第一章 4
──恐ろしい夢を見た。
そう、夢を見た。
夢の中の私は、これが夢だと自覚している。そういう類の明晰夢だ。
その夢の中で私は、おぞましい力を行使している。
全身をどす黒く染め、闇の力を放出し、何の罪もないロサ・マルチフィローラリア城下の人々を脅し、恫喝し、時にその力で人々を手に掛けていた。人々はおそれ、おののき、闇の力に焼かれていった。
私はそのありさまを目視し狂騒している。
気が狂っている。
人々の恐怖が私を高ぶらせ、苦悶の悲鳴が快感となり陶酔する。
負の連鎖反応が、より闇の力を増幅させ、私をどす黒く染めていく。
その有様をあろうことか私は嫌悪すらしていない。
むしろもっと闇が欲しい。
その夢の中の私は、私自身が闇に堕ちていく有様を、心の底から歓迎していた──。
◇
ごつごつとした岩肌の上でヒルダは目を覚ました。
安眠とは言い難い眠りから目覚め、全身の筋肉が軋む。
彼女は思わず顔をしかめるが、すぐに状況を把握すべく観察する。
周囲ほぼ暗闇に近いが、岩と岩の間に打ち立てられた松明が、光々と燃えさかり、周囲を照らしていた。
ひやりとした空気。あたり四方が無機質の岩肌。
最低限に、人の手が入った形跡があり、通常歩行は不可能ではない。
どうやらここは、どこかの洞窟。その一角の、かなり広い空間に寝かされていた。
幸い辺りに獰猛な獣の気配はないが、いつ危険が迫るか不明の状況。早く行動せねばならない。
ヒルダは慎重に立ち上がるが、味わったこともない吐き気に襲われ、思わずうずくまった。
「う。なに、これ。気持ち悪い……」
パーティーで何も手をつけていないのが幸いした。胃の中が空でなければ岩肌にぶちまけていた。
せき込んで唾液を口の端から垂らしながらも、思い当たる節はひとつしかなかった。
「あの、黒いかたまり。闇の力そのもののようなモノ。おぞましい……アレを体内に入れてしまったっ……!」
狂気の勇者、カール・ロッシジャーニが行使した力。
もしくは、行使させられていた力。
あのどす黒いカタマリが体内に入り込む感触と、さっき見た悪夢が連鎖して思い浮かび、一層の吐き気がこみ上げる。いっそ吐き出せればマシだった。だが出るのは唾液だけだ。
しばし岩肌の上でうずくまり、不快感をやりすごした。
その時である。
松明の明かりの向こう側に、幽鬼のような人影が現れ、ヒルダは驚き飛び上がった。声にならない声が悲鳴となり洞窟内にこだまする。だがヒルダはその幽鬼──いや人影に見覚えがあった。
白銀の全身甲冑。細身の騎士剣。
闘技大会の優勝者。勇者カール・ロッシジャーニその人であった。
ロサ・マルチフィローラ城のエントランスホールを恐怖の坩堝に叩き込んだどす黒い騎士の姿ではない。闘技大会で巨漢ガルツハルト・シュナイダーを破ったあの白銀騎士だった。
ヒルダは緊張の面もちで注視すると直ぐに違和感に気付く。
──あの、どす黒いモヤを纏っていない?
トレードマークの白銀の甲冑は松明の火を反射し橙色に輝いている。あのどす黒い渦巻くような文様ではない。なにより狂気一色の凄惨な気迫を感じない。
カールは顔全体をすっぽりと覆う甲冑を脱ぎ捨てた。
実に素顔を目にするのは初。そこにはげっそりとやつれ、金髪をぼさぼさにし、眼窩を落ち込ませた、二十歳後半くらいの弱弱しい若者の素顔があった。ヒルダは喉を鳴らし相対する。ここで弱気を見せてはいけない。私は指導者であり、それ以外の取り柄はないのだからと。
「……貴方がカール・ロッシジャーニ。闘技大会の優勝者。私は時期ロサ・マルチフローリアの女王として問わねばならない。何故、あのような凶行に及んだのですか」
言葉尻が震えた。次の瞬間にあの細身剣に貫かれてもおかしくない。
だがカールは憔悴しきった顔を歪ませ、地に膝をつけた。目に涙を滲ませ、嗚咽のような謝罪を重ねていった。
「……すみません、王女さま。私はとんでもない過ちを犯してしまった。闘技大会で優勝し『勇者』に選定されたい。その欲に目がくらみ、あのような者たちと取引をしてしまった……エルザード大陸。いや、この世界そのものを転覆せんと企む連中と……すいません。本当にすいませんでした……!」
私は弱い。弱すぎて弱弱の弱である。カールはもう膝どころか額を地べたに擦り付け悔恨する。
カールは自身が弱き決断を下した時のことを切々と語りだした。
決して自分は強くもない。まして猛者でもない。
闘技大会では、決勝で当たったガルツハルトを始めとした猛者たちと切り結んだが、本来はそのような技量も気質もない。
日々、ギルドのせせこましい依頼をこなし食い繋いでいた。
しかし功名心と野心だけは人一倍であったこと。そんなさもしい人物だったこと。
いつかあの闘技大会で優勝し、勇者として称え崇めチヤホヤされ、王女と添い遂げてその立場を盤石にしたい。弱き自分と訣別をしたい。
そんな誰しもが持つ弱き心を、悪しき者たちに利用されてしまったこと。
「……真っ黒いローブを纏った男たちでした。そいつらは巧みでした。私がギルドの依頼をこなし、疲れ切って住処に帰ろうとした時を狙い、声をかけてきた。人通りのない夜の街。生気のない顔で歩く私にささやきかけて来たんです。『──闘技大会で優勝し、王女を手に入れ、ちっぽけで、しみったれた人生に幕を降ろさないか』と」
ヒルダはじっとカールの述懐に耳を傾ける。
カールは憎悪混じる声でこう言った。
奴らが憎い。全部あいつらのせいなんだと。
誰しも心の弱さを持つ。それでも生きていけるのは、たまたまそこに付け込まれずに済んでいるからだ。カールは運が悪かった。ただそれだけだ。
「カール・ロッシジャーニ。恐らくロサ・マルチフローラという国が貴方を勇者と認めることはない。だがそれがどうしたというのです。悔い改め、己を磨き、弱き者を助ける勇者に成長すればいい。その時こそ、ちっぽけな人生に別れを告げる時です」
「ヒルダ王女……」
頭を上げたカールの瞳が生気を取り戻していく。
私はロサ・マルチフローラの時期女王。勇者を鼓舞し励ます役割がある。
だがそれとは別にヒルダは内心で首を捻る。
(……どうしてカールは私を攫ったの。彼自身の野心を果たすなら闘技大会で優勝した時点で完遂している。誰か別人の意志が介入しているというの?)
不用意に刺激してはいけない。込み入ったやり取りは避けたい。
しかし──。
「ぐッ」
不意にカールが呻いた。弱さに気付き受け入れた純粋な若者の瞳が、急速に澱み、混濁していく様を目撃した。白銀の鎧はどす黒く変色を始め、黒いモヤのようなものを立ち込めさせ始める。
──これは、まさか……!
ヒルダは後ずさる。だが恐れおののく体がまともに動かない、岩肌に足を取られ、しりもちを着き倒れてしまう。
そうする間にもカールは目の前で変質を続け、あの城内で見た狂乱の勇者、カール・ロッシジャーニへと変わり果ててしまった!
「に、逃ゲテ下サイ、姫……。もう自分を制御デキナイ……」
息も絶え絶えのカールは既に狂戦士の様相だ。口の端から涎を垂らし、四つん這いで咆哮を上げる。
全身で身の危険を感じたヒルダは逃げようとするが、全身が震え腰が立たなかった。
(情けないっ。どうして私は、こんなにも無力なの……!)
自由になりたい。空を羽ばたくように世界を旅したい。
それはただの浅はかな願望で、必要な力量を持ち合わせていない。野心に心を曇らせたカールと同じ。
悔しさに唇を噛んだ。目尻に涙が滲んだ。己の無力を恨んだ故だ。
「グ、グ、グアアアアアアァッ!!」
獰猛な肉食獣が獲物に襲い掛かるようにカールが跳躍する。
ヒルダは一切の反応が出来ない。
見開いた目が絶望に塗りつぶさるように閉じられる。その瞬間のことだ。
ガキイイイイイイン……!
金属同士が激しく衝突する音が目前から聞こえた。
また攫われるのか。殴られるのか。或いはもっと非道いことをされるのか。
だが恐怖の瞬間が待てど暮らせど訪れない。
絶望に打ちひしがれ、目を背けていたヒルダが、恐る恐る目を開け前を見ると──。
「さっきから聞いてりゃ、弱いだの成長だの。お互い面倒くせえことばかりペラペラ語りやがって」
地平の彼方から朝陽が昇るより輝かしく。
森林から小鳥の群れが飛び立つより騒々しく。
そして、ロサ・マルチフローラ南の山脈よりも盤石そうな物言いが、前方から聞こえた。
見ると目の前には、艶のある黒髪と、やや褐色をした肌の色を持つ、至って軽装の若者が、どこにでもありそうな無骨な銅剣の腹を使い、黒の力に支配されたカール・ロッシジャーニを押し留めていた。
その男が涼しげに顔を向ける。目鼻立ちは相応に戦士らしいが、やけに子供っぽい表情でこう言った。
「おう、姫さんとやら」
ヒメサントヤラ?
小首をかしげるヒルダに構わずその軽装戦士風の男は続けた。
「俺は『真の勇者』ってもんだ。察するところこの騎士はお前の敵だ。ぶっ倒してもいいか?」
と。