2.3 致死の爪痕
要添削
ウトゥピアにとって、手中で明滅する計器達は頼りがいがある。
完全に日が落ちた大地をただ只管に、明滅に従って歩くだけで目的地にたどり着けてしまうのだから、改めて確認するべくもない。それこそ、無能な民達と比べるなど、愚かしい事だとさえ、彼女は思う。
しかし、引き留める事が叶わなかった老人は、知に長け、あるいは、道徳や理屈に長けていた。だから、民の中で彼だけは例外なのかも知れない。
影と仄かな光がそこかしこを支配する腐敗した大地は、ウトゥピアにとって新鮮であるが、同時に退屈でもある。
ここまで深く退屈を意識した事こそなかったが、無尽にも思える距離を、日が落ちてからも歩き続ければ、疲労も相まって、意識せざるを得なくなってしまうものなのだろうか。
尤も、それについて考え続けた所で、この場では結論を出せそうにない。だからウトゥピアは、考えては中断するというプロセスを冗長にも繰り返していた。
無駄を心底嫌う身でありながら、繰り返してしまうのだから、疲労とは恐ろしいと評価せざるを得ない。
「フゥ――――」
ウトゥピアは、大地に対してありったけの嘆息を、投げつけるつもりで吐き出した。
相変わらず足を止める事はなかったから、太息とも言える嘆息の余韻は、多くの砂と僅かに生える草を踏みしだく音、それから、遠近を吹き乱れる無秩序な風の音に飲み込まれて消えた。
ウトゥピアが抱いたのは、悲しいという気持ちではない。
落胆したのだ。
ここは、あらゆるオブジェクトに加え、音が跋扈している。だがウトゥピアは、あらゆる要素がある様でいて、何もないと思った。
思えば空の庭園は、人の意思が形を持った様な場所なのだから、大地と比べれば、あらゆる要素があるように見えて当然なのだろう。自身も空の庭園に住まう人間なのだから、殊更である。
故にこの場所には、大地としてそうある、という単一的な事実だけが、合理性以外の一切を排除して、ただ広がっているだけなのだ。だからこそ、何もないという事実を繰り返し咀嚼しては、落胆する。
(いえ、イリオスも似た様なものなのでしょうか?)
誰が聞ける筈もないが、丁寧に、感情の起伏を一切感じさせないように気を付けて、ウトゥピアは心中で呟いた。
(もしそうなら……)
こめかみのあたりに、ピリピリとした不快な違和感を感じる。
ウトゥピアはそこに手を添えて、自問自答を潔く中断した。
もし、イリオスに自身の心を捧げる事が誤った選択だと認めてしまったら、一体どうなるのか。
どうやら自分は、人の心に疎い。そう理解しているウトゥピアでさえ、浮かんだ疑問を紐解く勇気はなかった。彼女は、自身の存在意義を見失う事に対して恐れを抱いたのだ。
しかし事態の都合はよかった。
計器は、明滅する光の色を変えて、イリオスの主に目的地への接近を知らせる。退屈をかみしめていた今のウトゥピアにとってみれば、手中で場を賑やかしてくれるだけで十分だ。
危うく彼女は頬を綻ばせそうになって、すんでのところでそれを堪えられた。
遠方から音を運んでくる大きな風の塊がひと吹きしたから、ウトゥピアの前髪が吹き上げられる。それを不快に思って、目を細めつつそちらを見れば、植物の種の様な流線形のオブジェクトが見えた。だから彼女は、退屈から解放された気分になって、珍しく、素直に喜び、小走りで近づく。
半面、大地に美徳を見出す事ができなかったと思うと、少々口惜しかった。
目的の装置は、ウトゥピアの目の前で風景と同化していた。文字通り、夜空に浮かぶ空の庭へと伸びる屈強なケーブルを見上げれば、それに異常はないと一目でわかる。
しかし、故障している事は、優秀な彼女でなくとも明白であろう。なぜなら、鼓膜をつんざく獣の悲鳴の如き稼働音が、彼女の耳に届かないのだ。
加えて何より、楕円の形をした装置の丁度ど真ん中に視線を落とせば、一体どういう訳であろうか、大きな穴が空いており、中から黒ずんだ液体が零れてしまっている。
これだけで、装置の修復は不可能だと彼女は確信した。
ウトゥピアは、垂れ流しになってしまった液体を避けて、装置に残る致命傷の痕跡に触れる。少々不用心だとは思ったが、無駄足になる位なら、できる事は全てやるつもりだ。そして今、既に壊れてしまった装置を前にして彼女ができる事といえば、機能の復旧ではない。
一体『何』が装置に大穴を穿ち、破壊してしまったのか、原因を突き止める事である。
(強力な負荷が一点にかかっていますね)
分厚い外板に穿たれた大穴の淵。その上で掌を滑らせながら、ウトゥピアは装置の中身に目を凝らす。
見た所、穴の淵は獣の牙のように鋭く、内側へと向いている。中身にも、ぽっかりと大穴が開いていた。
水色の外板を掌でなぞりながら装置の裏側へと回れば、大穴の丁度正反対は、内部から強い力で押されたのか、外側へ向かって隆起していた。
(これほどまでに強靭な外板を、外側から……?)
正面の大穴、内部機構にも同じく、大穴。そして、それらの直線状、つまり裏側の外板の隆起。
全てを見れば、ある程度の判断は容易だ。装置は、正面から非常に強力な力を一点に受け、結果として故障してしまった様である。
装置を設計したのは、ウトゥピア自身だ。であるから、どれほどの力がかかったのか、彼女が想像するには容易かった。
ウトゥピアは、静かに装置から手を引く。外板を撫ぜた際にこびりついた砂埃を指先でこねるように落としつつ、彼女は目を目を瞑った。
(強力な太古の力を操れる人物がいる? あるいは……)
偶然ではない。恣意的に振るわれた力によって、壊れている。破壊しようとする意思さえも、イリオスに住む人々にとっては恣意的だ。
だが、大地に住まう人々は、装置を打ち壊す力を持ち合わせていない。
つまり――。
ウトゥピアが次の思考に取り掛かろうとした次の瞬間の事。
握られた計器が、低くて騒々しい発振音をばら撒いた。
その音は、持ち主に腐敗の存在を知らせるものだ。腐敗が近くなるに連れて、音は大きく、短い間隔で鳴る。そして、埋め込まれた針が大きく振れていれば、腐敗の濃度が高いとわかる。
――発振音の間隔が、短くなる。
ウトゥピアの眉間に集まっていた小さい皺はすぐに散らばって、瞑られた瞼は大きく開かれた。
――発信音の間隔が、更に短くなる。
彼女は、計器など見ていない。音からわかる情報だけで十二分だったからだ。
――発信音は、とうとう間隔を失う。
繰り返される騒音は、前後が完全に繋がる事で、一つの大きな騒音となった。
計器は、自らの役割を終える。それを理解したから、彼女は計器を持つ手の握力を、ゼロにした。
伴って、計器は地面に落下して、カサリと、砂をほんの少しかき分けたであろう頼りない音がする。
空気からは、湿気を全く感じとれない。カラカラに乾ききっており、それでもまだ足りぬと、ウトゥピアの肌を撫ぜ回して、水分を奪い去ろうとする。
鬱陶しさでいえば、ジメジメしたそれと同じ位だ。それでも彼女は、身震いもしなければ、表情を変える事も一切しなかった。
勿論、彼女が不快をものともしない、あるいは、感じ取る事が出来ない程に鈍感な訳ではない。『それ』が背後にいると思うから、隙を見せられないのだ。
頑強な装置を、恐らくは一呼吸の内に破壊したのであろう『それ』が、背後にいるから。
長い。
実際には、そこまで長くないのかもしれない。
しかしウトゥピアは、延々と鳴り響く騒音と、極限の緊張感からか、『それ』の存在を気取ってから今までを、長いと感じてしまった。
水色の装置を背にすれば、『それ』の正体はすぐにわかる。だが、安易に振り向けば、眼前の装置の如く、大きな穴を空けられてしまうかも知れない。
それこそ、穿孔程度で済むならば、まだ良い方だろう。
だからウトゥピアは、大きな動きを見せぬよう、慎重に、静かに、たっぷりの時間をかけて、体全体で振り向く。
まるで自然の一部かのように。
まるで獣に睨まれた哀れな獲物の、最後の刹那のように。
そして彼女は、どす黒い睥睨を見た。
「ッ…………!!」
息が、僅かの間だけ、止まった。
ウトゥピアの五~六メートル先――真正面には、深い夜の色をした瞳が並んでいる。獲物の音を鋭敏に捉える鋭い二本の耳は、どちらも天へと向き、長く伸びた鼻先は、先端だけでも、彼女の頭程の大きさがあった。
顔の真横まで広く裂けた、地獄の底の様な口。そこから覗く牙の全ては、凶悪な鋭さをもって、捕食者の存在感を十分に発揮している。
巨大な体を支える四本の脚は、獲物だけでなく、大地すらをも蹂躙できるだろうし、静かに揺らめく尾は、一なぎで大気を切り刻める筈だ。
彼女の眼前にいたのは、紛れもなく、屈強で慈悲の無い獣だった。
純白の剛毛を身に纏う、巨大な獣。彼女はそれによく似た獣を知っている。
「狼……?」
ウトゥピアが生まれるずっと前に死に絶えてしまった、狼という名の獣を、彼女は本から得た知識で知っていた。
大きさこそ記述とは違うものの、今にも飛び掛かってきそうな雰囲気を身に纏う真っ白い獣の形は、本に記載された絵とまるきり同じなのだ。
加えて、悪い事にその獣は、恐らく肉を好む。
(――!)
首から背中まで何かに撫ぜられたように、ゾクリとする。そしてウトゥピアは、肌が固くなって、全ての体毛を逆立たせようとする動物的な部分が自身にも残っていたのだと実感した。
刹那の事だった。
白い獣は裂けた地獄の穴を大きく開き、鋭い得物をウトゥピアへ見せつけるようにした。
「ここで死ぬわけには……!」
直観的に危険を知らせるシグナルが、ウトゥピアの全身を乗っ取ろうとする。しかし、人類で最も優秀な彼女は、理性をもってそれを阻止した。
内部から止めどなく湧き出して、やがて見境なく溢れ出して、外に零れ落ちたそれが周囲を埋め尽くすイメージが、ウトゥピアの脳を支配する。どういう訳か、液体とも個体とも言えない光るそれ――紫色の物質をイメージする事で、自身に宿る太古の力を、彼女は操る。
おぞましい睥睨を真正面から受け止めて、彼女は獣の口中を凝視した。そして深く息を吸って止める――。
「フッ!!」
吸い込んだ息を一遍に吐き出すと同時に、ウトゥピアの一歩前に、彼女を包み込める程度の大きさがある透明の球体が現れて、周囲の大気をかき乱す。球体は目視できないが、周囲の砂や埃を巻き上げて、しかし、内部への侵入は阻むから、巻き上がったゴミが、彼女の発生させた力の輪郭を、球という形に浮き上がらせるのだ。
一呼吸分の間断を置いて、球体はウトゥピアの思い通りに動き出す。動くと言っても、進行方向の空気を一瞬でかき分けて、その反力からか、彼女が立つ側に凄まじい風圧をぶつける程の速度で、だ。
進行方向には、白い獣の大きな口がある。であるから、彼女の想定通り、最短距離の軌道で、球体は開かれた獣の口中に、速度を殺さず飛び込んだ。
太古の力は、万物の干渉を些末なものだと嘲る。故に、対抗するには相応の力の規模が必要なのだ――。
ズン! と、腹の底を抉り取る、重く、深く、低い轟音が、球体の着弾地点――獣の口中の、上顎側を中心として、ウトゥピアに届いた。
僅かに遅れて、風圧に巻き込まれた砂埃が着弾地点に殺到し、彼女から獣の姿は全く見えなくなってしまう。
直後に降り注ぐ少しばかりの砂埃。無数のそれを一身に浴びつつ、ウトゥピアは力の使い方について少しだけ考えて、苦笑した。
側近がこれだけを切り取って見れば、極めて無駄な力の使い方だと、彼女に批判するだろう。だが、彼女自身は、イリオスという人類の楽園を、ひいては、人類を継続させる責務を負っている。そんな大それた事が可能であるのは彼女だけなのだ、背景を考慮すれば、自身の命を保護する為に力を行使するのは、誰よりも理にかなっている筈である。
眼前で散らかる砂埃と、吹き暴れる爆風の余韻が席巻するとりとめのない光景に正当性を見出して、ウトゥピアは音にならない溜息を漏らした。
そう、この行為は理にかなっているのだ。
降ってくる歓楽をただ咥えるだけの人々は、下らない事で一喜一憂し、満足するまで歓楽を貪り尽した一部の人々は、刺激を得んが為に、この光景を進んで求めている。
イリオスには、満たされたいが為のないものねだりが蔓延っているのだ。絶対的な平和の中で腐りつつある彼らの誰一人として、共同体の生命を案ずる者はいない。
故に彼らは、この行為が如何に道理にかなっているのかを理解出来ない。全ては自らの欲望を満たす為にあると考える彼らに、理解できる訳がない。
そう考えると、なぜだかウトゥピアは、自身の命と人々の未来を守る為に力を行使した事を、素直に喜べなかった。
唯一残ったのは、いつもと変わらない孤独に打ちひしがれる、いつもと変わらない虚しい心。
――――それから、死んだ筈の、聳える白い巨体。
場を覆い尽くす砂埃は、ほとんどが地へと舞い降り、相変わらず白い獣は動じる事なく鎮座している。力の質と総量を鑑みても、莫大であった筈であるのに。
「こいつ……!!」
逢着時から健在の獣に対して、つい雑な言葉を吐き捨ててしまったが、雑然と広がる大地はすぐに、全てを吸い込んで閉じ込めた。
だが今は、それどころではない。
ウトゥピアの生命を脅かす白い獣が、今度は裂け広がる口を力いっぱい噛みしめて、ギリギリと音を立てている。そして見るからに底の深い敵意を表すように、グゥゥゥゥ! と、先ほどの爆風よりも重厚な音で唸り始めた。
獣の背後に浮かぶ煌々とした月は、白い獣の表情に影を作り、獣のおぞましさを引き立たせる。そして、大地の彼方に薄っすらと浮かぶ腐敗の紫は、地上の穢れを主張し続けていた。
止まってしまったと思われた時間は、死なない事への安堵より、極限の精神疲弊をウトゥピアに科し続ける。全ての要素は、ウトゥピアに忌々しいという情念を生ませた。
心に纏わりつくそれは、やがて彼女に怒りを感じさせる。目まぐるしく肥大してゆく怒りは、普段から情を殺すように努めている彼女自身でも、抑えようがなかった。
激情は、ウトゥピアの頭を狂わせる。
今日この場所に来てしまった運命が忌々しいのか、孤独が忌々しいのか、あるいは、生きている事そのものが忌々しいのか。もう彼女には、判断がつけられない。
しかし、その全ては、獣に関係のない話であろう。
――獣以外の全てが、静謐に包まれた。
蹂躙する者の前足が、見るからに頑強そうな爪を大地に押し付け、巨体の前傾を支える。次の瞬間には、白い毛の一本一本が生きているかの如く逆立ちはじめ、ほどなくして、ついにその全てから圧倒的な殺気を感じられるようになってしまった。
(来る!!)
彼女の確信は、すぐさま現実へと移行した。獣は強烈な爆音と音圧を生み出し、大地は容易く抉り取られる。
屈強な両脚を中心として、巨大な獣の全高を遥かに超えて舞う、砂埃。当然ながら、先ほどウトゥピアが起こしたそれとは比べ物にならない規模だ。
立ち上る煙の様な砂埃をウトゥピアが目撃したのは、一瞬の事である。とんでもない速度でもって、獣は大気を乱暴に押し潰し、巨大な牙を一直線に突き立てようと彼女に飛び込んできた。
圧倒的な暴力と表現して良い。
だが、全ては予期出来た事だ。
ウトゥピアは、獣よりも一歩先に食らいついてきた暴風とも呼べる風を受けても怯まずに、目を見開き続ける。そして、右の腕を真横に突き出して、掌に全身全霊の力を込めた。
もう、数瞬の猶予もあり得ない。
だから彼女は一切の逡巡なく、ただ愚直に、突き出した掌から壁とも呼べる力の塊を解き放つ。その反力は、華奢なウトゥピアを瞬間的に動かすならば、絶大といえよう。
ウトゥピアの体は一直線に迫る致命の凶器に対して、まるでおもちゃの如く、水平に吹き飛んだ。
空を舞うように吹き飛ぶ刹那、彼女は自身の立っていた地点を視界に入れ込む。するとそこには、自分が放った強烈な壁に砕かれて舞い散る砂の塊があった。直後に、獣の両脚と大きな頭部が、彼女の視界に横滑りしてくる。
それが生み出す結果は、圧巻だった。
獣の両脚は、着地の衝撃だけでウトゥピアの巻き上げた砂の塊を全て粉砕して、より巨大な砂の柱を作り上げる。破壊力を語るには十分だ。更に、砂の柱越しには、どす黒い瞳に宿る殺気が、獲物の血を欲する衝動に耐えられないといった調子で睨み付けてくる。
早い段階で予期していなかったら、どんなに恐ろしい結果を招いていただろう。そう考えると、殊更に恐ろしい――。
たっぷりと滞空してから、ウトゥピアは柔らかい砂上に両足で着地する。力を使えば、衝撃を楽にいなすのは容易かった。
そうしながら彼女は、耳を覆いたくなる唸り声を上げる獣から、少したりとも目を離さず、警戒し続ける。脅威の脚力から生み出される速度と破壊力は、人体を壊すには過ぎた性能だ。
純白の獣。おぞましい、獣。そう意識するだけで、ウトゥピアの全身を極限の緊張が絶え間なく締め付けて来る。
切迫した状況であるからか、ウトゥピアの空虚な心は、先ほどにも増して、生への執着を強めた。
(ここで死ぬわけにはいかない)
誰が待っている訳でもないと、彼女は知っている。イリオスの民達は、誰かから救われる高尚さを持ち合わせていないと、彼女は知っている。
それでも彼女は、生きていなければならないと、知っている。
イリオスの民は、女王が死んだと知れば、欲望の庭を統べる代替を用意するだけだろう。しかし、高級の楽園を維持し続けられるのは、紛れもなくウトゥピアだけなのだ。
(生きて帰らなければいけない)
母から与えられた使命を、自身の存在意義を、獣如きに奪われてはならない――。
弱弱しい風が、ウトゥピアの髪にいたずらをする。彼女はそれを完全に無視して、弱弱しさとは正反対にある、強烈な生への執着から生まれた、猛り狂う力を四肢へと送り込んだ。
腕が、脚が、人という枠組みから離脱してゆく感覚。強烈な暴力の塊に対抗するには、人であるという事は枷となるのだ。
月明りを飲み込む真っ黒い獣の瞳が、淀みを増す。凶悪な純白の四脚はそれに呼応して、蹂躙者のおぞましい巨体をゆっくりと、ウトゥピアの方へと向けた。
生命の削りあい。
腐敗した大地は、まるでこの場にいる全てを静かに見守っているように感じられる。だからウトゥピアは、この過酷な環境が白々しく見えた。
すぐに轟音と衝撃が、白々しい大地に食い込んだ。ウトゥピアに休む暇など存在しない。獣は先ほどと全く同じく、最短距離を驚くべき速度で移動する。圧倒的速度故に距離を把握する等ほとんど無意味であり、彼女が確認できたのは、月明りを吸い込むような真っ黒い影の尾と、強靭な前足が直線軌道上で、一度だけ大地に接触し、巨体を更に加速させたという点のみだった。
だから彼女は、避ける。最短距離で飛び込んでくる獣の鼻先へと、彼女は踏み込む。
体は自然と動いていた。恐らくは獣の初動よりもほんの僅か程遅れただろうが、問題はない。獣の速度は尋常ではないが、見えない訳ではないのだ。加えて、彼女は力を四肢へと送り込む事で、人体を凌駕した性能を発揮している。
結果として、ウトゥピアは移動するべき点まで、瞬きをする暇もなく到達できた。
彼女が移動したのは、獣の巨大な鼻先だ。
「ッアア!」
獣のそれよりか、幾らも劣る短い唸りを、ウトゥピアは絞り出した。それとほぼ同時のタイミングで、右の拳を獣の鼻先、その真上へと強引かつ乱暴に突き立てる。直後に、音が止まった。集中力が、尋常でなく高まっている。視界も、これまでに体験した事がない位に遅くなって、彼女の次の行動を補佐した。
巨大な鼻先を捉える、突き立てた右の拳から、目線だけを上へと移動させる。彼女が見据えたのは、双の暗澹の、ど真ん中。
――つまり、獣の眉間を、彼女は捉えた。
直進する獣の鼻先が、ウトゥピアの拳を、彼女の体ごと、強引に進行方向へと流そうとするが、彼女は強烈な力を、体を一ひねりさせる事で至極危なっかしくいなし、獣の眉間を睨み付ける。そして、左の腕をそこへと伸ばし、掌を大きく広げて力を込めた。
だから、すぐさまそれは放たれた。
無造作に、遠慮なく、全身全霊、全力を込めて、直ぐそこに迫った純白の眉間へと、まるで剣のように鋭い力の塊を、ウトゥピアは放ったのだ。
獣の速度は尋常でない。そして、放った鋭角の力の塊の速度も、同じくである。であるから、僅かに鋭い輪郭が浮き上がる半透明な鋭い塊は、容赦なく獣の眉間を貫いた。ウトゥピアがそれを見たのは一瞬の事で、直後に彼女の華奢な体は、獣の眉間に衝突して、あっけなく吹き飛ばされてしまった。
衝突の衝撃で、ウトゥピアの視界は真っ黒に染まる。妙な浮遊感をしばらく感じた後に、彼女は頭の奥底に響く、かなり甲高い金属音を聞いた。




