6.鬼が嗤う
「お? 何かあったな」
「あったわね……まさか、ここまで簡単にたどり着けるとは思わなかったわ……」
危なげなく鬼を蹴散らして、恭一と美森は目的の場所に到着した。
高尾山の霊的中枢――本尊である薬師如来像が安置されている場所、『薬王院』である。
鬼に奪われてから五十年。手入れをされることなく放置されていたそのお堂はかなりくたびれた様子になっており、本来のあるべき姿を失っている。
また、お堂の周囲を黒いモヤのようなものが渦巻いており、内部にある御仏の神威を封じていた。
「もしかして……俺ってラスボスのねぐらまで来ちゃったのか?」
恭一が今さらのように言って、頭を掻く。
「この封印を破れば、高尾山を解き放つことができる……いよいよね」
美森が緊張した面持ちでつぶやく。
父親の仇を討ち、悲願を叶える日がやってきた……手を伸ばせば届くところにある勝利に肩が震えてしまう。
「ハア……」
しかし、一方で恭一の顔はどこまでも冷めていた。
気怠さを前面に押し出しており、「どうでもよい」という心情が顔に現れている。
「……帰るか」
「ちょ……どこに行くつもりよ!」
「いや……知らんけど、ここにはヤバいのがいるんだろ? 割に合わなそうだから帰るわ」
「ハアッ!? 今さら何言ってるのよ!」
「だってさあ……面倒だろ、強い奴と戦うのって」
面倒臭いことはやらない。楽して金を稼げればそれでいい。
そんな信条の持ち主である恭一にとって、わざわざ危険を冒してまで大義を成し遂げるつもりはない。
3級か4級程度の雑魚を潰して回り、十分な金を稼いだら帰るつもりだったのだ。鬼の親玉などと戦うつもりはなかった。
「俺は一撃で倒せる程度の雑魚を相手に弱い者いじめするのが好きなんだ。これ以上は頑張り過ぎだ」
「アンタって男は……ここを解放して高尾山を解放すれば大勢の人達が救われるのよ!? この山の近隣地域でどれだけの人達が鬼に襲われていると思ってるのよ!」
「そんなこと知るかよ。『慈善事業』とか『人のため』とか俺が一番嫌いな言葉だ。人助けがしたいのなら勝手にやってくれ」
恭一はぞんざいに手を振って、その場を立ち去ろうとする。
しかし、それよりも先に強烈な妖気が背筋を撫でてきた。
「あ?」
「ッ……!」
『オオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオッ!』
絶叫を上げて、頭上から何かが降ってきた。
ズシンと地響きを鳴らして彼らの前に降り立ったのは、見上げるほどの巨体の鬼である。
「これは……!」
「ほー、デカいな」
戦慄する美森。暢気に鬼を見上げる恭一。
眼前に現れたのは身の丈二メートルほどの巨体の鬼。
鋼鉄のように黒光りした身体に金属製の鎧を身に着けており、両手の指先には鋭く尖った爪がギラギラと輝いていた。
薬師院を封印してこの山を支配している鬼の総大将。仏法を犯す鬼神である『天魔波旬』の顕現である。
『グルルルルルルル……』
「…………!」
天魔波旬は威嚇する獅子のように恐るべき凶相を歪ませ、唸り声を上げている。
まるで地獄の底から響いてくるような声に美森は背筋が凍り、身体の芯にまで恐怖が伝播していくのを感じていた。
(これが天魔波旬……本体ではないタダの化身だというのに、ここまでのプレッシャーを感じるだなんて……!)
天魔波旬……『第六天魔王』とも称されるこの存在は、本来であれば天上界の最下部にある欲界を住処としている。
人間界に現れたそれはあくまでも魔王の力の一部。本体から切り分けられた『化身』に過ぎない。
退魔師協会はその力を推定2級と判じたが……実際に目の前に立ってみると、1級にも届くのではないかという妖力が感じられる。
(2級退魔師だった父が殺られるわけね……これは強すぎる)
「……残念だけど、もう逃げられないわよ」
美森は恭一に向けて小声でささやきかける。
「この魔王を倒すには、薬王院を解放して中にある仏像の霊力を借りるしかないわ。私が封印を解くから、貴方はそれまで時間を……」
「あー、ちょっと良いか?」
「へ……?」
恭一が右手を挙げて話しはじめた。
その言葉が向けられたのは、美森ではなくまさかの天魔波旬に向けてである。
「殺る気満々になってるところを悪いんだけどさあ……俺は今日、もう十分働いた気分なんだよな」
『グルルルルルルル……』
「根城を荒らして悪かったよ。俺はもう帰るから見逃してくれね?」
『ガアアアアアアアアアアアアアアアッ!』
天魔波旬が吠えた。
うねりを上げて振り抜かれた巨椀が、友好的に語りかけていた恭一の横っ面を殴り飛ばす。
恭一の身体が蹴られたサッカーボールのように吹き飛んでいき、バキボキと木々をへし折って森の中に消えていく。
「ああっ! 馬鹿あっ!」
あっけなくやられてしまった仲間(?)の姿に美森が思わず声を上げる。
どうして、説得が通じると思ったのだろう。頭のネジが何本か抜けているとしか思えないような愚行である。
「クッ……こうなったら、私だけでやるしかない……!」
『コオンッ!』『ボンッ!』
美森は両手に符を構えて、左右に式神を並べる。
こちらは3級退魔師。敵は最低2級以上の大妖怪。
勝率は一割にも満たないのだろうが、それでもこの状況で逃げられるとも思えなかった。
背中を刺されて死ぬよりも、前を向いて戦って死んだ方が良い。
そうでなければ、先に逝った父親や一族の術者らに顔向けができなかった。
「父の仇……ここで取らせてもらうわ!」
『コオンッ!』『ボンッ!』
二体の式神が天魔波旬に襲いかかる。
同時に両手の符を投げつけると、紙製の符が空を切って天魔波旬の胴体に貼りついた。
「悪鬼退散! 急々如律令!」
天魔波旬の身体に貼りついた数枚の護符が一斉に燃え上がり、青白い炎となって黒い巨体を包み込む。
同時に、左右から二体の式神が首を狙って噛みつこうとする。
『ゴアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッ!』
しかし、直後絶叫が山に響き渡る。
限界まで裂かれた口から放たれた咆哮が術の炎を吹き飛ばし、式神の身体をかき消した。
妖気を込めて叫ぶ……ただそれだけの行動で、美森の攻撃があっさりと無効化されてしまった。
「嘘……でしょ……?」
美森は呆然とつぶやいた。
力の差があることは理解していた。勝ち目が薄いことも。
だが……ここまであっけなく自分の術が無効化されるだなんて思わなかった。
「勝てない……」
その絶叫は美森の戦意すらも消してしまったのだろう。
美森がガックリと地面に膝をつき、端正な顔を絶望に染める。
『グッフッフッフッフ』
美森が戦う意思を失くしたのを見て、天魔波旬がニヤリと笑う。
のっしのっしと、緩慢にすら感じさせる足取りで美森へと歩み寄っていく。
もはや戦いは終わっている。これから始まるのは一方的な蹂躙劇だ。
美貌の女陰陽師はありとあらゆる手段をもってして、天魔波旬を愉しませるための道具として使われるだろう。
そうなるはず。
あと少しでそうなるところだった。その男さえ、この場にいなければ。
「ああ、畜生! 今のは痛かったぞ!」
『グオッ……』
ズドンと大砲の弾がぶつかるような音がして、今度は天魔波旬の身体が吹き飛ばされた。
巨体がクルクルと放物線を描きながら吹き飛び、森の中に落下する。
「クソッ……一張羅が台無しじゃねえか! 女に買ってもらった思い出の服だぞこの野郎め!」
「あなたは……」
美森が放心した様子で瞬きを繰り返す。
先ほどまで天魔波旬がいた場所には、服が破れて上半身を剥き出しにした青年――蘆谷恭一が立っていたのである。
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