては自分たちよりもはるかに劣る人族に使役されることになるため、魔人召喚を拒むことがはるか昔にはよくあった。
そう、数百年を生きる魔人ですら覚えていない、はるか昔のことである。今、多くの魔人はエルヴァンに召喚されることを望んでいる。それはなぜか。
「陛下、夕餉の支度が整いました」
背の低い腰の曲がった白髪の老人がヘルゴーに声をかける。
ヘルゴーの先々代から魔人王に仕える魔界の重鎮、オルバ・フォル・リーゲル。肉体的な強さには欠けるが、魔法の腕においては先代の魔人王、今代の魔人王の二人の教師を勤めあげた魔界屈指の老魔人であり、ヘルゴーの幼き頃の守役でもあった。魔人の中でも長命であり、すでに1000年の年月を超えて生きると言われる老魔人であるが、途中からは年齢を数えるのはやめたらしく、年齢を聞くたびに違った答えが返ってくる。
ヘルゴーはなぜ相談役であるオルバがわざわざ夕餉の用意ができたことを告げに来たのか疑問に思ったが、「うむ」と一言だけ述べると玉座の間の空間が揺らぎ、玉座の間からヘルゴーとオルバの両名の姿が消えた。
ヘルゴーとオルバはテラスに転移した。首都であるザスハンブルグを一望でき、魔人王の執務室のすぐ隣に位置するテラスだ。首都は魔光石の灯に包まれ、空気中の魔瘴気とが合わさり霧の街とでも言うような幻想的な雰囲気に醸し出している。
テラスには魔晶石のテーブルと魔界神樹の椅子があり、オリバが椅子をひこうとするとヘルゴーは手でそれを静止し、自ら椅子を引き、ゆっくりと腰を下ろした。
テーブルには料理が並べられている。小麦パン2つと野菜くずと干し肉のスープ、魚のバターソテーと澄んだ水。魔界を統べる王の夕餉としてはあまりにも粗末な料理と言えよう。
「どういうことだ?」
ヘルゴーはオルバに問い質す。
もしもこれがエルヴァンにある国の国王の夕餉とするなら、どのような弱小貧乏国であってもありえないところだろう。このようなものを出せば、責任者の首が物理的に飛ぶのは間違いなく、その国の平民であってもこれよりかは豪勢なものを食べていることだろう。
「陛下のお申し出には応えられません」
オリバは首を差し出してもかまわないというような意思を持って、深々と頭を垂れた。
「なぜだ?」
ヘルゴーは苦虫を噛み潰したかのような険しい顔つきで再び尋ねた。
「……陛下のお食べするものに毒物を使うことはできないのです」
オリバが頭を垂れた状態で答えた。
「毒物など効かん」
「ですが……」
「我に出す料理によって魔界に住む子らの命が何人か救えるであろう!!」
ヘルゴーは声を荒らげて吠えた。
魔界は数千年以上続く食糧難に悩まされていた。
もともと魔界は光の閉ざされた世界ではあったが、魔瘴気は存在しなかった。魔瘴気が発生したのは5000年ほど昔と言われる。魔瘴気は魔人にとっても毒と呼べる瘴気であり、魔瘴気が発生したことにより当時の人口の7割が数年のうちに死亡した。その生き残った3割の産んだ子どもであっても、魔瘴気に耐えられる子どもは決して多くなく、今の魔界の人口は全盛期の5%にも満たない。
だが、長年にわたり魔瘴気に身を晒し続けたためか、耐性がつき、魔瘴気により直接死亡するケースはほとんどなくなった。もっとも魔瘴気の影響を受けたのは魔人だけではない。魔界に住む動植物の多くがそれにより死滅ないし変異を遂げたのだ。その身体は魔瘴気を貯め込み、毒物と化し食用には向かない。そのため、魔瘴気から生き延びた魔人に待っていたのが飢餓だった。
魔瘴気に満ちた毒物を食べても死ににくいというのが生き延びれる魔人の最低条件だった。
歴代の魔人王も単に手をこまねいていたわけではない。神遺物であるヘルゲートを発見した後、魔人の生存圏を増やそうとエルヴァンに侵攻した魔人王がいた。エルヴァンにおいて弱体化しているとはいえ、魔人は圧倒的な強者である。侵攻の際には魔に魅入られし魔族も従属下に収め、瞬く間に勢力図を塗り替えた。しかしエルヴァンにおける支配者も人から魔人に変わろうとしたとき、神聖エルヘブン法皇国において、神託の勇者と神の軍勢が降臨し、魔人王の首を獲り、人族は窮地を脱したのだった。
侵攻は三度行われたが、いずれも神託の勇者と神の軍勢により阻止された。
魔界の軍勢が出ずる時、神託の勇者と神の軍勢が現れる。これを理解した魔人王は侵攻を控えるようになった。そして領土を得ることは一旦諦め、エルヴァンから食料を得ることに戦略を変えたのである。
エルヴァンを征服しようとした魔界と交易しようという国家などほとんどなかったが、神聖エルヘブン法皇国の国教であったヘルミナ教の影響の乏しい農業国だった小国アルガードと秘密裏に連絡を取り合い、アルガードは農作物、畜産物を、魔界は希少金属やその加工技術を提供し合うという交易協定を結ぶことができた。魔瘴気の毒が含まれていない食料を得る手段を得、ようやく魔界は一息ついた……ように思われた。
いくら農業国と言っても、領土が狭く小国であるアルガードでは減少したとはいえ魔界の住人を満たすだけの食料を作り出すことはできなかった。そのため、アルガードは魔界からの食糧要求に悩まされることになる。そして、当時のアルガード国王は野心家であった。大国の顔色を窺い、農作物や畜産物を安値で買い叩かれる現状に不満を持っていた国王が魔界との協力関係により、エルヴァンにはほとんど存在しない希少金属と加工技術を得、軍事力の増した行く先は隣国への侵攻だった。領地を増やし、食料を増産し、魔界からさらなる希少金属とその加工技術を得て、エルヴァンにおける大国になることを当時のアルガード国王は夢見たのだ。
大国の騎士階級ですらほとんど持たない白銀鋼を潤沢に使った装備を身に纏ったアルガードの軍勢は破竹の勢いで周辺国と征服した。だが、アルガードのような弱小国が白銀鋼の武防具を大量に所持しているのを不審に思った神聖エルヘブン法皇国が裏を取り、その結果アルガードと魔界とのつながりが発覚し、アルガードは人類の敵認定を受け、大国の連合国によってあっけなく滅ぼされることになった。
当時の魔人王もエルヴァンにおける唯一の友好国だったアルガードを救おうと軍勢を準備したが、魔人王とその軍勢が動けば、再び神託の勇者と神の軍勢が現れ、弱体化した王が討ち取られるかもしれないと危惧した重臣、側近の多くから反対されたため動けず、より多くの希少金属とその加工技術を提供できたにすぎなかった。
アルガードが滅びた後、魔界とつながりを持てば神聖エルヘブン法皇国に人類の敵と認定されるかもしれないという懸念から魔界と付き合う国家はなく、魔人王が手段を模索している間に何者かの手によって、ヘルゲートの機能が停止され、魔界とエルヴァンを行き交うことはできなくなり、魔人がエルヴァンに行くにはエルヴァンの住人に召喚されるしかなくなった。
魔人を呼び出す魔法は太古の神々が生み出したとされる契約魔法であり、召喚者と被召喚者の双方がお互いを害することができず、召喚時の契約内容に沿って行動しなければ死に至るものであり、契約内容が達成されると被召喚者は送還される。
食糧不足に陥ってから魔人が要求する報酬は常に大量の食糧であり、それらを国が召し上げ、固定魔法をかけて防腐処置を行い、厳重に保管し、魔人に均等に配給されていた。もちろん、仕事を果たした魔人にはより多くの配給を受けられるが。そして、その配給量ではまったく足らず、魔人の食卓に並ぶ料理の多くは魔瘴気にまみれたものであり、結果として成人できた魔人より毒への抵抗力の劣る子どもの魔人が毎年多く命を落とす。そのため、今も魔界の人口は増えるどころか少しずつ下降傾向だった。
「我に配給されるエルヴァン産の食料はやめ、一人でも多くの子らを救うと決めたであろうが!!」
すでにヘルゴーは成人しており、魔瘴気に溢れた食べ物を食べてもさほど影響は薄い。
そのため彼は偽善であるとは思いながらも、今日の御前会議の際、自らの配給を止める決意をしたのだ。
「陛下、魔瘴気に満ちた食べ物を侮らないでいただきたい。先代陛下、先々代陛下も自らの配給を止める決定を行い、それを実行されましたがお二人とも短命にございました。私がもっとしっかりお諫めしておけば、そのように儚くおなりませんでしたでしょう。魔界を統べる魔人王陛下が短命になってしまっていることに多くの国民は動揺されております。私が先代陛下、先々代陛下が自らの配給を止めたことを陛下に隠していたのは、陛下がそれを知れば、それに倣うと考えていたからです。陛下はこの老骨に三度主君を失わさせるおつもりですか!」
オルバは顔を上げ、ヘルゴーの目を見据えて言い放った。
「陛下が配給を止めることを頑なに実行するのであれば、まずはこの老骨のそっ首を切り落としてからにしていただきたい!」
オルバがここまでヘルゴーを強く叱責するのは守役の頃以来だ。爺と呼んでいた当時のことを思い出しながらヘルゴーは渋々食事に手を付けた。
それからひと月ほど経ったある日の御前会議でヘルゴーは報告を受けていた。
文官の纏めた今月の調査報告だ。
「陛下、このたび新たにオリハルコンの鉱脈を発見しました」
オリハルコンの鉱脈は魔界でも滅多に見つからないため、吉報と言えば吉報である。
だが、ヘルゴーは眉ひとつ動かさない。今の魔界に必要なものはそんな希少金属などではないため、喜ぶ気も起きない。
「今月も結局魔瘴気の影響を受けない、影響の薄い動植物は見つからずじまいか」
会議終了後、ヘルゴーは深いため息をついてぼやいた。
ボォーン
ボォーン
ボォーン
ザスハンブルグの城門から鐘の音が聞こえた。
火急の知らせが入った際に鳴り響く鐘の音だ。
すぐにヘルゴーは玉座の間に出かける準備を行う。
ヘルゴーのすぐ後ろに控えていた銀髪の黒耳長の侍女がヘルゴーの御髪を整え、疲労の色が目立つ目元に肌の色に合わせたパウダーを塗りつけ、馴染ませる。
「陛下、何卒ご自愛ください」
ヘルゴーは侍女の頭を軽く撫で
「うむ」
と一言だけ告げると玉座の間へと転移した。
玉座の間にはすでに多くの大臣や将軍が待機しており、その報告内容次第で即座に対策を組める準備を整えていた。近年火急の知らせが届くのは災いというものばかりであり、多くのものに緊張の色が見える。
待つこと数分、玉座の間の開門を告げる鐘を鳴らす音とともに扉が開けられた。
まだ若い魔人がガチガチに緊張した状態で入場してくる。
手足を同時に動かし、失敗作のゴーレムのような滑稽な姿だ。
軍服の紋章からグリフォン隊の衛士であることがわかる。
「ま、魔人王陛下におかれましては」
膝をつき深々と頭を下げ、若い魔人は挨拶の口上を述べようとする。
「良い。報告だけを簡潔に述べよ」
「はっ、本日の14時ヘルゲートの起動に成功しました」
ウォー!!
玉座の間に立ち並ぶ重臣の多くが歓声の雄たけびをあげた。
そして、その重臣たちの誰よりも大きな雄たけびをヘルゴーはあげたのだった。
「今度こそエルヴァンを征服するのだ!」
武断派で知られる将軍が鼻息を荒くし力強く主張する。
魔界の住人にとって毒物の混ざらぬ農地や領土は憧れであった。
「愚かな!そして、また神託の勇者と神の軍勢に敗れるというのだな」
魔界の内政を司る文官の重臣がそれに反論した。
「では、どうするというのだ!せっかくヘルゲートが再び起動できたのだ。このチャンスを逃し、手をこまねいておれば良いとでも言うのか!!神託の勇者とやらは三千年近く前には存在したものだが、今も存在しているとは限らん。さらに我ら魔族はこの二千数百年、耐えに耐え魔界の厳しい環境を生きぬくために鍛えた。すでに勇者とその軍勢は過去の遺物。仮に現れたとしても儂がその首を跳ね飛ばし、歴代の魔王陛下の墓前に供えてくれるわ!」
神託の勇者に魔人王が最後に討ち取られたのは三千年近く前も昔のこと、当時を知る者はおらず、魔界の武人の多くは神託の勇者を侮る傾向にあった。
一方、文官は、あくまで最悪の場合を想定していた。
当代の魔人王には未だ妃を迎え入れず、跡継ぎもいない。その状況下で王に軍を率いさせることはできない。そして、血気にはやる将軍に軍を率いさせることもリスクが高すぎると判断していた。
「ははは、貴様の首が胴から離れようと誰も困らんが、今陛下の御身を危険に晒すことはできん。征服などよりもアルガードのような農業国に介入し、作物を得ればよかろう」
それが文官側の意見だ。だが、それには軍人側は反対する。
いまだ神聖エルヘブン法皇国は健在である。二千数百年前より唯一現存するエルヴァンにおける大国が、魔界とのつながりのある国を発見すれば、放っておくはずなどない。軍勢を出すのを恐れる方針では魔界はまたしても友好国を見捨てることになるのである。そして、せっかくできた友好国を見捨ててしまえば、人族の国のほとんどが秘密裏であっても魔界と関係を結ぶことを拒むであろう。
若きグリフォン隊の衛士にねぎらい、休む部屋を与えた後、玉座の間で行われた会議は紛糾していた。
まさかヘルゲートが起動するとは、たとえ日々夢見ていたとしても二千数百年閉ざされていたのだから、明確な方針などあるはずもない。
「本日はこれまでとする」
これ以上続けても、良い案が見つからないと考えたヘルゴーは会議の終了を宣言した。
「会議前にエルヴァンの調査を命じた、ひと月ほどもあれば現在のエルヴァンの情勢がわかるであろう。それを踏まえてから、再び方針会議を行うとしよう。ラグザ!」
「はっ!」
ヘルゴーの前に金髪の大男が跪き、命令を待つ。ラグザ・フォーゲル、若くして魔人兵6000人を束ねる若き俊英であり、師団長の地位にある。
「エルヴァンで活動できる精鋭を十数名選びだし、エルヴァン側のヘルゲート付近に潜ませよ。ヘルゲートに近づく人族がいれば、忘却魔法なり催眠魔法でごまかし、近づけるな。もしも神聖エルヘブン王国などが大軍を押し寄せることがあれば、すぐさま城に報告せよ」
ヘルゲートは魔界にとって希望である。今失うわけにはいかない。最悪のケースにはたとえ神託の勇者と神の軍勢が相手になるとしてもヘルゴーは自ら軍を率いる覚悟をもっていた。
「クラーク!」
「はっ!」
金縁眼鏡をかけた細身の男が跪く。二十年ほど前にも召喚でエルヴァンへと赴いたことのある魔法の才に長けた魔人だ。
クラークの目の前から強い魔力の揺らぎが感じると、何十もの小粒の宝石が現れた。
「これを資金にエルヴァンから食料をかき集めよ、糞坊主どもに気づかれぬようにな」
本来ならより多くの資金を与えたいところだったが、魔界の住人に行き渡るだけの食料を購入すれば、どうしても目立つことになる。焼け石に水の量しか集められないだろうが、それでもないよりはマシと言わんばかりにヘルゴーはクラークに命じた。
それからエルヴァンにおいて月が新月から満月に変わる頃、続々と情報が集まってきた。
クラークもまたその宝石を現金に換え、辺境地の開拓団のために食料を集める商人を装い、少なからぬ食料を購入し、魔界に持ち帰った。
・当時魔人王が侵攻した際に存在していた国々で現存するのは神聖エルヘブン法皇国唯一である
・ヘルゲートが停止したのち、神聖エルヘブン法皇国はヘルゲートの監視費用として大量の金銭をエルヴァンの各国から受け取っている、特に小国においてはその負担が大きく、そのため重税となり、反乱などが頻発している
・神聖エルヘブン法皇国の首脳部において、腐敗化が進むものも、いまなお神託の勇者と神の軍勢が降臨する土地であることを理由にエルヴァンにおいて、大きな勢力を保っている
・アルガードを攻め滅ぼした当時の大国の連合国は希少金属とその加工技術を手中に得らんがために、その後相争い弱体化し、反乱によりその歴史に幕を閉じる結果となった
・信仰による禁忌制限でエルヴァンにおいて新技術の開発が著しく遅れている
・ヘルゲートから零れ落ちたとされる微量の魔瘴気により、その土地周辺の魔物が変異し、ヘルゲートの周辺には人族に追いやられた少数の魔族の集落が存在するのみで、数百年前まではヘルゲートが再び開かぬようにあった監視も法皇国の腐敗によりなくなったことetc
「ははは、ほれ見たことか!すでにエルヴァンは恐れるに足らず。このように低迷した世界など我らの敵ではないわ!腐敗蔓延る法皇国ではすでに勇者も軍勢も呼べぬに違いあるまい」
2mを優に超える偉丈夫が愉快そうに笑い声をたてる。男の名はアラン・ホセイン、魔界の5将軍の一人だ。
5将軍は持ち回りで辺境から這い寄る魔物から民を守るために軍を駐留させており、ザスハンブルクに滞在する将軍は彼ひとりであり、魔人王を除けば軍のトップにあたる。自分の身の丈ほどの大剣を振り回し、先頭にて指揮を取る彼は、文官勢から嫌われているものの、兵卒からは厚い信頼を得ている。
「確かに将軍のおっしゃるようにエルヴァンの国々の危険度は減りましたな。ですが、勇者も軍勢も呼べぬと決めつけるのはよくはありますまい」
杖をついた長い白眉毛を垂らした老文官が血気に逸る将軍を軽く諌める。
「ドグラ殿、軍人出であるあなたまでもがそのような臆病風を吹かれるか」
アランは老人に対して不満げに口を開く。
報告を検討した結果、軍人側の主張の方に利があった。それも当然のことだろう。
力を蓄えた魔界と、技術が停滞し政治的な混乱の残るエルヴァンの各国と腐敗しきった法皇国。
正面切って戦ったとしても鎧袖一触で勝てるだろう。唯一の不安は神託の勇者と神の軍勢、それすらもここ3000年近く見たものがいない。腐敗しきった法皇国など神もとうの昔に見捨てているというのが軍人側の主張だ。
臆病風と言えば臆病風だろうが、それでもドグラは不安を拭い去ることはできなかった。
「征服か。征服した後はどうする、魔人が皆入植するか。そしてそこにいる人族は追い出すか、奴隷にでもして使役するか」
ヘルゴーはアランに問いただした。
「奴隷……決してそのような……」
魔人の多くは意外にも一部の例外を除き、人族をそれほど嫌っていない。
特に土地を耕し、狩りを行い、魚を獲り、牧場で畜産を育てあげる第一次産業に従事する階級の人族に対しては敬意すら持ち合わせている。
召喚の際に報酬で得た食料は彼らが作り出したものであり、自分や自分の家族の生きる糧だったからである。
「戦争を起こせば、まず犠牲になるのは民である彼らよ。そして魔界から軍勢を率いて彼らを大量に殺戮した後、彼らと真っ当な関係を築けるか」
「それは……」
武断派で知られ、エルヴァンの征服を主張していた将軍ですらも、彼らには敬意を持っていたため、即答はできなかった。
「魔界は貧しくなった。魔瘴気に包まれ、まともな食料も得られず、腹を減らした子どもらが数多くいる。エルヴァンの民とはいえ、彼らに我らと同じような思いをさせるか」
「ですが、我らにもエルヴァンの地が必要なのです!」
真っ青な顔でアランは叫んだ。叱責されようと罰せられようと、魔界に生きる民のためにも生存圏を確保しなければならないという使命感が彼を駆りたたせた。
「そうだ、魔界には生存圏が必要だ」
ヘルゴーはアランの意見に頷いた。
「だから、我らは奪うのではなく、生み出すためにエルヴァンで国を建国するとしよう。エルヴァン大陸のヘルゲートの位置する辺境からさらに南は人の入らぬ魔境だそうだ。そこに我らは我らのための国を築くとしよう。この魔界における生命線となる衛星国をな」
時間のかかる計画となるだろう。
それでも報告をつぶさに検討し、側近たちと話し合った結果ヘルゴーの中でその選択が最善であると判断した。
これまでの魔界は奪うばかりであった。
神の力の源は信仰にあると聞き及んでいる。
エルヴァンにおける魔界の衛星国が奪うのではなく、生み出し、エルヴァンの民に支持されるようになれば、仮に法皇国が神託の勇者と神の軍勢を呼び出せたとしてもどれほどの力を発揮できるか。
しばらくの間は魔界による開拓であることを秘することとしよう。
今もなおエルヴァンにおいて魔人は忌み嫌われている。
3000年前の戦争が原因ではなく、召喚された魔人がよく請け負う仕事が召喚者や召喚者の与する組織と敵対する権力者たちの暗殺であるからだ。そのため、ヘルミナ教の教本にも魔人は何も生み出さず、魔人が行うのは人を殺し、財を奪う悪しき存在とされている。
だが、魔人が死に絶えず、生き延びたのはエルヴァンの権力者たちがその力を求めたからに過ぎない。
仮に召喚され、契約の履行による食料がなければ、次代の魔人などほとんど生き延びられなかっただろう。
生きるために奪ったに過ぎなかった魔人に対し、権力を握りたい、敵対者を殺したいがために、民から重税を搾り取った権力者が自らの権力を神聖不可侵なものと民に教える。
一人でも多くの民を救わんがためにたとえ王や将軍、大臣なども食事を控える魔人と、腹を減らし死ぬ民のことすら頭になく重税を課し、贅沢に身を肥やした者たち。
どちらの方が邪悪か。
「……此度の計画は何としても成功させなければならない」
「我らは奪わない、だからエルヴァンも我らから奪ってくれるな」
ヘルゴーの脳裏に開拓についての幾つもの案が浮かび、それらを極楽鳥の羽ペンで手帳を書き記し、懐にしまった。