正装とヴァルター・フォン・ディルグレイス
楽しいお茶会から三日後。相変わらず不機嫌そうなドゥーイが、美しい顔を歪ませて嫌味を混じりつつ祭司長からの伝言を言いに来てくれた。
「今日の午後、ディルグレイス卿との顔合わせがあります。彼の寛大な御心で面倒な貴女の教師役を引き受けて下さるそうです。護衛騎士が呼びに来ますので、正装で来なさい」
言い放つと部屋をぐるりと見回し、最後にジロリと私を見下ろして去っていく。
言葉と態度は酷いが悪い人ではないのだ。副祭司長という役職は私が思っていた以上に重要で、神殿と王宮との橋渡しの役目も負っていて忙しいらしい。あの程度の伝言なら従者を使って寄こせばいいのだが、彼は一週間に一度は適当な理由を付けて直接様子を見に来てくれていた。
とにかく、一番不安だった先生は見付かった。あれからパイ生地の改良を重ね、素人菓子レベルで満足の行く物も出来ている。
「気に入って貰えると良いんだけど」
今まで試作品を食べたのは名称不明の青年1人。後は自分一人で食べたから客観的な判断は出来ない。神殿の厨房にも持ち込んだが、『見たことのない食べ物』を『聖女』から受け取るなんて自殺行為だと言われたから、似たようなお菓子がこの世界にないことだけは確認済みだった。
「とにかくパイを焼いて……正装ってどんな服?」
これまで何度も失敗しているルーフェリアの記憶が蘇る。聖女を馬鹿にする為でもあったお茶会で「普段着で良い」という言葉を信じワンピースで出席したら、全員がドレスやタキシードを身につけてルーフェリアを嘲笑していた。その後に呼ばれたお茶会でも「普段着で構わない」という言葉を信じず、止める侍女に怒りながらどうにかドレスを身につけて出席すると、小高い丘で開かれるお茶会で帽子とワンピース風のドレスという動きやすい服装を身に付けた令嬢達が「無知で礼儀知らずの田舎者」と囁き合っていた。
知っていて当たり前のことを知らないということすら知らなかったルーフェリア。彼女の魂が戻ってきた時、再び彼女に教育する者が必要になるだろう。真実を知り、彼女に手を差し伸べることの出来る者達を増やすことが、ルーフェリアを魂の疲弊から救うはずだ。
パイをオーブンに入れてから、エプロンを付けたワンピースを見下ろす。侍女達の服を見るに普段着にするには贅沢な生地を使っているこの服と、神殿の中にある自室に置いてあるドレスを思い出して口を曲げた。
そして決断する。みすぼらしくないのならこのままで良い、と。
寝室に置いてある鏡の前に座り、金の髪を結い上げる。これは面接なのだ。必要最低限の身だしなみは必要だろう。
薄く化粧を施し、薬草と油を混ぜた薬用リップを唇に塗る。ルーフェリアの肌は十八歳の若さに溢れ、唇も可憐なピンク色なのだ。過剰な化粧は逆に魅力を損なう。私が同じ年代の時でも、ここまで綺麗じゃなかった気もするし。自分で言うのもなんだが、ルーフェリアは本物の美少女なのだ。
パイを焦がさないように注意しながらバスケットとナプキンを用意して、普段履きしているブーツからお洒落な靴へと履き替える。
「もしこれで服装に文句を言うような人なら、こちらから断ってやる」
自分の中の基準をしっかり確認して、香ばしく焼けた熱々のパイを入れた籠を持ち上げた美少女が、嫌そうな護衛と共に神殿へと向かった。
仁王立ちのドゥーイが冷気を漂わせて見下ろしてくる。愛想笑いで見上げているが、内心は冷や汗がダラダラだ。
私はすっかり忘れていたのだ。服装に一番敏感に反応するお方がいることを。
「私は正装でと直接伝えたはず」
なぜこの服なのかも聞く気はないらしい。すぐそこには祭司長の執務室のドアがあるのだが、このままだと決戦前にリタイアになるかもしれない。
何が正解で、何が相応しいのか判らないのはルーフェリアも私も同じだ。だが、私には私なりのプライドがある。ここで癇癪を起こすしかなかったルーフェリアに同情しながら、腹の深いところにグッと力を込めて麗しの副祭司長を見上げた。
「平民である私の正装はこれです。分不相応のドレスなど身につける方が失礼に当たると判断しました」
ドレスを持っているはずだと指摘される前に理由を言い、笑顔で判断を仰げば、さすがのドゥーイも押し黙る。豪華なドレスを着て化粧を施したルーフェリアはまさに女神のような美しさなのだが、お辞儀の一つにしても優雅さのかけらもない内面では着飾るだけ無駄だと過去に彼が断言していたのだ。
「まぁいい。その姿を晒してくるといい」
辺りに漂う甘い匂いにも苦い顔をしたドゥーイを見て、彼は見た目と違って甘い物が嫌いなのかもしれないと思いつつ、ようやく執務室へと入っていく。
自室とは違って朱色と白で纏められたその部屋は、それでも祭司長の穏和な人柄を表しているのか穏やかな空気が溢れていた。
「良く来たな、ルーフェリア。紹介しよう。ヴァルター・フォン・ディルグレイス卿だ。おぬしの教師を務めてもらう」
瀟洒なソファから立ち上がり紹介された人物は、見覚えのあるアメジストの目をジッとこちらへ向けていた。半ば予想していた事だけに驚くことはなく、何度か見た淑女の礼を苦労して真似しながら頭を垂れた。
「かしこまる必要はない」
低い鋼の声に促されて顔を上げると、この間とは違って騎士服を身に纏った青年がいた。地の色は黒で銀糸と銀ボタン、縁取りも銀で飾られ、襟には蔦に似た銀糸の刺繍が目を引く。他の細かい装飾は全て紅なのだが、量が少ないのでくどい感じはない。腰に下げられた剣は代わらず、無骨な印象のそれが辛うじて彼を同一人物だと知らしめていた。
黒髪を後ろに撫でつけ、見上げるほどに背の高い彼がディルグレイス卿。私の師となる青年騎士。
「お久しぶりです、ディルグレイス様。神泉の聖女を務めさせて頂いておりますルーフェリアと申します。よろしくお願い致します」
緊張しながら挨拶をすれば、彼の視線は甘い匂いを漂わせるバスケットに釘付けだった。出会った時と変わらない反応に小さく笑うと、それに気付いた彼が切れ長の目を和ませる。
「俺の事は名で呼んでくれて構わない。ディルグレイス男爵家といっても三男だ。他にそう名乗る男はいるしな」
「一番目立つのはおぬしだがの」
そしらぬ顔で一言を入れる祭司長が立ったままの2人に座るように促した。祭司長とルーフェリアが一緒のソファに座り、ヴァルターは剣を身に付けたまま再び元の場所へと座る。副祭司長のドゥーイはルーフェリアとヴァルターが知り合いだったのを驚きながらも、何も語ることなく部屋を後にした。
「それでいつから始められる?」
祭司長がルーフェリアの分のお茶を用意しながら問うと、ヴァルターはしばらく思案した後、紫の目をこちらに向ける。
「何が知りたい」
「常識とマナーです。子供でも知っているような事を私は知りません。本は読みましたが、それが正確かどうかも判断がつかないのです」
この世界に来てから今日で十日目。慣れない家事の合間に神殿にある書庫に通ったのだが、そこにある本が真実なのか、空想や神話なのかの区別もつかなかった。それに書庫というのは一般的に知られていない知識が収められているのである。この国の通貨単位など誰でも知っているような事柄を本にして、わざわざ書庫に納めるまでの製本技術は発達していないようだった。言語辞書と百科事典が編纂されているというのは本当に凄いことなのだと思い知る。
「それで?」
続きを促す目が時折籠に向けられるので、早くこの話を終わらせようと今日まで考えてきた常識の範囲を口にする。
「平民として生活していくだけの常識と、聖女として役割を果たすのに必要なだけのマナーを」
切れ長の目が見開かれ、綺麗なアメジストが祭司長に向けられた。襟足に掛かる黒髪が妙に目に付きつつ、常時平常心を崩すことが少ないのであろう青年騎士の答えを待つ。
「祭司長、外出の許可は必要か?」
「ふむ。守護騎士がいたはずだ」
「それはいちいち面倒だな。俺を臨時の護衛騎士に任命出来るか?」
「聖女の外出は守護騎士の許可が必要だ。だが黒騎士団第3隊隊長としてなら、ラザフォード卿と同じ権限が持てるだろうな」
祭司長から守護騎士の名が出るとヴァルターは興味深そうな眼差しをこちらに向けてきた。恐らく彼もルーフェリアがラザフォードに対して行ってきた様々な醜態の一部を知っているのだろう。ウチの娘が馬鹿なことをして申し訳ありません!と心の中で土下座しつつ、知らない振りをして用意されたお茶を飲む。
「教師役はラザフォード卿でなくていいのか?」
嫌な話題だったので流そうと思ったのだが、そう上手くいかないようだ。
「……私は完全に嫌われていますし、何よりあの方に平民の常識の教えを請う事が可能なのでしょうか?」
それすら判らないのだと首を傾げると「なるほど」と深く納得されてしまう。ヴァルターは私の条件を聞いた祭司長が選んだので信頼しているが、正直に言えばもう少し年配の女性を想像していたのだ。だが彼の肯きで自分なら可能だと判断しているのだろう。
「それなら早速始めよう。俺の手が空いた時にここに来る・・・で、構わないか?」
問いかけは私に。どうしたらいいのか判らずに横にいる祭司長を見ても、彼は穏やかに笑うだけだ。困ってしまって目の前の青年騎士を見ると穏やかなアメジストの目と視線が合い、なぜか自然と言葉が零れ出た。
「面倒な仕事をお引き受け下さってありがとうございます。全てヴァルター様にお任せいたします……が、一つだけ質問しても宜しいでしょうか?」
どうしても疑問に思っていた事がある。放っておいてもいいのかもしれないが、彼は師であり、これから信頼を築き上げていく相手なのだ。小さな疑問も残したくなかった。
「どうぞ」
ソーサーを持ち長い指をカップにかけてお茶を飲む仕草も様になるヴァルターは、逆に興味を引かれたように小さく笑う。
「初めてお会いした時、どうしてあそこにいらしたのですか?」
三日前に突然現れた理由を問うと、彼のみならず祭司長までもが肩を揺らして笑い始めた。何かおかしな事を言ったのだろうかと困惑していたが、どうやらそうではないようだった。
「甘い匂いを纏ってきたから、もしやと思っておったが……やはりな」
「いい匂いだったからな」
なぜか納得したような祭司長と当然のように理由を口にするヴァルター。
「私を見に来られたのではないのですか?」
首を傾げるとすんなり否定された。
「あそこに人が住んでいる事すら知らなかった。いい匂いにつられただけだ」
だからといって見知らぬ人の家を突然訊ねるのはどうなのだろう?彼の常識をほんの少し疑っていると祭司長から補足が入った。
「あらかじめ聖女に関する頼み事だと伝えてあったし、神殿に住んでいない年若い女性とくれば聖女だと気が付いてはいただろうからの」
その言葉ですんなり納得する。あの時のヴァルターの訪問は、本当にお菓子目当てだったのだと。彼の中では見知らぬ人の家という認識ではなかったのだろう。
「判りました。それではこれからよろしくお願いします」
今の自分を受け入れてくれた黒髪の青年騎士。視線は時折籠のパイに注がれるが、これ以上ない教師なのかもしれない。
これでようやく三日も独り言を呟く生活から脱却出来そうだった。