船の上にて その2
あれはどういう意味だったんだろう。
白花を離れて三日。船の旅は順調に進んでいた。この前みたいに揺れることはあったけど何度か経験すれば慣れてしまったし、幸い船酔いもしなくてすんだ。
『どうやら噂は本当みたいだな』
気になる声を残して立ち去ったお兄さん。詳しい話を聞きたかったけど、返ってきたのは『ほら、海ってなにかと物騒だから』とわかるようなわからないような台詞だけ。
あと、大きな揺れが三度続けて起こったら船室に隠れていろって話も聞いた。理由を知りたかったけど、これも詳しく聞く前に用があるからとさえぎられてしまった。聞けないものは仕方がない。時間があるうちにやれることをやっておこうと甲板で地図を広げる。
地図は船に乗る前にお母さんからもらったもの。地理についてはある程度頭には入っているでしょうけど、何が起きるかわからないし持っていて損はないでしょうと渡された。お父さんと違ってお母さんは実用的なものを準備してくれていて助かる。むしろ、どうしてお父さんと結婚したのか問いかけたくなる。
思考が脱線しかけたところでふと我にかえる。
「あれ?」
そもそもわたしはどうして地図を広げているんだろう。荷物に不備がないか確認するため。今後の進路を再確認するため。
他には?
思い出せない。昨日話をしたってことは覚えている。
「話をしたのはお兄さん……だよね」
お姉さんではなかったはず。そんな馬鹿なことを考えながらかぶりをふる。話をしたのはつい先日だったはずなのに、性別すらもあやふやになってしまっているなんて。男の人だったということはなんとなく覚えているけれど、どんな容姿をしていたかもあやふやだ。
頭に薄いもやがかかった感じ。慣れない船旅で早々に疲れでも出たんだろうか。
ドン。
揺れは、そんな時に起こった。
「……まさかね」
どおん。
「そんな都合よく何かが起こるわけ……」
地図を丸め、荷物の入った袋に戻す。
「大きな揺れが三度続けて起こったら──」
何気なく呟いたその時。
ドカアァン!
「怪物だ!」
「モンスターが現れたぞ!!」
周囲の声にあっけにとられる。船旅をしていて魔物に襲われた。どこかの物語ならよくありそうな話。窮地に陥ったヒロインをヒーローが助けてくれるのもよくある話。
でも残念なことに今は現実で。右を見ても左を見ても逃げ惑う人ばかりだった。
「お嬢ちゃんも早く逃げるんだ!」
知らないおじさんに押される形で船内にもどる。途中でたくさんの人にもみくちゃにされた。男の人、女の人、船員らしき人まで。緊急事態だからみんな周りのことは考えてられない。
ようやく安全なところまでたどりついて胸をなで下ろそうとして。
「……ない」
荷物を放り出してきたことに気づく。あの中には全財産が入っているのに。財産もだけど、あの中には大切な。
「お嬢ちゃん、どこへいくんだ!」
そう考えたらいてもたってもいられなくて。周りの制止の声もきかず再び船室の外へ飛び出していた。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇
外にはだれもいなかった。みんなずっと前に避難してしまったんだろう。
「お兄さん?」
外は雨が降っていた。ううん。雨なんて生やさしいものじゃない。荒く激しい雨風。これはきっと――嵐。
そんな中で、青ずくめの男の人はいた。
(「なんでテメェがここにいるんだ」)
嵐の中、お兄さんは船の上にたたずんでいた。藍色の髪に紫の瞳。真珠の耳飾りが雨風に揺られている。
(「この辺の海があれてるって聞いて来てみれば、こういう了見かよ」)
高いところにいるから詳しい様子はわからない。だけど口を動かしているのは遠目でもわかった。耳飾りと同じ真珠をあしらった額飾りと異国の外套のような上着をまとった姿はそう忘れられるはずではないのに。
(「大人しく引き下がるなら見なかったことにするよ。でもこれ以上、危害を加えようってんなら――」)
もしかして、魔物と会話してる?
……まさかね。
目をこらして原状を確認するよりも早く。船が再び大きくゆれてバランスを崩しそうになる。
「お兄さん危ない!」
柱に捕まりながら大声をあげる。とたんに怪物の大きな何かがふりおろされた。
思わず目をつぶってしまったけど耳に届いたのは帆が破られる音だけだった。
「ありがとう。君のおかげで助かったよ」
遠くからだけど男の人の声が聞こえた。どうやら大事にはいたらなかったみたいだ。視線をさまよわせると、映ったのは巨大な怪物──ナマズもどきのひげ。こんなものに襲われたらひとたまりもない。お兄さんは窮地を脱したみたいだけれど、むしろ矛先が彼からわたしに移っただけみたいだった。
言葉が通じなくてもわかる。怪物がわたしに向けているのは明らかな敵意。でもわたしだって大人しく引き下がるのは嫌だ。何か武器になるものはないかと辺りを見回して、一つの結論にたどりつく。できればやりたくないし馬鹿げてるのは十分承知だけど。
走って走って。たどり着いたのは放り出された大きな旅行鞄。海水で濡れてはいたけれど中身はまだ無事みたい。
背に腹は代えられない。幸い見ている人もいないし、やれることをやらなきゃ。
鞄の中から取りだしたもの。それは布に包まれた特大ハリセンだった。
まさかこんな物を手にして魔物と戦う日がくるなんて思わなかった。そもそもこんなものが荷物の中に入ってるなんて思ってもみなかった。
そして、手にしたはいいもののやっぱり怖い。当たり前だ。相手は子どもの頃けんかした男の子や近所の子ども達とは違う立派な魔物なのだから。
「逃げるしかないじゃない」
誰にともなくつぶやくとハリセンを持ったまま必死に逃げる。ハリセンを持ったところで相手に通用するとは思えないしそもそも舞台用の道具なんだから。
逃げて、逃げて。必死に逃げて。
「こっちに来るんだ!」
今度はお兄さんの声が耳に届いた。迷ってる余裕なんかない。必死に柱からよじのぼって。
高いところによじ登ればどうなるか。当然、出口はない。相手もわかっているから触手を柱に巻き付けてなんどもゆさぶりをかけている。でもお兄さんには何かしらの意図があるんだろう。希望と確信をもってたどりついたのは船に乗ってから半日後のことだった。
「大丈夫だった?」
心配そうな声。
「なんとか。お兄さんは大丈夫だったんですか?」
「どうにかこうにかね。全く困った事態になったよ」
でも口調とは裏腹に表情は息ひとつみだれることなく平然としている。こういってはなんだけど目の前の男の人は運動神経に優れているようには見えない。でも海の怪物相手にいききしている――堂々としている。そんな気がした。
「でも、君のおかげで時間稼ぎができた。あとはオレがやるから大船にのったつもりで休んでいていいよ」
今まさに大船に乗っていて船ごと壊されそうなのに! そんな指摘をするべきか迷っていると、乗っていた船の柱がみしみしと音をたてた。
触手が足下まで近づいてくる。
異国の地で医学を学ぶために旅だったのに、志なかばで、しかも怪物に襲われることになるなんて。子どもの頃は『体さえ鍛えておけばなんとかなる』っていろいろたたきこまれたけどそれでも無理がありすぎる。
「最終通告だ。矛をおさめる気はあるか」
こんな緊急事態と相反するかのように、お兄さんは大ナマズにむかって淡々と話しかけていた。
「おさめなければ――」
言い終わるよりも早く、魔物の触手がおそいかかってくる。やっぱり彼は魔物と会話をしていたの!?
でも結果をみれば一目瞭然。向こうには敵対する以外の意志はない。
「残念だ」
ぽつりとつぶやくと。お兄さんは目を伏せた。
「吾は海に連なりし者。吾が名をもって命ず」
唇から漏れるのは初めて耳にするフレーズ。
「氷雪をもって目前を蹴散らせ」
空気が冷たくなった。
「てめェの一家のおとしまえはてめェでつけないとな」
さっきまでは優しそうなお兄さんだったのに、紫の瞳がとても冷酷に感じられる。まるで、お伽噺に出てくる氷の妖精ネイラみたい。
お兄さんは一体――
氷のつぶてが怪物めがけて襲いかかる!
耳をふさぎたくなるような咆哮の後、振動はぴたりとなりをひそめた。
何が起きたのかわからなかった。
お兄さんの声と、獣の咆哮と。氷のつぶてと。
「もう大丈夫だよ」
対峙した時に目にしたのは優しげな紫の瞳。本当に何が起こったのかわからない。わかったことといえば、船の揺れがおさまったのと魔物の攻撃がなくなったこと。
「凍ってる……?」
そうとしか言いようがなかった。巨大な氷の固まりの中にさっきまでわたし達に襲いかかってきた大ナマズが眠っている。もしかしたら、無理矢理眠らされた――動きを封じられたような、そんな感じ。
「何が起こったんですか?」
現状についていけず尋ねると見たまんまだよと返ってきた。
「本当は自警団とか専門の機関に任せた方がよかったかもしれないけどね。けど身内(自分の組)のオトシマエは同族がやらないと」
言っている意味はよくわからなかったけど目の前のお兄さんがただ者ではないってことはよくわかった。
「でも、このままだと船の邪魔になりませんか?」
そこまでは考えてなかったらしい。凛々しげな表情を一変させ、そうか、これ邪魔だよな。どうしよう、どうしようと辺りを右往左往と歩き回る。眉をひそめきょろきょろと動き回る様はさっき魔物と対峙していた人と同一人物とは思えない。
「どうしたらいいと思う?」
どうやっていたずらを隠せばいいのかわからないといった表情。そもそもわたしに聞かれても。
「砕いて小さくするとか?」
でもどうやって、と戸惑いつつ答えると、やっぱりそれしかないかとお兄さんは息をついた。
「苦手だからあんまりやりたくなかったんだよなぁ」
ぶつぶつつぶやくと、また新しい呪文を唱える。呪文の後に手元が淡く光る。光の後に彼の手元にあったのはお兄さんの髪と同じ青の槍。
「やっつけだから効果はほとんどないんだ。でも一回だけならもってくれるだろ」
「今度はどうするんですか?」
ここまでくるとそんなに驚くこともない。疑問の声に最後の仕上げだよと片目をつぶって、お兄さんは魔物に向かって跳躍した。
ずいぶん昔のお話になりますが、少しずつでも投稿できればいいと思います。