34.亡霊は忘れた頃にやってくる
「陰摩羅鬼……」
恭一が眉をひそめた。
知らないということではない。有名な妖怪だ。
十分な供養を受けていない死人の魂が怪鳥の姿に化けて、不十分な供養をした僧侶のところに現れるというものである。
黒い鶴によく似た姿をしており、瞳は蝋燭を灯したように怪しく輝き、妖しく呪わしい声で無念そうに鳴くという。
「有名な妖怪だな。確かに……だけど、それがどうしたって言いたくなるのだが?」
恭一は平然とした様子で、テーブルに置かれた茶菓子を掴んで口に放り込む。
「陰摩羅鬼は有名な妖怪ではあるが、所詮はそれだけ。たかが人間の幽霊が化けて生まれただけの怨霊だ。特別、強い力を持っているというわけでもない。そこらの退魔師にだって余裕で倒せるだろう?」
陰摩羅鬼はそれなりに名前が知られた妖怪だが、特に強いということはない。
無念そうに鳴くばかりで実害があるような妖怪でもないし、僧侶がキチンと供養したら消えてしまう程度の存在だ。
霊体のため物理攻撃が通用しないという点は厄介かもしれないが、それさえなければ簡単に倒せる妖怪である。
「私も主様に同感です。陰摩羅鬼が如き下等な怨霊、天竜様ほどの神が動じるほどの存在ではないのでは?」
「ところが……そうもいかないのです」
静の問いに溜息混じりに答えたのは、天竜ではなく横で控えていた玉袖である。
「最近、現れるようになった陰摩羅鬼はただの怨霊ではないのです。何故なら……彼らは三方ヶ原で死んだ武者の霊ですから」
「三方ヶ原って……あー……?」
静岡県の地名だった気がするが、いま一つピンとこなかった。
視線で問うと、玉袖が説明をしてくれる。
「三方ヶ原というのはこの近くの地名です。そして、私達が問題としているのは、かつてそこで行われた徳川と武田の戦いです」
「あー……三方ヶ原の戦いか。歴史のドラマで視た気がするな?」
恭一が曖昧に答えると、天竜がやれやれといった表情で口を開いた。
「最近の若者は歴史を軽んじておっていかんな……時は元亀三年! 織田信長を討たんと上洛を目指す武田信玄が、遠江ノ国へと攻め入った!」
「げ……」
天竜が得意げに話し始める。話し出して、しまった……。
しかも、今度は本題の仕事に関わる内容だったため、途中で止めるわけにもいかない。
一時間近くもかかって、恭一はバックボーンについてガッツリと教え込まれた。
「……つまり、その三方ヶ原の戦いで死んだ武者が陰摩羅鬼になって化けているわけか」
この一時間の話を要約すると、つまりはそういうことである。
三方ヶ原の戦いで死んだ徳川家康と武田信玄の兵隊が陰摩羅鬼になって山中を彷徨っており、日に日に数を増やしているとのこと。
おまけに、生前に敵対していることもあって彼らは互いに戦いを繰り広げており、このまま数が増えていけば、人間が巻き込まれる可能性もある。
「俺の記憶が確かなら、陰摩羅鬼は死んだばかりの人間が転ずる妖怪だろう? どうして、連中が死んでから四百年以上も経ってから化けて出てくるんだよ」
「それがのう……」
「彼らを鎮めていた祠が壊れてしまったのです」
父親が長話を始めようとしている気配を察して、玉袖が口を挟んだ。
「三方ヶ原の近くの山に、当時の退魔師達が武者の魂を鎮めるために祠を作っていたのです。古くて小さな祠はボロボロになっていたのですが、霊験あらたかで武者達は静かに眠っていました。しかし……天竜川に住んでいる河童の子が山の中で遊んでいて、ふざけて相撲をとっていた際に、うっかり祠を壊してしまったのです」
「……眷属の妖怪共が仕出かしたこと。我らも放置しておくわけにはゆかぬ」
説明を取られた天竜が不満そうに唇を尖らせて、娘の言葉に続く。
「本来であれば眷属の不始末はこの手でどうにかするところだが……ワシが迂闊に動けば、活性化した川が氾濫を起こす可能性がある。『暴れ天竜』の再来ということじゃな」
「それは困るな……いや、俺は困らないが」
恭一は困らずとも、静岡県民は困るだろう。確実に。
「地元の術者に依頼をしても良いのですが……こちらの不手際をあまり広めたくはないのです。できることなら、騒ぎになる前に内々に片付けたいと思っています」
つまり……自分達の失態を広めたくはないということだろう。
神であっても……否、神であるからこそ醜聞を嫌うということなのかもしれない。
「無論、タダ働きをさせるつもりはない。報酬は十分に支払おう」
「……一応、報酬の内容を聞いても良いか?」
以前の静のように、密漁した養殖真珠を渡されたら敵わない。
結果的には、美人で献身的な式神を手に入れたから良かったのだが。
「ウム、これでどうじゃ?」
「ッ……!」
天竜が軽く手を叩くと、テーブルの上に小判の山が出現した。
現代の貨幣ではもちろんない。
いつの時代の物かはわからないが……少なくとも、江戸時代以前のものと思われる。
「これって……それなりに値打ちがあるものなんじゃ……?」
小判の一枚を手に取ってみると、ずっしりと重い。
本物の金が使われているに違いない。
「大昔、川の氾濫を鎮めてくれと奉納してきおった奴がいてのう。使い道もないので、ずっとしまっておったんじゃよ」
「…………」
この小判にどれくらいの金が含まれているのかは知らないが、1gあたりの値段が九千円強。小判一枚あたり、どれほど低く見積もったとしても百万円を下回ることはあるまい。
「それがおよそ百枚か……」
換金の手間はかかるが、日本円で一億円ほど。
恭一が2級退魔師に昇進したことを考慮しても、報酬として十分である。
「乗った……その仕事、俺が受けよう!」
恭一が小判を握りしめて、力強く頷いた。
試験が終わって優雅に観光とはいかなかったが、大口の仕事を得ることができた。
瞳を金色に輝かせて、恭一はホクホク顔で仕事を受け入れたのである。