2.4 外界
要添削
視点距離, 台詞, 年齢に見合った感性||見合った語彙, 敷衍方法, 世界に見合った表現=諺||四字熟語使用不可
遠方に輝く紫色は、地平の彼方で湧き出す腐敗。その上に乗る光の粒は、ハラルトの頭上まで広がっている、無尽の星だ。淡いそれらの光は、なだらかな砂の丘や、時の流れで浸食されてしまった木々の残骸を照らし、確かな導となっている。だから、決して迷う事はない。人々の傍にある自然は、常に無言で寄り添い続けるのだ。
ハラルトは、数人の男達が歩んだ足跡をなぞる形で、コアと並んで進んでいる。彼女は、姉がいつの間に人手を集めたのだろうと些か感心したのだが、自分がマオテとお喋りをしていた暇を思い出し、それだけの時間があれば、手の早い姉には容易い芸当だと気付いたから、あっという間に疑問を解消出来てしまった。コアは快活であり、老若男女分け隔てなく接する。それを知っているハラルトには、男達が夜だろうがお構いなしに手を貸してくれた筈だと、何となく想像ができた。
前を歩く気前も腕っぷしも良い男達は、何やら話してみたり、堅木の槍を瞬く空へと掲げてみたりして、幾分か楽しそうにしていたが、同時に、獣を警戒しているのだろうか、あまり大きい動きを見せる事はしない。ハラルトも、感化されてはしゃぎたくなったが、お下がりの外套を控えめに宙へと翻す程度で、我慢した。お喋りだって、小声でする分には大丈夫だと思っても、大きい獣に触れようと、砂嵐の胃袋に突っ込んで、いよいよ獣に触れる所までいった話など、誰にもする訳にはいかない。
砂嵐の中に飛び込んだだけで、スィルから大きな雷を落とされたのだから、獣に触れようとしたと知られれば、コアだって怒るに決まっている。そうわかってはいるのだが、ハラルトはどうしても、腐敗を宿していたであろう光る獣について、コアに聞きたくて仕方がなかった。
「ねえ、コア」
コアの顔を捉えようと見上げたら、姉も頭を上に向けて、空に視線を泳がせていた。姉は腕を頭の後ろに組んで、槍と頭を上手に抱えている。
「なんだー?」
上を向いたままに、空に向かって、コアは間延びした声を吐き出した。結局ハラルトは、コアの表情を掴めずに終わる。相変わらず姉は、聞いているのかいないのか、いい加減だ。
ハラルトはちょっぴりムッとして、わざとらしく頬を膨らませてから眉毛をくちゃりとさせたのだが、姉はしばらくこちらを見てくれないから、顔が疲れてしまい、無駄な苦労に終わった。
――微弱な風が、纏う外套の隙間を縫って、ハラルトへと届く。
風はハラルトのお腹でとぐろを巻いて、少しだけくすぐってから、どこかに消えてしまった。そんな時間の暇が、獣について話すべきか葛藤していた彼女の気持ちを、迷路へと突き落とす。コアはスィル以上に外に出ていて、獣や植物、果ては土地特有の環境にまで詳しいから、ハラルトは、セゴルの花のように腐敗の光を放つ獣が存在するのかどうか、姉から手がかりを聞けるかもしれないと思っていたのだ。無論聞くにしても、不自然さがあってはいけない。それも相まって、うんと時は進んでゆく。
「どーした。アンタまた小難しい事考えてたろ?」
頭の後ろで組んだ腕を一向に解かず、しかし体を捩らせるようにハラルトを見下ろすコアの姿勢は、かなり窮屈そうに見える。姉にとって、自分の頭はそこまで重いものなのだろうかと、バカバカしい事だとわかりつつも、ハラルトは一瞬ばかり考えてしまった。
「ううん、何にも……。コアは、光る獣知ってる?」
それだけ聞いて、コアは再び空へと視線を戻した。やはり窮屈な姿勢だったのだろうか。
「光るって、腐敗に侵されてるって事だろー? うーん……」
珍しく、姉はハラルトの疑問に対して真剣に頭を捻り出した。だからハラルトは何かしら聞けるのだろうと思っていたのだが――。
「――アンタ、光る獣見たのか?」
心臓が、ズキっとした。
誤魔化す為に、ハラルトは何気なしといった感じで頭を下に向けて、足元の砂を蹴っ飛ばして散らかす。
「セゴルの花が光るから、獣も光るのかなって思っただけ」
コアに顔を見られたら、嘘がばれてしまうと思ったから、ハラルトは外套の襟元をきつく締めるようにいじって、顔を隠した。
「そうかー。……で、いつ見たんだよ」
下へ下へと頭を下げていたハラルトの視界に、コアの足先がチラチラと入り込んでくる。だから頭を上げてみれば、進路に重なった姉が、後ろ向きに歩いてハラルトの顔を見下ろしていた。
更に心臓がズキっと痛んで、ハラルトは思わず口をすぼめてしまった。
「見てな――」「嘘つけ」
風は先ほどと変わりなく、右から左から、頬を撫ぜたり髪の毛を揺らしたりする程度に弱い。そんな弱弱しさが、無遠慮にも小癪にも姿を変えて、ハラルトの焦りを煽ってくる。自然は自由奔放で、人にちょっかいを出したり、人に無関心であったりするから、この時ばかりは鬱陶しくて、ハラルトは邪魔を防ごうと、顔が隠れるくらいに外套を持ち上げた。余裕がない彼女にとって、不穏は少しでも取り除きたい。
顔を覗き込んでくるコアの視線から、外套はハラルトを守ってくれる。じっと見つめるだけならば、力を使う事はないだろうが、ハラルトが両腕で持ち上げている外套は、意外と重い。だからハラルトの両腕はとうとう疲れ切ってしまい、上に引き上げた外套ごと、だらんと垂れてしまう。
目に見えない戦いに、敗れてしまったのだ。
「白状しな」
意外と真剣なコアの顔に気後れしてしまって、ハラルトは観念する。
「スィルに怒られた時。砂嵐の中で光ってた」
人の心を読み解く姉に打ち勝つなど、端から難しい難しい話だったのだと思って、ハラルトは胸中でしんみりとした。
意外と大きい告白をしたつもりだったから、コアの表情が全く変わらないのが、ハラルトの恐怖心を些か刺激してくる。やがて心に刺さる小さな棘は、緩々と大きくなってゆくから、外界を満喫したい気持ちを仕方なしにぐっとこらえて、再び足元に視線を落とす。その直後、遠くから流れてきたのだろう、少しだけ強まった風が、足元を支える砂を吹き散らかした。砂はハラルトの左側、遥か彼方に滔々と流れ去り続ける。
いつまで待ってもコアは怒り出さない。だからハラルトは、右、左、と交互に砂を踏みにじる自分の足から、恐る恐る顔を上げて、姉を見た。すると姉は、いつからだろうか、もう後ろ向きに歩む事をやめて、ハラルトよりも少し離れた位置を、いつもの適当な加減で歩いている。
大きな雷を落としたスィルと、いい加減なコアは、比べるまでもなく別人だし、中身も全く違う。だが、命を危険にさらす好奇心に身を委ねたのだから、確実に怒ると思っていたのだが、その認識は誤りらしい。
では一体、どういう事なのだろうと首を傾げたところで、コアはくるりと、軽々しい調子でハラルトへ頭を向けてきた。
「アンタ、スィルにあんま心配かけんなよー」
そういって、コアの口は真横にニヤリと開かれる。それから姉は再び前に向き直ると、それからしばらく喋らずに、再び頭を両腕で支えた。大勢の男達の後ろでこっぴどく叱られて、自然には白々しくされるだろうとばかり思っていたハラルトは、安堵はしたものの、いまいち腑に落ちない思いをして、姉の見る星の海へと視線を投げ入れる。
空は、何にも干渉しないようで、確かに輝きを大地に届けていた。
間違いなく、かなり長い時間を歩いてきたと思ったが、ハラルトの目に映る景色の全ては、相変わらず砂と紫と瞬く星が散らばった空だけである。改めて外界の広大さを実感しつつも、両足に疲労が溜まっている事実に抗う事は、彼女にはできない。医者であるマオテならば何とか出来るだろうかと思ったものの、疲労と病気と怪我の違いに引っかかって頭が混乱してしまったから、大人しくとまではいかないが、ハラルトは歩むリズムに合わせて両脚を叩き、疲れをどこかに投げやってしまおうとした。
一生懸命に両脚を叩いているハラルトには、周囲を見て心を躍らせる余裕などない。それでも、前を歩く男達は全く動じる事なく、初めの時と同じように振る舞っているから、彼らの体力には底がないのだ、と思う。ずっと後ろから彼らの様子を見ているハラルトは、底なしの体力が羨ましてく仕方がなかった。だから、周囲の景色に心を躍らせる余裕こそなくなってしまったけれど、健常な体を渇望する気持ちは大きくなっていた。
「どうしたー? もう疲れたのか?」
「全然!」
「そうかそうか」
いつの間にか横に移動していたコアが、恐らくハラルトをおちょくってくる。だからハラルトは悔しくなって、しかし不服を表現する余裕などなくて、とんでもなく重くなってしまった両脚に構わずに、嘯く。再びコアの顔を見ると、楽しそうに笑っているから、少し腹が立ってしまって、ハラルトは頬を膨らまして姉から目をそらした。
「なんだよ、怒んなって」
「怒ってないよ!」
また、ハラルトは大嘘をつく。しかも、つい大声で。
夜に支配された大地では、ちょっとした叫びも、どうやら叫声となるらしい。だから男達が振り向いて、口に手を当てて静寂を求めてきたから、ハラルトは余計にムカムカする胸を掻き毟りたくなって、しかしそんな気力もなく、やむを得ず沈黙に徹する。
「まあまあ」
コアは殊更に楽しそうにする。疲れきったハラルトの肩に腕を回して、頬に顔を近づけた。いつもは何ともないが、今はその腕が余計に重く感じられる。
「コア、重い」
「おおっと! 失敬失敬」
わざとらしく回した腕をひっこめるコア。声から楽しんでいる事がわかる。だからハラルトは絶対に姉の顔を見ないと決意した。恐らく姉は、楽しそうににやけているに違いないからだ。
「ところでさ、光る獣とはちょっと違うんだけど……」
「なに?」
息が少しだけ、苦しくなって来る。だからハラルトは、極力短くコアに応答した。
面白い話であるのか、それとも、何か企んでいるのかを、見極められない。ふざける事が得意なコアは、どんな切り口からでも掴みどころを見せない人物である。だから最大限警戒したつもりだったのだが、自然に詳しい姉の知識はハラルトにとって、全てがとっておきだから、迂闊に聞き逃すわけにはいかない。そんな訳で、踊り始めた気持ちを隠す為に、まだ怒っていると見えるよう、下を向いて両脚を叩く事を止めなかった。
「むかーしだけど、母さんが言ってたんだ、腐敗に侵された生き物は、朽ちる者と、そうでない者がいるってさ」
神妙な声は、コアにしては珍しい。
姉の話は、ハラルトが考えていたものとかけ離れていて、自然の知識でなく、それよりも遥かに鈍重で、陰鬱なものだった。重苦しい話に口を挟む事など、ハラルトには出来ないし、知らない話であるならば、黙って聞くに越したことはない。だからハラルトは何も言わずに、両脚を叩きながら歩き続けた。
「朽ちる者は世界に調和しててー、朽ちない者は世界に適応できなかった者……だっけかな」
「なにそれ。コア、適当すぎ。全然きいてなかったんだ」
「そ、そんな事ないさー」
コアはさっと顔を横に向けて、だんまりした。本当に母は、そんな話をコアにしたのだろうか。
余りにいい加減な内容だったから、根本的なところから疑わざるを得ない。仮に話があったとしても、母が何を言いたかったのか、この内容では全然通じない。
何でも知っている母の話は貴重なのだから、たったの一つを忘れる事も、ハラルトにとってはあり得ない事だ。だからハラルトは、あまりにいい加減なコアに叱責する。
「コアはどうして、話聞いてないの? 大事な事なんだから、ちゃんと聞かないとだめだよ」
あらぬ方向を向いて歩くコアは、「へーい」などと適当な返事を返してから、ため息をつき、槍を振り回して遊び始める。実に不真面目な話である。
とは言え、これ以上何を言っても、ハラルトの声は、右耳から入って左耳から抜けてしまうのだろう。それがわかっていたから、彼女は諦めて、大人しく両脚を叩く作業を続ける事にした。
ハラルトは、遠くに前方の男達を見ている。当然、集落から出た時には、そこまで距離があいていた訳ではないのだが、完全に上がりきってしまった呼吸と、溢れるほどに溜まってしまった足の疲労が、彼らへの追従を遅らせた結果だ。それでもコアは、ハラルトのほんの少し前にいる。なぜなら姉は、恐らくハラルトの体調をわかっていたのだろう。だから姉は、絶妙な距離を保ちつつ、男達を見失わないようにと、ハラルトの前にいるのだ。
いい加減なコアであるが、この時ばかりは救われた気持ちになって、ハラルトは何かしてあげたいと思ったが、疲労困憊を骨の髄まで味わっている今の状態ではままならないと気付いて、心の底から残念に思った。
「おーい、大丈夫か?」
振り向くコアの顔を一生懸命に見上げて、ハラルトは何とか返そうとしたが、それが出来ずにハァハァと、呼吸を整える事しかできない。すぐに彼女の頭は、再び、砂が広がる地面の方へと沈んでしまった。ハラルトは、無力な自分の姿を想像して、なんだかやるせなくなってしまう。
「ほら、もうすぐ着くぞー」
調子の良い声を受けて、ハラルトは前傾の姿勢で、頭だけを上に持ち上げる。こちらを向いたコアが、行く先に向かって指さして笑みを浮かべていた。
指先を目で追うと、前方を歩いていた男達が、少し高くなっている砂の丘の上で歩みを止め、向こうのほうへと、手を振っている。
ハラルトは、コアの腕に抱き着くようにして呼吸を整える。すると姉は、ハラルトの体を支えて、疲れ切った彼女の歩みを補助してくれた。
砂の丘を、登る。胸に押し付けた姉の腕は、マオテのそれとは少し違って、いくらか柔らかい。それでも、この時ばかりは頼りがいがあって、丘のてっぺんにたどり着くまで、ハラルトの心を支え続けた。
歩いてきた道の方から、少し強い風が吹きあがってくる。今までよりも少しだけ冷たくなったそれは、ハラルトの纏う外套を後ろから揺らした。
ハラルトは、コアの腕を一等強く抱き寄せて、足を動かしながら、僅かに残った自らの軌跡へと頭を向ける。延々と続くそれは、登ってきた丘の途中から、霞むようにして消えていた。
再び顔を戻せば、どうやら丘のてっぺんに到着したらしく、コアが引っ張ってくれる力が、弱くなった。
後ろから押してくる風の冷たさが、更に増す。それは、しばらく丘の上で渦を巻くようにしてとどまって、てっぺんの砂をたらふく平らげたまま、いっぺんに下ってゆく。過ぎ去った先を見れば、空漠と広がる砂の大地に、ポツリポツリと揺らめく、人影があった。
共にここまで来た男達の何人かは、揺らめく人影に向かって歩いてゆく。残る数人の男は、ハラルトの横で手を振り続けていた。
目を凝らせば、人影も、こちらに向かって手を振っているらしい。だからハラルトは、そこにトゥァカシーヴやスィーンがいると確信して、コアの腕に抱き着かせた自分の両腕に、力を込める。
コアは応じて、ハラルトの体を支えながら、砂の丘を下ってくれた。
だんだんと、人影が大きくなる。何やら作業をしているらしい人影は、あっちに行ったりこっちに行ったりして、忙しない。遠くではよく見えなかったが、足元には綺麗に並べられた狩りの成果が、運搬を待っていた。
「おーい!!」
コアが大声で叫んで、空いた方の腕を大きく振る。
近づきつつある人影に届いていたのであろう、そちらの何人かも、コアと同じように腕を振って、軽く挨拶をしたのが見えた。
その中から、二つの影がこちらに向かってくる。ハラルトには、それが二人の姉だとすぐにわかった。
比較的ゆっくりと、二人の姉が歩いてきて、とうとう落ち合う。
過酷な自然に進んで飛び込んだ二人を、ハラルトはずっと心配していたから、コアから話を聞いていたとはいえ、実際に目で見て、心の底から安堵する。疲労など、すぐに吹っ飛んでしまう位に、だ。
しかし。
「やだー! なんでハラルトここにいるの?」
トゥァカシーヴが、悲鳴のような声で言うものだから、何か悪い事でもしたのではないかと思って、ハラルトは大人しく、コアの腕に絡みつき続けようとする。しかし、トゥァカシーヴが、コアの腕からハラルトを無理やりに引きはがして、物凄い抱擁で顔を圧迫してくるから、ハラルトの鼻は押しつぶされて、息苦しくなってしまった。
「いやいや、アタシが連れてきたんだよ」
姉にこねくり回されている頭を上手に動かしたら、コアが男達の方を指さしているのが見えた。
ついでに、普段から無口なスィーンが、コアの説明に納得できないといった顔で、見るも不満そうに腕組をし、足を広げて立っている。しばらくそうしていたかと思えば、頭を右へ左へと、土色の髪の毛を振り乱し、コアが連れてきた男達を見まわす。兄弟の中で最も明るい色の髪の毛だから、少し離れた位置からでも、よくわかった。
「で、なんでハラルトも連れてきてんのさ」
吹きすさぶ冷たい風のような声で、スィーンは言う。しかし、コアは「よーっし! じゃあやるぞー!」などと叫んで男達に混ざってしまったから、結局聞けずじまいになってしまって、濡れた砂のようにジトっとした視線をハラルトに投げつけてきた。
「コアが連れてきてくれたの。あとこれ、ありがと」
ハラルトは、窮屈に抱きしめられたままに、不満なスィーンから借りたおさがりの外套の裾を、ちょっぴり引っ張る。するとスィーンは、相変わらず湿気た目線でハラルトをしばらく見てから、くるっと、素早く背を向けた。
「それ、あんたにあげる」
ため息交じりに言ってから、スィーンは男達の中に溶け込んでいった。
丘の上から駆けてきたのだろうか、冷たくて乾いた砂交じりの風が、ハラルトの背中を押す。
「苦しい」
「あらー、ごめんごめん」
頭をこねられていたハラルトは、乱暴にトゥァカシーヴから脱出しようと身もだえた。狩りから帰ったトゥァカシーヴはいつもこの調子だから、慣れっこといえばそうなのだが、息苦しさには、未だに慣れられない。だから両手を突っ張らせて、姉の外套をグイグイと押すのだが、トゥァカシーヴは力が強いものだから、結局、なすがままにされてしまった。
ごめんなさいとは、よく言ったものである。
「ねーぇハラルト」
「な……なにー」
一生懸命に両腕に力を込めて、トゥァカシーヴを押しのけようとする。だが、全ての抵抗は虚しい。そんな努力をしている間に、姉はハラルトをがっちりと捕まえたまま、頭へ頬ずりしたり、匂いを嗅いで来たりする。頭が、寒い。
ちょっとだけ、狩られる獲物の気持ちを察してしまった。
「お姉ちゃんの事すき?」
「好きだよー、苦しい……」
唐突に問われたから、正真正銘の真心から答えたのだが、失敗だったらしい。強制されたハラルトの告白を聞くなり、トゥァカシーヴは、スィルのげんこつよりも強い力で体をきつく締め付けてくる。この力ならば、狩りなどお茶の子さいさいであろう。
「あー満足満足ー」
言って、満面の笑みで、姉はハラルトを解放した。
何が満足なのであろうか。
ハラルトにはよくわからなかったが、窮屈からいきなり解き放たれたから、とりあえずは、彼女も満足である。体に残る窮屈な感覚から、ハラルトは冷たくて乾燥した空気で胸を膨らませて、大きくせき込む。
「ねぇ、ねぇ」
「なぁーに?」
せき込んだままに前かがみでいたら、トゥァカシーヴは軽く腰を折り曲げて、目線をハラルトへと合わせ、甘ったるい声で返してきた。とても近い。だから、また捕まってしまっては大変だと、一歩引いてから、背筋を伸ばして口を動かす。
「トゥァカシーヴは、光る獣見たことある?」
「光る獣ー?」
トゥァカシーヴが、わざとらしく首を傾げて、上目遣いに見つめた。
「そーねぇ、聞いた事ないかなぁ? でも、いても触っちゃだーめ。光ってるのは全部、危ないんだから」
それは、集落にいる人々なら、誰でも知っている。ハラルトが聞きたい話は、光る生き物の危険性でなく、光る生き物がセゴルの花以外に存在するのかどうか、である。
「朽ちる者と、そうじゃない者って、なに?」
先刻聞いたばかりのコアの話を、ハラルトは持ち出した。
光る生き物が危険であるのは、腐敗を宿しているからなのであるが、もし、コアの言う通り朽ちない者がいたとすれば、ハラルトが見た獣は、『世界に適応できなかった者』、という事になる。適応できない、とはどういう事であるのかハラルトにはわからないが、言葉通りに考えれば、孤独で寂しいイメージがある。トゥァカシーヴならば、母の話をちゃんと聞いている筈だから、疑問を解決してくれるだろうと、ハラルトは期待して、姉を見る。
「あら、それどこで聞いたの?」
「コアが言ってた」
「そう」
トゥァカシーヴは、ハラルトに合わせて沈めていた腰を、持ち上げた。目で追っていたら、姉は顎に手を添えて真下へと向き、何やら考えこんでしまう。どんな話が聞けるのか期待に胸が膨らむ反面、ちょっとだけ申し訳なくなってしまう。いつでもハラルトにべたべたしてくる甘ったるい姉が、こんな具合になるとは思わなかったからだ。
しばらく考え込んでいた姉が、自分の顎に添えた手を、ゆっくりと離した。
「お母さんはねー」
ちょっとだけ空いた、間。それを埋めるために、ハラルトは「うん」と口にして、頷く。
「腐敗に侵された者は、朽ちる者もあれば、そうでない者もある。朽ちる者の本質は、世界と調和した、力と歪みを宿した者で、朽ちない者の本質は、世界に適応できなかった、弱く空っぽなもの、って言ってたわよー?」
「なに? 長い」
「朽ちる者は、強くって、朽ちない者は、最初から空っぽってこと」
随分長い事を覚えているものだと、ハラルトは眼前で胸を張る姉に関心したが、難しすぎて、よく理解できない。だから、「ふーん」と、最後の簡単な説明の方で納得して、後で光る獣について、ゆっくり考える事にした。
姉は、胸を張ったままに腰へと手を当てて、フーと、大きい鼻息をつく。それがまるで獣みたいだから、ハラルトは思わず笑ってしまった。姉も、それに気づいて、笑う。そんな様子から、どうやら、これ以上トゥァカシーヴの狩りの餌食にならずに済むだろうと思いなして、ハラルトは安心するのだった。
獲物の数を改めて確認して、ハラルトは驚く。集落の外から引っ張られてくるそれらは、今見ている数よりもずっと少ないからだ。集落は、食べ物を保存する術に長けているから、少しの間は、食べ物に関しての心配をする必要がなくなったらしい。とは言え、ハラルトが心配する事でもないが。
動く姉は、皆がきびきびしている。いつも見たことがないからだろうか、ハラルトの目には、屈強な男達よりも力強く見える。だから、『今日は見てるだけでいい』と言われても、気持ちが高ぶって、姉のように働いてみたいと思わざるを得なかった。
ハラルトは、一番近くにいたスィーンに近づく。コアの一つ上の姉――つまり、ハラルトの二つ上の姉は、無口だが、何だかんだでハラルトに優しい。今は、適当なコアや、狩りが終わっているのに狩りをしようとするトゥァカシーヴよりも、ずっと信頼できる。
「ねえスィーン」
「何」
前かがみのスィーンは、こちらを見ないで答えた。姉は、植物を編み込んだ縄を上手に獲物のでっぱりに引っ掛けて、グルグル巻きにすると、再び、自分の右肩に蓄えた縄の一本を取って、隣の獲物に巻き付けてゆく。
「それ、ハラルトもやりたい」
風の音にかき消されないように、姉の背中へと声を投げつけた。器用で精確な動きであった姉は、ピクリと動いたかと思えば、流れるような手の動きを止めて、前かがみのままにハラルトへ頭を向けて、チラリと瞳を動かした。
「できないでしょ」
「やりたい」
「……」
前かがみのスィーンが、上半身を起こしてから、嘆息をついた。口にせずとも、やれやれと聞こえてきそうである。そして徐に、肩からぶら下がる、緑と土の色が混ざった縄を一本手に取って、ハラルトの前に突き出す。
「これ。もって」
スィーンのちょっぴり細い指に引っかかった縄をゆっくりとほどいて、ハラルトは握りしめた。すると姉は、もう一本の縄を自分の肩から上手にとって、軽く握り、隣の獲物へ向かって前かがみになった。自分の持ち方と全然違うから、懸命に姉の真似をして縄を握ろうとするのだが、思っていたよりも硬くて難しい。
「どうやるの?」
問うと、スィーンは目だけを一瞬こちらに向けてから、再び獲物へと視線を戻した。
「こいつ、足あるでしょ。四本。まずここに引っ掛けて……」
ハラルトの半分くらいの大きさがある四本足の獲物を足で押さえつけたままに、スィーンは縄をピンと伸ばす。すかさず、前足にクルクルと巻き付けてから、再びハラルトを見た。
「で、これを、後ろにもっ――――」
背中が、チリチリとした。
立て続けに、ハラルトの左方、恐らくはずーっと遠くにあるどこかから、まるで大きな塊を目いっぱい地面に叩きつけたような、お腹の底に響く音が、伝わってきた。
音は、小さい。だが、音源までかなり離れている筈だ。だから、想像もできない位に大きな音が響いて、ここまでやって来たのだろうと、すぐにわかる。つまり、ただ事ではない。
スィーンは、手際よく獲物に縄を巻き付けて、そこから延びた切れ端を、男達に託す。男達は何も言わずにそれを受け取って、せっせと、集落の方へと立ち去ってゆく。
しかし、何かがおかしい。
「ねえ、スィーン。なんか変」
「わかる」
スィーンは、自分の唇に細い人差し指を当てて、静かにするようにと、ハラルトへ促し、彼女よりも少しだけ明るい土色の髪を揺蕩わせて、周囲を見回す。真似をして、ハラルトも周りを確認する。しかし、男達は、腹を乱暴に叩くような音に気付いていないのだろうか、何食わぬ顔で作業に没頭している。
「ハラルト」
呟いた姉が、ハラルトの手を取って、静かに引っ張る。トゥァカシーヴよりも遥かに優しい掴み具合だったから、少し心地よく感じた。
「こっち」
スィーンは、ハラルトの手を優しく包んだままに、綺麗に並んだ獲物の前を通り抜けてゆく。その途中で、足を止めずにコアの腕をも引っ張り、ぐんぐんと進む。
「ねえスィーン」
「静かに」
制されてしまい、ハラルトは口をつぐんでコアを見た。するとコアは、いつになく真剣な表情で、スィーンの歩む先を凝視している。だからハラルトも、コアが見つめる先へと目をやった。
一等高い、砂の丘。それが、あった。
丘に立ち、音がした方向へと目を凝らす。すると、そこそこ離れた位置に、紫の光が見えた。
「何か見えたー?」
ここまで静かに来たハラルト達は、後ろから大声を出しながらやって来たトゥァカシーヴへ一斉に頭を向けて、唇に人差し指を当てる。トゥァカシーヴは気づいたのか、わざとらしく口に両手を当てて、肩をすくめて、小走りで楽しそうに近づいてきた。その背後――先ほどまでハラルトが居た低い所では、一つ、また一つと、人影が少なくなってゆく。大方の獲物が、どうやら片付いたらしい。
再び、遠くの紫へ、頭を向ける。紫は、光を強めたり弱めたりしていた。
「腐敗の泉じゃないね」
いつの間にか後ろに立っていたトゥァカシーヴが、ハラルトの両肩に手を置いて言った。姉曰く、大地から湧き出す腐敗の泉とは違うらしい。
「じゃあ何?」
「わからないけど……」
問うても、トゥァカシーヴは言葉尻を濁すだけだ。この場で最も年長であるトゥァカシーヴでもわからないならば、音の正体について、誰にもわからないのだろう。
「腐敗の泉が生まれた音とか?」
スィーンが言う。だが、直後に自分のおでこへ片手を置いて、頭を真上に向けた後、閉口した。何かを考えているのだろうが、スィーンの言葉は、誰もが間違っているとわかっている筈だ。違和感を感じているのは自分達だけで、だからこそ、こうして丘の上に立っているのだから。
「おい、なんか動いてないか」
コアがピクリとも動かずに、妙な事を口走った。言葉に応じたのか、肩に置かれた手に、トゥァカシーヴの怪力が食い込む。小さい痛みに耐えながら、光の強弱を切り替える紫から目を離さずにいると、光は確かに、あっちこっちに動いては揺らめき、を繰り返している。
ハラルトの心が、騒めく。
「ねえ、あれ、見に行きたい」
「皆と離れたら危ない」
冷静なスィーンが、即座に応じた。仕事を終えた男達は獲物を引きずって、列をなして帰路を進んでゆくから、フラリと彼らから離れて、あろうことか腐敗の象徴たる紫に近づけば、スィーンの言う通り、危険極まる。しかし、ハラルトの騒めいた心は、止めようがない。
うずうずしていると、突然コアがハラルトの目の前でしゃがんだ。
「なあ、あれってさ、アンタが見た光る獣なんじゃない?」
「見たって、あれを?」
横からスィーンの顔が出てきて、ハラルトを覗き込んだ。光る獣の話は伏せておこうと思ったのだが、こうなっては仕方ない。
「光る獣が集落の近くに来てた。だから、近づいてみたの」
観念して、しかし、必要最低限だけを述べると、姉達は、頭に手をやったり、肩を強く掴んで来たり、適当な調子で槍を肩に担いで知らん顔になったりする。困惑したが、光る獣に出会った話をしていても、埒が明かない。
ハラルトは、素早くしゃがんで前に出て、肩に乗っかったトゥァカシーヴの手から逃れると、手近にあったコアの左手を掴んで、引っ張った。
「近づくだけ。皆だって、自分しか音が聞こえないからって、気になったんでしょ」
姉達は、みんなしてハラルトを見て、沈黙している。もう我慢ならなくなって、ハラルトはコアの手を少々乱暴に離し、全員から目を背ける。そして、砂の丘の下へと頭を向けた。
「行こう」
ハラルトの気持ちにすっかり置いてけぼりとなった姉達に言ってから、彼女は光へと一歩、二歩、順調に踏み出した。足取りは軽い。
間もなく、後ろから、乾燥した砂を踏みしだく音が連続して追いかけてきたから、ちょっぴり嬉しくなって、ハラルトは姉達に見えないよう、笑った。




