第一章 1
──時はエルザード歴800年。
同名を冠した大陸の北方端に、ロサ・マルチフローラ女王国家という名の国が存在する。
北方を海に面し、東西と南は、太古に作られし数多くの洞窟を擁する山脈に隔てられた、伝統ある国家である。
女王国家の名の通り、国家元首たる国王は、代々女性が務めていく習わしがある。
女王陛下が最上の階級であり、その伴侶たる国王はサポートをする。王家の臣下には男性もいるが、女性が圧倒的に多い。王家と王国。そして国民を守る騎士にも女性の姿の方が多い。
大まかな話、城を治め、城を守っていくのが女性の役割だ。
では男性の役割とは?
それは『勇者』となるり人々を救うことである。
その勇者を選抜する戦いが、晴天の空の下。ここロサ・マルチフローラ王国の闘技場にて開催されていた。
白亜の石造りされた円形の構造物。中央に人50人分ほどの径をもつ広場がある。
地面には日に焼けた土が敷き詰められ、ゆうに大人三人分ほどの身の丈高さの石垣がぐるりと囲む。
石垣の向こうは何千という観客席だ。老若男女が今まさに繰り広げられる死闘に心沸かせている。
これが闘技場。その、観客席のひときわ高い展望室に、17歳のロサ・マルチフローラ王国王女、ヒルダ・マルチフィローリアがいた。
闘技場では甲冑を纏った戦士たちが、一対一の戦いを繰り広げている。振り下ろした大剣と、使い込んだ大盾が激突する金属音が上がるたび歓声が上がる。闘技場に集まる市民たちにとって勇者選抜の戦いは最高の娯楽。繰り広げられる命の削り合いに熱狂している。
ここは屋外。寒冷な気候ながら闘技場は熱気に包まれている。
対して展望室のヒルダの心は、北方に広がる極寒のエーデル海のように冷めている。
勇者とは世を旅し、弱き人々を助け、世界に迫る危機に対抗する者だ。このような娯楽の延長で定めるものではない。力比べと勇者の資質は別。ヒルダはそう考える。
ましてヒルダにとっては、ただ定義の話ばかりでもない。
ふとヒルダの手を握る者がいた。彼女はそちらを見る。
それは隣で戦いを観覧する、ロサ・マルチフローラ女王陛下──ヒルダの実母でもある、アリシア・マルチフィローリアその人だった。
「よく見ておきなさいヒルダ。勇者を目指す者たちの戦い。彼らはエルザード大陸を救う光であり、何よりヒルダ。勇者と選定された者は貴女の生涯の伴侶となるのですから」
「……はい。母上様。ロサ・マルチフィローラの女は、勇者とをその伴侶と迎え入れることで、女王陛下という立場に就く。その勇者を選抜するこの戦いは、国にとって、私にとって、とても重要なもの」
予め定められた原稿を読み上げるよう、ヒルダは母にそう答える。
もうずっと子供の頃から母と周囲の教育係の女たちに教えられ続けたことだ。
ロサ・マルチフィローラ国の王女として生まれた時から定められた命運でもある。
母は娘の答えに満足そうに頷いた。
目じりや口元に刻まれる歳相応のしわはどれほどの苦労の産物か。
彼女もまたそのように選ばれた勇者──ヒルダにとっての父親と添い遂げた。国を治めるため協力をし、勇者としてここより遙か離れた異邦の地で、志半ばにして命を失った父の訃報に心を砕かず、ロサ・マルチフィローリア国の平和に尽力した。彼女の言い分は間違っていない。しかし──。
ヒルダは黙り込む。母は娘の不安を敏感に感じ取る。
「知らない男性と結婚する。怖いなって思う気持ち、とてもよく分かる。でも大丈夫。選ばれるのは『勇者』なのだから。私の伴侶がそうであったように、きっと貴女とこの世界を大事にしてくれる」
「……はい、お母様」
「ほらヒルダ、見なさい。戦いが佳境です。それを見届ける責務が貴女にはある」
母は娘の肩をそっと抱く。そうして母子は死闘繰り広げる闘技場を見やる。
観客席は静寂に包まれる。今まさに決する勇者選定の戦い。その行く末を見守ろうと、空気が痛いほど張りつめる。
丸い闘技場には、二人の戦士が対峙していた。
一人は大柄な男。隆々とした筋肉が使い込んだ胸当てすら破裂させんばかりだ。いかめしい顔つきの短髪の男で、身の丈ほどの大剣を油断なく正眼に構えている。
対峙するのは白銀色の全身甲冑の男だった。甲冑がぴたりと張り付くような矮躯をしなやかに揺らし、細身の騎士剣の切っ先を、ゆらゆらと揺らし牽制をする。
ヒルダは喉を鳴らす。彼らが勇者か否かを棚上げにすれば、歴戦の戦士には違いない。
戦いはトーナメント式で二人が勝ち上がった。闘技場の端には、ローブを纏った白髪の二刀流の男や、ボウガンという投射武器を持つ小柄でゴーグルをつけた男。いわゆる『魔術』という不可思議な力を扱う樫の杖を持つ魔術師もいた。彼らは途中敗退した者たち。悔しそうに最終戦の成り行きを見守っている。
やがて雌雄決する瞬間が訪れる。
大剣の大男と細身の騎士剣の男。見たところパワーの大男に、スピードの騎士剣の男。正面から力でぶつかれば大男が圧倒的に有利。その大剣は白銀の甲冑ごと矮躯の男を打ち砕くだろう。そうはさせまいと矮躯の騎士剣の男がスピードで攪乱し、隙をついて一撃を見舞う。そういう戦いになると誰もが踏んでいた。
大剣と騎士剣が正面からぶつかり合う。
響きあがる饐えたような金属音に闘技場が沸く。
甲冑の騎士が石垣まで吹き飛ばされる様を誰もが予測した。ところが──。
わあっ、と客席から驚きの歓声があがった。
矮躯の騎士は弾き飛ばされていない。まるでつっかえ棒せ支えられるように、その矮躯はびくともしていなかった。むしろ引き続き五合、十合と打ち合うにつれ押し返していく。
大男の顔に焦りが浮かぶ。持ち前のパワーで上回られるのは計算外だ。
どこかで巻き返さねばならない。だが間に合わず劣勢が決定的になる。
「ぐあッ!?」
大男の腕あたりの防具が引き裂かれ、鮮血がほどばしり、大剣を取り落とす。
矮躯の騎士剣の男は好機と見て、無防備となる大男に一撃を加えようとするが──。
「そこまで。勝者は騎士カール・ロッシジャーニ!」
審判役のかけ声で勝負は決する。決定的な好機を生み出した瞬間、矮躯の騎士の勝利は決定したのだった。
闘技場の熱気は今日一番の最高潮を迎える。
勇者選定は、新女王誕生の瞬間でもある。国を挙げての祭事となる事案である。
王家の盤石なる継続を望む民草。
最愛の娘に立場を譲り渡せる現女王たる母。
彼ら、彼女らの誰にとってもそれは喜ばしい事実。
……唯一、当事者たるヒルダの鬱屈さえ除かれるならば。
「さあヒルダ。今日は祝賀会。明日から婚姻の儀を進めていきます。私も準備の手伝いをします。ヒルダも十七歳。お化粧をして、素敵なドレスを着て、勇者を迎え入れましょう。ね?」
「……はい。お母様」
ヒルダは枯れた声でそう答える。
闘技場は未だ歓声に沸いている。勝利の栄光を手にした矮躯の騎士──いや、勇者たる男が手を挙げ、歓声に答えている。
こんなことで生涯の伴侶が決まるなど、あっていいはずがないというのに。
どうして誰もが伝統だから。習わしだからと、目の前の事案を鵜呑みにしていくのだろう。
ヒルダは空を見上げる。憎らしいほどの青空が広がっている。
こんなにも空は広く自由なのに。どこへ行くことも出来ず、自身の命運に囚われている、と。