第1話「気づけば悪役令嬢、でも川の音がする」前編
俺は、目を開けた。
「……あれ? 釣れてる?」
だが、視界に飛び込んできたのは、釣り竿でも川でもなく、天蓋付きの白くてフリフリのベッドだった。
真っ白なカーテン。金のレリーフが施された天井。
そこに立っていたのは、メイド服を着たとんでもなく可愛い女の子。
「お、お嬢様っ! ついに……お目覚めに……!」
……お嬢様?
「……俺?」
思わず口をついて出た自分の声は――
妙に高くて、やわらかい。
「えっ……?」
俺は、目を見開いたまま、自分の両手を見た。
白く、細く、ツヤツヤしていて……まるで、お人形みたいな手。
ベッド脇の鏡に映ったのは、金髪碧眼の美少女だった。
「ちょ、ちょちょちょっと待て!? これ、誰だ!? 俺は北村勝!43歳、独身、釣り歴36年のベテランアングラーだぞ!?」
「お嬢様っ!? ご自分の名もお忘れに!?」
パニックになる俺を見て、メイドが泣きそうな顔になる。
「貴女は、セレナ・フォン・グランディエールお嬢様ですっ!今朝、馬車事故で頭を強く打たれたとかで……」
ああ、なるほど……転生ってやつか。
昨日、川でヌメッと滑って頭を岩にぶつけた。
その記憶のあと、これだ。たしかに納得しかない。
「……てことは……」
俺はベッドから身を起こし、窓の外を見た。
広がる緑の庭園。小鳥たちがさえずる、のどかな風景。
その奥に――川があった。
……流れてる。しっかり、釣れそうな川が。
「あの川……魚、いそうだな……」
ふらふらと歩いて窓に額を押しつけ、思わずつぶやいた。
「川が俺を呼んでいる……ッ!」
メイドが真っ青な顔で駆け寄ってくる。
「お嬢様!? お顔を……お顔を窓に押しつけては……ッ!」
「いや、魚の気配がすごいんだよ。アレはアユだな、いや、異世界だから名前は違うか? でも瀬付きの感じ、完全にアユ。産卵期か?」
メイド(エリシアという名前らしい)はますます動揺した。
「こ、こ、これは魔法障害か何かでしょうか!? このままでは婚約者様とのお見合いが……!」
婚約者?
――知らん。知らんがそんなもんよりも!
「釣り竿を用意してくれ!」
「えっ!? お嬢様、それはさすがに!」
「あとできれば仕掛けも。3号のハリスで、ウキは感度重視。エサは現地調達する。あとドレスは脱がせてくれ、動きにくい」
「お嬢様っ!?」
俺は叫んだ。
「俺はもう、“悪役令嬢”とか“転生”とかどうでもいいんだよ!!あの川に! 俺の人生がある!!」
その瞬間――風が吹いた。
カーテンが舞い、外の川面がきらめく。
そこに跳ねる、一匹の魚影。
「……今、跳ねたな」
俺の釣り人センサーが、完全に覚醒していた。