工房にて その1
「ここが僧帽筋で、ここが上腕二頭筋」
ただいまリオさんから借りた本をもとに解剖学の勉強中。カターニャさんから借りた薬の本にリオさんの解剖学の本。骨格マニアと自称するだけあって、本には様々な部位の名前が記されてあった。
イレーネ先生の施療院は半分自宅を兼ねている。以前は住み込みの弟子もいたらしいけど、右も左もわからない、ましてや一般的な言葉もままならない人間は足手まといの他ならない。だからこそ週一の施療院での課題提出以外は環境整備の勉強をかねた宿の手伝いと、アルテニカ家での自主勉学にはげんでいるわけで。
「これは、この意味で合ってるのかな」
だけど、借りた二つの本はティル・ナ・ノーグ製のもので当然ながら母国の白花の言葉では書かれてない。だから発音ひとつとってもに疑問が残ってしまう。故郷にいた時にもっと勉強しておくんだった。
人間の体って、こんなにも種類があるんだ。筋肉もさることながら、神経の名前や骨の部位、臓器について。数えあげたらきりがない。薬の名前だって覚えなきゃならないのにこのままだと頭がパンクしてしまう。
「なんて泣きごと言ってても仕方ないか」
せっかく施療院に通わせてもらってるんだ。少しずつでも頭に詰め込んでいかないと。
「イオリちゃん、いるー?」
なんてことを考えていると、ノックの音がする。後に入ってきたのはアルテニカ家の長女、ニナちゃんだった。
「また勉強? すごいなあ」
「そんなことないよ。わからないことが多すぎるだけだから」
ちなみにティル・ナ・ノーグの言葉で不明なものはニナちゃんやウィルくんに教わっている。ただでさえ居候させてもらっている身でおばさま──エリーさんに質問するのも気がひけるし、働いているユータスさんに教わるのも悪い気がする。というより、眠っているかぼーっとしている姿しか見てないから別の意味で聞きづらい。どうしようかと迷っていると、『だったら任せて!』と二人の兄弟に意気ごまれてしまった。ニナちゃんとウィルくんはユータスさんの兄弟かつわたしより年下で。プライドとか気にする人は気にするのかもしれないけれど、単身異国に来た身の人間はそんな悠長なこと言ってられない。教えてくれていつもありがとうと感謝の言葉を伝えたら、『将来のお兄ちゃんのためだから!!』といつかの老夫婦と同じような声が返ってきた。
「そういえばお兄さんは?」
今日は特に用事もなかったので食事以外の時間は部屋に閉じこもって図鑑や本ばかり読んでいた。思いかえしてみれば朝食の時間からユータスさんの姿は見ていない。
「お兄ちゃんならお仕事に行ったよ」
初対面のことを思い出す。そう言えば仕事がひと段落して外に出たらペルシェに出会ったって言ってたっけ。それがここまで繋がるとは思わなかったけど。そもそもお仕事って何をやっているんだろう。今更ながら聞いてみると、『細工師』という声が返ってきた。
「細工って、細かいものを作ることだっけ?」
文字通り、常人では扱えない小さなものを作るお仕事だよね。さしずめ芸術家ってことなんだろうか。
「ああ見えて、お兄ちゃんってすごいんだよ。規格外なんだから」
規格外。文字通りの意味なんだろうけど、何だか別の意味合いも含まれている気がするのはどうしてなんだろう。
「気になる?」
ウィルくんに顔を覗き込まれ素直にうなずく。ひょろっとした男子が一体どんな仕事をやっているんだろう。わたしみたいに医学を志して、なんてことはないから何かの作業なのかな。一体どんなことをやっているんだろう。
それは純粋な興味と好奇心。
「これからお兄ちゃんのところにお弁当を届けにいくんだけど、イオリちゃんも行かない?」
「部外者のわたしが行ってもいいところなの?」
むしろ邪魔になるんじゃないか。そう思って尋ねると『だってあそこ、怖くてむさ苦しいし女の子一人だと不安なんだもん』となんとも可愛らしい声が返ってきた。だから、本をかた手にニナちゃんとお兄さんの工房まで足を運ぶことになった。
この時、もう少し考えるべきだった。ニナちゃんが言っていた、怖くてむさ苦しいという意味に。
大きな手提げかごの中にはエリーさんが作ってくれたお弁当と水筒。解剖学の書物を入れたリュックを背に、ニナちゃんと目的地への道をたどる。
「オレまでついてくる必要あった?」
半ば強制的に同行させられたウィルくんが口をとがらせる。『いざという時のボディガード!』とニナちゃんが目をつりあげて言った。
「工房で働いてるんだよね?」
一番はじめに街を案内してもらった時にユータスさんが行っていた。正確には工房で兄弟子さん達のお手伝いをしているみたいだけど。
工房のことなら少しはわかる。故郷でお父さんがやっていたから。お父さんは花火師で、白花で生まれた『花火』というものに感銘をうけて単身異国へ旅立った。そして師匠であるじいちゃん、娘であるお母さんと出会い、結婚。じいちゃんは三年前に亡くなってしまったけれど、実家の隣にある工房はそのままじいちゃんの仲間たちとお父さんが共同で引きついでいる。時々、お母さんと一緒に差し入れを持っていっていた。
「おじさん達元気かなあ」
故郷を思いつぶやくと、イオリちゃんも工房に行ったことがあるの? と不思議な顔をされた。白花のことを話すと、それでお兄ちゃんに会っても大丈夫だったんだねと返されて、そうだったのかなと不思議に思う。医学の道を志して異国に来たはずなのに、故郷と同じ工房という場所に関わっている。これも何かの縁なんだろうか。
「ついたよ」
着いたのは、なんというか、ニナちゃんの言うように本当にむさ苦しい場所だった。
「うう。この匂い苦手」
「そう? オレはそこまでないけど」
慣れているのかウィルくんがそう言って肩をすくませる。なるほど。それでボディガードだったんだ。体格的というよりも精神的な。不慣れな場所に行くには一人よりも大勢いた方が頼もしい。
男の人だらけ。それが工房の第一印象だった。
「ウィルは男だから平気なのよ。お兄ちゃんみたいな浮浪者が大勢集まって仕事してると思うと……!」
「姉ちゃん。仮にも自分の兄ちゃんを『浮浪者』って言うなよ。せめてグールくらいにしといたら?」
浮浪者もグール(怪物)もどちらも変わりないのでは? そんな思いを胸にひめ、あらためて工房内を見回す。広い部屋の中にいるのは男性が数人。小柄な人、大きな体躯の人。容姿はそれぞれだけど少なくともユータスさんよりは全員年上に見える。暑いんだろうか。腕をまくっていたり、中には上半身裸の人もいる。よく見ると仮面をつけている人もいた。
……仮面?
「イオリちゃんは平気なの?」
実家も半、工房みたいなものだったから耐性はついている。それを言うならお父さんが一番むさ苦しかったし。よくあんなのからこんなのが生まれたなとよくかわからない声も聞いた。
「あの。すみません」
とにもかくにも当初の目的を果たさないといけない。声をかけてみるも、全員が仕事に夢中になっているのか誰も返事をしてくれない。
「すみませーん! ユータスさんはご在宅ですか?」
さっきよりも大きな声で問いかけると、ひょろ男なら奥にいる、そこで待ってろという声がした。
ありがとうございますと頭を下げて。顔をあげると仮面の人は姿を消していた。
「見間違いだったのかな」
目をごしごしと擦ってあらためて周囲に視線をおくる。わたしとニナちゃん以外は見事に男の人だらけ。故郷のお父さんの工房もすごかったけど、もしかしなくても工房って奇妙な人間の集まりなんだろうか。
「見かけない顔だね。ユータスの知り合い?」
しばらくして現れたのはやっぱり男の人。でも屋内の面々では一番温厚そうな顔立ちをしていた。
「わけあって、ご自宅にお世話になってます。今日はエリーさん──ユータスさんのお母さんに頼まれて持ってきました」
昼食の入ったかごに視線をおくる。おばさまが作ったサンドイッチ。食べたことはあるけど、作ったことはなかったからものは試しとわたしも少しだけ手伝った。せっかくここまできたんだから食べて欲しいところだけど押し付けになるのもあんまりかな。
「名乗りが遅くなってしまったね。私はカルファー・アルテニカ。この工房の職人と依頼人の橋渡しをしている者だよ」
「イオリ・ミヤモトです。よろしくお願いします」
「ちょっと待ってね。ユータスはどこにいるかわかる?」
カルファーさんが周りに声をかけると、どこからかいつものところという声が返ってきた。
「心配してたんだ。ユータスはいつもああだから。でもちゃんと年頃の友人もいたんだね」
優しげな目元から、彼のことを気にかけていたことがよくわかる。でも『ああ』とは一体。そもそもわたしとユータスさんが出会ったのはほんの少し前。それまでのわたしはこの国にすらいなかったし今だって友人というよりも知り合いにすぎない。友人でないならなんだろう。異国から来た居候と居候先の家主の息子さん? 確かにその通りなんだけど、それだけでもないような気がする。
なんとも言えない表情をしていたのがわかったんだろう。カルファーさんが言葉を続けた。
「君はユータスのこと、どこまで知ってる?」
「こちらの工房で働いている細工師見習いと聞きました」
親戚すじであるこの工房で細工の仕事をしていると道すがらウィルくんに聞いた。同じアルテニカ姓だしこの人もユータスさんの親戚なのかな。兄弟子、ううん、もしかして彼がユータスさんの師匠なのかも。そう思って声をかけると、それは違うよと苦笑された。
「ここは私の父、ゴルディ・アルテニカの所有する工房なんだ。父は人付き合いが苦手でね、代わりに私が依頼主と職人を繋ぐ仲介人をしている。父──先生をはじめ、ここにいる連中は技術に長けていても商談には向かない連中の集まりだから。
ユータスの話だったね。彼が親元を離れてここにきたのは八歳からになる」
ユータスさんが久しぶりに帰ってきたとはペルシェに出会った日の夜に聞いていた。でも住み込みで、しかもそんな小さな頃から親元を離れて工房で暮らしているなんて知らなかった。何か事情があったんだろうか。
家庭仲が悪いというわけではないだろう。ここ数日間の暮らしを見ていればよくわかる。むしろ、和気あいあいとしていたし彼だってぼーっとしてはいるものの、家族を嫌がっている様子はなかった。じゃあ、別の理由が?
「才能があるのは確かなんだけどね。ちょっと訳ありで予定よりも早く修行させることになったんだ」
苦笑しながらカルファーさんがとある一室の扉を開ける。そこには探していた男子がいた。
「ユータスちょっといいか?」
男子からの返事はない。椅子に座って、後ろからだと全く動いていないように見える。時おり腕が動いたり、頭を軽く動かす姿が見えなければ眠っていると勘違いしていただろう。
「お兄ちゃーん」
今度はニナちゃんが声をかけるけどこっちも無反応。もしかして聞こえてないんだろうか。
「気になるなら近くで見てみるといいよ」
いいんですか? と尋ねると物音をたてなければ大丈夫と許可がおりた。細工に集中してるんだし邪魔するのは悪い気がする。だけど、何をしているのか気になりもする。
そっと音を立てないようにして近づいて相手の手元をのぞきこんでみた。何かの修理なんだろうか? もともと大きくない媒体の中に、小さな部品を詰め込んでいる、ような気がする。
かちゃ、かちゃ、かちゃと金属がすれあう音が響く。音をたてている本人はというと、いたって真剣な表情で。
それはわたしが全く知らない男の子の顔だった。
ようやくちゃんとしたユータスくんを書き始めることができました。工房の面々については宗像竜子さんのお話をお読みください。
アルテニカ工房繁盛記
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