薬屋にて
「イオリちゃん、ベッドのシーツは乾いてるかな」
「はい。さっき取り込んでおきました」
「入口の掃除は──」
「終わってます」
わたしは今、グラッツィア施療院ではなくとある宿のお手伝いをしている。
実はエリーさんの実家は宿を経営していて本来ならエリーさんが宿の経営を引き継ぐはずだったんだそうだ。それがエリーさんの旦那様──ユータスさんのお父さんと結婚して今の住居に引っ越して。本来なら家業を継いでもらいたかったエリーさんのお父さんとお母さん。家が近くなので時々は手伝いに行っているものの、いかんせん人手がたりない。そこで、ユータスさんの家に居候させてもらっている宿代がわりにわたしがエリーさんのご両親のお仕事を手伝うという、なんとも奇妙な事態ができあがってしまった。
「悪いわねえ。年頃の娘さんにはつまらない仕事なんじゃないのかい?」
エリーさんのお母さん──ユータスさんのお婆さまが申し訳なさそうに言う。
「いえ。勉強になるので大丈夫です」
実際に医療の現場でも環境整備は大切だし。
『医学の基本は清潔な環境から。医療だってある意味接客業なんだ。まずは一般的な宿泊施設の勉強をしておいで』
要約するとこんなかんじ。施療院でなく一般家庭でこの街について勉強しつつ週一で施療院に通い、院長先生から提出された課題を提出する。それがグラッツィア施療院側からの提案だった。幸い、アルテニカ家と宿との距離はさほど遠くないので施療院に行く以外の日はほとんどこちらで勉強もかねて手伝いをさせてもらっている。
「ユータスもいれば力仕事も任せられたのにの」
「今日は工房でお仕事だって言ってましたから」
実は、ユータスさんがアルテニカ家にいることはほとんどなく、普段は住み込みで工房で仕事をしている。むしろ、わたしとの一件があって実家にいる日々が増えて。自分の生家のはずなのに自室に留まっていること自体が珍しいんだそうだ。
宿と言っても港の近くにあるだけあって宿泊客は多く、下宿用の部屋もあるのでそれなりに広い。いっそのこと住み込みで宿で働かせてもらおうかと思えば『お兄ちゃんがますます家に寄り付かなくなっちゃうからここにいて!』となぜか引き止められてしまった。よくわからないけど、わたしがいることでアルテニカ家にとって都合のいい事態になっているらしい。宿の手伝いをするようになってからは『ユータスにもあんたみたいなしっかりした嫁さんがいればねえ』と冗談めかして言われたことがあったけど、なんとこたえていいかわからず曖昧に笑ってごまかした。
「そう言えば、イオリちゃん宛に手紙を預ってるよ。今日はこれくらいにしてゆっくりしておいで」
手渡されたのはティル・ナ・ノーグらしい海の色をした封筒。封を開けて同じ色の便箋を手に取って。そこには綺麗な文字でこう書かれてあった。『新しい薬を頼んでおいたんだ。お茶の礼も兼ねてお使いに行ってきてくれるかい?』と。
イレーネ先生に頼まれた課題の一つだ。今までは院長先生と呼んでいたけれど、イレーネでいいと言われてからは、こう呼ぶことにしている。
「この道を真っすぐ行って、今度は左に曲がって」
いつものように、地図を頼りに道を歩く。今回は案内役のユータスさんはいない。アルテニカ家には厄介になり続けてるし、いつまでも頼りっぱなしでは悪いし。そもそも彼は職人さんなんだ。人にかまっている場合じゃないだろう。そう思っていると、『いいから連れ出してあげて。この子にお日様の光を浴びさせてあげて』と半ば懇願のようなお願いをされた。流石にいたたまれなくなって、次の機会の時はご一緒させていただきますと返したけど。
アルテニカ家は基本的には仲がいい。だけど、長男に対してだけはなんというか、過保護の反対をいっているような気がする。あえて崖に突き落としているというか。突き落とされた本人は存外ケロッとしているから成り立っているのかもしれないけど。物心つくかつかない頃からずっと工房の仕事と修行にあけくれて。形は違えどわたしのやりたかったことをずっと前からやっているのは素直にすごい。
「アルテニカ家じゃなくて、まずは自分のことから始めないと」
異国へやってきたのは居候をするためじゃない。医学を学ぶためにきたんだ。これはその第一歩。気を引き締めないと。
ぱんと両手で頬をたたき、歩みを進める。目の前にはお茶のポットと何かの植物が描かれた看板があった。
「ごめんください」
店内に声をかけるけど、返事はない。
「誰かいませんか?」
今度はさっきより大きな声で呼んでみる。やっぱり返事はなかった。仕方がないので店舗を眺めて時間をつぶすことにする。
目の前に広がるのは大量の緑。みずみずしい新緑の葉に、色とりどりの花が咲き乱れている。イレーネ先生の地図はここであっているはずだし、実は薬じゃなくてお花を注文していたんだろうか。
「あら? どなたかしら」
声にふりむくと、そこにはエプロン姿のお姉さんがいた。
お店の店員さんなんだろうか。背丈はエリーさんと同じか少し低いくらい。薄水色の簡素なワンピースに緑色のエプロンを身につけている。白がかった金色の髪に人間には見られないとがった耳。その容姿を形どる種族といえば――
「……エルフ?」
口にしてしまい、慌てて口をおさえる。初対面の方にあんまりなもの言いをしてしまった。
「エルフを見るのははじめてかしら?」
「すみません。すっかり見とれてしまいました」
下手にとりつくろっても仕方ないので素直にうなずいた。高貴で美しく、とがった耳が特徴的な人間とは異なる長命の種族。森の奥に住んでいて人間とあまり関わりたがらない、だったような気がする。
なけなしの知識を頭の中の引き出しから引っ張り出してみる。目の前にいる女の人は確かにエルフなんだろう。でも優しげなアイスグリーンの瞳からは人を敬遠しているような雰囲気は感じられない。
「はじめまして。私はカターニャ・ヴォロフ。見ての通り、ここ『猫の髭』で薬屋を営んでいるわ」
「お花屋さんじゃないんですか?」
失礼な声が再び口からもれてしまった。
「確かにお花も売っているけれど。本業は花屋ではないの」
苦笑するカターニャさんに慌てて非礼をお詫びする。イレーネ先生の知り合いなんだ。お花屋でもおかしくはないけれど、医術の関係者の方が断然しっくりくる。恐縮していると初めての方にはよく間違えられるから気にしてないわとくすくす笑われた。エルフは長命だと聞くから見た目よりも本当にたくさんの経験をしてきたんだろうな。そんなことを考えていると、ふいに先日の施療院のことを思い出した。
「ヴォロフって……、楚羽矢さんのお茶作りを手伝った人!?」
施療院で白藤茶を出された時。調合が難しくてヴォロフさんの知恵を借りたってソハヤさんが言ってた。お茶の中央に浮かんでいた白い花びら。視線をめぐらせると確かにあの時と同じ白い花びらをつけた花があった。
「ドロージィ。あの花びらの香りは安眠を促してくれるの。単体だと眠気が強く出てしまうから、他の薬草とブレンドしてお渡ししたんだけど役に立ったのなら良かったわ」
質問の答えを答えてくれた後に、要件を伺おうかしらと続きを促される。
「院長先生──イレーネ先生からお使いを頼まれたんです。こっちは先生から渡すように頼まれた手紙です」
持っていた手紙を手渡すと、白い指が筆跡をたどっていく。宿の封筒の中にはカターニャさん宛の手紙も添えられてていた。
「あなた、イオリさんって言うのね」
手紙にはわたしのことも書いてあったらしい。ここのところ、手紙をあちこちに運ぶ用事が多いなあと自分でも思う。手紙運び専門の仕事でもないのかしら。わたしに頼むよりよっぽど効率が良さそうだけど。
医学を学ぶはずが海や森の中で襲われて、気づけば変な物体で人間をお星様にして。その家に居候しつつ宿のお手伝い。当初の目的からずいぶん離れているような気がするけど本当にいいんだろうか。
「あなたの好きな色は何?」
そんなことを考えていると、ふいに予想外の問いかけをされた。
「色、ですか?」
「ええ、色よ。このお店の中にあるものだと助かるのだけれど」
店内には色とりどりの植物があった。花が咲いているものもあって、行きつけの人でなければ花屋さんかと見間違うくらいに。赤、青、黄色の花。つぼみのものもあれば、緑の葉がおおいしげったものもある。店内のものがいいのなら。
「青でしょうか」
あたりを見回して青を──正確には青い花をつけた植木鉢を指さす。
「これはね、青霧草というの。花言葉は『誠実』。
今まとめるから、待っててもらえるかしら」
カターニャさんに言われるがまま用意された椅子に座り、これまた言われるがままに出されたお茶に口をつける。施療院の時もそうだったけど、飲み物に何かの成分が入ってるんだろうか。飲み終わった頃には心なしか体がしゃっきりしていた。
「植木鉢のままだと重いでしょうから苗にしてみたの。大丈夫かしら?」
薬を頼まれたはずなのに、いただいたのは丈夫そうな白い袋。その中には緑の小さな苗がたくさん入っていた。確かに重いけど持って帰れないほどではない。苗自体の重さよりも気になるのは。
「図鑑ですか?」
緑の表紙の本が一緒に入っていた。ぱらぱらとめくっていれば、先日目にしていたドロージィや青霧草はもちろん、お店の中にはない植物まで描かれてあった。植物の下には説明らしき文章が載っているんだろうけど、知らない文字もあって簡単には解読できない。
「あれ?」
とあるページで手が止まる。そこには見覚えのある森の絵が描かれてあった。ユータスさんを追いかけてペルシェの群れと遭遇して。その後怪物に襲われてハリセンとユリシーズに助けられたんだった。土地勘もないから眼鏡を返そうと闇雲に走っていたけどここって曰く付きの場所だったんだろうか。
「そこはね、妖精の森って呼ばれているの」
「妖精の森?」
おうむ返しに尋ねると、カターニャさんは首肯して続けた。
「ブランネージュ城を取り囲む、景観豊かな深緑の森のことよ。森の中には、鳥や小動物など数多くの生き物たちが暮らしていて、霧の深い日に森を歩くと、ごく稀に精霊や貴重な魔物の姿を見る事が出来るらしいわ」
「精霊に貴重な魔物……」
確かに霧は出ていた。でも泉はわからなかったしそんな偶然があるんだろうか。
「古の時代から、森には妖精が棲んでいると言われているの。森の中央には、精霊の集まる不思議な泉があって運が良ければ天馬の姿を見ることも出来るらしいけど、審議は定かではないわね。
あとはユニコーン。心の綺麗な女性に身を寄せるって聞くわ。案外イオリさんの近くに顕われるのかもね」
「まさか」
いくらなんでも都合が良すぎるし、女ではあるものの自分の心が綺麗かと聞かれると気恥ずかしいものがある。そもそもわたし自身はそんなできた人間じゃない。
「子どもの頃に祖父からもらったものなの。一般的な薬草について書かれているわ。私たち(エルフ)の言葉で書いてあるものもあるから難しいかもしれないけれど、良かったら使ってちょうだい」
「そんな! お祖父様との大事な思い出の品なのに!」
薬の知識は確かに必要だ。欲しくないかと言われてばもちろん欲しい。だけど、大切な思い出の品をいただいてまで勉強することではない。
「もしかして、これってイレーネ先生が……」
「『あなたの気に入った薬を訪れた少女に渡してほしい。あとお使いついでに薬学の知識について教えてもらえるとありがたい。薬についてのレポートは次の週までにまとめて提出すること』ですって。
イオリさん大事にされているのね」
片目をつぶっての返答に胸が熱くなる。またきてもいいですかと聞いて、頭をしっかり下げてから薬屋をあとにする。後日レポートを提出した足で、今度はリオさんから解剖学の本を借りた。
まだまだ道のりは長いけど、少しずつ頑張ろう。本を胸にかたく誓った。