第一章 3
ロサ・マルチフローラ城内は厳戒態勢で張りつめている。
勇者カール・ロッシジャーニ乱心の報を受け、前夜祭は中止。来賓たちが待機するエントランスホールは騎士達により厳戒体制が敷かれた。
エントランスと直結の女王の間には、最重要人物たるヒルダとアリシアがいる。
闘技大会に参加した腕自慢の猛者たちが、今は各々の武具を構え警護にあたっていた。
「ガチ恋にしては度が過ぎてるな」
「然り。これでは只の厄介だ。排除せねばならない」
ガルツハルトとマサムネが、それぞれ大剣と二振りの曲刀を手に頷き合う。
からくもカール・ロッシジャーニの凶行を逃れた城内警備担当の騎士が、仔細をアリシア現女王に報告していた。
曰く、カール・ロッシジャーニは最上級の来賓として、特別に一室があてがわれていた。
彼は闘技大会後からパーティーまで体調が優れないと、部屋にこもっていた。
その時、二人の騎士が部屋の外で警備に当たっていたが、突如、うめき声が室内から聞こえてきた。騎士たちは驚き扉を叩くが返事はない。やがて室内に静寂が訪れる。鍵はもともとかかっていない。一人の騎士が恐る恐る扉を開くと室内はもぬけの空だった。
いや。全く痕跡がないわけではない。部屋には黒い煙のようなモヤが立ち込めていた。
踏み込んだ騎士が目を凝らしているうちに、そのモヤは消えてしまった。
驚き戸惑う騎士を余所に、部屋の外に控えたもう一人の騎士が悲鳴を上げた。
騎士が部屋から廊下に出ると、今まさに仲間の騎士と、室内にいたはずのカール・ロッシジャーニが相まみえていた。互いに剣を構え一触即発。
部屋に踏み込んだ騎士も仲間に加勢しようとした。だが一拍遅かった。
カールはその狂剣を躊躇なく振るった。獣や伝承の魔王が遣わすとされる魔族に向けるように。からくも騎士は剣で受け止めたが、受けた騎士の剣が砕けるように折れた。カールの細身の騎士剣は勢いを失わず、騎士の肩口を切り裂いた。鮮血がほとばしり、騎士は呻き膝をつく。
室内に踏み込んだ騎士が、仲間を傷つけた敵に向け剣を構えるが、カールの様子に目をむいた。
特徴的な白銀の鎧が見る影もなかった。ところどころがどす黒く変色した甲冑から、にじみ出る様な不吉なオーラを漂わせていたからだった。それは部屋の中に立ち込めていたモヤと良く似ていた。
騎士はひるんだ。明らかにカールは人外の様相を見せつけていた。だが隙を見せては血だまりに崩れる騎士もろとも殺られる。早くこの窮地を脱し仲間を手当てせねばならない。騎士は気を吐く。
「来るなら来い。ロサ・マルチフローラの騎士が相手だ!」
言葉尻が震えていた。ともすれば構える騎士剣の切っ先も同じようだった。
だがその気迫は空を裂き、眼前の狂騎士に突き刺さった。
「ぐ、ぐ、うううううぅぅぅ……!」
カールが苦悶の声を上げる。カールはそのまま身をひるがえし、廊下の奥へと走り去る。
使命感に燃える騎士はカールを追おうとするが、カールはまるで廊下の闇に融けるように、忽然と姿を消した。後には例の黒いモヤのようなものが残されていた。
騎士がアリシアに報告したのは大よそそのような内容だった。
アリシアはその騎士の健闘を労ったが表情は決して明るくない。
ロサ・マルチフローラが選びし勇者の乱心という事実が、彼女に暗い影を落としている。
娘たるヒルダは母の心境を察し何も言わない。
そんな状況下で、闘技大会の参加者たちは、一度は剣を交えた相手たる、カール・ロッシジャーニについて推察を巡らせている。
弓兵シャインと魔術師ローランドが、カールが行使する魔術と、『魔王教』との関わりについて推論している。
「黒いモヤのような煙か。奴が魔術の類の力を行使しているのは間違いなさそうだね。けれどカールは騎士。先の闘技大会でも魔術らしき力は発揮していなかった」
「しかしガルツとの決勝。互角の力で打ち合ったのは魔術の後押しがあったからではないか」
最後に剣を交えたガルツハルトはトレードマークの大剣を肩にかけ、先の決勝を反芻する。
「あったかもしれんな。だが俺は魔術の類を関知する力がない。正解は導き出せねえな」
とりあえず、今はあの騎士野郎に一太刀を浴びせねえと気が済まねえ。腕の包帯に触れてガルツは凄んだ。
マサムネはふた振りの曲刀を構え、虫一匹の侵入すら許さぬ様相で周囲を監視する。
「どういうカラクリであれ、奴が部屋から忽然と姿を消し、異なる場所に現れたことに変わりはない。突如、目前に現れるおそれも考慮すべきだ」
闘技大会の猛者たちは頷く。これはただ守りを固めて待つ一対多数の防衛戦ではない。むしろ一対一の勝負となる。そういう認知で一致していた。
彼らは一様に腕自慢だが、魔術の後押しの有無にかかわらず、カール・ロッシジャーニが難敵であると理解はしていた。
そんな戦士たちを他所に、玉座に座るアリシア女王は、先ほどから俯き顔色が悪い。
目の前の脅威は恐ろしい。だが母の不安も払拭してやりたい。ヒルダがそれとなく声をかけると、母は強ばった作り笑いを浮かべた。娘を不安がらせてはいけない。そういう想いが滲み余計に痛々しかった。
「……勇者が凶行に及ぶなど何かの間違いです。安心しなさい、ヒルダ。きっと魔の者に操られているか、何かの間違いだから」
何かの間違い。母はしきりにそう繰り返した。
闘技大会で勇者と認められた者の蛮行を認めたくない。何かの間違いであって欲しいという願望だった。
私もそう信じている。そう答えると母は薄く笑った。闘技大会で見た慈愛と自信に満ちたそれとはかけ離れていた。痛々しさに胸が詰まった。
この場の最高権力者は母アリシア女王だ。
しかし今は憔悴しきっている。
ならば私が気勢を張らねば──。
狂気の勇者カールの狙いは現時点で不明。
だが指導者が萎縮しては勝てる戦いも勝てなくなる。
恐怖に震える胸を叱りつけ、ヒルダはフロア全体に向けこう告げた。
「皆の者。我らロサ・マルチフィローラの騎士は一騎当千。女がそれを名乗ることは許されぬが、世が世なら誰もが勇者を名乗っていい。加えて今ここには、闘技大会を戦った歴戦の戦士たちも大勢いる。負ける要素はありません。臆するゆえんもありません。自身の力を信じ剣を振るってください」
そう告げると女騎士たちは手に手を挙げ歓声を上げた。
この国に女性が勇者を名乗る風習はない。
しかし私の本心はその片鱗を夢想している。
そう。世が世なら、この私だって勇者として──。
「然り。然り。然り!」
「我ら女王陛下──いえ、次期女王陛下に栄光あれ!」
対する闘技大会の勇者候補たちは、めいめいに口さがない。
「へっ。年端のいかない小娘にしてはいっぱしに兵隊を鼓舞しやがる」
「母を支える娘。なんとも美しい母娘愛ではないか。この二刀曲刀にかけ全力で守ると誓おう」
ヒルダは減らず口を聞こえない振りをする。力を貸してくれるなら僥倖だ。
だがしかし、その時──。
「……どうしました、ローランド・A・リリックマスター」
ひとり蒼白な顔をしたのは魔術師ローランドだ。母のそれとは質が違う。極限に緊張を張りつめさせたそれだ。
ローランドは答えない。間断なく周囲を伺っている。彼は何かを感じ取ったのだろうか。騎士や戦士が持たない魔術の力を持つ彼だけは。
程なくして彼は気付く。
だが一瞬だけ遅かったのかも知れない。
「上だーーーー!」
ローランドが叫ぶより一拍早く、女王の間の高い天井から『黒い何か』が降ってきた。
エントランスホールは厳戒の体制を敷いていた。
それを押して、敵はヒルダたちの予測の上をいっていた。
そう。部屋から忽然と姿を消したなら、逆に忽然と現れることも可能であり、魔術の後押しを得た者が、地上からのみバカ正直に来る道理はどこにもない──。
一番に反応したローランドや、他の闘技大会の戦士たち。
そしてロサ・マルチフィローリアの女騎士たちが近寄るより早く、その『黒い何か』──狂気の勇者、カール・ロッシジャーニは、ヒルダの目の前に降り立った。
「姫!」
「このイカレ騎士野郎。姫さんを手に掛けたら絶対に許さねえ!」
誰もが完全に虚を突かれていた。
目の前には闘技大会の時に見た全身甲冑の騎士。だが白銀だったはずの甲冑は、対峙した報告の通り、夜の闇より濃い闇色に染まり、素人目にも随所が怪しくうねり、歪曲している。今にも周囲の景色ごと人を飲み込みそうだ。
その、飲み込まれたであろう騎士、カール・ロッシジャーニは──。
「ぅ、ぅぅぅ……ぐぅ」
細身の騎士剣の切っ先を、ヒルダの顎先に突きつけていた
人外のごとき呻きをあげるカールに、ヒルダは微動だに出来なかった。常軌を逸する存在を目前にし、ただ顎に冷や汗を伝わらせるしかない。周囲の者も手が出せる状況ではなかった。
カール・ロッシジャーニは呻き、引きずるような動きで立ちすくむヒルダの背後に回る。
……幾らでも隙があるように思えた。
その時、すくんでいたヒルダの足が奇跡のように動いた。
一刻も早くこの男から離れねばならない。
ただそれだけの生存本能が、ヒルダの体を動かしていた。
だが、そもそも隙など無かった。
「ひっ」
首もとに騎士剣の刃がぴたりと張り付く。羊皮紙や水分を吸った草木の葉のように。だがこれは微動すら許さず首を鮮血に染めるだろう……。声にならない声を上げヒルダは動けない。
「勇者カール・ロッシジャーニよ。一体これはどういうことなのです。ロサ・マルチフローラの勇者が、伴侶となる人に刃を向けるなど……お願い。娘を離して!」
母アリシアであった。
声を上げたかった。だが出来なかった。
母はまだカールを勇者として見ている。対話を試みている。
だがこの男は、既にそういう類ではない。対話など通用する相手ではない──。
「がああああっ!」
カールが羽虫でも払うように手を振ると、目で分かるような黒いモヤが突風のように母を襲った。母はがくりとひざを突き、糸が切れたように女王の間の赤絨毯の上に倒れた。
──お母様!
そう叫ぼうとした。喉が裂かれようと構わなかった。
だがそれは叶わなかった。カールが背後からヒルダの口元を押さえ言葉を封じる。反射的にもがこうとしたヒルダの口元に『黒い何か』の端が入り込み、嘔吐感と嗚咽が一気にこみ上げてくる。
こんなものには負けない。この国の古めかしいしきたりも、得体の知れない魔術も。私を縛り付けさせはしない。そして母を救う。そうするしか道はない。しかし。
──だめ。意識が混濁してる。闇に、飲み込まれる……。
カールが脱力するヒルダを脇に抱え、出現の時を逆回しするよう、重力に逆らって天井へ登っていく。
足下には、悲壮な顔の女騎士たち。
そして怒りをたぎらせた闘技大会の戦士たち。
垂れ下がる蜘蛛が得物にするように捉えられたヒルダは、絶望のまま意識を失った。