この鐘が鳴り終わるまで:シンデレラ
「お姫様はかぼちゃの馬車に乗って、舞踏会に出かけたんだよ」
お話をしてくれた「魔法使い」は、秘密だというかのように人差し指を唇に当てた。
「舞踏会? パンとかある?」
「そうだね、たくさん」
「お肉もある?」
「そうだね、たくさん」
「あまいもの、お菓子とか…ええと、ケーキとかも?」
「そうだね、たくさん」
「魔法使いってすごいんだね」
「そうだよ、すごいんだ。それにお姫様が舞踏会で踊れるように、すてきなドレスを用意して、ガラスの靴を履かせたんだ」
「ガラスって靴にできるの?」
「できるよ、魔法使いだから。魔法使いはなんだってできるんだから」
「じゃあ、お兄ちゃんも魔法使いだ。呪文だって教えてくれるもの。王子様に会ったときに困らないように、挨拶だって教えてくれたじゃん」
「”呪文“なんだね」
彼は笑った。
「魔法使い」に会ったのは偶然だった。
はじめに父がいなくなった。
食べるものがなくなって、母たちに食べさせるものを探すため通りをうろついていたら、彼に拾われたのだ。
連れて行かれたのは倉庫だった。短く切った髪で男の子だと思われたらしい。
小綺麗な服は目立つと着替えさせられ、他の人たちにも会わせてもらえなかったけど、本を読ませてもらえたし、パンを貰えることもあったから気にならなかった。
家にはいろいろな本があった。
父は本を買うために酒を売り払うような人だったから、本だけはたくさんあった。人前では許されなかったが、書斎には鍵はかかっていなかったから、行けばいくらでも読めた。
父がいなくなって本は少しずつ減っていったから、今、どのくらい残っているかはわからないが。
「これはなんて読むの?」
「ネズミだね」
「ネずミ? ネズみ?」
ここでは、女が字を読めることを隠さなくて良い。書いても変な目で見られない。
暖炉の灰を集めて、焦げた木の棒を使って。いくらでも書ける。
父から教わったものと綴りは違うけれど、書ける言葉も増えていった。髪が伸びて、数字を覚えて、計算も覚え、地図も読めるようになったころ、彼が帰る時間が少しずつ遅くなっていった。
「お話の続きをしてくれる?」
「じゃあ、大砲の花咲く国の話をしようか」
喧騒の中、彼の周りだけが静謐に感じられた。
…静謐。静かで厳かな感じ。
これも彼から教わった。
殴られて動けなくなった彼が、「仲間」に連れられて帰ってきたことがある。
「お兄ちゃんっ」
「お前が『カール』か?」
男の目を見て、それから何日かたって、彼が「仲間」とやらになかなか会わせなかった理由を知った。
この国は、狭間にあった。大きな国ととても大きな国の。大きな国は、言葉も神様も何もかも自分たちと同じようにしたがっていて、だから、金色の髪の母たちは「美人」だったし、自分はそうじゃなかった。
父が何を思って娘に字を教えたのかはわからない。しかも、とても大きな国の字を。
だが、文字を読めることは、彼と、「仲間」たちと生きる上で、確かな「力」となった。
「お話の続きをしてくれる?」
彼女はあどけない顔で微笑んだ。
「シンデレラが幸せになったか知りたいの」
「また、その話?」
「だって、他に知らないんだもの」
ロッタは口をとがらせ、でも目を輝かせて膝の上に乗ってきた。
「ロッタ」
「ロッタじゃないもん、今は」
「じゃあ、ロッテ」
「なあに? お姉ちゃん」
ロッテは自分が「見つけた」子だ。打ち捨てられた屋敷の片隅で眠っていた。屋敷といっても元屋敷で、壁には穴が空き、埃をかぶったカーテンやシーツもぼろぼろだった。夏場だったからか暖炉はしばらく使った形跡がなかったが、焚べられていたのは薪ではなく、本だった。触ると崩れてしまったので、内容を確かめることはできなかったが。
ふたりきりになったときには、ロッテは「ロッテ」と呼ばないと返事をしない。もう泣くことはなくなったが、顔を曇らせる。「ロッテ」は、彼から教わった、自分が使える「呪文」の一つだ。
うろついている子どもたちを集め、食べ物を与え、文字を、言葉を教える。それが、今の自分の「役目」だ。
男の子でも女の子でも、自分の名前を書けて読めて、誰かに伝えることができるように。
狭間の国の言葉を、とても大きな国の言葉を。
狭間の言葉を書いて話せる子たちは喜ばれた。
とても大きな国の言葉を話せ、読め、書ける者は少なかったから、子どもたちを「仲間」になかなか会わせなくても、それほど酷い目に遭うことはなかった。
彼の後を継いで、新たな「魔法使い」と自分はなったのだ。
『ロッテ、走って!』
その年の春の終わりは早かった。いつもなら種を蒔き、柔らかい雨の中、作物が芽吹くのを待つ時期だったのに。
大きな国の人たちと同じような色の、麦色の髪をしたロッタは、いやロッテは目立った。成長期に充分に食べることのできなかった自分の背はあまり伸びなかったから、ロッテとはもう、並ぶくらいになった。「仲間」たちからの要求に抗いきれるのもあとしばらくだろう。
彼は言っていた。魔法使いとそうではない者との違いについて。呪文を知れば、世界を知ることができると。呪文がわかれば魔法を伝えることができるのだと。
彼は言っていた。魔法使いの大いなる力について。過去を学び、未来を視ることができるのが最も重要な力なのだと。
いなくなった父も魔法使いのはしくれだったのかもしれない。娘たちには魔法を伝えることなく、去ってしまったが。
狭間の国で育てられたロッテは、文字を知らなかった。だが、知ることを楽しむことができる、数少ない子だった。
だから、教えた。狭間の国ととても大きな国の文字と言葉を。そして、二人きりのときには、大きな国のものを。
大きな国の人たちと同じ色を持ち、狭間で育つロッテには、未来がなかった。あと三十年早ければ、あるいは遅ければ、違ったのかもしれない。つらい目にあいながらも、幸せになった少女となれたのかもしれない。
だから、教えた。かぼちゃの馬車の乗り方を。お城への行き方を。
とても大きな国の言葉を知る自分は、魔法を使うことができたのだ。
殴られたとき、何が起きたのかわからなかった。
いなくなる子どもたちは毎日そこそこいるのに、ロッテがいなくなったことがなぜ問題となるのかがわからなかった。
「見逃してもらえるとでも思ったのか?」
銃を突きつけられ、裸足で瓦礫の上を歩くよう促されて悟る。
ああ「仲間」たちは、ロッタにドレスを着せて舞踏会に出そうとしていたのか。
…王妃様になったら、歩くことなんてなくなるのだから。
母親は靴に合わせて踵を切り取るように、娘にナイフを渡しました。
血が流れる。
だが、蹴られ、割れたガラスの上に倒れても、シャツを羽織っただけの身体につく傷を痛いと感じることはもうない。
だいじょうぶ、魔法はまだ続いている…
シンデレラが、王子様と会って幸せになったのかわからない。光を浴びて、輝いて、幸せになるのか、なれるのか、自分には答えが出せない。
でも…
見上げた空に浮かぶ、大砲の花。向こうには、煌びやかな世界が広がる。
「シャルロッテ」
「シャルロット」
「シャルロッタ」
「シャーロット」
「カルロッタ」
「カール」
「ロッタ」
「ロッテ」
さまざまな国の言葉で自分を呼ぶ、魔法使いたちのー父と彼のー声が聞こえる。
だいじょうぶ、魔法は続いている。だって、明日は来るのだから。
手を持ち上げて胸に当てる。
胸の奥では鐘が鳴り響いていた。
◼️本の紹介
・「君や知る、大砲の花咲く国を」:ナチスドイツによって軍事化するドイツをおちょくったエーリッヒ・ケストナーの「成人向け」詩集。
ケストナー:代表作「エーミールと探偵たち」「飛ぶ教室」「二人のロッテ」
※主人公たちの名前の元ネタ。当初、主人公の名前はエーリヒとかエーリクとかする予定だった(「魔法使い」の名がシャーロット)。何があったかぼかしきれなくて、「魔女」を師匠とするのを諦めた。
・「白雪姫」恩田陸著。アイデアの根幹にある話。光村図書「飛ぶ教室」に掲載された、確か、手術に臨む子を見守る父親の独白の物語。
◼️元ネタ
歌劇「レ・ミゼラブル」より「民衆の歌」。
J1サッカーチーム、横浜F.マリノスのホームゲームでの選手入場の際に歌う。歌詞の一部に(胸の)鼓動がドラムと響き合うというような文言がある。
鼓動を鐘の音に、ドラムを銃の音(多分、歌詞では大砲の音)に準えたのが、この「シンデレラ」。