きみの家は坂の上
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ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります。
【春】
ぜえぜえと息を切らしながら、おれは自転車を漕ぐ。雪のようにひらひらと舞う桜の花びらが、ほっぺたに貼り付く。口の中にも入り込む。おれは、それを少し咀嚼して飲み込んだ。ペダルを踏む脚は、もうパンパンで、早く休みたいと悲鳴を上げている。
うりゃっ。
声と共に、おれは気合いでペダルをまた踏み込んだ。
本来、気合いとか、根性とか、そういう熱血っぽいのは大嫌いだ。しかし、こればかりは仕方がない。
ヒイロの家は、坂の上にある。
坂の下の世界は、いつもお祭りみたいな騒ぎで、すごく賑やかだ。
ヒイロは、会うたびにおれのことを羨ましがる。
キミドリはいいなあ、キミドリはいいなあ。
いいことなんて、そんなことは全然、本当に全くないんだけども、おれは笑って、羨ましいだろう、と胸を張って見せる。そのほうが、きっとヒイロが楽しいだろうから。
ヒイロの家に行く時は、いつもおみやげを持って行く。おれは、自転車のカゴに、ヒイロの好きなものをたくさん詰めて、にやにやと笑みを浮かべる。
ヒイロの笑顔は、いつも想像の上の、さらに上からおれを照らす。ヒイロが笑うと、胸のあたりから、身体全体に、熱がじわっとひろがって、どうしようもなくうれしくなる。それは、もう無条件にそう。
つまり、おれはきっと、ヒイロのことが好きなのだ。
背が低い。筋肉が付かない。身体が細い。色が白い。声が高い。おっぱいが大きい。
それが、ヒイロの悩みごと。
本来あるはずだったものが、ヒイロにはないのだ。
以前、ヒイロが言ったことがある。
本当は、男として生まれてくるはずだったのに。
それが、ヒイロの悩みごと。
じゃあ、ヒイロを好きなおれは、同性愛者ってことになるのかな。
さらりと、軽く聴こえるように伝えたおれの告白。
ヒイロは、目を見開いて、大きく深くうなずいた。
本当に、そうなんだよ。そういうことなんだよ。
小さく小さく笑ったヒイロを、おれは、やっぱり好きだと思った。
ごめんね、とヒイロは言う。
長いまつげが、かすかにふるえていた。
ごめんね、ぼくは女の子が好きなんだ。男として、女の子が好きなんだ。
ヒイロは泣いた。おれは、泣くのを我慢した。
あやまることなんてない。
おれの言葉に、ヒイロは顔をゆがませて笑った。泣きながら笑った。
あの時、なんで泣くのを我慢してしまったのか、よくわからない。
泣いておけば良かった。後になって、そう思った。
ヒイロと一緒に涙を流す。そんなチャンスはきっと、後にも先にも、あの時一回きりだった。
以来、ヒイロは、泣かなくなった。
桜の花びらにまとわりつかれながら、最後のひと漕ぎ。やっと、てっぺんに到着した。ヒイロの家は、すぐ目の前だ。
おれは自転車を停め、カゴに詰まったおみやげを袋ごと抱える。
漫画雑誌数か月分とおすすめのCDを三枚。
それから、おやつは焼きたてのギョウザ。残念ながら、坂道を上っている間に、焼きたてではなくたってしまったけれど。
あと、缶ビールも。やっぱり、ぬるくなってる。
落とさないように、よいしょと抱える。
あけて。
扉の前で大声を出す。
あけて。
ヒイロが笑いながら顔をのぞかせる。
来たね、キミドリ。また両手をふさいでくれてるの?
ヒイロは、淡く明るい緑色をふわりと着流していた。かっこいいな、とおれは思う。うぐいすみたいだ。
おれたちは、縁側に座っておみやげをひろげる。
この漫画、ギョウザくさくなってる。
ヒイロが言った。
CDもな。
おれが言うと、ぐふっ、と変な声をもらして、ヒイロが笑う。
ヒイロは、ポンコツのプレイヤーを持ってきて、CDをかけた。春の歌が流れ始める。スピーカーがばかになっているのか、音がペコスコしている。でも、なんとも味のある音だ。
いま、坂の下はどうなってるの?
ギョウザを食べながらヒイロが尋ねる。
おいしい。
ヒイロは笑う。
おれは、ぬるいビールを飲みながら、坂の下は桜が満開だ、と話す。
坂道の桜、見えるだろ?
指さすと ヒイロは坂道に目を向け、うん、とうなずく。
あれよりも、もう少しだけたくさん咲いてる。
あれよりも? すごいね。
それで、キリンが大量発生して大変だ。
キリンが?
ヒイロは、目をきらきらさせて問い返す。
異常気象のせいだと言われてるけど、本当かどうかはわからない。とにかくね。街のいたるところにキリンがいるんだ。おれよりもでかいのが、うろうろしてる。小さいのもいる。でかいのもかわいいが、子どものキリンもかわいいぞ。お母さんについて、よろよろ歩いてる。でかいのも、小さいのも仲がいい。おだやかな目をして、ゆっくり歩いてるよ。
いいなあ。
ヒイロが呟いた。
キリンはいいなあ。キミドリはいいなあ。
ヒイロも、坂の下においでよ。
ヒイロは、微かに首を振った。
そっか。
おれは呟いて、ギョウザを食べる。ごくごくとビールを飲む。苦い炭酸が、ちりちりとのどを通っていく。頭がふわふわしてきた。せっかくの坂道だけど、自転車は押して帰ろう。
風が吹いて、花びらが乱舞する。
ヒイロの短い髪の毛が、ほんの少し揺れた。ヒイロは、静かに目を閉じている。
明るい色の桜の木と、つぶらな瞳のキリンを、きっと思い描いているのだ。
【夏】
セミがしゃわしゃわと歌っている。
夏の最初、先輩に原動機付自転車をタダで譲ってもらった。タダなので、当然オンボロだ。
ギョウザ2号と名付けた。1号は、いままで世話になった自転車ってことで。
プスプスと歌いながら、ギョウザ2号は坂道を上る。セミの歌に負けじと、懸命に奏でる。
ヘルメットをかぶった頭が、暑くて仕方がない。だらだらと汗が流れた。
逃げ水に追いつけ追い越せで、ゆっっくりと進む。
ひょっとして、自転車のほうが早かったのでは。
そう疑念を抱いてしまうくらいに、ギョウザ2号の歩みはのんびりしていた。でも、もうすぐだ。ヒイロの家が見えてきた。もうすぐ、てっぺん。
逃げ水が、ゆらゆらしている。
プスン。
ギョウザ2号が、やれやれといった様子で息を吐いた。
おれは、シートの下からおみやげの袋を抱え上げる。
今日は、いつにもまして、荷物が多い。
大人買いしてしまった漫画の単行本がいちばんかさばった。シートの下に入りきらなかったので、大きなリュックに入れて背負っている。おかげで、背中が汗でベタベタだ。抱えた袋には、新しいCDと、こまねこのぬいぐるみ。おやつは、ギョウザ。当然、ぬるい缶ビールも。あと、おれは今日はラムネ。ラムネもぬるい。
アイスクリームも持って行こうと思ったのだけれど、溶けるのでやめた。
あけて。と、扉の前で叫ぶ。
ヒイロは笑顔で迎えてくれる。
来たね、キミドリ。
縁側は、思ったよりも涼しかった。外と内の、間の空間だからだろうか。
りりりん、と風鈴が鳴る。お寺のような形をしている。渋い。音は、澄んでいてきれいだ。
どうして、いつまで経ってもあの子のCD持って来てくれないの? 毎回、さりげなくお願いしてるのに。
ヒイロがある女性アイドルの名前を口にした。
うん。
おれは曖昧にうなずいた。
うん。
言い淀んで、言い淀んで、覚悟を決める。
嫉妬だ。
さらりと聴こえるように言う。
嫉妬。
ヒイロは、おれの言葉をそのまま繰り返した。
前に言ってたじゃないか。この子の声、好きだって。ぐっとくるって。かわいいって。だからだな。なんとなく、おもしろくなかったから。
ぐふっ。
ヒイロが変な声をもらした。笑っているのだ。
おれは唸る。抗議のつもりだ。
いいよ。
ヒイロは言った。笑いながら。
あの子のCDは、気が向いたらでいいよ。ぼく、キミドリがすすめてくれる音楽も好きだ。
ヒイロはポンコツプレイヤーに、CDをかける。スピーカーがペコスコと歌い始めた。
一緒にペコスコ歌いながら、ヒイロは缶ビールを飲む。調子っぱずれの歌声が心地いい。飲みながらうたうので、声が泡でぼこぼこしている。
ビール、ぬるいよ。
ヒイロは笑う。
この、ぬいぐるみはどうしたの。かわいいね、こまちゃん。
ヒイロは、ぬいぐるみを抱いて、自分の膝に座らせた。
今日のヒイロは、涼やかな水色を、すっきりと着流している。こまねこの橙色が際立つ。
こまちゃん、ギョウザのにおいがするね。
ヒイロは、ぐふっ、と笑った。
つくったんだ。
おれは言った。
つくった? ギョウザを?
ううん。ぬいぐるみを。
つくったの? こまちゃんを? キミドリが?
うん。
ヒイロは、目を見開いた。そして、うれしい、と呟いた。
うれしい。ありがとう。うれしい。
ヒイロは、うわずった声で繰り返す。
そんなによろこんでもらえるとは、思っていなかった。
おれだって、うれしい。ヒイロがよろこんでくれて、うれしい。そう思ったけれど、言葉にならなかった。代わりに、ラムネの瓶を傾けて、飲み干した。
暗くなってきた。
ゆらり、ひらり、と蛍が飛んでいる。飛んだ跡が、光の線になって見える。きれいだ。
坂の下では、花火が上がったみたいだ。ちょうど、見下ろす形で、色とりどりの花が咲く。
坂の下では、見上げるんでしょう。
ヒイロが言う。
空に咲く花を、見上げるんでしょう。
おれはうなずく。
りん。りりりりりん。風鈴が鳴った。火薬のにおいが、微かに鼻孔をくすぐったような気がした。気のせいかもしれない。
ヒイロ、坂の下においでよ。一緒に、花火を見上げようよ。
おれは言った。
ぼくみたいなのは、坂の下では暮らせないよ。
ヒイロは困ったように言う。
人間って、基本的に意地悪でしょう。意地悪されるのって、悲しいでしょう。悲しくて悲しくて、生きていられなくなっちゃうでしょう。ぼく、こんなふうだけど、でも、まだ生きていたいんだ。だから、ぼくはここにいる。ここは、日本一安全だもの。キミドリも来てくれるから、寂しくない。だいじょうぶ。
ヒイロは、静かに言った。
ぼくは、男でも女でもないから。そいういう変わり種は、どんなに隠れていたって、すぐに見つかって、意地悪されちゃうよ。
ああ。
おれは声をもらす。
逆だと思ってた。
逆?
ヒイロが問い返す。
ヒイロは、男でも女でもあるんだと、おれは思ってた。
ヒイロは、黙ってしまった。黙って、黙って、そして、すっきりと笑った。
そうだね。そっちのほうが、いいね。お得な感じがするもんね。
ヒイロは、こまねこのぬいぐるみをぎゅっと抱いて、目を閉じる。
男とか、女とか、本当は関係ないんだけどな。おれは思う。そういうことに、いちばんとらわれているのは、ヒイロ自身なのかもしれない。
おれも、ヒイロの真似をして目を閉じてみた。
りん。
音楽に混じって、涼やかな音が聴こえる。なまぬるい風が風鈴を揺らしたのだろう。
おれ、女だったらよかったかもしれない。
心の内を、声に出てしまったらしい。ヒイロが、ぐふっと笑った。
キミドリは、いいなあ。
ヒイロは言った。
キミドリは、ぼくのことを、女なのに、とか、男だったらとか、そういう言い方をしないよね。ぼくを否定しないよね。
否定するところがないじゃないか。
おれは言う。
ぼく、キミドリのそいうとこ、あいしてる。
ヒイロは、笑った。
だから、キミドリ。自分を、否定しないでね。キミドリは、キミドリのままでいいじゃない。
そう言って、笑った。
その言葉、そっくりそのまま、おまえに返すよ。おれは思う。ヒイロは、勘違いをしている。自分を否定してるのは、おまえ自身じゃないか。
キリンは、どうしてる?
ヒイロが言った。
春に、大量発生したキリンは、元気にしてる?
うん。
おれはうなずいた。
キリンは、元気だ。自動車よりも、元気に歩いてるよ。
本当は、一部の大きなキリンは駆除されてしまった。増えすぎたのだ。だけど、おれは、ヒイロに本当のことが言えなかった。
よかった。
ヒイロは、呟いた。
よくないんだ。
おれは、心の中で呟いた。
【秋】
落ち葉が、ギョウザ2号の行く手をガサガサと阻む。ギョウザ2号は、負けじと、プスプス歌いながら坂道を上る。
風はない。天気は、晴れ。とてもすごしやすい一日になるでしょう。そう思った瞬間、風が強く吹き、ガサガサと落ち葉を舞い上げた。視界がさえぎられて、おれは危うく、ギョウザ2号ごと坂道の端っこから転がり落ちるところだった。
転がり落ちてしまったら、お祭りみたいな騒ぎに巻き込まれて、うるさくてうるさくて、わけがわからなくなって、おれは自分のことを忘れてしまうかもしれない。そう思って、少し震えた。
だけど。
ふと、思う。
静かすぎても、自分のことを忘れてしまうんじゃないだろうか。ひとりで考える時間が多すぎて、わけがわからなくなってしまうんじゃないだろうか。
ヒイロ、どうなの。
心の中で呟いて、体勢を立て直し、おれは鼻歌を歌いながら、ゆっくりと坂道を行く。
ジャケットの、内ポケットを確認する。今日は、ひとつ、スペシャルなおみやげを持って来たのだ。良かった。スペシャルは無事だ。
プスン。
ギョウザ2号のエンジンを止め、おれは、いつものように、おみやげの入った袋をシートの下から抱え上げた。
漫画は、夏にたくさん持ってきたので、今回はやめておいた。ヒイロの希望に沿って、あの女性アイドルのCDをちゃんと持ってきた。あとは、こまねこのDVD。それから、やっぱりギョウザ。秋味の缶ビールも、ちゃんと。魔法瓶のレモンティーは、おれのぶん。
そして。
おれは、内ポケットを触る。中のスペシャルが、ふるり、と震えた。
あけて。
いつものように叫ぶと、ヒイロは、玄関ではなく庭のほうからやってきた。ススキを、何本か、束にして持っている。ヒイロの歩調に合わせて、ススキは、ふわんふわんと揺れた。
ヒイロは、薄紫色を、きっちりと着付けていた。その色に、おれは月明かりを思う。
来たね、キミドリ。
ヒイロは、にこりと笑った。
縁側で、胸ポケットからスペシャルを出して見せた。
あ!
ヒイロは、声を上げた。
キリンだ!
マグカップくらいの大きさの、小さなキリン。てのひらに乗せて、ヒイロに差し出してやると、ヒイロは両手を出して、おっかなびっくり受け取った。
小さいだろ。
おれが言うと、ヒイロはうなずいた。
かわいい。
ヒイロが笑ったので、おれも笑った。ヒイロの頬は、興奮で桃色に染まっている。
小さいキリンは、まだ駆除の対象にはなっていない。けれど、遅かれ早かれ駆除命令が下るんじゃないかと思う。やっぱり、増えすぎたのだ。そうなる前に、ヒイロに見せたかった。
この子、おかあさんは?
ヒイロが言った。
お母さんはいない。
おれは言う。大きいキリンが駆除されたということは、やっぱり言えない。黙っていると、
はぐれたんだね。
ヒイロは、勝手にそう解釈してくれた。
縁側の空気は冷たい。半袖で来るんじゃなかった、と、おれは少し後悔していた。脱いだジャケットを、また羽織る。
ヒイロは、ススキを花瓶に生けてから、満面の笑みで、CDをポンコツプレイヤーにかけた。ペコスコと音が踊る。
いいね、やっぱり。
ヒイロが秋味の缶ビールを飲みながら言った。
かわいいね、声。
うん。
おれはうなずく。魔法瓶のあたたかいレモンティーから、ふるふるとゆげが上がる。
こまねこのDVDのパッケージをしげしげと眺めながら、ヒイロはにこりと笑う。
素敵だね。こまちゃんが、動くんだね。
そして、残念そうな顔をした。
うち、DVDプレイヤーはないんだ。
え。そうなの。
おれは、箸からギョウザを取り落としてしまう。
今度、持ってくる。ポータブルDVDプレイヤー。
そう言うと、ヒイロはすまなそうな顔をした。
いつも、わるいなあ。
そんなことはない。
小さいキリンを膝にのせて、ヒイロは首をかいてやっていた。キリンは脚を折りたたんで、気持ちよさそうに目を閉じている。
この子、ずっとうちにいてもいいかな。
いいよ。
おれは即答した。法律的にどうなのか。いいのかいけないのか、本当のところはよくわからない。でも、ここは坂の上だから、別にいいんじゃないかと思う。坂の下のことは、ここではあまり関係ないから。キリンも、ここにいたほうが安心だ。ここは日本一安全な場所だと、ヒイロは言うのだから。
大事にしてやって。
おれが言うと、ヒイロは、もちろん、と呟いた。
いつの間にか、目の前に、でっかい月が浮かんでいる。
ススキがふわりと風に揺れた。
【冬】
ふわふわと軽い雪が降っている。おれは、歩いて坂道を行く。冬は、ギョウザ2号が使いものにならない。雪の坂道でのスリップがこわいのだ。
背負ったリュックには、ポータブルDVDプレイヤー。冬味のビールと、ギョウザも入っている。ギョウザはきっともう冷たくなっているだろう。今回のおみやげは、それだけだ。DVDプレイヤーが思いの外、重たかったのだ。
坂の半分くらいまで歩くと、唐突に雪が止む。止むと感じるだけで、本当はまだ雪は降り続いている。雲を抜けたのだ。
雲を足元に見下ろして、それから、そのまだ下の、坂の下の世界のことを思う。
坂の下は賑やかだ。楽しいこともあるが、つらいこともある。きれいなものもあれば、きたないものもある。いろんなものが混ざり合って、うるさいのが坂の下の世界だ。
ここは、こんなにも静かだ。
おれは、坂道の真ん中で思う。
坂の下の一切を切り捨てたヒイロ。切り捨てたつもりの、ヒイロ。それならば、どうしておれがヒイロの家を訪れるのを許すのだろう。
ぜえぜえと肩で息をする。ヒイロの家に着くころには、すっかり汗びっしょりになっていた。
あけて。
いつものように叫ぶ。
玄関から顔を出したヒイロは、薄い卵色の上に紺色綿入れを羽織っていた。
キミドリ、きみまさか歩いて来たの? 汗びっしょりじゃないか。
ヒイロは、そう言って笑った。
さすがに縁側は寒いので、居間のこたつを勧められた。おれは遠慮なく、こたつに入り込む。
ヒイロの家は、基本的に外と同じくらいの温度で、おれの汗はすぐに引いてしまった。
坂の下では、雪が降ってる?
ヒイロが尋ねてくる。
降ってるよ。
おれは答えた。
白い花びらみたいで、きれいだ。
ヒイロは少し笑った。
おれは、ポータブルDVDプレイヤーをリュックから取り出した。
本当に持って来てくれたの?
ヒイロは感動したように言い、こまねこのDVDを持って来た。
それを観ながらヒイロは、かわいいね、とうれしそうに笑っていた。
冷たいビールをごくごく飲んで、冷たいギョウザを食べるヒイロは、なんだかごきげんに見えた。小さなキリンが、こたつの上に立って、ヒイロを見ている。だからなのかもしれない。
坂の下には、こまちゃんがいるの?
ヒイロが言った。
いや、いないな。
おれは首を振る。
でも、猫はたくさんいるよ。こまちゃんみたいには動かないけど、おもしろい動きをするから見ていて飽きない。
いいね。
ヒイロは、ため息みたいに言った。
春になったら。
ヒイロは呟く。
春になったら、下りてみる。坂の下に。
おれは目を見開いた。
桜が、きれいなんでしょう?
そうだ、と肯定する言葉は声にはならず、おれはただただうなずいた。
ヒイロはおれの様子を見て、微笑んだ。
その顔を見て、おれは有頂天になる。
猫もキリンも、たくさんいるんでしょう? この子のおかあさんも見つかるかもしれない。ぼく、探してあげる。
ヒイロの言葉に、おれは唇を噛んだ。
ヒイロは、小さなキリンの首をかいてやっている。
本当は。坂の下は、楽しいことやきれいなことばかりではない。ヒイロが以前言ったように、意地悪なことが待ち構えているかもしれない。
キリンは、ほぼ全て駆除されてしまった。ヒイロはそれを知らない。おれがうそを教えたから。
坂の下は、うそにまみれて、悪意にまみれて、きたない感情にまみれて、もがいてももがいても、きれいな空気が吸えないかもしれない。おれだって、そういうふうにずぶずぶに汚染されているのだ。
それでも、おれはヒイロを坂の下に連れて行きたかった。うそをついてでも、この静かで寂しい坂の上の家から、ヒイロを連れ出してみたかった。
だって、坂の下には、きれいなものだって確かにあるのだから。楽しいことだって確かにあるのだから。
虐げられて地べたを這いずり回っても、希望が全然見えなくても、それでももがくのをやめないひとたち。笑うのをやめないひとたち。進むのをやめないひとたち。待つのをやめないひとたち。叫ぶのをやめないひとたち。生きるのをやめないひとたち。そういう素晴らしいひとたちが、確かに存在しているのだから。
人間は、基本的には意地悪だ。それでも、優しいひとだって確かにいるんだ。
それは、もしかしたら偽りの優しさかもしれない。それでも、うそでもひとに優しくしているうちに、その優しさは本当になるかもしれない。そういう奇跡が、坂の下では時々起こる。
だから、ヒイロだって、坂の下でも生きていけるよ。生きていけないことなんて、全然ないんだ。
おれは、迷いながら口を開く。
ヒイロに伝えなければいけないことが、たくさんあった。
春になったら、迎えに来てよ。
ヒイロは無邪気に言う。
了
ありがとうございました。




