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始まり乱舞

 いつ建てられ、いつに朽ち果ててしまったのか忘れさられた闘技場の深部。広がる空洞の更に奥に座していたもの。

 白銀の巨体を重たげに身じろぎを一つした。いつから眠りについていたのか其れには分からなかった。ただ、微かに感じた異変に目を開いただけなのかもしれなかった。金色と灰色の色違いの瞳にぼんやりとした何かが映っていた。目覚めたばかりで焦点が合わなかった。己より小さき存在は人。人は二人、同じ闇色の衣服にすべての身を包んでいた。

「白銀の悪魔と謳われた竜……本当に居たのか」

 呟いた人は年若い青年。少年という年齢を抜け出し青年と呼び始められたばかりなのだろうか、どこか飄々とどこか冷酷に呟いていた。竜は見えるようになった瞳で興味深そうに青年の顔をのぞいた。決して近づけるでもなくただただその場から動かずに覗いていた。

 懐かしい気配。しかし、これは雄――あれは雌だったはず。

 じっと見つめる瞳に青年が気がついたように肩をすくめて見せた。笑ったのだろうか、青年の微かに揺らいだ気配に竜は小首を傾げて見せた。もう一人の人は気配が読めなかった。竜には男か女かすらも理解できないで居た。

 青年が竜から視線を外し辺りを調べ始めた。竜に攻撃意思がないのを確認してから、丁寧にゆっくりと調べ始めた。

 竜には一体、青年が何を始めたのかが分からなかった。もう一人は音もなく尾の側にある岩に座りこみ、じっと竜を見上げていた。竜は青年が何をするのか分からずに行動を見守っていた。

 ふと奥がにわかに騒がしく感じた。竜の正面に続く道の奥に何があったか、竜は思い返していた。そして、思い返すとほんの昔の記憶も一緒に甦った。

 砂埃が舞い上がり埃っぽい空気を肺にため、思い切り吐き出した。竜の口腔から放たれたのは紫電。悲鳴と肉の焼ける臭いが辺りを支配していた。竜の後ろには全てを飲み込もうとする荒野の闇と異形の同胞。それらを統率するようにくすんだ鉄を身にまとう人も居た。

 竜の正面には鬨の声を上げ生きようとする者たちの緑豊かな光と目も覚めるような輝く鋼に身を包む人と色鮮やかな獣の波。竜は獣の波を思い出すと苛立った。何もかもを壊したい衝動に駆られた。

 獣の名はなんといったか。対極とはいえ同じ神に作られたはず。

 記憶から甦った苛立ちは竜の身体を起こさせた。青年は突然のことに驚き身を近くの岩場に潜めた。奥から人の波が押し寄せてきた、そう竜の瞳には映っていた。息を吸い込み四肢を踏みとどまらせ、なぎ払うように息を吐いた。

 記憶と同じ紫電の束が空洞の壁を穿ち抜いていった。それでも怒りは収まらなかった狂ったように叫ぶ声に地上に轟いていた雷が応じた。地面を何度もえぐり続けやがて竜の座していた場所にまで届いた。

 竜は折りたたんでいた翼を孕ませ、空気を打った。突風に二人の人の身体が浮かび上がり流されそうになったが一瞬早く、岩を掴みその場に留まった。風が収まった頃には竜の姿は遥か空の上に小さく見えた。

 青年の瞳は先ほどの雷と同じ紫電の色を持っていた。その瞳は飛び去った竜の白銀の姿を捉え続けていた。しかし、もう一人の人は何事もなかったかのように竜の居た場所へと足を進めていた。

「色分かつ神に愛されなかった竜。幻獣の様に、精霊のように生み出すことをせずただ破壊を尽くす。故に対なす神に愛され謳われる。『白銀の悪魔よ、総てを多い尽くせ』と。いやいや、恐ろしい威力だ」

 青年はフードをかぶり直す仕草をすると、同じように竜の居た場所に立ち、じっと地面を見下ろした。

 竜の腹の下にあったのはレリーフ。天秤とその周りを囲むように五つの小さな穴と天秤のはかりにそれぞれ同じような穴があった。しかし青年は落胆したようにため息をついた。

「そうそうと期待するものじゃないらしいな」

「そうだ、元素により一つずつ。そして一人ずつ使役者が居る。同じ種族かも知れない、違う種族かもしれない……兄弟にて一つずつやも知れない。こればかりは誰にも分からん。使い手と呼ばれる者たちがどのような人生を送りどのように過ごしたかなどの記録も何もない。そして、彼もだ」

 初めて口を開いたもう一人の人は女。中性的とも取れる声だったが冷たい雪を思わせる声は確かに女の声だった。

「貴様の主たちが望むものを叶えるとするなら、彼と鍵が必要だ。連れて帰れ、それが出来なければ使い手と思しき者を連れて来い」

「偉そうに」

 青年の声質が一気に下がった。寒気が走るほどの冷たい声に彼女は僅かに肌があわ立つのを感じた。

「言うな、私とて貴重な人材を送り出すには心を痛めている。それに、竜までもが飛び立つとは思わなかった」

「ほお、あれはあんたのペットか何かか?」

 冷たい声のまま青年が茶化すように呟いたが、女は答えなかった。

「貴様は優先事項だけを覚えておけ」

「クロウ・ルシードと呼ばれる男を探し出し連れてくること、力に抜きん出た者を連れてくること、宝玉を集めること……で、いいんだろ?」

「そうだ。鍵は伝説ではない確かに存在し、扱われるのを待っている。そうだな、貴様にいい祈りを教えてやろう。『光の神サンチェシカよ』と……」

 女の呟きは青年の身体にどこか活力を与え、心地良くさせていた。彼がその意味を知ることになるには長い年月が必要だったが。



 第六大陸ディアン、ヨーシュアの大森林。森は深く暗い。原生林と変わらないこの場所には沈黙。地面は地表まで盛り上がった木の根が複雑に絡み合い、連日降った雨せいで土が粘土状になっていた。

 別名帰らずの森と呼ばれるこの森に訪れるものはいなかった。そう、あくまで“いなかった”だ。

 ヨーシュアの森の中央にはいつ建てられたとも知られぬ小さな石組みの祭壇があった。祭壇には一つの言い伝えがあった。七大陸創生の時代、有の神から出でた闇の獣が己を生み出した神を敬い、人の立ち入らぬこの森の中央に祭壇を築き上げたと。

 ぱしゃっと小さく水がはねた。祭壇の正面に位置する小さな獣道の奥から一人の男が現れた。男の背は高く金色の短い髪とエルフィンと呼ばれる種族独特の空に向かう長い耳が月明かりにさらされ浮かび上がっていた。

 周囲を警戒するように男がゆっくりと祭壇へ近づいていく。一歩ずつ進むごとに粘つく泥が男の歩みを邪魔していた。しかし、男が祭壇まであと数歩と言うところで足を止めた。音もなく喉元へ突きつけられた漆黒の剣に気がついたためだ。

「先客が居るとは……驚いたな」

 半歩だけ下がり剣から離れると同時に口を開いた。低くも良く通る声だ。

「そうかな。ここに訪れる冒険者がいたことに私は驚きを覚えたが」

 祭壇から声が聞こえてきた。漆黒の剣が男の喉元から離れると祭壇からもう一人、男が姿を現した。剣を持つ男の方が金髪の男より背は低い、しかし得も言えぬ迫力があった。

 その迫力のまま漆黒の剣の男が月明かりの元に姿をさらした。ダークグレイのフルプレートに肩口より少し長い赤茶色の髪。そして、金髪の男が僅かに驚いたのはその顔立ちだった。幼い――まだ十四、十五といったところだろうか。

「男、こんな場所にまで何用だ。見ての通り、この場所にはあの小さな祭壇一つが風雨に晒されてあるだけだ」

 漆黒の剣を持つ少年の言葉は、金髪の男よりも遥かに年齢を感じさせるものだった。

「その、ようだな。一つは諦めるさ」

 金髪の男は視線をじっと少年へと注いでいた。

「だが、もう一つは果たせそうだ。クロウ・ルシード……」

 金髪の男が名前を呼ぶと少年クロウ・ルシードは漆黒の剣を男へ突きつけなおした。高まる警戒心にあわせ空気が一層緊張したものへと変わっていった。沈黙が重たい枷をつくり、悪戯気に笑みを浮かべた男の真意を測るのに邪魔をしていた。

「……私に、何の用か」

 呟きながらも少年の剣が僅かに震えたのを男は見逃さなかった。空気と同等にまで己の気配を消し去る少年が見せた動揺は男にとって価値があるものだった。

 男が少年について知っている情報は数少なかった。もとより、その情報提供者も一体どんな目的で少年を必要としているのかも知らなかった。興味も持ってはいなかった……出会うその瞬間までは。

「ある人物がお前さんを探している。そして、連れて帰れとも……」

「っ……」

 男の言葉に今度こそガチャリと剣を鳴らし動揺を明らかに見せた。視線を男から外し唇を噛み、何かを呟いた。しかし、男には言葉は聞こえなかった。

「ここまで探しに来てもらい悪いが……私にはその資格がない。そう、伝えてもらいたい」

 漆黒の剣が男の体から完全に離れ、ゆっくりと主の傍らへと戻った。力なく佇む姿には男を圧倒させていた迫力は身を潜め、小さな子供がひっそりと泣いてしまうように見えた。

 ゆっくりと泥濘の中、踵を返し消えてしまいそうな少年の背中を男は掴んだ。

「言っただろう、“連れて帰れと言われている”と……」

「従わなければ力ずくと言うところか。身の程を知れ。私を拘束できるのはただ一つだ」

 影を潜めていたはずの迫力が戻り、思わず男は少年の小さな肩から手を放した。

「クロウ、お前さんを連れて帰るのも一つの仕事だ。悪いが――連れて行くッ」

 男は自分に言い聞かせるように強く言うと、クロウの鎧に覆われていない首筋へと鋭い手刀を叩き込んだ。しかし、男の手には何の感触も与えられなかった。近距離からの一撃をあっさりとかわされた。

 男には少なからず言った言葉を実行させるだけの自信はあった。己に付けられた二つ名に賭けて。『暗殺者』として、目の前にいる幼い少年を沈黙させるだけの自信と力。だが、実際にはどうだ? クロウ・ルシードの首筋に叩き込まれるはずだった手刀は彼の髪の毛一房にも触れられなかった。それどころではない、少年の姿が消えていた。完全に見失った。

「男、私を知るは名前だけか? それなら、守護者としての役目を果たさせてもらう」

 クロウの声は空から降ってきていた。漆黒の剣を突き立てるように構え、真っ直ぐに男の頭上へと落ちてきていた。男は飛び退こうと地面を蹴ったがぬかるみで半瞬遅れ、右の大腿部に熱が集中したのを感じた。

「立ち去れ、いかに優れた人物でも私を無力化することはできない」

 地面から剣を抜き、泥を払うクロウに男を殺すことに躊躇いがないことだけを示した。しかし、それでも男は怯む様子も逃げ出そうとする様子も見せず微かに笑った。

「何がおかしい」

「いいや、お前さんが強いってことが嬉しいんだろうさ」

 抜かせてもらうぞ、と断りを入れてから男が金属製の環を取り出した。月の光を受けて光る環にクロウは怪訝そうな表情を浮かべていた。

「チャクラムって奴さ。オレの愛用品ってところだな」

 直径三十セムほどの環を男は指先で器用に回し始めた。風を切る音が聞こえるとチャクラムは弧を描きながらクロウをめがけ、飛んでいた。初めて相手にする武器だったが少年の対応は単純だった。通り過ぎるだろう位置から左の方向へ動いた。男の攻撃がまさかこれだけで終わりではないだろうかと、考えるよりもふっと目の前に姿を現した男の長い足が顔面へと伸びてきていた。

「ぐっ……」

 慌てて両腕で顔をかばうが衝撃まで吸収することはできずに弾き飛ばされた。視界が白くなり男の姿を完全に見失った。強い、少年は男に対しての認識を切り替えた。自分を連れて帰るだのと言ってはいたが、そうさせない自信ももちろんあった。クロウ・ルシード、少年は自分の名前を心の中で反芻していた。誰に与えられた名なのかも。

 気合を入れなおし、開き始めた視界の隅に男の姿を捉えた。漆黒の剣を構えなおし右下から左上へと一気に振り抜いた。男の体が剣の軌跡の通りに切り裂かれた。

「がっかりさせないでくれよ」

 左耳に男の声がやけに響いた。驚くよりも早くクロウの体は宙を舞っていた。流れる景色で自分がどの方向へ飛ばされているかをつなげた。このままなら、祭壇へと叩きつけられる。少年は剣を地面に突き立て勢いを殺すが、男はそれを許さなかった。常人には考えられない速さで踏み込み、漆黒の剣を蹴り払い飛ばした。鎧の重さのせいで前のめりに倒れるが両手を地面につけ、横へと転がり追撃をかわした。

 男の気配が読みにくい。クロウは素直に思った。男にとって一連の攻撃は当たり前なことと言うべきか。

 男の手に戻っていたチャクラムが再び風を切った。男が走り出すのがほぼ同時、少年の目には確かに映っていた。しかし、男が微かに飛び込むように走ると消えうせていた。

「速いっ」

 気配だけを感じ距離を開けようと斜め後ろへ飛ぶが、飛んでいたチャクラムが角度を変え、男の手の中へと戻ろうとしていた。それに少年は気がつかなかった。鎧に覆われていない腕にチャクラムがなぞる様に駆けていった。

 鉄の輪についた鮮血が辺りへ飛び散り、持ち主の手の中へと戻った。

「速いだけじゃないつもりなんだがね」

 追い詰められると確信を得た男が小振りの剣を抜いた。クロウの動きが鈍り傷へ手を当てる隙に距離を詰めなおし、何処からか取り出した紙切れを自らの剣にまきつけた。

「プライム・ケヴィ」

 抑揚の無い男の言葉が終わると剣が紫色の光を帯びた。紫色の小さな剣と闇色の鎧が高らかに鳴りあわさった。一瞬を待たずにクロウの体に雷が奔った。声にならない叫び声に漆黒の剣が落ちた。

 そして、微かにそよいだ風が抜けるとクロウ・ルシードの体が泥の中へと落ちた。

 倒れた……私が?  く、体が動かない。いったいあの男は何なのだ――

 痙攣を起こしている少年の側に男がしゃがみこんで様子を伺ってきた。

「どうだい、簡易付加魔術も侮れないもんだろ?」

 トスッと音を立てて紫色の剣が少年の目の前に突きつけられた。魔術独特の雷光の色を見たクロウは良く回らない舌先で言葉を唱えていた。唱えられている言葉は男の知らない言葉だった。初めて聴く歌うような韻律がやむとクロウの体が何事もなかったように動き始めた。地面にしっかりと立ち転がり落ちてしまった漆黒の剣を大事そうに拾い上げ、丁寧に泥を拭っていた。

「驚いた、倒されたということもそうだが……今のはなんと言う?」

「あ?」

 思わぬ言葉に男が素っ頓狂な声をあげた。いや、どちらかといえば質問の意味が分からなかった、と言ったところだ。

「ただの鋼に精霊の欠片を宿すか……」

 少年の表情に幾分か年相応の好奇の色が現れていた。しかし、それも直ぐに影を潜めた。

「しかし、私にできることがあるとすれば、守護者としての役目を全うすること。男、お前の強さは私にとって危険なようだ……全力で向かわせてもらう」

 少年の姿勢が真っ直ぐに、やや開いた体勢を作った。まるで儀式や演舞を始める前の立ち姿。漆黒の剣を片手に持ちゆっくりと己の眼前へと持ち上げ僅かな瞑想をはじめた。

 隙だらけとも見える立ち姿だったが男は、少年から立ち上る異様な気配に動けないでいた。まるで心臓をつかまれたように胸が痛みを訴え、肺が酸素を拒むように男の息を荒げさせていた。

 危険なのは、オレも同じってところじゃないのか。

 始めは依頼通りに連れて帰ることを念頭に置いたまま戦っていた。しかし、それはクロウも同じだったと気がつかされた。使命らしきものを全うするためだけにクロウは好んで人の命を奪おうとはしなかっただけだ。男と少年の目的は違えど互いに命を取り合うまでは考えていなかった。

 少年の瞑想が終われば命の取り合いになる。引くべきか……そこらの渡り鳥たちを相手にするのとは違う次元。

 男の躊躇いはクロウの瞑想が終わるまでのほんの二、三秒までの時間を与えてしまった。

『真なる王の加護を受け、甦れ。我が神名しんめいにより汝らに命を再び。我が名はクロウ・ルシードッ、汝らの王を作り出し神の名を血に刻むもの。応えよ、風の騎士ヴァレイド、闇の従者ディナン!』

 瞑想ではなかった、小さすぎて聞き取れなかった詠唱。闇の深い森が悲鳴を上げた。少年を中心として舞い上がる風に木々の先にあった若い葉や枝が耐え切れずに千切れ飛んだ。

 収まる気配は欠片も見えなかった。男は躊躇ったことを悔やんだ。辿り着いた結論を実行するにも覚悟が必要だった。しかし、男は生きるための覚悟を決めた。ゆっくりと深呼吸を繰り返し、萎縮している体を解していた。

 森が悲鳴を上げつかれたか、訪れた一瞬の静寂を皮切りに、双方が動いた。

 漆黒だった剣が僅かに緑色を帯びていたのに気がついたのは剣を打ち合わせた瞬間。男は自ら体を沈ませ、ぐらついた少年の細い軸足を払った。普通ならば地面へと体がぶつかるはずだがクロウの体は風を受けた木の葉のように綺麗に空中で弧を描き着地した。

 男の背に冷たい汗が流れた。

 嫌な感じだ……考える男の心臓に向かいクロウの鋭い突きが伸びてきた。狙い違わずの一撃に男の体が大きく揺れた。しかし、クロウの手に伝わってきたのは男を貫いた感触ではなかった。硬い金属にあたった独特の痺れ。

 男の衣服の下、身軽さを信条とする盗賊たちと反する鋼の鎧。しかし、その鎧に漆黒の切っ先が僅かに突き刺さっていた。男は軽く舌打ちをしながらも自分の認識が間違っていないことだけを確信していた。

 生き残るために命を賭ける、それしかない。

 手早く使い物にならなくなった上着と鎧を外し、更に身軽になった男は近くにあった木の上へと登った。空の闇が僅かに薄くなってきていた。

 全身のバネを使い男が飛ぶのと風の音が重なった。少年の鋭い一撃が子供の胴体ほどある枝を切り裂いた。一瞬の判断が遅ければ男の胴体が地面に落下した枝と同じ運命をたどっていた。だが足首に刺さるような痛みだけは現実だった。

 避けきったと思えた一撃の先が男の左足を浅くも切り裂いていた。男が生きてきてこれた証は両足にある神速だった、クロウはそれを見抜いていた。

「今の私に全てが通用すると思うな」

 決して男を軽んじての言葉ではなかった。男を見つめる視線には警戒しかなかった。自分が優位に立ったという自信も見当たらない。ただただ男の動向を注意深く見つめているだけだ。そして、組み立てていた。どうやって侵入者を断罪するかを。

 男も同じだった。目の前に立つ自分よりも幼い子供に対して警戒していた。少年がどう動くか、どう切り返してくるかを考えていた。

 そして、一つだけ気がついたことがあった。あの時、クロウは危惧していた。今もそれを庇うように動いていた。もし、考えが当たっていれば男の勝機、いや逃げるための好機を作れるかどうかの賭けになりそうだった。

光の神サンチェシカよ……』

 男が不意に漏らした祈りの言葉に少年は驚いた。瞬間、男は地面を蹴っていた。クロウは男の姿が消えたのに気がつき、後ろを振り返った。男の姿が自分と祭壇の間にあった。

 間に合えっ。

 クロウの周りにあった風が男を捕らえた。何かに引き止められるように失速した男は失敗を認め自らクロウの正面へと飛び戻った。双方の息が乱れ始めていた。しかし、どうしたことか男の衣服のあちらこちらが微かに焦げたように穴が開いていた。男はピリピリと痛む腕へ僅かに視線を移した。酸に触れたように火傷を負っていた。さっきまでは何もなかったはずだ。男がクロウの周りを離れない風へと視線を移した。目を凝らしてみるとうっすらとだが霧のようなものが見えた。深い緑色の霧は闇に解けて見えにくくなっていた。

「毒霧か……?」

 男は見たこともない霧の正体を考えた。風によって捉えられたあとに負った火傷。霧状の酸が触れたとなれば答えは至極簡単になる。

「毒というよりかは酸だ。闇は侵食。操れる精霊は僅か……」

 クロウから初めての先手。小さく手首だけを使ったしなやかな斬撃に男が押され始めた。一歩、二歩と前に出ようと思っても止まらない攻撃を躱すだけで精一杯になっていてた。前に進めないというだけではなかった。男の頬や細い金色の髪に漆黒の剣が触れるのだ。

 同じ場所に留まることのできない状況に男は苛立ちを覚える反面、期待を膨らませてもいた。逃げるのはやめだ。

 大きく男は少年との距離を取り直し、チャクラムを取り出した。

『光の神よ』

 祈りの言葉を唇からチャクラムへと移した。男の手から離れ、クロウの目の前で眩く光を放った。いや、違った。クロウの眼前で空に舞い上がり朝日を刃一身に受けて光を乱反射させたのだ。少年の視界が零になった。

 目を開けてもいられぬ状態の光の中、男が再び走った。

 ヴォンッ――と音をたて風がまた背中に追いつこうとしていた。だが男の伸ばされた手は祭壇の一部へとかかった。石造りの祭壇には世界の元素を現す印が掘り込まれていた。男の手がその中の一つをなぞった。

「ぐぁっ」

 追いついた風が男の肩を切り裂き、血が、祭壇を濡らした。


  ガゴンッ……


 何かの仕掛けが動く音が両者の耳に届いた。男は笑みを浮かべ、少年は焦った。祭壇の中央が暗い光を帯び内側から何かを曝しだそうとしていた。

『ディナン、闇の眷属たる汝に命ずる。王を眠らせよ。然らば汝に、唯一つたる名を授ける』

 怒号に近い声で少年が叫んだ。男にはなんと言っているのかが分からなかったが、己の目的のための障害になることだけは理解できていた。チャクラムを飛ばし、クロウの注意をこちらへ引き付けるため斬りかかっていた。

 魔術ならば術者の意識が途切れれば止まる、そう踏んでいた。だが、クロウが紡ぐ言葉は魔術ではなかった。似て非なるもの扱うことができるものはこの世界広しと言えど、ただの一人も存在しないものだった。

「神魂魔術かっ!」

 祭壇にまとわりついた風と闇の混じったものが外へと姿を現そうとしていたものを祭壇の内へと押し返していた。男は始めて理解した。何故、情報が少なかったのか。何故、曖昧なものだったのか。何故、困難だと言われたのかを。

 祭壇の光が消えうせた。失敗した苛立ちが怒りに変わった。男は左腕につけていた金属の篭手をいじると、手の中に五ナムほどの小さな黒いつぶてを握り締めていた。

 一方、男の目論見を阻止できたことに少年はらしくもない安堵をしてしまっていた。殺気を受け振り返ったが目の前で破裂した黒いつぶての衝撃に地面へ倒れこんだ。耳鳴りが酷い、脳も揺さぶられたか視界が水平にならなかった。男は更に黒いつぶてをばら撒き、クロウへ攻撃の手を止めなかった。よろよろと、立ち上がった瞬間には耳障りな音を立てて鎧を繋いでいた金属がはじけた。

 がぱりとだらしなく主の体を守ることを忘れた鎧は、二度目の男の攻撃で地面へと落ちた。

 普通ならば狂いも出るだろうに……いや、それよりもこの鎧に傷を付けられるとは。そうと考えるほか無い。

 クロウは漆黒の剣を慎重に扱いながら、男の素早い攻撃を見極めていった。男の手数は確かに多く全てを防ぎ切れはしなかったが、軽かった。

 だが、避けるだけに少年は集中することはできなかった。やらなくてはならないことを自らの手で増やしてしまったためだ。

『風に属し、闇の眷属よ汝に新たなる器を』

 今やらなくてはこの森は死んでしまう。少年は逃げるように男から距離を取り直し続けた。しかし、男はぴったりとついてきていた。

『古き我が鎧よ、今一度剣となりて甦れ』

 男の剣がクロウ・ルシードの左肩を深く貫いた。引き抜く勢いに負けてクロウの体は男の方へと傾くが、踏みとどまった。そして、追撃を避けるように左へと体を捻るが、男の方が速くざっくりと衣服を切り裂いた。

『騎士の祝福の歌を、従者の祝福の調べを受け剣へと宿れ』

 少年は視界の端で経過を確認していた。しかし、それだけでは男への攻撃を簡単に許容してしまうことになるのだ。後ほんの僅かで終わるのだ。意識を思わず男へと向けなおした途端、ダークグレーの刀身を持つ剣の周りに集まっていた風が一斉に男へと向かっていった。

「しまった!」

 明らかな失策を招いた少年へ男が歪んだ笑みを向けた。

「精霊を操るってのは、大変みたいだな」

 その言葉にクロウは心の底から浅はかさを呪っていた。目の前にいる男も只者ではない。そう先ほど認識を直したはずだった。



 同じころ、ヨーシュアの森の奥へと遊歩道を外れて歩く数人の団体があった。彼らは第三大陸フェルマから正式に派遣された調査団だった。

「確か、この辺りだったはず」

「もう少し、奥じゃない?」

 地図を見ながら先を歩く調査員が後ろを振り返った。小さな子供をつれた親子連れの上司に微かに笑みがこぼれた。

「ねね、お父さん。またみんなに先、見てもらおうか?」

 楽しそうに父親の服裾を引っ張りながら小首をかしげた男の子に、母親がありがとうね。と声をかけながら自分たちと同じ青色の髪を優しくなでた。

「アステリア君、あんまり無茶しちゃダメだよ」

「そうそう。それに、俺らの仕事もなくなるし」

 先導する調査員の二人にも諌められ、アステリアはふっくらとした唇を尖らせてしまった。

「それにしても、本当にあるんですかね。古代の遺物って」

「さあな。それを調べるのが私たちの仕事だろ」

「ま、そうですけどね」

「でも、何か出てきそうな雰囲気」

 話しながら、先を進むと不意に目の前から小さな飛来物が襲ってきた。

「ギギャギャギャッ」

 金属をこすりあわせたような不快な鳴き声に一行の体が竦んだ。

「ギグ鳥……なのか?」

 ひとりが困惑したような面持ちで護身用の剣を抜いた。一般的に知られるギグ鳥よりも一回りは大きく、しかも異臭を漂わせていた。

「何か、ヤバそうで……隊長、離れて!」

 いつの間にか群れになって一行を取り囲むギグ鳥の異変に本能的に叫んだが、それよりも早く男の周りに数十匹のギグ鳥が群がった。

 男は剣を振り回しながらまとわりつくギグ鳥を切り落とすが、なにりより数が多かった。

「シーセエレメンタル、みんなでセツ兄ちゃんを守って!」

 アステリアの言葉に辺りを吹き抜けていた風が呼応した。流れていた風がギグ鳥とセツの間を駆け抜け空間を空けた。

「少しの火傷は勘弁してくれ。エンク!」

 素早くアステリアの父親が魔術構成を組み上げ、仲間を取り囲むギグ鳥へ狙い違わず火球を叩き込んでいた。

「アステリア、母さんの傍から離れるなッ。援護は任せるよ」

 妻と子供を背に隠しながら、並外れた勢いで二種類の属性の違う魔術陣を両手でそれぞれ描いた。

「レヴィック、ケヴィッ!」

 タイミングをわずかにずらし、それぞれの陣からギグ鳥へ真っ直ぐに水と雷が飛び出して行った。異なる属性の攻撃を息つく間もなく体中に受けた怪鳥が次々と地面へと落ちていった。

「さすが、稀代の術士ファーライト家当主……」

 口笛交じりに賞賛の言葉が送られ、その言葉に照れた様に笑った。

「アキ、アステリア大丈夫だったか?」

 ふっと誤魔化すように笑っていたが、背後で聞こえた不快な音に振り返った。

「う……あっ!!」

 吐き出すような言葉に合わせ、死んだと思っていたギグ鳥が再び長い鎌首を持ち上げていた。

「ギギャッ、ギギャ、ギギャーーーーーーーーーーッ!」

 不気味な咆哮を次々と上げ、腐れ落ちていく翼を羽ばたかせた。

「うそ……だろ……」

「こいつら、不死属性アンデッド!?」

 驚くのもつかの間に次々とギグ鳥が襲い掛かってきた。

岩山の第四大陸ガットに続き発掘できたので、順番入れ換えで投稿。

何故か三人称。

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