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▲第二章▼△ハニーシロップマシマシクリームマシマシカラメルシロップトッピング▽


「ネムっち起きて。今日もお仕事なんでしょ?」

 ゆっさゆっさと体を揺り動かされて、ネムは寝ぼけながら薄目を開いた。

「……おぅ。起きる起きる。あと五分したらな……」

 布団を巻き込んでzzzズズズと寝息を立てるネムに、エチが寄って来る。

「ネムちゃーん? 起きないとその綺麗なお顔に落書きしちゃうよ~?」

 画材ケースを取り出してエチがネムの顔にキュキュッとマーカーで線を描く。

「あ、エチズルい! アタシもやらせてよ。そんなセンスない塗りじゃなくてもっとこうアイラインをぐいっと。それでいて下側のシャドーをギュイーンっと」

「ガキちゃん……これじゃホントの落書きよぉ? ちゃんとお化粧してあげなくちゃ~」

 顔面のこれをこうして、あれをこうしてとしているうちに悪乗りが過ぎる。


 ――数分後。

「あっはっはっはっは! エチ、これは……あっはっはっはっは!」

「く、ふ……ちょっとガキちゃん笑い過ぎぃ……うっく……」

 ガキとエチが腹を抱えて大笑いする。

「うっるせぇな! 何笑ってんだよ!」

 あまりにもその声が煩く、ネムが目を覚ましてしまった。勢いよく起き上がって、二人を睨みつける。

 二人はネムが起きると同時に何事もなかったかのようにそっぽを向いて、それぞれが思い思いのことをしていた。

「ったく……」

 ガキは朝食を机に並べ、一人で黙々と食べており、エチは化粧台の前でまつ毛をビューラーでカールさせていた。

「ねみぃ……なんか変な夢見たわ」

 洗面所へと歩きながらネムが伸びをする。

「ふーん。どんなの?」

 さして興味なさそうにガキが問いかける。

「昔の夢だなぁ……。オレが小さい頃の話を蒸し返された」

「へぇ……」

 洗面所の前に立ってネムが鏡を覗く。

 そこにはいつもの自分の顔ではなく、以前外国の資料を見た際に載っていた「歌舞伎役者」と呼ばれるような人物が映っていた。

「なっっんじゃこりゃぁぁぁぁぁっ!!」

 ネムがそう叫ぶと、隣の部屋から二人が大笑いする声が聞こえる。

「あーっはっはっはっは! ネムっちヤバイぃッ! 面白すぎるぅっ!」

「ふっざけんな! おい、これどういうことだよ!」

「わ、ワタシがネムちゃんにお化粧しようとしたら、ガキちゃんが悪乗りし始めちゃっ……っぶ、ちょっとこっち向かないでぇ、あっはっは!」

「なんかね、前に見た本に載ってたやつ……ぐっ……大丈夫ちゃんと水性だから洗えば落ちるよ」

 そう言って床に転がったマーカーを手に取って製品表示の欄を見たガキが「え?」と体を強張らせてピタリと笑うのをやめる。

「なんだ、水性か。それならちょっと頑張りゃ落ちるな。まったく、ふざけるのも大概にしろよ……」

 改めて洗面所に向かうネムに、ガキがガクガク震えながら口を開いた。

「あ、あばば、ネ、ネムっち……」

「なんだ?」

「ここ。これ、これさ、ゆ……ゆ……」

「ゆ?」

「『ゆせい』だ……」

 一瞬空気が止まる。

 ジワァっと目に涙を浮かべてガキがガクガクしていた身体を更にガクガクさせ始める。

 目が点になったネムがパクパクと画材とガキを交互に指差す。

 エチが必死に笑いを堪えており、肩の震えがガキとは違った意味でガクガクしていた。


「ふっざけんなてめぇぇぇぇぇぇ!!」

「あーっはっはっは! あはははははは! あっはっはっはっはっは!」

「ごめんなさいごめんなさいごめんなさい。怒らないで殴らないでごめんなさいごめんなさい」

「あっはっはっっはっは! あーっはっはっはっはっは!」

「笑い過ぎだエチ!! どうすんだよ! こんな顔じゃ仕事に出られねぇじゃねぇか!」

「はー、お腹いた……。ネムちゃん今日のお仕事はなんなのぉ? ぷっくく……」

「マジでいい加減にしろよ、はっ倒すぞ」

「ごめんなさいねぇ。ワタシは知ってたのだけれど、ガキちゃんがねぇ?」

「びぇぇぇぇ! 元はと言えばエチがぁぁ! うぇぇぇぇぇぇぇ!」

 泣きじゃくりながらガキは口の中へ朝食を放り込んでいく。

「わーかった。わーかったから。ガキは泣くか食うかはっきりしろよ!」

 そう一喝すると、泣くのをやめたガキがパクパクと無言で朝食を摂り始める。

 その間ネムはバッシャバッシャと顔を洗うも、一切落ちる様子を見せない顔のインク。

「ああ、もう! 今日の仕事は休みだ! やーすーみ! どうせ急ぎじゃねぇし繰り越しでいいだろ。せっかく手帳も新調したってのによー」


 ボロボロになった手帳と共に、仕事の内容や依頼主の資料が丸々おじゃんになってしまったので暇を見つけて再収集しなければいけない。

 単純に依頼主の元へ訪れればいいだけの話なのだが、それがステムパンク内である以上依頼主自体の存在を見つけるのに一手間増えるし、行ったり来たりの二度手間なのだ。

 休みと聞いてガキが目を輝かせた。

「ホントに!? やったね! 久々のオフだ! なにしようかなぁっ?」

「お前のせいなのわかってんのか!」

 顔を洗いながら先程より強く一喝する。

「ひぅっ……。でも落書きするって言い始めたのエチだもん……」

 おずおずとしながらも躊躇なくエチを売るガキ。

「連帯責任だボケ! オフじゃねぇぞ! オレのこのインクを落とすのに薬品を買って来いよ!」

 自分の蒔いた種のために流石の面倒臭がりも「めんどくさい」とは言えない。

「わかったよー。エチ……行こう?」

「え? ワタシも?」

 きょとんとした表情で何故だかわかっていない様子のエチ。

「連 帯 責 任 !!」

 ガキが頬を膨らませてエチを引きずって行く。

「あらあらあら……」

 抵抗する素振りもなく、ガキに引っ張られてそのまま後ろ向きに歩いて部屋を出ていく。

 二人がいなくなって静まり返った部屋の中、徐々にその容姿に見慣れてきたネムは、いろんな角度から自分の観察を始めていた。

「……この顏。本当に外国で流行ってんのか?」


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 部屋を出てすぐ、三人がシェアするアパートの玄関前で、ガキとエチが談話している。

「まさか『ゆせい』だとは思わなかったー。ネムっちには悪いことしたなぁ」

 ガキが申し訳なさそうに呟く。

「しょうがないわねぇ……ワタシも手を貸しちゃったし、一緒について行ってあげる~」

「元はと言えばエチが落書きし始めたんでしょ? アタシのせいにしないでよ」

「ワタシわるくないもーん。お化粧してあげようとしたのにネムちゃんが起きないのが悪いのよ~」

「そういえばそうじゃん。アタシが起こしてあげたのに後五分とか言ってたっけ」

「でしょ~?」

「…………」

「…………」

 そもそもがネムの寝起きが悪いためにこんな事態になったのだ。

 ――と、二人の中で意見が一致する。

「よっし、じゃぁ、今日はオフでいいか!」

「そうねぇ。じゃぁさっそく遊びに行きましょ~」

 全く反省の色を見せることなく、なんとも薄情なセリフを吐いて、二人は家を後にしようとした。

 ――その時。

「あーら、ごきげんよう。ビッチさんたち」

 見慣れたお嬢様が立っていた。正確には門の手前で鉢合わせたのだが。

「げ、何? 何か用?」

 ガキが嫌そうな顔をして、ニーナへと聞く。

「そんなに嫌そうな顔をしなくてもいいじゃないですの。今日は貴方たちに依頼があって来たんですのよ」

「依頼ぃ? 残念だけどワタシたち今日は『オフ』なのぉ。今から遊びに行こうかと思ってるから、またの機会にねぇ。『ごきげんよう』」

 軽く手を振ってその場を離れようとするガキとエチ。

 それを見たニーナが、

「あら、そうですの。でしたらネムに頼みますわ」

 コツコツと踵を鳴らして門からのアプローチを歩いていく。

 頭のネジが外れた二人でもこれは即座に理解した。

 ――今、ネムに会うのはまずい。

 家の中で四苦八苦しているであろう彼女は、本物の歌舞伎役者もびっくりの「超」歌舞伎メイクと戦っているのだ。

 ガキとエチがいくら薄情と言えども、あの姿を人に見せるのは如何せんよろしくないことくらいはわかる。

「ね、ネムっちは今ちょっと寝てるからさ!」

「そうそう、ワタシたちでよければお話を聞くわよぅ?」

 張り付いた愛想笑いを浮かべてガキとエチがニーナの行く手を阻む。

「あら? でも今日お二人はオフなんでしょう? お二人ともゆっくりしてきなさいな」

 ――ちょいっと二人の広げた腕をゲートのようにしてニーナが入口にまで近づいてしまう。

 慌てて二人が再度行く手を阻む。

「そ、そう言えば今日はいつもの執事がいないみたいだけど?」

 いつもならばニーナの数歩後ろを歩いて、例の執事がいるのだが、今日はその姿が見えない。

 その疑問に答えるために、足を止めてニーナが言う。

「今日の依頼はワタクシ個人がお願いしたいことですから、留守番してもらいましたわ。そもそもアレはワタクシの家に仕えるただのメイドですのよ? 毎日一緒にいなくてはいけない義理もありませんし、お屋敷のお仕事で忙しいのですわ。近々パーティもあることですし」

「へ、へー。そうなんだ。じゃぁ、執事がいなくても頼みたいようなとっても大事な話なんだね! うん! ネムっちは今忙しいからアタシたちに言いなよ!」

「そうそうっ。ネムちゃんは忙しいものねぇ」

 二人で息を合わせてコクコクと首を上下に振る。

「あら、先程は寝ていると仰いませんでした? まぁ、いいですわ。そこまで言うのならば貴方たちにお願いします。本来ならば一番真面目なネムに相談するのが最善かと思いましたけど、今回の依頼に関しましてはネムよりも経験が多そうな貴方たちで手を打つことにしましょう」

「はい、じゃあそうと決まればお嬢様お一人ご案な〜い! ささ、こんな場所ではなんだからね。喫茶店にでも行きましょうね〜」

 ニーナが妥協の念を見せると、ガキとエチが張り付いた笑顔のまま数回頷いて、ニーナの背中を押してアパートを後にした。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


――ステムパンク内、標高三〇メートル付近。

 

 喫茶店『ティッツ喫茶』にて

「で、改めましてお願いというのはですね……」

 ニーナが紅茶のギャルを一口、口へと運んで息をつく。

「もぐもぐ……ほの、パンフェーヒ、ごくり……ハニーシロップマシマシ生クリームマシマシで、カラメルシロップトッピングして小皿でストロベリーのジャムちょうだい。あ、二セットでお願いね」

 ガキがフードメニューからパンケーキをオーダーする。

 大喰らいの彼女は、とにかく甘いものが大好きだ。

「あ、すみませんー、コーラとスティックの砂糖五本とガムシロップ追加でー」

 パンケーキだけではなく飲み物も頼む。

 苦い飲み物の代表のコーヒーとは真逆に位置する、甘さを極めたコーラに対しても糖分をありったけ追加していく。

「ねぇ、おにぃさん? 今日お仕事何時まで~? あら、お昼までなの? それじゃぁ後で一緒に映画行かない~? 彼女がいるぅ? あらそう~」

 エチが胸元を強調させ、上目づかいでウェイターを誘惑する。

 ガキのむちゃくちゃなオーダーを繰り返し確認しているウェイターが、横槍を入れてくるエチへと困り顔で話を受け流していた。

「ねぇねぇ、おにぃさん何食べてるのぉ? あたしにもくれなぁい? えっ いいの? あ~ん」

 ウェイターが釣れないと分かった途端にすぐ後ろに座る男性からケーキを一口恵んでもらうエチ。

「やぁん、白くて濃いのがお洋服に付いちゃったぁ。ねぇ、拭いて拭いて?」

 わざと胸元に落とした生クリームを拭うために首もとの布地を引っ張って、エチが後ろの座席の男性へとおしぼりを渡す。

 いつのまにかガキが男性の膝の上へと移り、エチに動揺している隙に他人のケーキを口へと放り込んでいく。男性のケーキを食べ終わる頃にガキの元へパンケーキとコーラが運ばれてきて、それもガフガフと頬張る。

「おいしいおいしいっ!」

 ニーナの話などまったく聞く様子もなく二人が好き勝手に食い散らかしていく。

「あ……あの……? お二人とも?」

 ニーナが恐る恐る声をかけると、何事もなかったかのように瞬時に席に座り直す二人。

「何?」

 口の周りに生クリームを大量につけてガキ。

「どうしたのぉ?」

 髪の毛を乱して、何やらよくわからない液体が顏に付着しているエチ。

「ガキは置いといて、エチ、貴方、何をどうしたら今の間にそんなことになるんですの……」

 首を横に振ってニーナが続ける。

「それでですね。ワタクシの依頼というのは……」

「うんうん?」

 一応依頼ということなので、ネムの手帳とは違う「がきのおしごとちょう」なる物を開いてガキが相槌を打つ。お仕事帳と言う割にはクオリティの高い落書きでページが大方埋まってしまっている。

 落書きのことはさておき、普段はいがみ合っているニーナとプッシードールズなのだが、その関係が依頼主となってお給与をもらえるとなれば彼女らには敵も味方も関係ない。

「ある方との……その……仲を取り持って欲しいんですの」

 顔を赤らめてニーナがもじもじと指を回す。

「ふーん。誰? どこの女の子?」

 ガキが全く関係ない裸体の女の子が昇天しているイラストを書き殴る。

「またゆりゆりするのかしら?」

 と、人目をはばからずエチが言う。

「ユ……女同士での戯れは……その……ワタクシの滾る想いの処理というか……それは今関係なくてですね!」

 カシャンとテーブルへ肘を落としてニーナが続ける。

「その、取り持って欲しいというのは、実は……殿方ですの」

 ガキとエチが顔を見合わせる。

「アンタって女の子専門じゃなかったの?」

「ワタシもそう思ってたぁ」

「ネー」と二人で首を傾けて肯定し合う。

「ワタクシもその、普通の恋愛というものには興味がございましてね!? それで、先日、少し気になる方をお見かけして……それからというものずっとその方が頭から離れなくて……」

 ニーナの組んだ指がすごい速さで回る。

「んむむ。この甘い甘い感じ、これは完全に『こい』ですな」

「だからぁ、ガキちゃん、お砂糖入れすぎなんだってばぁ」

「あ、いや、砂糖のせいでコーラが『濃い』んじゃなくて……ていうかニーナの話聞いてた?」

「なんとなくぅ?」

 エチの顔に先程よりも付着している液体が増えている。

「だから、いつのまにそんなことになるんですの……」

 碌に話も進まぬまま、ガキが机の上に並べられた皿のほとんどをピッカピカに食べきった頃合い。

「はぁ、ごちそうさまっ。さ、そこのお嬢様の依頼の件だけど、男を釣るってなったらアタシたちの右に出る者はいないよね。エチ!」

 恋愛ごとならば話は早いと最後の皿に乗った大きなパンケーキをペロリと平らげてガキが舌なめずりをする。

「そうねぇ。善は急げ、男は跪け。ってことわざもある物ねぇ? それじゃ依頼の確認もあるしぃ、早速行きましょうか~」

 ポンポンとお腹を撫でながらガキとエチが店を出ていく。

「あら、貴方たちお会計……」

 ニーナが不思議そうに二人を見比べて、「まさか」という表情をする。

「アタシたち、先日のアンタたちのせいでお金持ってないから」

 ネムが使っていた手帳がボロボロで使い物にならなくなってから彼女らに収入は無い。

 強いて言うなら、ナンパした男から貢いでもらった食事くらいだろうか。

 ガキの発言を聞いて、案の定ニーナの予想は的中し、三人分の代金を払う羽目となってしまう。

 特に、ガキの食べた量が尋常ではなく、もう少しで金額が五桁になるところだった。

「やっぱり、あのお馬鹿娘たちはワタクシに不幸をもたらすのですわ……」

 ニーナは涙目になりながら財布を開いた。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 先日仕上げた公園『コッコパーク』内の壁を越えて、標高八〇メートル付近。

『ティッツ喫茶』で食事を終え、ここまで達する頃には時間もじきに昼食時になろうとしていた。道中では案の状ガキとエチによる逆ナンパが多発して、その都度に制止を掛けて来たニーナは体力的にかなり疲れ切っていた。

 そんなこんなの道中を終え、一行がニーナの指定した場所に到着してみればそこは、前回の一件の合流地点、『リックストリート』にある料理街横の鉄橋だった。

「――で、その『殿方』ってのはどこにいるの?」

 料理街のどこを見渡してもそれらしき人物の影は無く、昼食を食べに出て来た工場の人々で溢れているだけだった。そもそもこんな大衆食堂が並ぶ庶民の世界にお嬢様の望む相手などいるのだろうか。

「そろそろいらっしゃる頃なんだと思うのですけれど……」

 そわそわと身を奮わせながらニーナがあちらこちらに視線を泳がせる。

「ねぇ、エチ」

「なぁに? ガキちゃん?」

 小声でガキがエチへと耳打ちをする。

「もしかしてニーナが言ってる『殿方』ってアタシたちの想像しているのとは違うんじゃないかな……?」

 内心でガキには違和感があった。

 仮にもお嬢様であるニーナが探す殿方と言うくらいなのだから、さぞイケメンの上流階級の男を想像していたのだが、この時間に決まったところにいることに加えて、この料理屋が並ぶ『リックストリート』に面した鉄橋の上で会うことが出来る。

 ――と来れば、

「もしかしてぇ、こんな寂れた料理街で働いている人ぉ?」

 ガキの発言から察したのか、エチが思いついた職種を挙げる。

「……なんじゃないかと思ってさー」

「……もしかして、あの子、呼び込みをナンパと勘違いしちゃってるんじゃないのぉ?」

 コソコソと話す二人を不審に思ったのか、ニーナが二人へ話しかける。

「何を隠れてお喋りしているんですの? ほら、あそこですわ。いつも殿方がいらっしゃるところは」

 そう言って指差した方向を見れば、二人の想像通り完全に飲食店に面した路地である。

「あー、うん。自称お嬢様? 恐らくお嬢様は声を掛けられて喜んじゃったんだと思うんだよね。でさ、大変言いにくいんだけど……その人は多分アンタのこと何とも思ってないよ?」

 少なくとも相手方は呼び込みで勧誘した客をいちいち覚えてはいないだろう。

 だが、ガキの話をニーナはスッパリ切り捨てた。

「そんなことありませんわ。その殿方はワタクシに、素晴らしい魔法を見せてくださったんです。魔法を扱う方を初めて拝見した私の胸はもうトキメキだらけ。是非ワタクシの元に来て魔法で魅了してほしい……」

 両手を胸の前で合わせ、夢見がちな表情をしてニーナの周りに花が舞ったようだった。

「あ、これ、完全に妄想に補完されてるわ。インチキに騙されてお金を放り込むダメな人間だよ。この自称お嬢様」

「一種のプレイなんじゃないかしらぁ? なんかそういう薬系のやつが最近流行みたいだしぃ? 一発キまっちゃてるんじゃないの~?」

 ただ、その人物がどのような『殿方』なのかは気になるので、しばらくの間その『殿方』が出てくるのを店の陰から覗いて待ってみることにしたのだった。


 頂上に昇った日が傾き、鉄橋をあかに染めて工場の煙と混じり合い始めた。

 三人が張り込んでから二時間余りが経過しようとしていた。

「アタシお腹空いてきちゃった。お昼も過ぎたし、そろそろおやつの時間なんだけどなー」

 屋根の上で日向ぼっこして、猫たちと戯れていたガキが屋根からベランダに、ベランダからフリップしてニーナたちの元へ降りてくる。

「先ほど食べたばっかりじゃないですの! それにお金を持っていないのならばワタクシはもう払いませんからねっ」

 ニーナがシッシッと軽く手で払う。

「ぶー、ケチー。自称お嬢様なんだからそれくらい奢ってくれてもいいじゃんかー。あ、そう言えばエチ。今日はあんまり男の子の話を出さないね? 大丈夫なの?」

 ガキがエチのことを心配するが、本来ならそんな話が出ないことが正常なのだとニーナは思う。

 性欲の発散のためか、壁に落書きで卑猥な一物を描きながらエチが言った。

「うん~、今日はバイ――」

「来ましたわっ!」

 エチのセリフを遮ってニーナが声を張る。

「――をね、後ろにも入れてるからまだ大丈夫~」

 何をとは聞き取れなかったがエチが続けて喋っていた。

 三人が店に置かれた木箱の物陰から縦に並んで顔を出して、ニーナの言う『殿方』を視界から捜す。

「ほら、あの方ですわ。重そうな道具が入ったバッグになぜか腰回りの緩いズボン、それに奇怪なお召し物に身を包んでいらっしゃるの」

 そう言って指差した先にいる男性に、ガキとエチは見覚えがあった。

 ズボンのベルトがないために幾度もズボンを上げて、ふらふらとよろめきながら客寄せをする男性。その姿はさながら道化師で、ストリートパフォーマンスで生計を立てているらしい。芸が上手くいかなければその日暮らしも儘ならないのに関わらず、ずり下がるズボンのせいで客寄せの一芸すらも上手くいっていないようだった。

「あの人ってぇ……」

「この前アタシとエチが食べ損ねた子じゃん!」

 ピンとフードの耳を立てて、ガキが舌なめずりをする。

「自称お嬢様の自称運命のお相手があの人なんて、なんとまぁ、運命的ね~」

 じゅるりと口から発せられたのではない液体の音を出して、エチが何やらもそもそと後ろで蠢く。

「貴方たちもあの方をご存知なんですの? ならば尚更話が早くて助かりますわ。さ、はやくあの方とワタクシの仲を一気に引き縮めなさい」

 ジっとニーナを見つめてガキが言う。

「どうするエチ。ここでこのお嬢様に渡すには惜しいのだけど……」

「ん~、先にワタシたちがもらってもいいかしらぁ?」

 もぞもぞと股下から手を抜いてスカートを正すエチ。

「いいわけないでしょう!?」

「ですよねー。我の強い自称お嬢様だ事で。じゃぁ、どうしようかなぁ。お近づきったってアタシたちは襲うことくらいしかできないし」

「んじゃぁ~、襲っちゃえばぁ?」

 短絡的だが、それが一番じゃないかとエチが言う。

「わ、ワタクシ、殿方とお喋りするのは慣れていないもので……、もうちょっと些細なきっかけとなる様な方法がいいのですけれど……」

 顔を赤らめてニーナが俯く。

「まー、初心ウブな反応しちゃって。そういうツンデレチックな属性いらないから。ガバッとイっちゃいなよガバッとさ」

 ガキが口角を下げてニーナを貶したあとに、エチへと抱き着く。

 小さく棒読みで「キャーガキちゃん大胆ー」などとエチが真顔で口も動かさずに声を出す。

「襲う……大胆……。それですわ!」

 パチンと指を鳴らしてニーナが閃いたといった顔をする。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 ――こちらはガキたちがアパートを出て数分後のネム。

 それはバカとアホの二人が買い物のことなど忘れてニーナと一緒にたらふく食事をとっていた時間だ。

 落ちないインクに労力を割くのもバカらしくなったネムは、いい加減に顔を洗うのもやめてテレビから流れるどうでもいいニュースを聞きながらガキが放置した皿を洗っていた。

「……あいつ等、おっせぇな。何やってんだ。この顔で外には出れねぇし……。ん?」

 その時ネムの目に留まったのは、彼女が昔から大切にしている一つの絵本。

 大切と言っても、もう何度も読み返してその本の表紙は擦り切れてボロボロ。

 中のページは所々テープで補強してあり、一部は完全にページが切り取れてしまったのを、テープでぐるぐる巻きにして止めていた。

 その絵本の内容は、中を見なくても口からスラスラと出てくるほどに読み込んでいた。

 食器を洗い終わって手を拭ったネムは絵本を手に取ってしばし考え込み、今朝の夢を思い返した。


 ――コンクリートで固められた暗い部屋。

 満足に食事を摂ることも無く、自由も無い。時折訪れるのは黒い影と給仕係だけだ。

 三年もの月日を軟禁状態で過ごし耐え忍んだ。

 この地獄から逃げ果せたのはとある人物によるものだった。その人物だけが全てを知っており、その人物だけが全てを背負っていた。


 ほんの数年前のことだが、彼女には遠く昔のことに思いたい出来事だった。

 その昔に見ていた記憶の絵本より更にボロボロになった絵本をしばらく眺めていて、ネムはハッと閃いた顔をしてパチンと指を鳴らした。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 時、所変わって『リックストリート』で作戦会議中だったニーナ一行。

――指を鳴らしたニーナが作戦をガキたちへと伝える。

「あのですね、ごにょごにょごにょ……」

「……ふんふん。なるほど」

 真剣な顔で聞き入るも、

「ごにょごにょ言ってて何が何だかわかんないや」

 ガキがズッパシと切り捨てる。カクンと腰砕けになって、ニーナが声を張る。

「ですから! 貴方たちが殿方を襲って、そこにワタクシが助けに出ればいいのですわ!」

「襲っていいのぉ!?」

 エチがニコニコしながらニーナへ詰め寄る。

「あ く ま で、作戦ですわよ!? 本当に行為に及んだら駄目なんですのよ!?」

 念を押すようにニーナがエチへと詰め寄り返す。

「だーいじょうぶ。アタシもエチもそれぐらい弁えてるから! ね?」

 ガキがエチへと同意を求め、良い笑顔でエチが何度か頷いた。

「では、早速作戦開始ですわ!」

 それを合図にガキとエチが男性の元へと走っていく。


「どうぞ、寄って行ってください。見て行ってください。ほんの少しでもいいですよ。この奇術師目の奇跡、どうかご覧あれ!」

 ズルズルと下がるズボンを持ち上げながら客引きをする男性。手に持ったお手玉は空中で歪な弧を描いて地面へとぽたりぽたりと落下して、それを拾うためにまたズボンがずり落ちる。

 その不格好な様子に足を止める人もなく、路上に置かれたチップ入れの空き缶もその男性の周りも閑古鳥だった。

「……はぁ、この時間に客寄せしてもお客さんなんて来ないのに……。それにとてもじゃないけどこんな姿じゃ芸の一つも上手くいかないよ」

 ところが、幸か不幸か彼自身を呼ぶ声が一つ、通りの向こうから聞こえてくる。

 それは彼が呼び込んでいたギャラリーではなかった……となれば不幸以外の何物でもないだろう。

「はぁっはぁ! おーい! お兄さん!」

「いらっしゃ……あれ……?」

 どこかで見覚えのある女の子が息を切らしてこちらへ走り寄って来る。

 それと同時に上げようとしていたズボンが下に引っ張られる違和感を覚えた。

「……ん?」

 引っ張られたズボンの裾を見ると、またも見覚えのある女の子がいる。そこでようやく、自分のズボンとその女の子たちとの関係性が結びつき、男性の顔が青ざめていく。

「あ……あぁ……っ!!」

「やーん、お兄さん元気ぃ? アタシ、ガキ。ねぇ、ちょっとお仕事退屈そうだから一緒に遊ばない?」

 問答無用で男性の腕を取って、ガキが店の裏手へと引っ張っていく。

 エチはその間にズボンを脱がす。

「ひぃぃっ!」

 突如現れた肉食獣二体に、男性の顔は完全に恐怖に怯えてしまっていた。

 そこへ、ここぞとばかりにニーナが胸を張り、声を張り、店の横に積まれた木箱に登って指を差す。

「ちょっと、お待ちなさい! 貴方たち!」


 ――が、


「ねぇお兄さん、名前なんてーの? 教えてよぉ」

 胸元を人差し指でなぞりながらガキが顔を摺り寄せる。

「あう、て……テミスです……」

 顔を引きつらせながら男性が小さく零す。

「ペニス……? それはまたいやらしい名前だことぉ……」

「『ぺ』、じゃなくて『テ』です! 間違えないでください!」

 テミスと名乗った男性は、顔を強張らせながら二人の間から抜け出る。

 しかし彼の身体は徐々に路地の裏へと壁を背に追いやられていく。

「じゃーぁ、あだ名は『ペニー』で決まりだね。ねぇ、ペニーなんでそんな怖がるの? アタシたちといいこと……シよ?」

 トンと壁に手をついてテミスを逃がさぬように顔を近づけていくガキ。

「はい、肩の力を抜いてぇ、力むところが違うわよねぇ?」

 ガキが逃げ道を封じて、その逆サイドからエチが壁に手をつく。

 完全に逃げ場をなくして足をガクつかせて腰から崩れていくテミス。

 寸での所でガキの唇を避けて地面へとへたり込んでしまう。


 その光景を呆然と見ていたニーナが声を荒げた。

「ワタクシを無視しないで頂けます!?」

 チラリと二人がニーナを一瞥して、アイコンタクトで会話をする。

『ここで逃したら駄目だよ! エチ!』

『せめて一回だけでも頂いてからじゃないとねぇ?』

 その一瞬の間から、ニーナがハッと現状を察する。

 そう、この二人は作戦など遂行する気は毛頭も無かったのだと。

「やっぱりこの方たちといるとロクなことになりませんわ!」

 登っていた木箱を蹴り崩して飛び降りると、ニーナはテミスの元へと走る。

 倒壊する木箱はうまいことガキとエチの真上に倒れていった。ニーナとテミスから距離を取ってバク転で木箱を避ける二人。

「ちょっと! 作戦が違うじゃんか!」

 元々の作戦を破ったのは二人なのだが、さもニーナが裏切ったかのように言葉を組み換え、「フシャー」と威嚇するように地面へと手をついて怒りを露わにする。

 しかし、そこにすでにニーナの姿は無く、倒れた木箱と背後の壁とで袋小路になって出口を塞がれていた。

「逃げられちゃったわねぇ……。あの子、なかなかヤるのに骨が要りそう」

 残念そうにズボンを手にしてエチがスリスリと頬を擦った。

「ふん、これだから自称お嬢様はワガママばっかり。っていうか、エチ、それ持ってきちゃったの?」

「うん~、あとは上着でコンプリートね~」

 そう言ってエチは不敵な笑みで微笑んだ。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 ガキとエチが頼まれたお使いなどとうに忘れて店員のことを誘惑していた頃。

 アパートで暇を持て余したネムが、何やら満足げな顔で顔を上げた。

「どうだ! 完璧だろ!」

 ネムが画材を仕舞いながら達成感のある顔を見せる。

 机の上に置かれたそれは、彼女の好きなヒーローを模して作られた高クオリティな自作のお面だった。

「これを被って外に行けば顔はバレないし恥ずかしい思いもしないな! よっし、早速出発!」

 ツールバッグを提げてネムは家を飛び出す。子供が喜ぶとしても、年頃の娘がそのお面で都市内を走ることの方が恥ずかしいのではないかとツッコミをいれる人はいない。

 そして案の定、道行く人は皆一様にネムを二度見して、子供たちははしゃいでいたが街の大人は奇怪な少女を憐れみの目で見ていた。

 そんな周りのことなど全くお構いなしのネムは、いつも通り家屋の屋根伝いを走りなが辺りを見回す。

「あいつ等が行く所って言ったらどこだろうな……。また手当たり次第走り回るしかないか……? とりあえずはー……」

 あの二人がどこに行くかと考えれば、大方いつもの料理屋の並ぶあそこだろうと、直感でネムが走る。カンカンと薄い鉄板で出来た屋根を伝い、階段の手すりへ足をかけて滑り降りる。

 お面のせいか、絵本のヒーローのようにカッコよさを求めて、無駄に飛び降りる瞬間にフリップしてみたり、空中で横向きに二回転したりと、アクロバティックな動きを取り入れていく。

 そんな彼女の頭を過る、ちょっとした好奇心。

 本来の目的とした料理街に行くルートから外れ、鉄塔の下側にある民家のベランダへと飛び降り、目的地を変更する。

「そうだ、どうせならあいつ等を探すよりもちゃちゃっと仕事をこなしちまおう。えっと、今日の仕事はっと……」

 平坦な道へ差し掛かり、ポケットから新しく買い直した手帳を取り出す。

 まだ仕事は少なく先の予定はカラッポ。

 今日終えてしまえばこの先はしばらく退屈な日々がやってきそうだ。

「なんだよ。また落書きを消す仕事か。たまにはもっとデカイ事件の解決とか頼んでくれよ。オレたちは便利屋じゃないんだぞ。……いや、便利屋だったか」

 時として仕事は命懸けだ。

 俗に言う『何でも屋』をしている彼女たちは、それがどんなに些細な仕事だろうと、どんなに汚れていようと、よっぽど断ることはできない。さもないとネムを含めた『プッシードールズ』はその日暮らしも儘ならない程に飢えてしまうからだ。

 飢える程に嵩む主な出費は男関係なのは言うまでもなく……。

「場所は……港前の倉庫の落書き消しか。どうしたもんかな。今日は一人だし、前みたいに上書きせず、綺麗さっぱり消しちまうか」

 ヒョイと屋根を飛び降りて今度は下へ下へと降りていく。


 ――普通に下方向に降りるだけの動きならば飛び降りるだけで済む話だが、もしもの事態で足場の素材が脆い等といった場合その時点で受け身を失敗して大けがをしかねない。また、もしも下へ降りる道を一歩間違えれば、そのまま海へ真っ逆さまとなってしまう。

 普段の仕事でステムパンク内の地図を完璧に頭に叩き込んでいないとパルクールで下へ向かうのも一苦労という訳だ。


 バガンッゴインッと重さで建物の屋根や鉄骨に飛び降りながらネムは下を目指す。身体がギリギリ乗るかどうかの鉄骨の上で受け身を取って前転する。それだけでも心臓が跳ねかねないのにも関わらず、彼女がお面の下で見せる表情はとても楽しそうだった。

 最後に港に到達する手前にあったポールを足と手だけで支えてキュキューと音を立てクルクル回って降りたら目的地に到着だ。

「よっしゃ到着ー。ほぉーこれまたよく出来てるじゃねぇか」

 港に並ぶ大型コンテナには一軒家が丸々すっぽり収まってしまいそうだった。

 そのコンテナの側面にデカデカと記されたとある会社に対するアンチテーゼのグラフィティ。その目にしたグラフィティに対してネムは意味ありげにため息をつく。

「……今日はつくづく、昔を思い出させてくれるな」

 お面をずらし、憂い伏した目でドサリとツールバッグを下すと中から脚立のパーツを取り出す。

 コンテナの落書きにスプレーを吹きかけて磨き始めた所で、聞き覚えのある声が彼女の耳に入って来た。

「この声は……」

 その声の主がニーナだと気づくのは一瞬だった。立てかけた脚立を放置したまま、素早くコンテナの中へと身を隠す。


 ガキとエチからテミスを引き離して、遥か上の『リックストリート』から標高ゼロメートル地点にある港まで降りてきたニーナ。そのニーナが息を切らしながらコンテナの前に走ってきて、その場にしゃがみこんで息を整える。

「はぁ……はぁ……。こ、ここまで来ればもう大丈夫のはず……ですわ……はぁ……」

 その見覚えのある姿にネムが被り直したお面の裏で目を細める。

「やっぱりニーナか。なんであいつこんなとこに来てるんだ?」

 コンテナの陰に隠れたネムには気づかず、ニーナが背後に声を掛けた。

「大丈夫ですか……?」

 息を整えるニーナの後ろから、今にも死にそうな顔になったテミスがよたよたと膝を震わせて走ってくる。その服装は、シャツ一枚にパンツだけという情けない姿だ。

「まって……むり……うぇっほ、ゲホ……おぇ……」

 ガクンと膝から崩れてニーナの前で四つん這いになるテミス。ここへ逃げて来る途中、ビッチ娘たちを撒くのは容易かったのだが、不幸にもパンツ姿で徘徊しているところを警察に見つかり無駄に追われる羽目となってしまったのだった。

「まぁ、こんなに衰弱なさって! さ、一度そこのコンテナで休みましょう?」

 そう言って嬉しそうにテミスの肩を抱えるニーナ。内心ではボディタッチを出来たことに興奮を抑えきれずに違った意味で吐息を漏らしているが、走りつかれたものと区別はつかない。

「おいおい、こっち来るのかよ!」

 驚いたネムは、先ほどよりも少し後ろに引いてコンテナ内の荷物の影へと身を隠す。

 ネムに気づくことなく二人はコンテナの入り口付近に腰掛けて、しばし息を整えた後に二ーナが口を開いた。

「ご迷惑おかけしました。お怪我はありませんか?」

 ニーナが高そうなハンカチを取り出して、汗だくのテミスを拭う。

「ふぅ……。大丈夫。どこもケガしてないよ。ただちょっと疲れちゃったけどね」

 平気だと言うテミスだったが、この場について一息つき思い返すように悲壮に満ちた顔で目に涙を浮かべた。

「ぐす……なんで僕がこんな目に……」

 その弱気な姿にニーナがぞくぞくと背中を震わせた。

 パンツしか履いていない彼の下半身を見て、目線を中空へと遠ざけて言う。

「よしよし、大丈夫ですわ、テミス様。ここならもう危ない目にも遭うこともないでしょう。落ち着いてくださいな」

「ありがとう。でも、なんで僕の名前を知ってるの……?」

「え? あ、おほほ、たまたま先ほど貴方様が襲われているときに名乗ったのを聞いていたんですわ」

 偶然そこに居合わせた訳ではないのだから『たまたま』というのは違うのだが。

「そうなんだ……。僕、名乗ってたのか……」

 恐怖と焦燥であの時の記憶があやふやになってしまっている様子のテミス。

「あの子たちはなんなんだ……。君はあの子たちを知っているのかい? 偶然にしてはとてもいいタイミングで来てくれたけど……」

 ギクリと肩が跳ねるニーナ。

「ま、まさか、そんなことありませんわ(むしろあんな低俗な子たちに頼んだのが間違いでしたわ。ああ、忌々しい)」

 親指の爪を唇に当ててニーナが顔を引きつらせる。

「あ、あの貴女のお名前は……」

「これは申し遅れました。ワタクシ、名をニーナと申します。以後お見知りおきを」

 一つ咳払いをしたニーナが、テミスの前に立ち、スカートの端を指先でつまんで一礼をする。

「に、ニーナ……」

「はい! なんでございましょう!?」

 恐る恐る名前を呼ぶテミス。それに対して脊椎反射のようにニーナがニヘラと返事をする。

「あ、ありがとう。助かったよ。僕なんかのためにこんな……えっと……こんな遠くまで逃げてくれて」

 助けられはしたが、失ったズボンとベルトと、彼の世間体は消えて行ってしまった。

「そ、そんな! 困った方をお助けするのは当然のことですわ!」

 顔を赤めてニーナがにやにやとした笑顔を振りまく。


 そんな二人を陰から覗くネムが、不思議そうにその光景を眺める。

「なんだあいつ等……というかニーナ。その男は誰だよ。お前が仕えの執事以外といるの何て初めて見たぞ」

 自分のよく知る人物が他人と言いムードになってるのに疑念半分、好奇心半分な気持ちを抱えたネムは、埃にまみれたコンテナの端でしばらく傍観を決め込むことにした。


 二人きりというシチュエーション。そしてテミスは恐怖からの反動で助けてくれたニーナの優しさに心惹かれて好意を向けてくれている。

 思った以上にことがトントン拍子で動いていると感じるニーナ。

 結果的に、謀らずもこのような場面に達してしまったのだから行けるところまで行くしかない。

 そう、ニーナの思考が水につけた電線の如くスパークしてしまった。

 ニーナは一呼吸置いて、テミスへと口を開く。

「あの……、テミス様……」

「なんだい……?」

 張り裂けそうな胸を抑えて、ニーナは続ける。

「あの、今お付き合いされている方はいらっしゃるのでしょうか……?」

 会って間もないのにこのような会話などふしだらだとニーナは思うも、もう後には引けない。

「僕が誰かと付き合ってるだって? そんなことないよっ。こんな貧乏な冴えない僕に寄って来る女の子はいないさ」

 ――「ははは」と乾いた笑いで自虐すると共に、テミスが肩を落とす。

「あ、そうなんですのね!」

 ――これはチャンスだ。一気に畳み掛けるべきだ。

 畳み掛ける思考と共にエチの「襲っちゃえばぁ?」というセリフが頭を過るも、流石にそんなことは出来ないと頭を振った。

 襲うことは出来ずとも、もう一歩踏み込んだ関係ならば……。

「で、では、ワタクシとお……おつ……」

 熱烈な視線と組み交わした手を胸の前に持ってきて。

 ニーナが告白をそこまで言い掛けたとき、テミスが先ほどの言葉に付け足す。

「でもね、最近気になる人たちはいるんだ。この都市のちょっとした有名人たちさ」

「……っ」

 ニーナが言葉に詰まって胸の前で合わせた手をゆっくり解き、キュッとスカートの裾をつまんで小さく息を漏らした。

 ニーナの胸からは期待が消えていき、気になる人がいるいう響きだけが何度もリフレインしていた。

「ニーナは『プッシードールズ』って知ってるかい?」

 そのビッチたちが付けそうなネームを知らないはずはないが、ここで知っていると言えば先ほどの二人と面識があるのではないかと疑われる。

 その可能性を考慮してニーナは素知らぬ顔をして、嘘をついた。

「いいえ? 存じ上げませんわ?」

「『プッシードールズ』はこの都市の都市伝説さ。密かに活躍して、時として悪者を退治しちゃう。そんなカッコイイ話を耳にする度に胸が躍るんだ。噂でしか聞けない彼女たちにいつか会ってみたいなんて僕は思ってるんだ!」

「先ほどお会いになってひどい目を見てらっしゃいましたけどね……」

 ボソリと漏らすニーナ。

「なんか言ったかい?」

「いいえ、なんでもありませんわ! そんなことよりも、そのような方たちこの街にはいらっしゃるんですのねっ。さぞ、(悪い意味で)有名なことでしょう」

 ニーナにはテミスがあの三人に憧れる理由が今一わからなかったが、又聞きで耳に入る噂はそんなにも美化されてしまうものなのだな。と、虚空を見つめて呆けた。

「カッコイイ彼女たちはとても自由で、それでいて不真面目らしい。それでもこの都市で名を馳せて人々のために活躍してる。悪い噂も聞くけど、でもそんな自由な生き方に僕は憧れるんだ。今はピエロで人を楽しませるくらいしか出来ないけどね」


 先程までコンテナの奥で二人を睨んでいたネムが『プッシードールズ』という単語が出たのに反応を示さない。

「すぴー……」

 それもそのはず、彼女は今現在爆睡中なのだから。

 出るに出られない雰囲気を漂わせる二人の後ろから眺めていたネムだったが、人の色恋に全く興味のない彼女と睡魔はその光景がさぞつまらなかったようで、その場で突っ伏して寝てしまったのだ。


「彼女たちは自由なんかじゃありませんわ。我儘で欲望のまま生きて……。取り繕ったようにお互いの傷を舐めて……。テミス様が思っているような正義なんてことは……」

『ウ――――――――!!』

 ニーナとテミスの元に突如爆音のサイレンが降り注いだ。

 それは例外なく気持ちよさそうに眠るネムにも降ってきており、その爆音でネムが飛び起きた。

「なんだぁ!? うるせぇぞボケェ!」

 数秒間にわたるサイレンが数回なると、アナウンスが流れ始める。

『本日の業務も終わりを迎えました。皆様お疲れ様でした。この後……』

 どうやら、港の職業者たちの仕事の終わりを知らせるものらしい。

 海の上を走る船に向けても聞こえるようにとのことで爆音が使用されているのだろう。

「くそ、せっかく人が気持ちよく眠ってたのに……」

 耳を小指で掻きながらネムがイラ立ちを見せる。

 つい気を抜いて声を出してしまい、その声に驚いたニーナが振り返る。

「誰!? いつからそこにいらっしゃったの!?」

 内心は驚いたと言うよりも、先程までの会話を聞かれていたのではないかということを心配していた。

「げ、バレた!」

 寝起きの不注意で自分の存在が気付かれてしまったネムは、すぐさまこの場から逃げ出そうとコンテナの入り口へと全力で走った。

 ――が。

 ブシュウウウウウウと轟音を立ててコンテナのシャッターが降りる。

 終業と共に、防犯のために港のコンテナが一斉に閉じ始めたのだ。

 先程のアナウンス内でもそのことを流していたが、ニーナもネムも聞いてはいなかった。

「な! おい! 待てこら!」

「え、あ! ちょっと!」

「え? ……え?」

 シャッターが閉まる前に外へ飛び出ようとするニーナとネム。

 困惑してその場から動けないテミス。

 二人が滑り込もうと床にスライディングするも、寸前の所でシャッターが完全に入り口を塞いでしまった。シャッターに体当たりして景気の良い音を奏でて二人が床に転がる。

 唖然とした様子のテミス、が頭の上に星マークをぐるぐる回しながら横たわる二人を見比べながら呑気に言う。

「えっと……まぁ、座ってお話でも……」


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 コンテナの中は薄暗く、壁の側面上部に開いた穴から射し込む夕日だけで照らされていた。

 そのコンテナの一角で積み上げられた資材にかかるシートへと座りながら三人が沈黙を迎えていた。

「…………」

 トントンと膝を指で叩きながら頬杖をついて無言のネム。

「…………」

 幾度も息を肺いっぱいに溜めては吐き出してを繰り返し、ため息ばかりつくニーナ。

 二人の何とも言えない小難しい空気に耐え兼ねたテミスが恐々とした物言いで口火を切る。

「あのさ……」

 二人同時にジロリとテミスを一瞥して、その眼を放そうとしない。次にテミスが放った言葉次第で怒りが爆発せんとばかりに。

 それでもこの沈黙を破るために、テミスはネムを差して疑問をぶつけた。

「えっと、そっちの君はなんでそんな物を被っているんだい? 息苦しかったりしない?」

「あぁ!?」

「ひぃっ」

 案の状、この空間に閉じ込められていることが耐えられなかったようで、ネムが好戦的な返事をする。しかし、お面の下があのふざけた落書きなのだということを思い出させられ、凄んでも馬鹿馬鹿しく思えてしまう。

「それ『ブリキノヒーロー』だよね!」

 テミスが嬉しそうにネムへと近づく。

「僕、小さいころからブリキノヒーローが大好きでさ。そのお面はどこで売ってるんだい? よかったら教えてくれないかな?」

 じりじりと寄って来るテミスにネムが少し引いた様子を見せる。この男の顔をどこかで見たことがある様な気もするが、そこまでは思い出せない。

「こ、これは、オレが作ったんだよ。ていうかお前誰だ?」

 子供のような目で寄って来るテミスの肩を軽く蹴飛ばしてネムが怪訝な顔をした。

 よろめいたテミスが背筋を伸ばし、ニーナとテミス、各々を指してパンツ姿で説明をする。

「おっと、紹介が遅れちゃったね。僕はテミス。こっちはさっき友達になったニーナ。見た所だいぶ使い込まれた作業着みたいだけど、ここの作業員かな?」

「ペニ……? なんか変な名前だな。呼びにくいからペニーって呼ぶわ」

「『ぺ』じゃなくて、『テ』だってば! なんでみんなそんな風に間違えるのさ! さっきだってそう! 今もそう! ちゃんと呼んでくれるのはニーナだけだよ!」

「ワリィワリィ。名前を間違えたくらいでそんなに怒るなよ。まぁ、どの道呼びやすいからペニーって呼ぶことにしたし、気にすんな」

「……もう、好きな呼び方でいいよ……」

「ああ、それと、オレは別にここで働いてる人間じゃねぇよ。お前らと一緒でたまたま閉じ込められちまった不幸な一市民さ」

 その言葉に続けて、ネムは話の矛先を未だ黙り続けているニーナへと変えた。

「……で、お前は何してるんだ」

 ツン、とそっぽを向いたままのニーナを見てネムが言う。

 一度ジッとネムの方を見たニーナが再びそっぽを向いて嫌味っぽく口を開けた。

「なんだっていいじゃありませんの。貴方こそ誰なんですの? 作業員でもないのに何故、先程はワタクシたちの後ろから出てきたんですの? それに初対面の人物に対して少し口が悪いのではありませんこと?」

「――初対面って、お前まさか気づいてねぇのかよ!」

 この姿でいつもと違う所はお面を被っているだけなのにも関わらず、ニーナはネムの正体に気づいてはいなかったのだ。

「……? もしかして、本物のブリキノヒーローという方なのかしら?」

 ニーナが疑心暗鬼になりながらネムへと問いかける。

 その台詞を聞いて、ネムはお面の下で悪い笑みを浮かべた。

「あぁ、そうだ。オレはブリキノヒーローだ!」

「やっぱりそうなんですのね! 昔、妹から聞いたことがありましたわ。困ったときはブリキノヒーローという正義の味方が助けに来てくれると。あのお話は本当だったのですね! ワタクシ、今この目で目の当たりにするまでおとぎ話だと思っていましたわ!」

 表情を明るくしたニーナは完全にブリキノヒーローだと思い込んでいるようだ。

「いや……僕は本物ではないんじゃないかとおも……もがっ」

 そう言い掛けたテミスの首を自分の胸に引き寄せて素早く口を塞ぎ、微量な厚みしかない胸板にもがくテミスの耳元で囁いた。

「あいつはブリキノヒーローが本当にいると思ってるんだぞ。そんな純粋な少女の夢をお前は壊すのか? ヒーローなら少年少女の夢を叶えてやらなきゃ。同じヒーローが好きな者同士、ここは手を組もうぜ。な?」

 突然口を塞がれて頷くことしかできないテミスはひたすらに首を縦に振った。

「ぷは、こんな野蛮なヒーローは嫌だなぁ……」

 口封じを解かれてボソっと不満を漏らすテミス。その肩をネムは力強く握りしめた。

「イタタタ!」


 大人しくなったテミスを横目に素知らぬ顔で、ブリキノヒーローに成りすましてニーナへと問いかける。

「それで、そこの御嬢さん。何かお困りごとかな?」

「えっと、とりあえずはココから出たいのですが……」

 ニーナがコンテナ内を見回して小さく呟いた。

「なるほど! ここから出たい!」

 ネムがポンと手を叩いてニーナへと続ける。

「待っていろ! ここから出る方法をオレが見つけてやる!」

 そう言うと、テミスの上着を掴み上げる。

「うわわわ!」

 地に足がつかず慌てるテミスを抱えてコンテナの奥へと進んでいくネム。

「おい、ここから出る方法を一緒に考えてくれ」

「無理だよ! あの高い位置にある唯一の窓以外からは出られそうにないし、ここにある資材を使ってもあそこまでは届かないよ!」

 コンテナの中にあるのは、複数個の資材と、歪な船のパーツだけだった。

 ネムが腰のあたりを手さぐりながら、悔しそうに、

「チッ。オレのツールバッグも外だ。どうしたもんかな。ていうか、お前らが来たせいでこんなハメになっちまったんだよ!」

 そう言ってパカンとペニーの頭を叩くネム。

「えぇ!? なんで!?」

「八つ当たりだ」

 ぐるりと見て回っても外へと出る術は見つからない。渋々ニーナの元へと戻ると、ネムが胸を張って言う。

「無理だな!」

「無理!? ヒーローに無理何てことがありますの!?」

 驚いた表情でニーナは口が塞がらない。

「まぁ、ヒーローでも無理な物は無理だ」

 ネムの身体能力を持ってしても、垂直な壁を駆け上がるなんてことは出来ない。

 少しでも指の掛けられる箇所があればそこを足場に上へと行くことは可能なのだが、不幸にもコンテナの壁は凹凸の無い平面だ。それこそネムの胸くらいに。

「朝になればきっとまた仕事の人が来るよ。それまではここで我慢しよう」

 テミスの提案により、今日はここでの野宿が有力そうだ。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 ネム、ニーナ、テミスの三人が窓からかすかに覗く星空を眺めながら、資材を覆うシートの上で横に並ぶ。徐々に夜も更けて来ており、同時に三人の空腹も加速してきていた。

 案の状、三人同時に腹が鳴り、自分ではないという無意味な擦り付け合いが起きた。

 数分の格闘の末に擦り付け合いに折れて意見を述べたのはテミスだった。

「……僕は稼ぎが少なかったときとか、ご飯もろくに食べられてないからさ。これくらいの空腹なら慣れているけど、二人は大丈夫?」

 自らの腹を鳴らしながらテミスが二人を心配そうな目で見る。

「一番ひもじそうな顔しながらよく言うぜ。オレも給料を食い漁られて飢え死にを覚悟することも多いし問題ないな。問題があるのはそこの――」

「マッチを擦ったら篝火の中に食べ物が浮かび上がるんですのよぉ~。ほぉら、お二方もお食べになって~? うふふふふ」

「――幻覚まで見始めたお嬢様だな。空腹が紛れているみたいだから別にここで餓え死んでもらっても構わんが……それじゃ寝覚めも悪いしちゃっちゃと寝ちまおうな」

 それを聞いて、虚ろな目で存在しないステーキを食べようとしたニーナがピーンと頭に電球マークを浮かべた。

「そうですわ! 空腹を紛らわすというのならば!」

「ほらな。空腹を紛らわすなら、寝るのが得策だよな」

 ネムがうんうんと自己完結する。

 ――が、

「ワタクシをお食べになってはいかがでしょうか?」

 頓珍漢なことを言うニーナに対して、「ブッフー」とネムとテミスが同時に吹きだす。

「何言ってんだよ! せめてそういう行為はオレがいないところでやれよ!」

「あら? ワタクシは殿方でも奥方でも三人でも、なんならもっと大人数でも全然構いませんわよ?」

 うふふと嬉しそうな顔をするニーナ。

「ニーナ!」

「はい! なんでございましょう!?」

 テミスが真剣な顔をしてニーナへと歩み寄る。

 ニーナも嬉々とした表情でテミスの方へ寄って行く。その目は玩具に期待を馳せる子供のようだった。

「ぼ……僕にはニーナを食べるなんてことできないよ!」

「あら、そんなこと仰らずに。寸前食わねば男の恥と言うではないですか」

「人間を食べるなんて、そんな残酷なこと!」

「…………ん?」

「……え?」

 もしや、と、ニーナとネムが同時に思う。

「もしや、テミス様は『食べる』の意味が分かっていない?」

「いやいや、どう考えても二桁は女を喰ってる面だぜ?」

「ですけど、今の言い方からして『食べる』というのをカニバリズムのことだと思ってらっしゃる線が否めなくなりました」

 二人でジーっとテミスの顔を見つめた後、ネムが口を開く。

「なぁ、ペニー。お前、これ知ってるか?」

 ネムが懐から取り出したのは、先日ガキがポケットいっぱいに詰めていた例のゴムだった。

「なにそれ? ガム?」

 その言葉を聞いて、ネムは愕然とする。

「一字違いなんだけどなぁー……。そうじゃないんだよなぁー……」

「テミス様はこちらをご存知ないと……? で、では、こちらを知らないとして、貴方様は実際の経験はいくらほどございますか?」

「経験?」

 うんうんと頷く二人。

「そうだなぁ、今一四歳だから……僕がお金を稼ぎ始めてから……二年くらいかな」

 その言葉を聞いてネムとニーナは察した。顔こそ幾人もの女を泣かせるようなヤリ手の面構えなのだが、彼は性の知識も乏しく、さらに、自分たちよりも年下なのだと。

「まじかよ……」

「あのような道端での大道芸で稼いでらっしゃるから、てっきりお年を召してらっしゃる方なのかと……」

 二人とも驚きを隠せない様子でテミスを見る。確かに、顔つきこそイケメンそのものだが、彼女等と同程度の身長で、どこかあどけない雰囲気を漂わせる。

「言っちまえばこいつは、合法ショタというわけだな」

 そして大道芸というニーナのセリフから、ネムの中にぼんやりとあったテミスへの既視感とその歯痒さがつながる。

「あー、あの時の……。そりゃぁガキが興味をそそられるのも分かるわ。あいつのショタコンセンサーも馬鹿になんねぇな」


 飢餓餓鬼こと「ガキ」は小さい子や可愛い男の子が大好きであり、子供っぽい一面に、性の知識が皆無なテミスという少年はガキにとって恰好の餌なのだった。

 それが相まってエチと共に本能的にテミスのことを性の対象として見ていたのだろう。

 ネムは妙に納得した様子でそう帰結した。


「僕の家は貧乏でさ。親は僕のことを家から追い出して、少しでも負担を減らしたかったみたい。笑っちゃうよね。お金のために勘当されてさ、右も左もわからないままステムパンクに越してきて一芸を極めようと思ってもやっぱり難しいね。自由どころか家賃と日々を生きていくだけで手いっぱい。行き付いたのは路上で売れないピエロさ……」

 悲しそうな表情をしてテミスが言う。そのセリフに、ネムとニーナがピクリと反応した。

「ごめんね変なこと言って。ふぁーぁ……僕、そろそろ眠くなってきちゃった。お先に横にならせてもらうね。二人ともおやすみぃ~」

 コテンと横になったかと思うと、数秒の間に静かに寝息を立ててテミスは眠りについた。


「……チッ。こんなガキを連れ回して、挙句に空腹のまま野宿させるとはな。悪いことしちまった」

 ネムが頭を掻きながら舌打ちをする。自分の着ていた作業着をテミスへとかけて、胸元が大きく開いてしまっているシャツ一枚になる。

 少しでも横から見れば胸が零れそうになってしまうようなシャツだ。ただ、それは胸があればの話なので、ネムの場合ほぼ見えてしまっていると言っても過言ではない。

「ねぇ見て。なんて可愛らしい寝顔なんでしょう」

 作業着に包まれ小さく寝息を立てるテミスの寝顔を覗き込むニーナ。

 普段ネムたちには見せない優しい笑顔を向けてそっとテミスの頭を撫でた。

「ワタクシ『たち』はお母様にも、お父様にも、優しく接してもらったことがありませんでしたわね。それが早くにお亡くなりになったお母様なら尚更ですわ。……親というものはこんなにも優しい気持ちになることが出来て、これほどまでにわが子を愛おしいと感じるものなのでしょうか……。ねぇ? ネム?」

 突如名前を呼ばれて一瞬体が緊張するネムだったが、すぐさま冷静に――

「知るか」

 ――と一言だけ返した。

「あの場で貴方の事を名指してもよかったのですけれど、何やらテミス様と二人で面白そうなことを仰ってましたからね。本当は嫉妬に狂ってしまいそうでしたけれど乗ってあげるのも一興かと思ったんですの」

「へーへー、そうですか。まんまと騙されましたわ」

 ケッと嫌味な言い方をするネム。

 テミスの頭を数度撫でて、額に唇を持って行ったニーナだったが、寸での所で額同士を優しく合わせて、ネムの方へと向き直った。

「ねぇ、ネム」

「なんだよ」

 言い淀んだ顔でしばし息を止めて、ニーナが意を決してネムへと寄っていく。

「うちに、帰って来る気はありませんの?」

「…………」

 お面で顔が見えないネムを心配そうな顔で見つめるニーナ。

 無言でいるネムに先程の台詞に続けていく。

「少なくともワタクシは心配していますわよ。先日の手帳の件もそうですけど、どうにかあなたを連れ戻そうと試行錯誤を重ねていますわ。こうやって二人で話し合える場が出来たのですから、何故、家を出て行ってしまったのか教えていただけません?」

 珍しくニーナが下手に出てネムに向けて意見を仰ぐ。

 しばらく黙っていたネムだったが、沈黙に耐えきれなくなってニーナへと向けて、

「嫌だね」

 そう一言だけ告げた。

「そう……ですの……」

 それ以上は特に詮索することもなくニーナが押し黙った。


 会話もなく二人が黙ること数分。

 突如テミスが、「クシュン」とクシャミをした。

「ひんっ。ビックリした。脅かすんじゃねぇよ馬鹿!」

 可愛らしい声を出してネムがテミスを小突く。

「あ、メッ! 起きてしまいますわよ! なんで殴るんですの!」

「殴ってねぇよ! あとなんだ『メッ』て! いつまでも姉貴面すんな!」

「お姉ちゃんはずっとお姉ちゃんですわよ! それにネムちゃん、ちょっとうるさいですわ! テミス様が起きちゃう!」

「ちゃん付けすんなって言ってるだろうが! あぁ!? やんのか!」

「上等ですわよ!」

 ギリギリと歯を食いしばって引きつった顔で睨み合うニーナとネム。

「……っぷ」

「……ふふ」

 なぜか、そのいがみ合いが面白くて二人して同時に吹きだしてしまう。


 テミスを挟んで川の字に二人が寝そべって、瞼を閉じながら他愛無い話を続けた。

「お前、なんでこんなやつと一緒にいたんだよ」

「あら、それこそ貴方には関係なくてよ? 家出の理由を教えて頂けるなら話してあげてもよいのですけど」

「そいつは無理だな」

「そうですの。ならこのお話は終わりですわ。早く目を瞑ったらいかが?」

「お前がこいつを襲うかもしれないからな」

「ビッチに言われたくありませんわ? 貴方こそ、その、狙ってるんでなくて?」

「そんなことは……ないな。ないない」

 歯切れの悪い言葉を残して会話が途切れる。


 またしばらくして、

「なぁ、おい」

 ネムがニーナへと呼びかけるが、返事が無い。

 体を起こしてニーナを見て見ると、既に夢の中だった。

「なんだ、結局オレが最後になっちまった。これじゃ寝るのが趣味なんて言ってらんねえな……」

 シートで覆われただけの硬い資材の上に横になってネムも目を閉じる。

 彼女の中で燻りを見せている事柄があった。

 幼き頃、家出をした理由。ニーナにすら伝えてはいない秘め事。

 それは否が応でも向き合わなければいけない時が来る……。


         ▲▼         ▲▼         ▲▼         


 日が昇って辺りも明るくなった頃。

 コンテナの外側に立てかけられた脚立を登り、天井付近の窓を開ける音がする。

「はぁ~、やっと見つけた。家にもいないし、ツールバックは外に放り出したままだし、ネムっちこんなとこで何してんの」

 窓から身を乗りいれて来たガキがコンテナの中へ降りてくる。

「あ、待ってガキちゃん~、さっきの分が垂れて来ちゃってぇ……」

 ガキに続いてエチがコンテナに降りる。

 ニーナと共に逃げて行ったテミスを見失った後、相も変わらずこの二人は朝までナンパして二人で色んな物を食い散らかしていたのだ。

「んもぅ、なんでこんな下の層まで降りて来なきゃだめなのよぉ~、潮風で髪がパサついちゃう……」

「……しーっ、見て、エチ」

 ガキが何か珍しい物でも見つけたかのように片手でエチの歩みを妨げる。

「なぁにガキちゃん……? って、あらぁ……」

 少し嬉しそうな声でエチが感嘆の声を上げた。


 そこには、テミスを二人で抱き枕のように抱き締め合うネムとニーナの姿があった。

「昨晩はお楽しみだったのかしらぁ?」

 エチがまぁまぁと頬を抑えながらほほ笑む。


 そんな幸せそうに眠る三人が起きたとき、ガキとエチがニヤニヤしながら観察していた状況はさぞかし心臓に悪かっただろう。


 これを期に、なぜかこの冴えない少年テミスとの仲が良くなっていくのだが。

 それは追々語ることになるだろう。

 ――それよりも、寝起きにお面の外れたネムの顔を見てしまい、全員で爆笑した結果、当然のようにネムから鉄槌を受ける羽目になったということの方が大事かもしれない――。


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