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きみの家は坂の上

作者: 相沢ごはん
掲載日:2023/05/20

pixiv、個人サイト(ブログ)にも同様の文章を投稿しております。


ご都合主義のゆるふわ設定なので、細かいことは気にせずふんわり読んでいただけると助かります。

【春】


 ぜえぜえと息を切らしながら、おれは自転車を漕ぐ。雪のようにひらひらと舞う桜の花びらが、ほっぺたに貼り付く。口の中にも入り込む。おれは、それを少し咀嚼して飲み込んだ。ペダルを踏む脚は、もうパンパンで、早く休みたいと悲鳴を上げている。

 うりゃっ。

 声と共に、おれは気合いでペダルをまた踏み込んだ。

 本来、気合いとか、根性とか、そういう熱血っぽいのは大嫌いだ。しかし、こればかりは仕方がない。

 ヒイロの家は、坂の上にある。

 坂の下の世界は、いつもお祭りみたいな騒ぎで、すごく賑やかだ。

 ヒイロは、会うたびにおれのことを羨ましがる。

 キミドリはいいなあ、キミドリはいいなあ。

 いいことなんて、そんなことは全然、本当に全くないんだけども、おれは笑って、羨ましいだろう、と胸を張って見せる。そのほうが、きっとヒイロが楽しいだろうから。

 ヒイロの家に行く時は、いつもおみやげを持って行く。おれは、自転車のカゴに、ヒイロの好きなものをたくさん詰めて、にやにやと笑みを浮かべる。

 ヒイロの笑顔は、いつも想像の上の、さらに上からおれを照らす。ヒイロが笑うと、胸のあたりから、身体全体に、熱がじわっとひろがって、どうしようもなくうれしくなる。それは、もう無条件にそう。

 つまり、おれはきっと、ヒイロのことが好きなのだ。


 背が低い。筋肉が付かない。身体が細い。色が白い。声が高い。おっぱいが大きい。

 それが、ヒイロの悩みごと。

 本来あるはずだったものが、ヒイロにはないのだ。

 以前、ヒイロが言ったことがある。

 本当は、男として生まれてくるはずだったのに。

 それが、ヒイロの悩みごと。

 じゃあ、ヒイロを好きなおれは、同性愛者ってことになるのかな。

 さらりと、軽く聴こえるように伝えたおれの告白。

 ヒイロは、目を見開いて、大きく深くうなずいた。

 本当に、そうなんだよ。そういうことなんだよ。

 小さく小さく笑ったヒイロを、おれは、やっぱり好きだと思った。

 ごめんね、とヒイロは言う。

 長いまつげが、かすかにふるえていた。

 ごめんね、ぼくは女の子が好きなんだ。男として、女の子が好きなんだ。

 ヒイロは泣いた。おれは、泣くのを我慢した。

 あやまることなんてない。

 おれの言葉に、ヒイロは顔をゆがませて笑った。泣きながら笑った。

 あの時、なんで泣くのを我慢してしまったのか、よくわからない。

 泣いておけば良かった。後になって、そう思った。

 ヒイロと一緒に涙を流す。そんなチャンスはきっと、後にも先にも、あの時一回きりだった。

 以来、ヒイロは、泣かなくなった。


 桜の花びらにまとわりつかれながら、最後のひと漕ぎ。やっと、てっぺんに到着した。ヒイロの家は、すぐ目の前だ。

 おれは自転車を停め、カゴに詰まったおみやげを袋ごと抱える。

 漫画雑誌数か月分とおすすめのCDを三枚。

 それから、おやつは焼きたてのギョウザ。残念ながら、坂道を上っている間に、焼きたてではなくたってしまったけれど。

 あと、缶ビールも。やっぱり、ぬるくなってる。

 落とさないように、よいしょと抱える。

 あけて。

 扉の前で大声を出す。

 あけて。

 ヒイロが笑いながら顔をのぞかせる。

 来たね、キミドリ。また両手をふさいでくれてるの?

 ヒイロは、淡く明るい緑色をふわりと着流していた。かっこいいな、とおれは思う。うぐいすみたいだ。

 おれたちは、縁側に座っておみやげをひろげる。

 この漫画、ギョウザくさくなってる。

 ヒイロが言った。

 CDもな。


 おれが言うと、ぐふっ、と変な声をもらして、ヒイロが笑う。

 ヒイロは、ポンコツのプレイヤーを持ってきて、CDをかけた。春の歌が流れ始める。スピーカーがばかになっているのか、音がペコスコしている。でも、なんとも味のある音だ。

 いま、坂の下はどうなってるの?

 ギョウザを食べながらヒイロが尋ねる。

 おいしい。

 ヒイロは笑う。

 おれは、ぬるいビールを飲みながら、坂の下は桜が満開だ、と話す。

 坂道の桜、見えるだろ?

 指さすと ヒイロは坂道に目を向け、うん、とうなずく。

 あれよりも、もう少しだけたくさん咲いてる。

 あれよりも? すごいね。

 それで、キリンが大量発生して大変だ。

 キリンが?

 ヒイロは、目をきらきらさせて問い返す。

 異常気象のせいだと言われてるけど、本当かどうかはわからない。とにかくね。街のいたるところにキリンがいるんだ。おれよりもでかいのが、うろうろしてる。小さいのもいる。でかいのもかわいいが、子どものキリンもかわいいぞ。お母さんについて、よろよろ歩いてる。でかいのも、小さいのも仲がいい。おだやかな目をして、ゆっくり歩いてるよ。

 いいなあ。

 ヒイロが呟いた。

 キリンはいいなあ。キミドリはいいなあ。

 ヒイロも、坂の下においでよ。

 ヒイロは、微かに首を振った。

 そっか。

 おれは呟いて、ギョウザを食べる。ごくごくとビールを飲む。苦い炭酸が、ちりちりとのどを通っていく。頭がふわふわしてきた。せっかくの坂道だけど、自転車は押して帰ろう。

 風が吹いて、花びらが乱舞する。

 ヒイロの短い髪の毛が、ほんの少し揺れた。ヒイロは、静かに目を閉じている。

 明るい色の桜の木と、つぶらな瞳のキリンを、きっと思い描いているのだ。



【夏】


 セミがしゃわしゃわと歌っている。

 夏の最初、先輩に原動機付自転車をタダで譲ってもらった。タダなので、当然オンボロだ。

 ギョウザ2号と名付けた。1号は、いままで世話になった自転車ってことで。

 プスプスと歌いながら、ギョウザ2号は坂道を上る。セミの歌に負けじと、懸命に奏でる。

 ヘルメットをかぶった頭が、暑くて仕方がない。だらだらと汗が流れた。

 逃げ水に追いつけ追い越せで、ゆっっくりと進む。

 ひょっとして、自転車のほうが早かったのでは。

 そう疑念を抱いてしまうくらいに、ギョウザ2号の歩みはのんびりしていた。でも、もうすぐだ。ヒイロの家が見えてきた。もうすぐ、てっぺん。

 逃げ水が、ゆらゆらしている。

 プスン。

 ギョウザ2号が、やれやれといった様子で息を吐いた。

 おれは、シートの下からおみやげの袋を抱え上げる。

 今日は、いつにもまして、荷物が多い。

 大人買いしてしまった漫画の単行本がいちばんかさばった。シートの下に入りきらなかったので、大きなリュックに入れて背負っている。おかげで、背中が汗でベタベタだ。抱えた袋には、新しいCDと、こまねこのぬいぐるみ。おやつは、ギョウザ。当然、ぬるい缶ビールも。あと、おれは今日はラムネ。ラムネもぬるい。

 アイスクリームも持って行こうと思ったのだけれど、溶けるのでやめた。

 あけて。と、扉の前で叫ぶ。

 ヒイロは笑顔で迎えてくれる。

 来たね、キミドリ。


 縁側は、思ったよりも涼しかった。外と内の、間の空間だからだろうか。

 りりりん、と風鈴が鳴る。お寺のような形をしている。渋い。音は、澄んでいてきれいだ。

 どうして、いつまで経ってもあの子のCD持って来てくれないの? 毎回、さりげなくお願いしてるのに。

 ヒイロがある女性アイドルの名前を口にした。

 うん。

 おれは曖昧にうなずいた。

 うん。

 言い淀んで、言い淀んで、覚悟を決める。

 嫉妬だ。

 さらりと聴こえるように言う。

 嫉妬。

 ヒイロは、おれの言葉をそのまま繰り返した。

 前に言ってたじゃないか。この子の声、好きだって。ぐっとくるって。かわいいって。だからだな。なんとなく、おもしろくなかったから。

 ぐふっ。

 ヒイロが変な声をもらした。笑っているのだ。

 おれは唸る。抗議のつもりだ。

 いいよ。

 ヒイロは言った。笑いながら。

 あの子のCDは、気が向いたらでいいよ。ぼく、キミドリがすすめてくれる音楽も好きだ。

 ヒイロはポンコツプレイヤーに、CDをかける。スピーカーがペコスコと歌い始めた。

 一緒にペコスコ歌いながら、ヒイロは缶ビールを飲む。調子っぱずれの歌声が心地いい。飲みながらうたうので、声が泡でぼこぼこしている。

 ビール、ぬるいよ。

 ヒイロは笑う。

 この、ぬいぐるみはどうしたの。かわいいね、こまちゃん。

 ヒイロは、ぬいぐるみを抱いて、自分の膝に座らせた。

 今日のヒイロは、涼やかな水色を、すっきりと着流している。こまねこの橙色が際立つ。

 こまちゃん、ギョウザのにおいがするね。

 ヒイロは、ぐふっ、と笑った。

 つくったんだ。

 おれは言った。

 つくった? ギョウザを?

 ううん。ぬいぐるみを。

 つくったの? こまちゃんを? キミドリが?

 うん。

 ヒイロは、目を見開いた。そして、うれしい、と呟いた。

 うれしい。ありがとう。うれしい。

 ヒイロは、うわずった声で繰り返す。

 そんなによろこんでもらえるとは、思っていなかった。

 おれだって、うれしい。ヒイロがよろこんでくれて、うれしい。そう思ったけれど、言葉にならなかった。代わりに、ラムネの瓶を傾けて、飲み干した。


 暗くなってきた。

 ゆらり、ひらり、と蛍が飛んでいる。飛んだ跡が、光の線になって見える。きれいだ。

 坂の下では、花火が上がったみたいだ。ちょうど、見下ろす形で、色とりどりの花が咲く。

 坂の下では、見上げるんでしょう。

 ヒイロが言う。

 空に咲く花を、見上げるんでしょう。

 おれはうなずく。

 りん。りりりりりん。風鈴が鳴った。火薬のにおいが、微かに鼻孔をくすぐったような気がした。気のせいかもしれない。

 ヒイロ、坂の下においでよ。一緒に、花火を見上げようよ。

 おれは言った。

 ぼくみたいなのは、坂の下では暮らせないよ。

 ヒイロは困ったように言う。

 人間って、基本的に意地悪でしょう。意地悪されるのって、悲しいでしょう。悲しくて悲しくて、生きていられなくなっちゃうでしょう。ぼく、こんなふうだけど、でも、まだ生きていたいんだ。だから、ぼくはここにいる。ここは、日本一安全だもの。キミドリも来てくれるから、寂しくない。だいじょうぶ。

 ヒイロは、静かに言った。

 ぼくは、男でも女でもないから。そいういう変わり種は、どんなに隠れていたって、すぐに見つかって、意地悪されちゃうよ。

 ああ。

 おれは声をもらす。

 逆だと思ってた。

 逆?

 ヒイロが問い返す。

 ヒイロは、男でも女でもあるんだと、おれは思ってた。

 ヒイロは、黙ってしまった。黙って、黙って、そして、すっきりと笑った。

 そうだね。そっちのほうが、いいね。お得な感じがするもんね。

 ヒイロは、こまねこのぬいぐるみをぎゅっと抱いて、目を閉じる。

 男とか、女とか、本当は関係ないんだけどな。おれは思う。そういうことに、いちばんとらわれているのは、ヒイロ自身なのかもしれない。

 おれも、ヒイロの真似をして目を閉じてみた。

 りん。

 音楽に混じって、涼やかな音が聴こえる。なまぬるい風が風鈴を揺らしたのだろう。

 おれ、女だったらよかったかもしれない。

 心の内を、声に出てしまったらしい。ヒイロが、ぐふっと笑った。

 キミドリは、いいなあ。

 ヒイロは言った。

 キミドリは、ぼくのことを、女なのに、とか、男だったらとか、そういう言い方をしないよね。ぼくを否定しないよね。

 否定するところがないじゃないか。

 おれは言う。

 ぼく、キミドリのそいうとこ、あいしてる。

 ヒイロは、笑った。

 だから、キミドリ。自分を、否定しないでね。キミドリは、キミドリのままでいいじゃない。

 そう言って、笑った。

 その言葉、そっくりそのまま、おまえに返すよ。おれは思う。ヒイロは、勘違いをしている。自分を否定してるのは、おまえ自身じゃないか。

 キリンは、どうしてる?

 ヒイロが言った。

 春に、大量発生したキリンは、元気にしてる?

 うん。

 おれはうなずいた。

 キリンは、元気だ。自動車よりも、元気に歩いてるよ。

 本当は、一部の大きなキリンは駆除されてしまった。増えすぎたのだ。だけど、おれは、ヒイロに本当のことが言えなかった。

 よかった。

 ヒイロは、呟いた。

 よくないんだ。

 おれは、心の中で呟いた。



【秋】


 落ち葉が、ギョウザ2号の行く手をガサガサと阻む。ギョウザ2号は、負けじと、プスプス歌いながら坂道を上る。

 風はない。天気は、晴れ。とてもすごしやすい一日になるでしょう。そう思った瞬間、風が強く吹き、ガサガサと落ち葉を舞い上げた。視界がさえぎられて、おれは危うく、ギョウザ2号ごと坂道の端っこから転がり落ちるところだった。

 転がり落ちてしまったら、お祭りみたいな騒ぎに巻き込まれて、うるさくてうるさくて、わけがわからなくなって、おれは自分のことを忘れてしまうかもしれない。そう思って、少し震えた。

 だけど。

 ふと、思う。

 静かすぎても、自分のことを忘れてしまうんじゃないだろうか。ひとりで考える時間が多すぎて、わけがわからなくなってしまうんじゃないだろうか。

 ヒイロ、どうなの。

 心の中で呟いて、体勢を立て直し、おれは鼻歌を歌いながら、ゆっくりと坂道を行く。

 ジャケットの、内ポケットを確認する。今日は、ひとつ、スペシャルなおみやげを持って来たのだ。良かった。スペシャルは無事だ。

 プスン。

 ギョウザ2号のエンジンを止め、おれは、いつものように、おみやげの入った袋をシートの下から抱え上げた。

 漫画は、夏にたくさん持ってきたので、今回はやめておいた。ヒイロの希望に沿って、あの女性アイドルのCDをちゃんと持ってきた。あとは、こまねこのDVD。それから、やっぱりギョウザ。秋味の缶ビールも、ちゃんと。魔法瓶のレモンティーは、おれのぶん。

 そして。

 おれは、内ポケットを触る。中のスペシャルが、ふるり、と震えた。

 あけて。

 いつものように叫ぶと、ヒイロは、玄関ではなく庭のほうからやってきた。ススキを、何本か、束にして持っている。ヒイロの歩調に合わせて、ススキは、ふわんふわんと揺れた。

 ヒイロは、薄紫色を、きっちりと着付けていた。その色に、おれは月明かりを思う。

 来たね、キミドリ。

 ヒイロは、にこりと笑った。


 縁側で、胸ポケットからスペシャルを出して見せた。

 あ!

 ヒイロは、声を上げた。

 キリンだ!

 マグカップくらいの大きさの、小さなキリン。てのひらに乗せて、ヒイロに差し出してやると、ヒイロは両手を出して、おっかなびっくり受け取った。

 小さいだろ。

 おれが言うと、ヒイロはうなずいた。

 かわいい。

 ヒイロが笑ったので、おれも笑った。ヒイロの頬は、興奮で桃色に染まっている。

 小さいキリンは、まだ駆除の対象にはなっていない。けれど、遅かれ早かれ駆除命令が下るんじゃないかと思う。やっぱり、増えすぎたのだ。そうなる前に、ヒイロに見せたかった。

 この子、おかあさんは?

 ヒイロが言った。

 お母さんはいない。

 おれは言う。大きいキリンが駆除されたということは、やっぱり言えない。黙っていると、

 はぐれたんだね。

 ヒイロは、勝手にそう解釈してくれた。

 縁側の空気は冷たい。半袖で来るんじゃなかった、と、おれは少し後悔していた。脱いだジャケットを、また羽織る。

 ヒイロは、ススキを花瓶に生けてから、満面の笑みで、CDをポンコツプレイヤーにかけた。ペコスコと音が踊る。

 いいね、やっぱり。

 ヒイロが秋味の缶ビールを飲みながら言った。

 かわいいね、声。

 うん。

 おれはうなずく。魔法瓶のあたたかいレモンティーから、ふるふるとゆげが上がる。

 こまねこのDVDのパッケージをしげしげと眺めながら、ヒイロはにこりと笑う。

 素敵だね。こまちゃんが、動くんだね。

 そして、残念そうな顔をした。

 うち、DVDプレイヤーはないんだ。

 え。そうなの。

 おれは、箸からギョウザを取り落としてしまう。

 今度、持ってくる。ポータブルDVDプレイヤー。

 そう言うと、ヒイロはすまなそうな顔をした。

 いつも、わるいなあ。

 そんなことはない。

 小さいキリンを膝にのせて、ヒイロは首をかいてやっていた。キリンは脚を折りたたんで、気持ちよさそうに目を閉じている。

 この子、ずっとうちにいてもいいかな。

 いいよ。

 おれは即答した。法律的にどうなのか。いいのかいけないのか、本当のところはよくわからない。でも、ここは坂の上だから、別にいいんじゃないかと思う。坂の下のことは、ここではあまり関係ないから。キリンも、ここにいたほうが安心だ。ここは日本一安全な場所だと、ヒイロは言うのだから。

 大事にしてやって。

 おれが言うと、ヒイロは、もちろん、と呟いた。

 いつの間にか、目の前に、でっかい月が浮かんでいる。

 ススキがふわりと風に揺れた。



【冬】


 ふわふわと軽い雪が降っている。おれは、歩いて坂道を行く。冬は、ギョウザ2号が使いものにならない。雪の坂道でのスリップがこわいのだ。

 背負ったリュックには、ポータブルDVDプレイヤー。冬味のビールと、ギョウザも入っている。ギョウザはきっともう冷たくなっているだろう。今回のおみやげは、それだけだ。DVDプレイヤーが思いの外、重たかったのだ。

 坂の半分くらいまで歩くと、唐突に雪が止む。止むと感じるだけで、本当はまだ雪は降り続いている。雲を抜けたのだ。

 雲を足元に見下ろして、それから、そのまだ下の、坂の下の世界のことを思う。

 坂の下は賑やかだ。楽しいこともあるが、つらいこともある。きれいなものもあれば、きたないものもある。いろんなものが混ざり合って、うるさいのが坂の下の世界だ。

 ここは、こんなにも静かだ。

 おれは、坂道の真ん中で思う。

 坂の下の一切を切り捨てたヒイロ。切り捨てたつもりの、ヒイロ。それならば、どうしておれがヒイロの家を訪れるのを許すのだろう。

 ぜえぜえと肩で息をする。ヒイロの家に着くころには、すっかり汗びっしょりになっていた。

 あけて。

 いつものように叫ぶ。

 玄関から顔を出したヒイロは、薄い卵色の上に紺色綿入れを羽織っていた。

 キミドリ、きみまさか歩いて来たの? 汗びっしょりじゃないか。

 ヒイロは、そう言って笑った。


 さすがに縁側は寒いので、居間のこたつを勧められた。おれは遠慮なく、こたつに入り込む。

 ヒイロの家は、基本的に外と同じくらいの温度で、おれの汗はすぐに引いてしまった。

 坂の下では、雪が降ってる?

 ヒイロが尋ねてくる。

 降ってるよ。

 おれは答えた。

 白い花びらみたいで、きれいだ。

 ヒイロは少し笑った。

 おれは、ポータブルDVDプレイヤーをリュックから取り出した。

 本当に持って来てくれたの?

 ヒイロは感動したように言い、こまねこのDVDを持って来た。

 それを観ながらヒイロは、かわいいね、とうれしそうに笑っていた。

 冷たいビールをごくごく飲んで、冷たいギョウザを食べるヒイロは、なんだかごきげんに見えた。小さなキリンが、こたつの上に立って、ヒイロを見ている。だからなのかもしれない。

 坂の下には、こまちゃんがいるの?

 ヒイロが言った。

 いや、いないな。

 おれは首を振る。

 でも、猫はたくさんいるよ。こまちゃんみたいには動かないけど、おもしろい動きをするから見ていて飽きない。

 いいね。

 ヒイロは、ため息みたいに言った。

 春になったら。

 ヒイロは呟く。

 春になったら、下りてみる。坂の下に。

 おれは目を見開いた。

 桜が、きれいなんでしょう?

 そうだ、と肯定する言葉は声にはならず、おれはただただうなずいた。

 ヒイロはおれの様子を見て、微笑んだ。

 その顔を見て、おれは有頂天になる。

 猫もキリンも、たくさんいるんでしょう? この子のおかあさんも見つかるかもしれない。ぼく、探してあげる。

 ヒイロの言葉に、おれは唇を噛んだ。

 ヒイロは、小さなキリンの首をかいてやっている。

 本当は。坂の下は、楽しいことやきれいなことばかりではない。ヒイロが以前言ったように、意地悪なことが待ち構えているかもしれない。

 キリンは、ほぼ全て駆除されてしまった。ヒイロはそれを知らない。おれがうそを教えたから。

 坂の下は、うそにまみれて、悪意にまみれて、きたない感情にまみれて、もがいてももがいても、きれいな空気が吸えないかもしれない。おれだって、そういうふうにずぶずぶに汚染されているのだ。

 それでも、おれはヒイロを坂の下に連れて行きたかった。うそをついてでも、この静かで寂しい坂の上の家から、ヒイロを連れ出してみたかった。

 だって、坂の下には、きれいなものだって確かにあるのだから。楽しいことだって確かにあるのだから。

 虐げられて地べたを這いずり回っても、希望が全然見えなくても、それでももがくのをやめないひとたち。笑うのをやめないひとたち。進むのをやめないひとたち。待つのをやめないひとたち。叫ぶのをやめないひとたち。生きるのをやめないひとたち。そういう素晴らしいひとたちが、確かに存在しているのだから。

 人間は、基本的には意地悪だ。それでも、優しいひとだって確かにいるんだ。

 それは、もしかしたら偽りの優しさかもしれない。それでも、うそでもひとに優しくしているうちに、その優しさは本当になるかもしれない。そういう奇跡が、坂の下では時々起こる。

 だから、ヒイロだって、坂の下でも生きていけるよ。生きていけないことなんて、全然ないんだ。

 おれは、迷いながら口を開く。

 ヒイロに伝えなければいけないことが、たくさんあった。

 春になったら、迎えに来てよ。

 ヒイロは無邪気に言う。



ありがとうございました。

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